恋のはじまり
あの人と会いたいと思うたび、あの人は訪れる。
あの人に包まれたいと思うたび、包んでくれる。
優しく、ときに燃え尽くさんばかりに。
でも、夜になると、いなくなってしまう。
だって、お日さまだから。
夜の後には、必ず訪いを入れてくれるの。
パトリシア・ドゥ・ボドリエール、著
詩集“再びの人”より
1.
一目で、心を奪われていた。
大きかった。自分より、ひとまわり、ふたまわり。いや、もっと。それ以上。
筋肉質で、いかにも男性的な体格。それでいてごつすぎず、不自然さがない。そこにいるのが当たり前のような、そんな出立ち。濃茶の吊りズボンと生成りのシャツ。地味な服装だが、すごく似合っていた。
肌は、黒。いや、褐色か。よく見る黒い肌の人たちより少し薄いし、顔立ちもちょっと違う。砂漠と大河の民かもしれない。陽の光に照らされて、輪郭が柔らかかった。
頭は、剃り上げているのかも。だから自然とそこより視点が下にいく。しっかりとした鼻立ち。厚すぎない、白が差した唇。整えられた顎髭。若くも見えるし、年嵩があるようにも見える。
目は、小さかった。眉との間は狭く、彫りは深め。瞳が穏やかな、木漏れ日のようだった。
「ああ、どうも」
そのひとは、にっこりと笑った。特に近づくとかどうとかいうわけでもなく、その場で。笑顔が可愛らしかった。
「昨日、こちらに来たばかりで、迷子になってしまいました。ご婦人さま。道を訊ねてもよろしゅうございますか?」
声や仕草から、年の頃、きっと二十の半ばを超えたところ、というよりは、三十の手前といった感じ。こちらも落ち着いてしまうぐらいに、落ち着いていて、のんびりした心地になる。ああ、ずっと聞いていたいぐらい。
見惚れていて、返答を忘れていた自分を、そっと恥じた。
「よろしゅうございますわよ」
「ありがとうございます。公営博物館、というのが、このあたりだったと聞いていて、そこで待ち合わせなのですが、どこもかしこも博物館みたいに大きなお屋敷ばっかりだから、わかんなくなっちゃいまして」
穏やかな、太く、深い声。聞き惚れていた。
「それであれば、もう少し行ったところですね。わたくしでよろしければ、ご案内いたしますわ」
「ああ、いや。ご婦人さまのお手を煩わすのも」
「お客人をもてなしたくて仕方なくなるのは、この女主人の悪いところでもございます。もしよろしければ、お付き合いいただいても?大きなお客人さま」
少しからかってみようと差し出した手を、その人は大きな手で、優しく迎え入れてくれた。
体が跳ね上がるのを、必死で堪えた。きっと今、自分の顔は赤らんでいるのかもしれない。恥ずかしい。でもそれすら、見てもらいたい。
「それでよろしければ、喜んで。そして謹んで」
「エスコート、よろしくね?」
「承りました」
大男が一礼ついで、自分の手の甲に、型式程度の軽いベーゼをした。唇をつけない程度。ときめいた反面、ちょっとがっかりした。どうせならもっと、吸い跡が付くぐらいに。
「オーブリー、ダンクルベールと申します。警察隊。こちらに配属となりました」
「あら、迷子の警察さんを案内することになるなんて」
「お恥ずかしい限りです」
ダンクルベールと名乗ったひとは、からっと笑った。目を細めて。とろけてしまいそうだった。
でも、駄目。私は淑女。そこいらの馬の骨に誑かされるなんぞ、恥も恥。ここはひとつ、格好をつけなければ。
「ミドルネームを隠したわね?」
自分の言葉に、その人は、小さな目をまんまるくした。
「わたくしの方も名乗りが遅れましたわ。パトリシア・ドゥ・ボドリエールと申します」
「これはこれは。あの、ボドリエール夫人だったとは」
「それも、きっとわかって、声をかけてくれた」
つとめて意地悪な目で、刺してみた。力を振り絞ってでも、主導権を握りたい。そうでもしなければ、包まれてしまいたくなる。そんなところまで、心は傾いていた。
少しの間を置いて、ダンクルベールは、またにこにこと笑った。
「これは、まいりました。噂をひとつ、聞いておりましたので、確かめてみたかったんですよ」
恥ずかしそうに、頭を掻いていた。
「ボドリエール夫人の前では、嘘はつけない。紫の差した瞳は、すべてを見透かすって。本当だったんだ」
「いいえ。貴方は下手なだけ」
「精進いたします。改めまして、オーブリー・リュシアン・ダンクルベールと申します。夫人、どうぞよろしく」
こちらを見て、改めて一礼した。
リュシアン。大男には似つかわしくない、綺麗な名前。でも、この人なら似合っているかもしれない。
「私の恩人に名付けられました。他人には、そう呼ばせるなとも。その方のためだけの名前なのです」
左手の薬指を覗き込んでしまった。綺麗な銀色が、嵌め込まれていた。
思わず、唇を噛んでいた。
「ご内儀さまから?」
「いえ。本当の、恩人です。奉公坊主のときに出会った、奉公先の三男坊。悪い意味で名が通っているから、もしかしたら、ご存知かな?アドルフ・コンスタンという方です」
「ああ、あの。飲兵衛のお殿さま」
知っている。何度か話したことがある。今、警察隊本部の捜査一課主任だか、その上だかをやっているはずだ。見た目は最高にいいが、破天荒というか、滅茶苦茶な人だった。
ほっとした反面、恋敵がまた増えたような気がして、複雑な感情になっていた。しかも男である。
「昔、飼っていた、犬の名前だそうです」
「それじゃあ、貴方は、ワンちゃんなのね?」
「そういうことになっちゃいますね」
恥ずかしそうに、歯を見せて笑った。
言われてみれば、大きい犬みたいだ。遠くから見ると厳しいが、近づくと舌を出して、尻尾を振って飛び込んでくるような。自分と同じぐらいに大きくて、黒い、綺麗な毛並みの大型犬。温かい、ふかふかの、もふもふのやつ。
隣にいると、いい匂いだった。太陽の匂い。暖かくって、頬擦りしたくなるのを、微かな理性だけで堪えていた。
貧民の出だという。南東の国、エルトゥールルから、交易のために流れてきて、そのうちここに根付いた移民のひとつ。祖父母のあたりから、ようやく姓を名乗れるようになった、その程度の家。
三人きょうだいで、父は早くに亡くなったので、家族みんなで食べるために働いた。体が大きかったので、それだけで働き口が見つかった。それが、海運業の大手であるコンスタン家。そこの三男坊こと、飲兵衛の殿さま、アドルフ・コンスタンに気に入られ、国家憲兵になることを勧められたそうだ。そのためのものも、コンスタン家から捻出してもらったとのことで、感謝してもしきれないとのことだった。
今では、自分の暮らす分を差し引いた残りを仕送りするだけでも、贅沢を望まなければ暮らしていけるし、他のきょうだいも、すっかりコンスタン家に取り込まれてしまって、兄は職工、妹は飯炊として、働かせてもらっているという。
長く働いてくれた母に、ようやくゆっくりと、婆さん暮らしをさせてあげれる。ようやく、そこまで来たところです。自分もまあ、仕事をしている中でご縁をいただいて、それで。
ちょうどひとり目が産まれたあたりらしい。女の子だそうだ。自分とおんなじ肌の色で、可愛くて、可愛くって仕方ないと。
素朴な、道なりだった。苦労があって、幸運があって、今がある。どこにでもあるような、素敵なお話だった。
「リリアーヌ?リリィ、ね。可愛らしいお名前」
「そう呼びたくって、押し切りました。向こうは、オーギュスティーヌだとかアレクサンドリーヌだとか、そういうのを付けたかったみたいです。ただ、言い方はあれですが、ごっついなと。口に出した時、かわいいな、って思えるように、リリィ。リリアーヌにしようって」
「よいところの出なのかしらね。女は、身の回りの全部を、自分を飾り立てるための装飾品として扱いたがる生き物。自分に自信がないと、特にそうなるの」
「そうなんでしょうかね。難しいんですよ。おっしゃる通り、お嬢さまで。肌の色も、自分と違う。自分だけ仲間はずれだって、へそ曲げて」
「わたくしだったら、嬉しくなりますわよ?だって貴方と同じ、綺麗な色の肌なんですもの。きっと可愛くて、綺麗なこに育つって。子育て、張り切りすぎちゃうかも」
「労いのお言葉、感謝いたします。気が楽になりました」
口説いたつもりだったのに、綺麗に躱されてしまった。女慣れしているのかしら。もしくは、ちゃんと操を立てているのかも。
そのうちに、目的地が見えてきた。ゆっくり歩いてきたはずなのに、あっという間だった。もっと、お話をしていたい。もっと、一緒にいたい。
もっと。いや、ずっと。隣にいてほしい。
はじめてかもしれない。ここまで、人を恋しいと思うのは。人を必要とし、人に必要とされたいと思うのは。何か、理由があるわけでもない。ただ、ときめいてしまった。それだけだった。
「ボドリーエル夫人のお手ずからのご案内、本当に感謝いたします」
連れ添っていた手を、ゆっくりと離し、そのひとは笑顔で向き直り、綺麗な所作で敬礼をした。
温かさが、離れてしまった。胸が苦しい。
「よろしくてよ。こうして見ると、ちゃんと警察さんなんですね。ダンクルベールさま」
「いやあ。お恥ずかしい限りです」
「貴方の恥ずかしがる姿、もっと見せてほしい」
名残惜しかった。でも、きっとまた会える。
「いつでも、訪いにいらっしゃいな。わたくしはあの屋敷で、いつだって、ひとりぼっちだから」
「私でよろしければ、いつでも」
「そのお言葉、忘れませんわよ?忘れちゃ、駄目よ?」
「承知いたしました。では、夫人」
ゆっくりと踵を返し、あの人は背中を見せた。そうして、小さくなっていった。
太陽が、傾いたような気がした。まだ、真昼間だというのに。寒い夜が来てしまうような、寂しさが湧き上がってくる。また、ひとりぼっちになってしまうような気がした。
寝どこが、欲しかった。
人として、産まれたわけではなかった。何か違う生き物として産まれ、人に紛れ、人を喰らい、暮らしていた。強い力を持っていたので、人を支配するようなやり方で生きていたこともあったが、色々あって、やめた。きっと、向いていなかったのだろう。そう思うことにしている。
人になるために、寝どこと名前と、仕事が必要だった。
そこかしこに別荘を持っている爺さん貴族がいて、死にかけていた。家に潜り込んで、愛妾のひとりに化けた。パトリシア。綺麗な女だったが、あまり賢くはなかった。誘い出して、食い殺した。骨の髄から髪の一本まで、余すところなく。それで、その女の生涯を手に入れることができた。そうやって、その女を模しながら、爺ひとり誑かし、手玉に取り、それでも絶対に体を許さずに。
それで、ほんの少しの財産と、この屋敷を手に入れた。
ボドリエールの名を継いだものは、闇の中から順々に、消していった。
全員、くだらない連中だった。金に目の眩んだ女。地位にすがる男ども。味には期待していなかったが、それにしても美味しくなかった。ただこれで、寝ぐらと名前は捕まえた。
仕事は、作家を選んだ。
人を喰らうことで、その人の歩んできた道を知ることができた。それをちょっと組み合わせて、人が望んであるであろうニーズ、あるいはエッセンスを加えてやるだけで、面白いように飛びついた。大抵は快楽だった。官能的なエロス。道徳と信仰で抑えつけられたそれを、解き放つ。思いつくままに、知っているままに、書くだけ。それを皆、求めていた。
そのうちに、不自由ない暮らしが手に入った。
でも、ひとりだった。
昔からそうだったが、環境が整うと、余計にそれが浮き彫りになった。小さな屋敷。使用人は、老いた夫婦のふたりだけ。それも、掃除と洗濯、庭の手入れを週に何回か、頼んでいるだけだった。
そのうち、求めるものを、文章にしはじめていた。求めてくれる人。抱きしめてくれる人。包みこんでくれる人。そして、隣りにいてくれる人のことを。
それが、ぽんと現れた気がした。
ダンクルベールと、あの人は名乗った。名を綴る。おそらくは“ダングルベール”が正しい発音だろう。彼の生まれから、そういう訛りなのかもしれない。むしろ耳に入るそれのほうが、心地よかった。文字にすると味気がない。
ああ、ダンクルベール、ダンクルベール。そうだ。“ダングルベール”よりも、“ダンクルベール”。とん、と、ひと心地が付く。
耳に入ってくるものと、文字に起こすものの違いは、結構、気になった。ボドリエールも、確か“ボドリヤール”とか“ボードリヤール”が正しい。でも、言葉にした時、“ボドリエール”のほうが、耳心地がよかったから、間違いのまま、受け入れていた。正しく間違うことを、し続けた。
寂しい夜。言葉を綴った。明け方まで。
膨大な、紙の束と、詩の山積み。自分でもびっくりした。
これまで意識して綴っていた淫靡なものは、少なかった。それよりもずっと素朴で、婉曲的で、精神の充足の方を求めていた。太陽とか、お日さまとか。そんな言葉が、沢山。
夜通し、綴っていたのだろう。かなりの疲労があった。眠たい。でも、胸の中が、すっきりしている。全部、吐き出したのだろうか。
推敲は、後にしよう。陽の光の中、服を脱ぎ、寝台に潜り込んだ。掛け布団は、必ず日干しをして、ふかふかにしていた。温かいものが、好きだったから。
陽の光と、ふかふかのおふとん。あの人に包まれているんだ。そう思うと、眠るのが惜しくなったが、すぐに寝入ったようだった。夢すら見なかった。
起きると、夕暮れだった。
あの人が、沈んでいく。あの人との一日を、ひとつふいにした気がして、悲しくなった。
でも、約束してくれたのだから。訪いを入れてくれると。
その言葉だけを、ずっと反芻しながら、また筆を執った。
2.
捜査の基本は、足。それは、叩き込まれている。
ビゴー曹長も、先だってこちらに到着していた。ちょっとした寄り道をしたが、無事に合流できた。慣れない土地は、どうしたって難しい。
「あれがあの、ボドリエール夫人ですか」
「はい。えらい別嬪さんですね。俺は本を読まないので、よくわかりませんが、やはり言葉の使い方、選び方は、作家とか、詩人であることが、わかるような気がします」
ビゴーと並びながら、話を続けた。
「それ以上に、中身がわからない人でした」
「あのダンクルベール中尉殿を以てしても、それですか」
「買い被らないでくださいよ、先輩」
ひらめきが走る。あるいは、人を読める。人の心を見透かす。そう言われることが多かった。
自分の中では、ちゃんと組み立てているつもりである。仕草や表情、あるいは着るものとか、女であれば化粧だとか。そういうものから、人となりがある程度、見えてくる。口さがない言い方をすれば偏見だが、自分なりの統計学でもあった。人は皆、それぞれに違うところがあるが、どこか共通項がある。それを、頭の本棚であるとか、引き出しにまとめている。それだけの話だ。
パトリシア・ドゥ・ボドリエール。高名な、いや、今まさに巷を席巻している、大人気の作家である。
奇妙な女。そう思っていた。ボドリエールというと、没落しかけの、放蕩者の爺さまだった。それが、最後の最後に寵愛した、年若い妾である。それが亡くなった後、ガンズビュールの小さな別荘だけを受け継いで、ひっそりと隠者のように暮らしている。その後すぐに、さまざまな不幸や因果応報が重なり、ボドリエールの名跡は、あの夫人だけのものになった。
まるでそうなることが、見えていたかのように。
そのうち、本を出すようになった。確か処女作は、“三十二年の赤”。本屋の片隅にぽつりと置かれていただけのそれは、一週間もせずに、たちまち入口に山積みされるほどの評判になった。
紙の束から溢れる出るほどの語彙。鮮烈な愛の描写。文章の中で、生き生きと踊るように綴られた、人の暮らし。そして、甘美な肉体と心の交わり。新作が出るたび、周りの皆が夢中になって、本屋に押しかけていた。
ただ正直、あまり好みではなかった。自分に、本を読み込む才能がないのもあるが、ちょっとエロスがくどい。きっと、恋に恋するお嬢さまや若奥さま、遊び好きなお貴族さまには受けがいいのだろう。もとより本は読まないし、読んだとしても、エッセイとか、淡々としたものの方が好みだった。
作り話は、どこまでいっても、作り話だ。
本人は、見たことがないぐらいの傾城だった。紫の差した黒いドレス。同じように、光の中で黒点のようにはっきりと、纏めて結い上げた、艶やかな黒髪。とろけるような眼差し。幾つなんだろうか。自分と同じぐらいか、もう少し若いかもしれない。
日傘の中に、美しい黒が佇んでいた。そういった印象だった。
ただ何より、聡明というか、狡猾だ。細かいところに、すぐに気が付く。全てを見透かす、恐ろしさがある。あるいは、鏡が語りかけてくる。そう思った。
あれは信用してはいけない。心を、許してはならない。
ただ、利用はできるのかもしれない。あの頭脳。もしかしたら、自分の知っている人間の中では、一番だろう。相談、あるいは捜査協力には、乗ってくれるかもしれない。そうすれば、かなり心強い味方になる。ただその時は、半ば戦いのようなやりとりになるだろう。絶対に、試してくる。それを、耐え切るか、受け流すかする必要は、出てくるだろう。
「夫人は、メタモーフではない。それだけは確実です」
「理由を。中尉殿」
「悪戯はする。試しはする。ただ、馬鹿にはしてこなかった。メタモーフなら、馬鹿にしてくるはずです」
これが、ガンズビュールに着任した理由である。
顔も名前もない怪盗、メタモーフ。あるいは、シェイプシプター。そう呼ばれているやつが、こちらに移ってきている。
盗むものは、大したものじゃない。ただ、必ず馬鹿にしてくる。いつの間にか仲間の中に紛れ込んで、何かひとつ、ちょっとした物を盗んで、いなくなる。たとえば、住み込みの奥女中であったり、執事だったり、あるいは主人の親戚に化けて、落書きをしたり、盗んだのを気づかせてから、消えるのだ。向こうからすれば、ちょっとした遊びだ。ただ、遊ばれるこっちからすれば、完全に面目を潰されるわけだ。
恩人であり、上司であるコンスタンからの命令だった。お前なら、やりあえる。下手に大所帯でやろうとするから、こうなっている。一対一で喧嘩してこい。とのことだ。
真っ先に疑ったのが、ボドリエール夫人だった。だから、道に迷った口実で、接触してみた。怪しいのは今も残っているが、自分の中にあるメタモーフの輪郭とは異なった。
「ひとまず、足で稼ぎましょう。このあたりで、鼻持ちならないやつ。気取っているやつ。そういうのを、狙うはずです。お宝には目もくれない。人を、狙うやつですから」
「被害者となりうる人の、人となりを見るわけですね」
「人となりを見るのは、俺の本領ですが、人となりを引き出すのは、やはり先輩の本領ですから。やっぱり、いてくれないと困ります」
「買い被りですよ。中尉殿」
ビゴーが、強面を柔らかくして笑った。
自分から見て、およそ五から六ぐらい上の、頼り甲斐のある下士官だった。二等兵からの叩き上げで、とにかく現場の人である。小柄だがしっかりとした面立ちで、優しさと厳しさの両方を器用に使いこなせる人だ。
ビゴーにとっかかりを見つけてもらえば、自分がその後を組み立てることができる。役割分担としては、適切だった。
とにかく、話を聞いた。最近、おかしなことがないか。新しく、人を雇ったりしていないか。あるいは、ちょっとしたことでもいい、諍いか何か、抱えていないか。ビゴーの語り口もあり、皆、一様に胸襟を開いてくれた。念の為、聞いた理由も付け足す。首都近郊で騒ぎを起こしている盗人の類が、こちらに流れてきていると。くれぐれも、用心して欲しい。それだけを、伝えた。
ガンズビュール地方支部の庁舎の一室。あとは、仮住まいを二部屋、用意してもらっていた。とにかく、聞いたこと、思いついたことを、書いていく。紙であれば、質は問わない。とにかく、頭の中にあるものを吐き出して、文面に起こす。それを、組み合わせていく。
メタモーフは、何がしたいのか。
自分の力量を見せびらかしたいのか。あるいは、人が恥をかく姿が、そんなに面白いものなのか。警察隊を馬鹿にしたい、というのもあるかもしれない。とすれば、動機は恨みか、妬みか。
もっとこう、別の理由があるのかもしれない。目に見えているものは、全部、囮。あるいは、撒き餌とか。本当の仕事は、別のところでやっている。後ろめたいものを盗んでいる。被害届を出せないようなもの。それで強請り、たかる。狙いを、見えなくさせるために。
顔も名前もない。つまりは、輪郭だけの人間。自分を捨てるのは、他人のためだ。他人のために、自分を捨て、闇に溶け込む。その他人は誰か。守るべき人。貧しい人。救いを求める人。今まさに、生命を失おうとしている人。
いわゆる、義賊。ならば、輪郭はなくとも、信念がある。
「めしを、持ってきましたよ」
不意に、訪いの音が聞こえた。ビゴーだった。
「先輩。もうそんな時間ですか?」
「そんな時間って、あんた。昨日の夜から、こもりっきりですよ。今、十八日の、夕方です」
呆れたような声で、眼の前の机にあった紙を片付け、どん、と、めしの乗った盆を置いた。
「ちゃんと休まないと、頭は回らんでしょう」
「すみません。ご心配をかけました」
「構いませんよ。むしろよく、ここまでできるもんだ」
ビゴーが、珈琲をすすりながら褒めてくれた。いい匂いだった。
「今日はまず、めしを食って、軽く清めて、じっくり寝る。明日は起きたら、改めて身を清めて、めしを食べる。それから、一旦、整理しましょう。目も鼻も耳も、そして頭も、休みがなければ、きかなくなる」
その一言で、どっと眠気と疲れが来た。
めしの味は、わからなかった。ただ、温かかった。それほど、疲れていたのかもしれない。言われた通り、軽く体を清めてから、一九時には床に入った。夢は、見なかった。
五時には、起きていた。近所に、エルトゥールル様式の蒸し風呂があるらしく、かなり早い時間からやっているそうだった。値段も安いので、行ってみた。あの複雑な異国の情緒をちゃんと再現している、本格的な場所だ。風呂の作りも、かなり古い時代のものに則っているらしい。
ガンズビュールは、豊富な水量のある場所だ。いろいろなところから水が湧き出て、大小様々な池や湖がある。それでいて地盤がしっかりしているので、湿地帯のような、ぐずぐず、じめじめとした感じにはならない、風光明媚な場所だった。貴族たちが別荘を建てたがる理由も、わかる気がする。
まずはひとつ目の部屋で、湧き水を使って、汗や汚れを落とす。春が来たばかりだが、冷たすぎない。ぼんやりした頭が、これだけでもすっきりする。ふたつ目の部屋から、蒸し風呂が始まる。どん、と八角形の大きな広間。結構暑い。汗が出てきたあたりで、布を使って、肌を清める。十分ぐらいが目処と言われた。耐えれて、六分だった。次の間で、温めの湯で、汗を流す。そうしたら、三つ目。ここが本番。蒸気がむわっとした。ここで、また十分。むせるような水蒸気だったが、二つ目の部屋よりは、楽だった。入口に塩が置いてあって、それを体に刷り込むと、もっといいらしい。
一通りを楽しんで、エルトゥールルらしい、煮出した珈琲を味わって、たっぷり一時間だった。それで六時。
戻ったあたりで、ちょうどビゴーも身支度を整えて、用意していた。ふたりで、近くのカフェに行く。朝は軽く、が普通だが、昨日までの頭脳労働と、蒸し風呂のおかげか、すっかり腹が空っぽになっていたので、多めに頼んだ。めしが腹に入ると、さらに体に熱が回って、心地がよい。
いい店だった。日がよく差して、めしも美味い。対応してくれた女中は、小柄で金髪の、可愛らしい娘だった。料理を持ってくる度に、これはこうで、あれはああで、とお喋りしてくれる。国家憲兵警察隊であることを伝えると、これは、頼もしそうなお二方。きっとすごい人たちなんですね、と目を輝かせていた。そばかすの残った、素朴な子だった。
「ひとごこち、ついたみたいですな」
「おかげさまで、生き返りました。あの風呂、大当たりですよ。自分と同じ肌の色の人が、何人か働いていました。同じように、こちらに居着いたようです」
「中尉殿と同じ肌の人は、ちょっと少ないかもしれませんから。もっと黒かったり、もっと白かったりする」
「そうですね。だからといって、どうというわけでもないのですがね。人は、人ですから。根っこは、全部同じですよ」
さてと、といった感じで、仕事の話に移る。話をしながら、頭の中を、まとめていくというところだ。
「今はまだ、準備中と行ったところでしょう。動くのは、これから。狙いを定めるより、足場を定める感じです」
「足場ですか。ねぐらとか?」
「メタモーフは、義賊です。庇護する、あるいは、援助する対象があるはず。たとえば、孤児院とか、修道院」
「盗むものは、大した金にはならんはずですが」
「見えているものは、見せているだけです。本命は、もっと後ろめたいもの。盗品、裏帳簿、あるいは、浮気の証拠とか。それで稼いでいる」
ビゴーが、ほう、と言いながら、メモを取っていく。
「まずは、三つの顔があります。表面上の、怪盗としての顔。貴族や名家の面目を潰し、民衆の快哉を恣にする。ふたつ目は、悪人。人の弱みを握り、強請り、たかる。それも、外道や下衆を相手に。そして、義賊としての顔。手に入れた大金を、困っている人のために使う」
加えて、六つくらいは、顔があるはずだ。だが、そこまでは考える必要はない。まずは捉えやすいものだけを、抽出すればいい。
目の端々で走り回っている、あの金髪の女中。てきぱきと働いている。朝も早いのに、結構繁盛していた。それを、ひとりふたりで、ちゃんと対応している。仕事のできる、気立のいい子じゃないか。
「先輩には、義賊としてのメタモーフを探っていただきたい。困っている人、餓えている人です。ガンズビュールは別荘地で、観光地。位の高い人が多い反面、貧しい人は、とことんのはず。貧富の差が激しいでしょう。手を差し伸べるとすれば、そういう人たちだ」
「ならば、中尉殿は表の顔を?」
「そうなります。ただ、これも見当はつきました」
朝、風呂に入りながら、思いついたことだった。
そもそもなぜ、ガンズビュールなのか。
言った通り、別荘地である。位の高い人間が常在しているとは限らない。いたとして、ご隠居さまとか、それこそボドリエール夫人のような、お妾さんだとか。
そこで盗みを働くとしても、あまり効果は無いだろう。どうせなら、一攫千金、宮殿にでも忍び込んだほうが、民衆からの支持は得られる。
そこに流れてきた。理由があるはずだ。
「鼻持ちならないやつ。気取っているやつ。そういうのを、狙うはず。俺はそう、言いました。やつにとってのそれは、このガンズビュールには、数少ない。別荘地ですから、常日頃から、そういうやつがここにいるとは限りません。ただ、この国に限っていえば、遊び相手は、どこにでもいる」
「遊び相手。つまりは、ある程度の嫌われ者ですかね?」
「ええ、つまり」
そこまで続けたあたりで、俄に店内が騒がしくなった。
男がひとり、騒いでいた。懐中時計がない、と叫んでいる。ついさっきまではあったのに。ああ、財布も無くなっている。そんな事を騒いでいる。誰も彼もが、何が起きたのかもわからず、混乱していた。
「狙いは、我々です」
あの金髪の女中の姿は、消えていた。
3.
朝の五時。契約している市場の業者が、玄関先に食材を置きにくるころである。
魚介や野菜などのうち、形が悪かったり、虫に食われるなどして、値段がつけにくいものを、あえて仕入れていた。基本的には自分ひとりで食べるものだし、料理の仕方で、なんとでもなる。そのうちに市場に物を出している人々から有難がられるようになり、その日の市場で売れ残ったものなどを、破格の値段で持ってきてくれるようになった。
今日は、痛んだ赤茄子に芋とか、笠子と眼張に、割れた二枚貝とか。見た目こそ悪いが、このまま一緒くたに煮込めば、南西の漁師風になるような、上等なものである。
魚たちは、いわゆる根魚というような類で、不細工だが、どことなく愛嬌がある。それに陸に上がってからも、思ったより長く生きている。今日のも、まだ鰓が動いていた。群れこそはすれ、縄張りから動きたがらない性質らしく、鰯や鯖を狙った網の中に、数える程度が混じる程度だそうだ。また成長も遅く、狙って獲れば数が減る一方。あるいは釣り好きからすれば、漁港なんかで簡単に釣れるというので、買ってまで食べる魚かというと、と思われている。味は抜群だから、住処となる岩礁の多い南西部では定番なのだが、そうではないこの辺りだと、ちょっと値段がつけづらい。
なんだか可哀想で、可愛らしい。魚の中では、一番好きだった。
先に魚だけ、処理をすることにした。
魚の仕立てをする場所は、専用で用意してある。棘の多い魚なので、雑巾などで押さえるといい。笠子は眉間、眼張はこめかみのあたり。太めの錐を浅く打ち込み、抉る。口が大きく空いたら、脳締めは成功。そうしたら、鰓の一番外側と体の間にある、白い膜に刃を差し込み、血が滴るのを確認したら、すぐに水を張ったバケツに入れ、鰓が白くなるまで水の中で振る。そこまでいけば、血抜きは完了である。そうしたら鰓を外し、はらわたを抜く。時期によっては肝も肥えているので、見ておくに越したことはない。
このあたりまでは、仕入れている魚の卸問屋に教えてもらったやり方で、もうちょっとこだわったやり方をすれば、皮と身の間にある血管に走った血すら抜くことができるらしい。訛りの強い不良中年で、そこらの海洋学者より知識があり、話もうまい。
鱗を剥がず、ぬめりと水分さえ気をつければ、布で巻いて石室にでも置くと、それなりに長持ちする。それ以上なら、塩漬けしたり、干したりしてもいい。
終わったら、使ったものも含め、石鹸を使って手を清める。魚の仕立ては、匂いが残りやすい。
そうこうしているうちに、先に鳩を飛ばしておいたパン屋から、焼きたてのパンが届くころになる。バゲットを含めた何種類。それに蕎麦の粉と、卵もある。
焼きたてのパンは格別だろうが、ちょっと気分が変わった。後ろに回して、朝食は蕎麦と卵を使うことにしよう。パン屋には悪いが、少し硬くなりはじめた辺りをスープに浸すのも、乙なものだ。
蕎麦の粉、水、塩を混ぜて少し寝かせる。その間に、布団を干したり、居間のストーブに火を入れたりする。春めいてきたし、どうせひとり分である。暖炉だと大袈裟だし、熱効率もよくない。骨董品屋の片隅に置かれていた古いものだが、少し磨いただけでも、さまになった。
温まったストーブに、薬缶と平鍋を置く。食糧庫に残っていた茸と、チーズを何種類か。平鍋に油をひき、寝かせた生地を薄く伸ばす。表面が乾きはじめたら、具を載せる。土手を作るように真ん中を開けて、そこに卵を落とす。皮の縁が、かりかりしてきたら、中央に向かって四方を内側に折り込む。蓋をして、余熱でチーズを溶かす。
薬缶も火から降ろし、少し冷ます。奥の方から、昨日作ったテリーヌの残りを、いくらか持ってこよう。紅茶、蜂蜜、生姜を刻んだもの。時間はたっぷり使ったので、八時の真ん中を過ぎたほど。さて、これでよし。
蕎麦のガレットは、食べる直前に黒胡椒を挽いた。余り物で作っていた“なんでもあり”のテリーヌ。小粒の揚げパンもあったので、それもついでに。後は、ジンジャーティー。火を落としたストーブの近くに据え付けた、ソファと長卓で頂戴する。台所でちゃんと手をかけて、食卓で召し上がるのもいいが、こういった横着をするのも、最高の贅沢である。
メタモーフという怪人が、こちらの方に流れているらしい。そんな話題が、新聞の片隅に載っていた。首都近郊を賑わせていた、怪盗らしい。貴族や大店を狙い、下らないものを盗んで、面目を潰す。顔を真っ赤にした被害者たちが国家憲兵警察隊に食いかかれば、今度はマスコミとかに“あいつら、やましいことしてるぜ”なんていう、ちょっとしたゴシップを匿名で送りつける。それも、旦那が妾に乳首を齧らせて悦んでいるだとか、その程度の下世話なものだ。その度に、民衆は手を叩いて大賑わい。狙われる側も、下手に怒れば恥の上塗り。警察隊も、他の悪党や民衆の相手で普段から忙しいのに、面倒が増えて大変だそうだ。
ガンズビュールは別荘地で、観光地でもある。一攫千金狙いならいざ知らず、そんな酔狂者が遊びに来るような場所ではない。あるいは、別の狙いがあるのかも。
朝食を済ませ、原稿を書いたりしているあたり、誰かが訪いを入れてきたようだった。
「まあ、ダンクルベールさま」
思わず、頬が緩んでいた。太陽が、また昇った。
「いやあ、約束していたのに、すっぽかしてしまいました」
「いいえ。きっとお忙しい方ですもの。もう少し、かかるかと思っていましたので。お会いできて、嬉しいですわ」
この前と同じく、にこにことしていた。心がほっとする。こうやって装束や佇まいを見ると、ちゃんと警察隊なのだな、とも思った。長めの軍靴、白いトラウザー、濃紺のダブルのジレに、白いシャツ。中央から来たのだろう、特徴的な暗緑色の油合羽は、畳んで腕にかけていた。油の匂いが好みでない人も多いので、その配慮もあるのかもしれない。
もうひとり、連れてきていた。自分よりもいささか小柄な、強面で、目の細い男。印象とは裏腹な、柔和で丁寧な口調で、ビゴーと名乗った。役職としては曹長ということで、ダンクルベールよりは下だが、軍歴は彼の方が長そうだ。士官と下士官で、二人組で動くものなのだろう。
「お話だけは、聞いておりました。メタモーフ、でしたっけ?面白い御仁もいらっしゃるのね」
応接間に招いて、珈琲を振る舞った。二人とも落ち着いた様子で、所作にも一切の隙がない。
「あたしどもも、随分と楽しませてもらっています。振り回されている、と言ったほうが、正しいでしょうが」
「大変でしょう?顔も名前もない、影とか輪郭を捕まえろ、なんていうのですから。見当もつきませんわ」
「そうなんですよ。ですから、まずは足で稼いでいます。誰か新しい人を雇っていないか。近隣で諍いを抱えていないか。あるいは」
ビゴーが、珈琲のカップを静かに置いて、その細い目をこちらに向けた。優しいが、奥に強いものがある。
「突然、羽振りのよくなったやつがいないか、とか」
しん、と静まり返った。
ダンクルベールを見る。笑顔のままだ。目も、穏やかだ。つまりは、彼は自分を疑っていない。ビゴーはどうだろう。もう一度、目を見る。強いものはあるが、敵意はない。
あくまで、話をしにきた。その上で、顎の勝負をするつもりはない。そういうところだろうか。
「ごめんなさい。具体的には存じ上げませんの。けれども、このガンズビュールは、豊かな人もいれば、貧しい人もいる。貧しい人々は、豊かな暮らしを妬んでいる。市場にものを並べることすら、難しいのですから、少し上ぐらいの人たちにも、恨みを抱いていることでしょう」
「あるいは、そういう恨みだとか妬みだとかを鎮めるために、メタモーフは動いている。私は、そう考えたりもしています」
はじめて、ダンクルベールが声を上げた。
「思い返せば、やつが首都近郊で遊んでいた時は、民衆の不満は、かなり鎮まっていた。迷惑なのは確かですが、民衆を敵視する必要がなくなっただけ、かなり楽だったのは事実です。その次が、このガンズビュールということになる」
「あたしたちも、ここに来たばかり。いるのは、ご隠居さまとか、ご愛妾さま。あとは貴女のような、失礼な言い方にはなりますが、世捨て人のような方々です。遊び相手として狙うとなれば、国家憲兵警察隊、つまり、あたしども。これが、ひとつ目の狙いでしょう」
「ふたつ目が、貧しい人々。ということかしら?」
「流石です。やはり、不作法を承知の上でも、押しかけてきて、正解でした」
ふと、外に誰かがいるような気がした。目だけ、動かす。誰もいない。ただし、ダンクルベールやビゴーも、自分と同じように、窓の外に目を見遣っていた。
影に、見られていた。
「今日は、このあたりで失礼いたします。悪戯を仕掛けられるのは慣れているとはいえ、ご夫人さまにご迷惑をおかけするわけには、まいりません」
「名残惜しいですが、ご配慮に感謝をいたします」
そうとだけ、答えた。家を荒らされるのも嫌だが、客人の、そして恋した人の面目を、自分の前で潰されるなど、是非とも御免被りたい。
「ああそう。もうひとつ、狙うとすれば、うってつけの獲物がおりましてよ?」
ふと、どうせだから、ちょっと掃除でも頼んでみよう。そう思って、振り向かせてみた。
“明けの明星”という酒場にたむろしている悪党どもである。上から下まで、見境なく迷惑をかけている輩だ。特に親分の醜男が、まあ最悪で、品がない上に女に汚い。力と金さえあれば、屈服させられるとでも思っているような、下卑た男である。しかも噂では、どこぞの名族のご落胤だと吹聴しているらしい、事実かどうかはいざ知らず、いい迷惑だ。
一度、市場で絡まれた。か弱い女を繕っていたので、二度ほど頬をはたかれて、くずおれてみせた。汚い顔で、にやついていた。
おれの女になれよ。おれとの夜のことを書けば、よく売れるぜ。パトリシアちゃんよ。
捻り殺そうと思ったところを、警察隊に割って入られた。
たまに嫌がらせには来ていたが、警察隊が気を利かせて、見回りを強化してくれたおかげで、それもぱったり途絶えた。ただ、生きているという事実すら嫌で仕方がないので、何かしらへまをやらかして、首を括ってもらえないものかと、仄暗い願望を抱えていたところだった。
このふたりなら、やれるだろう。あるいは、外でこちらを窺っているであろう、メタモーフとやら、なら。
外を警戒するために、先に玄関まで足を運んでいたダンクルベールが、あっと、声を上げたのが聞こえた。ビゴーの小柄な体が、ぱっと動く。思ったより、足が速い男だ。
戻ってきたふたりの手には、一通の手紙があった。ふたりとも、訝しげに中身を眺めている。
「まさか、噂の怪盗さんかしらね?」
「どうやらそのようですが、その」
二人とも、困った様子で、それを手渡してきた。
一文だけだった。思わず、声をあげそうになった。
“恋するお姫さまほど、綺麗なものはないってね”
心当たり、ありますかね。尋ねてくるダンクルベールに対し、何も答えることができなくなっていた。きっと、顔は真っ赤になっていたかもしれない。なんとか、頭を振るのが、精一杯だった。
怪盗メタモーフ。よくも私に、恥をかかせてくれたな。
4.
大男、ひとり。静かに入ってきた。
この店に、一見さんが入ってくることは少ない。店の連中、全員に緊張が走った。それもどこ吹く風で、男はカウンターに腰掛けた。エール、緑のやつ。それだけ、言った。
「憲兵さんかい?」
声をかけてみる。そのまま、男の隣。カウンターに、背をもたれて、並んでみせた。大男だが、ごつごつはしていない。褐色の肌で、迫力こそあれ、静かで、穏やかだ。
格好は憲兵のそれだが、羽織ものが珍しかった。暗緑色。そして、油の匂い。この辺りの悪党でも、それが何を意味するのかは、誰だって知っている。
「中央の、警察隊本部ねぇ。油合羽なんざ、こっちじゃあ見ねぇもんな。自己紹介が早くて助かりますわ」
「そちらも、お前がここの親分か。お前ひとり、面白そうな目をしていた。他は敵意剥き出しか、びびっている。お互い、人見知りは不得手なようだ」
目だけが、こっちを見た。やはり、穏やかな目だ。緑の瓶。よくあるエールビールを、手酌でやっている。
不思議な男だ。手下どもは確かに、挑みかかろうとしている奴と、すくんでる奴の両極端。こいつの表面しか、見えていないからだ。ちゃんと見れば、敵意も悪意もないことは、すぐにわかる。ここら辺は、場数の差で決まってくる。
「図体の割に、頭も口もできてる。いいねぇ。ご注文は?」
「情報をひとつ。お前たちの、大嫌いな連中のことだ」
ふと、大男はそう言って、外を見やった。おそらくは斜向かいの、あの“明けの明星”亭のことを言っているのだろう。
確かに、大嫌いな連中だ。ごく普通の外道の分際で、上にも下にも手を出すような、見境のない連中だ。盗みから殺しまで、なんでもやる。矜持もくそもない、ただの馬鹿の集まりだ。どこぞのご落胤の名分がなければ、とっくに首がなくなっている連中である。
うちもうちで、後ろめたい商売はしているが、憲兵連中が目を瞑ってくれる程度のものだし、なにより矜持がある。神妙にしろと言われれば、それに従うつもりでいる。
「いくら出せるのかしらい?」
「金はない。渡せば、つけ上がるだろう?」
「それじゃあ、この話はおしまいだな」
酒を飲んだら、一発はたいて、お帰り願おう。そう思って、腰を浮かせた途端だった。
「ここのやり方で、支払うよ」
思わず、もう一度、目を覗き込んだ。
「友だちに、なりに来たんだよ」
男は、ちゃんとこちらを見て、少し微笑んでみせた。相変わらず穏やかで、そして爽やかな目だった。
へえ。憲兵さんなのに、面白いやつじゃないか。
指を三度、鳴らした。手下どもがいきり立って、奥の間に消えていく。そのうちに、店の外からも、ちらほら人が入ってきた。中には、“明けの明星”の連中も混じっている。
亭主が、男と同じ酒を寄越してきた。これも、ひとつの習いである。友だちになりにきたというのであれば、同じ酒を飲むのも、決めた作法のひとつ。
瓶のまま飲んだ。本当はグラスで飲むのがうまい酒だが、友だちの手前、格好をつけておく必要がある。向こうも、それを汲んだようで、途中から、瓶のまま飲みはじめた。
ふたりとも、自分の瓶を飲み切ったのを確かめた後、奥の間に誘った。
あるのは、ちょっと広めの空間に、木の柵で囲われた場所が、ぽつりとひとつ。先に入っていた連中は、今か今かと、声や口笛を上げて騒いでいた。
喧嘩賭博。一番の稼ぎであり、ここいらの名物でもある。
「拳闘。使うのは、拳と蹴り。上半身だけ脱ぐ。膝、肘、頭突き、目突き、金的、組み伏せなし。反則三回か、先に倒れたやつが負け。柵にもたれる、膝をつくのは、十秒まで。よろしゅうござんすかね?」
「案外、細かいな」
「友だちになるためだからな。殺しあうためじゃない」
大男が、上を脱いだ。おお、というどよめきがあがった。仕上がっている。体毛は少なく、褐色が煌めく、綺麗な肉体美だ。年増どもも、きゃあきゃあと黄色い声をあげている。
双方、両の手に布を巻かせる。痛めると、後が怖い。拳という器官は、存外に繊細なのだ。
その準備の最中、向こうが左の薬指のものを取って、小間使いに渡した。そいつが舌なめずりをしたのを、目で刺した。すぐに気付いたようで、それだけで震え上がっていた。
男の。いや、人のそういうところを軽んじるやつは、断じて許せない。俺達は悪党であっても、外道ではない。
「名前、聞いとこっか?何かあった時、墓に刻まなきゃあならん。友だちは、ちゃんと最期まで、面倒見なくっちゃね」
「ダンクルベール。オーブリー・ダンクルベール」
「カジミール・アキャール。“細腕のアキャール”で通っている。見た目と名前の通りだから、優しくしてくれよ?」
そうやって、はじまった。
軍隊の、徒手格闘の構えだ。つまりは、抑えつけ、とっ捕まえるためのやりかた。こちらは左足を前にして、やや半身。両の手は、頬と顎のあたり。脇を軽く閉めて、揃えるように。この作法においては、向こうの構えに対して、有利が取れる。憲兵を相手取っての喧嘩を繰り返して、磨いたものでもある。
さてさて、はるばるお越しいただきました“お憲兵さま”に、うちの妙味を味わってもらいましょうか。
迫ってくる。踏み込んだ膝頭に、足の裏を叩き込んだ。痛みは無いだろうが、動きは絶対に止まる。そこに左。振りかぶらないで、直線距離。頬に触れさえすれば、それでいい。反応しきれないものに、反応させる。そうすれば、もう片方が空く。そこに右を叩き込むまでが、瞬殺の組み立てだ。
反応した。だが、反対の側頭部は、空けてくれていない。代わりに、分厚い脇腹が空いた。そこに、右を二発。全く動じない。真っ直線に、向こうの右が飛んできた。速度を見ながら、すれすれで躱す。ものすごい風切り音だった。
「やるじゃん。第一関門、突破だ」
「そちらも。名前の通り、おっかない拳だね」
ダンクルベールという男は、頭も、巨躯も、うまく使ってきた。
まずは、ほぼ足を捨てている。足は、距離ができた時、あるいは、距離を取りたい時に使う、槍のようなものだ。それを捨てて、拳だけで攻めを組み立てている。硬い守りのまま、それを左右に振りつつ、どんどん前に詰めてくる。狙いは、ほとんど腹だ。肘を曲げたまま、体を振る動きと、背中の筋肉をうまく使って、細かく、小さな動作で放ってくる。必然的に、守りを下げざるを得なくなるし、距離を離そうとする動きに終始せざるを得なくなる。そうすると、渾身の拳がいつ顔面に飛んでくるか、そこの恐怖との戦いがはじまってくるのだ。じりじりと、心に迫ってきた。
守っても、当たっても、負ける。なら、自分のやり方だ。
近距離でも、足は使える。足への踵落とし。前足の脹脛には、嫌がらせとして、奥足への腿には、必殺の一撃としても使える。こつは、前手で肩で狙うのを、蹴りと同時に行うことだ。体の仕組みとして、相手は絶対に動けなくなるので、蹴りが確実に入る。巨躯の筋肉質だろうと、これには付き合いきれないだろう。膝をあげるだけで、瞬時に足を守ろうとする。そうしたら上げた膝をそのままに、前蹴りに替えてやれば、腹のど真ん中に打ち込める。
そのうち、自分の距離になってきた。左右の拳を撒き餌にし、前足の膝につま先を刺す。蹴り足は戻さずに、左右どちらかに差し落とせば、もう片方の足を、また前足の膝に叩き込める。この蹴りは、軽くでいい。繰り返していると、向こうはまず、自分が前にいるのか、左右にいるのかも、わからなくなってくるのだ。
そうしたらようやく、“細腕”の出番だ。こめかみ。肝臓。腎臓。あるいは背面まで。相手の前足の膝、これ一点を軸にして、動き回り、急所を突ける。
それでも、たまに飛んでくる拳は、とんでもなく恐ろしい。肩か、あるいは肘を見ていれば、躱せる。見ていなければ、躱すことはできず、守ることしかできない。暴力とはえてして、質量と速度で成り立つ。守りの上からでも、芯を揺さぶられる。これだけは、体格差、重量差を恨んだ。
上背にも、体格にも、恵まれなかった。あるいは、生まれにも。負けて、倒れて、そこから這いつくばって、そうやって培ってきた。剛腕を下すには、血と汗を流すしか、道はなかった。
幾多の自分の屍の上に、このガンズビュールいちの喧嘩上手、“細腕のアキャール”は成り立っていたのだ。
当たれば、勝てる。当てられれば、負ける。そこまで極端に、作り込んできた。
顎が、空いた。好機。届けば、倒せる。顎を狙うのは何よりの得意だ。外すことだけは、絶対にない。
とくと味わえ。“細腕”の妙味を。
途端、倒れていた。前足の脹脛に、何かがぶつかった。そこまではわかった。倒れた後から、猛烈な痛みが襲ってくる。蹴られた足ではなく、頭の中に、直接。
今更、足だと。
立てる。折れていない。十秒、しっかり使おう。思いながら、相手を見た途端だった。迫ってきている。反射的に、立ち上がっていた。姿勢ができあがった瞬間、また痛みが走った。忘れていた痛みが、戻ってきたのだ。
ダンクルベールが、止まった。
拳は握られておらず、平手だった。きっと向こうも、反射的に動いたのだ。押し倒して、組み伏せようとしたのだろう。すんでのところで、うちの決まりの細かいところを思い出して、留まったのだ。
目は穏やかだが、後ろに焦りとか、戸惑いがあった。それでも、冷静、沈着で。律儀なやつだ。
いいやつだな、お前。ダンクルベール。いい友だちになれそうだ。
頭では、そう思っていた。感謝すら、覚えていた。
だが、もっと奥の方は、違っていた。
吠え叫んで、襲い掛かっていた。体ごと、ぶつかっていく。まともに食らった巨体が、柵にぶつかって跳ねる。そこに、思いきり頬をぶん殴った。倒れ込んだダンクルベールに、そのまま乗りかかる。
俺に、この“細腕”に、情けをかけやがったな。
「俺の負けだ。それでいい。だが、止めるな。獲物を前に、もじもじしやがって、可愛いこちゃんがよぉ」
衝動だけで、殴っていた。どうしようもない馬鹿なことをしていることは、ちゃんとわかっていた。根っこの部分が、それを許してくれなかった。それだけだった。
根っこが、矜持や格好の邪魔をする。何度も、それを恨んでいた。
決まりを細かくするのも、根っこを前に出さないようにするためだった。根っこは、人を殺すほどに、強かった。実際に何人か、体にも心にも、嫌なものを遺してしまうことがあった。本意じゃない。これは遊びであり、稼ぎでしかないことだ。殺し合いをしたいわけじゃない。
だから、とっととやっつける。早いところ、終わらせる。勝とうが負けようが。根っこが出る前に。
そうでなきゃあ、こうなる。
「馬鹿にしやがって。悪党の領分に、真面目に付き合おうってかよ。悪党ってなあ、こういうもんなんだよ。お憲兵さま。くそみてぇな連中なんだ。真正面から、話もできねえような、ごみの集まりなんだよ」
殴りながら、叫んでいた。根っこが、自分を恨んでいた。
向こうは、ちゃんと両腕で、頭を守っている。冷静だ。いいね。こういう状況で、逆上している相手を、ちゃんと見れている。立派なやつじゃないか。俺みたいなのとは違って、いいやつだ。人に優しくできて、人のやり方に付き合うことができて、それを破ったとしても、許してくれる。
ありがとうよ、ダンクルベールさんよ。
守りが、緩んだ。顎。見えた。
“細腕”の妙味。いける。
横から、何かがぶつかった。ぐらつく。脇腹か。しびれ。広がる痛み。苦悶が、口から飛び出す。
体勢が、崩れた。起き上がられるか。上体。少しだけ、上がった。
そこまでは、わかった。
仰向けになっていた。何を貰ったのかは、検討が付かなかった。
「立てるかいね?」
息切れの混じった、それでも穏やかな声だった。
「無理そうだねえ」
痛え。とにかく、そればっかりだった。
負けた。負けるようなことをして、ちゃんと負かされた。
悔しさは無かった。むしろ、ありがたかった。根っこごと、全部をぶっ飛ばしてくれた。ここのところ勝ちが続いて、きっと付け上がってたんだろうさ。たまに負けないと、学ぶもんもないだろうし、いい機会だったんだ。
ふと、体に何かがあたっていることに気付いた。そうして、視界が変わっていることにも。
「友だちになりに来たんだ。殺し合いに来たわけじゃない」
ダンクルベール。起こしてくれていた。
「そうだったねえ。じゃあ、なろうか」
思わず、笑っていた。
「あらためて、アキャールだよ。ダンクルベール」
「ダンクルベールだ。よろしくな、アキャール」
覗き込んだ顔は、満面の笑みだった。
こりゃあ、いい友だちを持っちまったなあ。
5.
ダンクルベールが帰ってきたのは、夜遅くだった。それも、あちこち傷だらけの痣だらけ。くわえて、ベーゼの跡までくっつけていた。
「何やってるんですか、あんた」
「あはは。ちょっとやりすぎちゃいました」
しこたま飲んだのであろう。頬が赤くなっていた。
ひとまず、何かしらの温かい飲み物を用意して、話を聞くことにした。
“明けの明星”亭にたむろしている連中と、一番、仲の悪い悪党たちを、味方につけたようだった。“細腕のアキャール”という、喧嘩賭博をやるような酒場の、親分だという。喧嘩賭博で稼いでるなら、喧嘩で勝てば、仲よくなれるだろう。そう考えたそうだ。
「で、勝ったってわけですか」
「何とかですねえ。いやあ、すごいやつもいたもんです。背格好なんか、大したもんじゃないけど、とびっきり強い。それに、気っ風もよくてね。気持ちのいいやつです」
「そうですか。あんたもまあ、無茶をしますよね」
ビゴーは、頭を掻くことしかできなかった。
才覚は走る。腕っぷしもある。他者への理解も示せる。それでもときたま、こういった無茶をする。特に悪党相手だと、その傾向が強い。他の悪党を味方に付けたり、情報をもらうため、相手の流儀で、信頼をもぎとってくる。
律儀、といえば、それまでなのかもしれない。
自分もそうだが、貧しい産まれである。だからこそ、悪党や裏社会に、理解が強かった。もしくは憧れとか、自分もそうなっていたかもしれないという、ある種の同情や共感を持っているのだろう。
体丸ごと、相手の懐に飛び込んで、心を通わせる。ビゴーからすれば、ダンクルベールのそれは、やはり危なっかしく思えていた。
「こちらも、収穫ありでしたよ」
ビゴーの方は、貧民窟の調査である。それは、すぐに見つかった。
劉均という、瑞から流れてきたという男。
もともと、交易で財を成した富豪だという。その財を元手に、法の加護を受けられない貧しいものたちのため、救貧院や孤児院を建てたり、仕事を作るなどいうことをやっていた。他の悪党との交流も盛んに行っており、立ち上げた事業が安定次第、それらへ移譲するということもしている。仕事がなく、食い詰めていた悪党たちからしても、非常にありがたい存在だそうだ。
そして、その劉均の出現した時期が、メタモーフがこちらに流れてきた時期と、ほぼ同じだった。ふた月ほど早いぐらいである。
劉均がメタモーフだとすると、各地の裏社会を安定させることも、目的のひとつと考えることができた。義賊というよりは、任侠のそれである。
悪党とはもともと、貧しいものたちの互助会のようなものである。出自や環境に恵まれず、食うに困ったものたちが、いかに生活していくべきかを見出すため、手を取り合って形成される。
社会に適合することを望まないものは、賊となる。社会に適合したいがその手段が見つからないものは、身を売るなり、非合法なものを売るなりする。そうやってある程度、稼ぎの目処が立てば、今度は人を使った仕事ができる。出稼ぎの斡旋、賭博場、娼館、あるいは大衆興行の元締めなりで、金と人を回すことができる。中には、その中で培った情報網や人脈を使い、強請や恐喝など、酷薄な手段を取るものも出てくるだろう。
そして、そういった貧しい人々の生活を保証し、治安を維持しようとするものもまた、現れる。それこそが、侠を任されたものたち、任侠である。法の庇護を受けられないものを守り、法を振りかざすものたちの前に立ちはだかり、そして、法で裁けないものたちをぶちのめす。裏社会における、ある種の警察機構である。
「このガンズビュールには、任侠者が少ないですね。中尉の見つけた“細腕”さんが近いのかもしれませんが、話を聞いている限り、そういうことはあまりやっていないようですし」
「そうですね。だからこそ、“明けの明星”亭のような連中がのさばっている。それを叩きのめすというのは、目的として考えられるかもしれません」
「となれば、劉均さんは“後継ぎ”を用意するはずですな。裏の治安を安定させたあと、それを維持するための人間です」
近々、劉均は、誰かと接触するだろう。裏の人間に信用があり、理解のある人間。そして、治安を維持する力量を備えている人間である。
「アキャールかな」
ダンクルベールが、ぽつりと漏らした。
「あいつは、喧嘩賭博を中心とした、法に引っかからない程度のことしかやりません。警察隊との関係もいい。積極的に任侠のようなことはやらないとはいえ、神輿にするには、十分以上でしょう」
「余所に任侠の機能を任せて、自分はそのまま。腕一本で、名前だけを稼いでいく。確かにまあ、神輿ですな」
「明日もう一度、行ってみましょう。その劉均という男と会ったことはないか、そういうことを、触りだけでも聞いておく。いっそこちらから、神輿になるよう、提案するのもひとつでしょうし」
「やってみましょうか。私は引き続き、貧困層を見ていきます。それと」
あえて一息、作った。
「明日は、喧嘩しないでくださいね?」
言われて、ダンクルベールは照れくさそうに笑った。
翌日も、歩いた。今度は貧困層の中でも、悪党を中心に回ってみた。
「劉均さんのおかげで、うちもようやく、汚いことから離れる目処が立ちましたよ」
任侠者のひとり。もともと、密造酒や薬物を取り扱っていたというが、劉均からいくつか仕事を引き継いだという。おかげで、だいぶ余裕ができているようだった。
「すごいもんですねえ。たった数ヶ月で、色んな仕事、色んな仕組みを整えている。相当に才覚と資金がある方なんですね」
「特に、仕組みですな。人を育てる仕組み。それをまず、整えていく。その上で、仕事を見つけていく。そうそう。あのお方、貴族とも繋がっているみたいですぜ。マクロン男爵さまだったかな?このあたりの別荘持ちどもと、顔が広いご隠居さんでねぇ。その人を軸に、庭師とか、飯炊きとかの使用人を紹介していくってさ。ご隠居さんが、そのための教育もして下さるみたいでね。いやあ、仰天しましたよ」
困ったように笑う親分に、こちらも笑うしかなかった。
「時に、親分さん。劉均さんを、ここの玉座に付かせるつもりはありますかね?」
腹を割れるところまで歩み寄ったので、ビゴーは大きく、踏み込んでみた。
親分はいくらか、困惑を見せた。
「無いですな」
「でしょうね。どうなさいます?」
「それこそ今、任侠連中で、劉均さんと話してるんですよ。あのひと、来月あたりで別のところに行くっていうから、“後継ぎ”が欲しいってねえ。引き留めようかとも思いましたが、もとより人に頼らず、自分たちでやっていかなきゃあいけないことですもの」
親分の言葉は、読み通りだった。来月あたりとなれば、ガンズビュールの裏の基礎は、ほとんど組み上がったのだろう。
不思議なことをする男、劉均。そしてあるいは、メタモーフ。
「候補としては、“細腕”ですかね。ご存知かしらい?」
思わず、という顔をしてしまった。ダンクルベールの読みである。
「名前だけ。喧嘩屋さんでしょう?任侠さんじゃあない」
「そう。だから、神輿ですよ。あいつは名前がでかいから、それ使って、緩やかな繋がりを作るっていう。仕事としくみの維持は俺たち任侠がやって、あいつがその顔をやる。出しゃばるやつをぶちのめすぐらいは、頼むかね」
緩やかな裏社会。ある意味、理想的なもの。貧しいもの、食いっぱぐれたものたちが手を取り合い、助け合いながら生きていく。
その象徴しての、任侠ではなく、喧嘩師。“細腕のアキャール”。
「“明けの明星”さんは、やはりよくないですか」
とりあえずのことを、言ってみた。
「よくないねえ。あれが一番、悪いからね。どうにかしたいと思っちゃあいるんだが、自分の身を守るので手一杯ですわ。情けない話ですが」
「いやいや。皆、まずはそこからですから。自分が、食えなきゃあ何にもはじまりません」
その言葉に、親分は顔を綻ばせた。色々、話を聞く中で、この親分も、本当は汚いことなんてやりたくないのだろう。そういうところは、ちゃんと見えてきた。
誰だって、普通に生きたい。普通の暮らしを、していきたい。それができない人がいる。それができない人が産まれる仕組みが、この国に存在する。
国の仕組みに属するものとしては、歯がゆいことだった。それでもそういう部分を、こういった、ちゃんとした悪党たちが補おうとしてくれる。それが何より、ありがたいことだった。
表と裏。ふたつの社会によって、この国は成り立っていた。
「ビゴーさんは、話していて気が楽になりますわ。俺たち悪党のことまで、ちゃんとわかって下さるんですもの」
「あたしも、貧しい産まれですからね。たまたま、こっち側にいるだけですよ」
笑ってみせたつもりだった。それで、向こうも笑ってくれた。
一度、ダンクルベールと合流することにした。おそらくまだ、アキャールのところにいるだろう。
「喧嘩はやるなって、言ったでしょうに」
アキャールの酒場にいたダンクルベールを見て、思わずため息が出た。顎に手当の跡が残っている。
「すみません、先輩。ついつい、楽しくなっちゃいまして」
「で、今回は負けたんですね?」
「いやあ、何とか勝たせていただきました。手前、“細腕のアキャール”と発します。先輩さん、よろしくお頼申しますわ」
ダンクルベールと同じ卓にいた、細面の男。にこにこと挨拶してくれた。確かに、からっとした、気持ちのよい男である。ふたりを含め、周りはどんちゃん騒ぎだった。きっととびきりの、大喧嘩だったのだろう。
確かにこれなら、神輿には適任かもしれない。
劉均は、アキャールとも接触していたようだった。アキャール自身、金回りは安定しているので、仕事を貰ったりはしていないようだが、他の悪党との交流を頼まれているそうだ。もとより、このあたりの悪党界隈では名が知れているので、積極的な介入はせず、挨拶をする程度で済ませているらしい。
ガンズビュールの裏は、アキャールを顔として、緩やかに繋がっていく。ゆっくり時間を掛けて、貧民層の暮らしをよくしていく。そのための仕組みと仕事を、劉均は整えていた。
こういうことを、メタモーフは各地でやっていくのだろう。単純に金をばらまくということはせず、仕組みを整え、貧しいものたちの自立を促していく。そのための資金調達、あるいは治安維持として、悪人を狙った攻撃的な行為と、それの目を逸らすための悪戯をやる。
「任侠さん含め、悪党の状況も、劉均のおかげでよくなっている。貧しい人々も、仕事が貰える仕組みができあがってきた。あとは、悪いやつらをどうにかするぐらいでしょうかね」
化粧の濃い年増さんから酌を貰いつつ、状況を整理していく。アキャールも、劉均については信用をしつつも、その出現と、手並みの鮮やかさから、いくらか不気味なものを感じていたそうだ。
「となりゃあ、あとはそこの“明けの明星”ですか。あいつら、ただの賊ですからね。とはいえ、下手には手を出せませんぜ?どこそかの隠し子を吹聴してやがる。嘘か真かを調べるにゃあ、時間もかかりましょうし」
「今のところ、余所から強請をかけられている様子もないようです。動くのは、これから、といったところでしょうか。それと今回、遊びのほうがほとんど無い。それだけ、このガンズビュールの裏の状況が、大変だったというのもあるでしょうが」
そのあたりだった。
にわかに、外が騒がしくなった。アキャールが手下を出して、様子を確認してくるようだった。
「“明けの明星”で、何かが起きてる」
アキャール。真剣な面持ち。
「アキャール。すまんが、警察隊支部所にひとり、走らせてくれないか?俺とビゴー先輩の名前を出してくれ。それと、この周辺の安全の確保。できる限りでいい」
「任せとけ。お前たちは?」
「乗り込みましょう。中尉殿、行きますよ」
それだけ伝えた。もう足は、動いている。
斜向かい。怒鳴り声と、喧騒の音。入口には、誰も立っていない。そのまま乗り込む。
酒場の中は、ぽつぽつと人がいた。こちらを見るなり、竦み上がっていた。
音はもっと、奥から聞こえる。
「失礼しますよ」
一言だけ。そして、奥へ。
蔵のようになっていた。随分、荒らされている。割れた陶磁器、破れた絵画。その他、美術品や、開けられた金庫などが散乱していた。
おそらくすべて、盗品だろう。
「何だぁ、てめえら」
巨躯の、醜い顔の男。これが首魁だろう。その周りに、へたり込んだのが何人か。
「まあ、落ち着いて下さい。そんなぁ騒いでちゃあ、近所迷惑ですよ」
「てめえらには関係ねえだろうがよ。こっちは空き巣に入られたんだぞ」
「そうですか。じゃあ、ちょうどよかったです。被害届は後でいいので、現場の検証だけ、させていただけますかね?」
見据えた。首魁が、怯む。
「神妙にしてくれりゃあ、それでいいんです」
そうして、一歩ずつ、一歩ずつ。懐に、手を忍ばせながら。
「じゃないとあんた、戻れなくなっちまいますよ?」
見上げながら、目を見る。
懐に忍ばせていたものを、突きつけた。
「あたしら、こういうもんですから」
国家憲兵警察隊手帳。
巨躯が、戦慄いた。
拳。飛んできた。頬にぶつかるが、さほどの痛みはない。
体から先に出ている拳は、そういうものだ。つまりこいつは、喧嘩に慣れていない。口先だけで成り上がってきたような、小狡いやつだということだ。
床に、唾を吐き捨てた。口の中が切れていると思ったが、そうでもなかった。もう一度、見据える。それだけで、相手は動けなくなった。
この程度の連中が、のさばっていたのか。侮蔑が、強く出ていた。それだけ、貧しいものたちへの仕組みが、機能していなかったということになる。
横から、大きなものが飛んできた。ダンクルベール。一気に抑えつけた。
「公務執行妨害の現行犯、確保」
吠え声。
そのうち、何人かが、どかどかと入り込んできた。ガンズビュールの支部隊、その先遣隊であろう。かなり早い。アキャールの手下も、馬とかを使ってくれたのかもしれない。
状況を伝えて、後は任せることにした。
「俺たちがアキャールと接触するのを、見計らってましたね」
外に出たあたりで、ダンクルベールが小声で言ってきた。
「でしょうなあ。まだ見られているか、あるいは別のところに行ったか」
何かが、引っかかっていた。
三つの顔。怪盗、悪党、義賊。義賊と悪党の仕事は、これで終わりだろう。ただ、悪党としての顔が、あまりに淡白すぎる。賊ひとつ炙り出して、警察隊に付き渡しただけ。現場は、荒らされているだけだった。無論、盗品だらけだろうから、金に替えづらいというのもあるだろう。
利益にならないことを、ふたつもしている。となれば本命は、怪盗の顔。
「ボドリエール夫人」
ダンクルベールだった。
「夫人が、本命です」
声に、圧が乗っている。
「今ですかね?」
「おそらくは、もう向かっている」
「なら、行きましょう」
先遣隊の馬。近くにいたものに声を掛け、二頭、貸してもらった。手早く跨る。踵をくれると、それで走り出した。
メタモーフ。ボドリエール夫人の、何を盗む。何を辱める。高名な女流作家。翻訳家、文化人としても名高い。その何を、傷つける。
よもや。夫人という、女、そのもの。
陽が陰りつつあった。邸宅が、見える。
悲鳴。それも、女の。
「夫人っ」
ダンクルベールが、飛び降りた。続く。
邸宅は、暗かった。馬に備え付けられていたランタンに火を灯し、中へ入っていく。
人の気配は、ない。
「夫人。ボドリエール夫人」
ダンクルベールが声を上げながら、進んでいく。居間にはいない。食卓、台所も。
「夫人。いらっしゃいますか?ダンクルベールです」
寝室の前。扉は、閉まっていた。鍵も閉まっている。
人の気配がする。
ダンクルベールが、扉を蹴りはじめた。三回。それで、開いた。
「夫人っ」
薄暗がりの中。誰かが、へたり込んでいる。
「如何なされたっ」
ダンクルベールが駆け寄る。ビゴーは、あたりを明るくすることにした。オイル灯がいくつか。それで、部屋が光を取り戻した。
荒らされた部屋。割られた窓。そして、中央でへたり込んでいたのは、ボドリエール夫人だった。
怯えた目。髪は解け、服は破かれている。ちらと見える肢体には、下着が着いていた。
間に合った。
「ああ。ダンクルベールさま、ダンクルベールさま」
「夫人、もう大丈夫です。どうか、お気を確かに」
「ダンクルベールさま。わたくしは、わたくしは」
屈み込んだダンクルベールに、夫人が、震える身体で抱きついていた。落ち着くまで、暫く掛かるだろう。
その場はダンクルベールに任せ、外に出た。
「先輩さん。大丈夫ですかい?」
アキャールたちだった。
「まず、何とか。ご面倒をお掛けして、申し訳ありませんねぇ。あたしが応援を呼んできますので、見張りだけ、お願いしてもよろしいでしょうかね?」
「わかった。いや、しかし」
「そうですねぇ」
憤然としたものが、こみ上がってきていた。
許せねぇ。何が怪盗だよ。顔も名前もないのに、欲だけはあるってか。馬鹿馬鹿しい。
許しゃしねえぞ、メタモーフとやら。
「女に手ぇ出すようなやつだとは、思っちゃあいませんでしたよ」
抑えるだけ抑えても、それだけは出てしまっていた。
6.
真の狙いは、ボドリエール夫人だった。
それでも、何かが引っかかっている。メタモーフは今まで、そういう乱暴なことはしてこなかった。せいぜい、あの手紙のような、馬鹿にするようなことで留めるはずだ。
あるいはもうひとつ、顔があるのか。
顔も名前もない怪盗。あるいは性別すら。それが、女を襲った。ならば男の顔。欲深い、下卑た男。
何故、それを今、出すのだろうか。
考えても、出てこなかった。ダンクルベールはそのまま、寝台に潜り込んだ。
女の体。触ったのは、いつぶりだろうか。ひとり目が産まれてから間もないが、あれとは体も、心すらも、通わせていなかった。通わせる努力はしたが、心を開かせるところまでは、まだたどり着いていない。
ボドリエール夫人。美しいひと。冷たく震えた、豊満な体。それでも、心は傾かなかった。やはりまだ何か、疑いが残っているからか。
ダンクルベールは、恋というものに、きっと、理解が薄かった。
あれとは、人の紹介で結ばれた。仕事の中で知り合った人の娘であり、裕福でもあった。だから、相手の顔を立てるとか、実家への仕送りが増やせるだとか、そういうものばかりを考えてしまった。思えばそれが、いけなかったのかもしれない。あれの気持ちも考えず、ただ一緒に暮らすだけのようなことをしている。
あるいはお互い、そうなのかも。あれは、ダンクルベールのことを、明らかに嫌っていた。
幸せな家庭。それが、今一番の望みだった。娘に恵まれた。そこまではいい。だが、あれを満足させてやれていない。それがずっと、心に引っかかっていた。話をしようにも、聞いてはくれない。突き刺さる言葉ばかりが、返ってくる。体を求め合うことなども、少なかった。
もうひとり増えれば、和らぐのだろうか。例えふたりとも、肌の色が違おうとも。娘ふたりの女所帯になれば、母親の味方にはなってくれるはず。俺をひとり、敵にして。そうして三人、仲よくしていく。それもまた、ひとつのかたちかもしれない。
それでも、いずれどこかで、破綻するだろう。その時、俺はやり直せるだろうか。破綻するにしても、互いが納得するかたちで、終わらせたい。
不意に、誰かが訪いを入れたような気がした。
時刻、二時。真夜中。何者だ。
油合羽を羽織る。懐に、拳銃を忍ばせた。恩師であるコンスタンから、中尉への昇進祝いとして貰った、最新式のパーカッション・リボルバー。
「どなたですか?」
答えは、無かった。
ゆっくりと、扉を開ける。やはり、影ひとつ。
女。俯いているが、美しい顔立ち。
「夫人?」
ボドリエール夫人。扉の前で、ぼうっと。
「如何なされました?こんな遅くに」
「ダンクルベールさま」
俯いた顔を上げた。やはり、美貌。
「わたくしは」
それだけだった。
抱きついてきた。体温。すすり泣く声。
「わたくし、わたくし。ダンクルベールさまが」
震えていた。やはり、まだ。こわい思いが。
その身体に、自然と、腕が回っていた。女の体。美しいひとの、かたち。それに、触れる。
違う。
とっさに、離れていた。パーカッション・リボルバー。
そして、匂い。
「手負いか」
思わず、言葉に出ていた。
それは、腹を抑えて、肩で息をしていた。夫人の姿をした、何か。
メタモーフだ。
「ちょっと、どじを踏んじまってなあ」
言えたのは、そこまでだった。
くずおれる。駆け寄っていた。抑えたところ。衣服を、裂いた。
「熊にでも、やられたのか?」
「どうだかね。わからねぇよ。とにかく、このざまだ」
かすれた、若い男の声だった。肉体も、男のそれである。
「なあ、旦那。手柄、やるよ」
男の声が、ぽつりと漏らした。息が、だいぶんに多い。
「手柄だ。俺の生命ひとつ、くれてやる。だからどうか、助けてくれ」
夫人のままの顔。美しい瞳。
「まだ、死ねねえんだ」
それだけは、はっきりしていた。
首肯だけ、返してやった。
「こりゃあ、どうしました」
ビゴーだった。隣の部屋。物音で起きたのだろう。
「メタモーフです。夫人に化けてました。手負いです。これから応急処置を」
「わかりました。今、医者と、支部のものを呼んできます」
それだけ言って、走っていった。
とにかく、傷に布を押し当てた。荷物。確か入っているはず。あった。針と糸。それと軟膏と包帯。ひととおり。
湯を沸かしている時間はない。
「針を通すぞ。消毒なしの、一発勝負だ。恨むな」
頷いたようだった。
刃物の傷ではない。本当に、獣か何かの爪のような傷。とにかく、塞ぐ。士官学校でやったきり。思い出せ。慎重に、そして迅速に。
なんとかして、塞いだ。軟膏と当布。そして包帯。きつく縛る。
メタモーフ。何故ここへ来た。それも、こんな傷を負って。そして、助かるか。かなりの傷。そして血も失っている。顔はもう、青い。
「今、医者と警察隊が来る。必ず、助ける。だからちゃんと、お裁きは頂戴しろ。神妙にすれば、それでよしだ」
手を握って、励ますようにした。
「ありがてえ」
呟くように。そして、瞼が。
死んだか。いや、脈はある。呼吸も。
どうやら、安心したようだった。確かめて、ようやく息を付けた。
しばらくして、医者と、支部隊の何人かが来た。それを引き渡した。
「何とかなりそうです。ご心配なく。よく、塞いでくださった」
汗だくの顔で、医者がそう言ってくれた。
「どうか、頼みます」
言えるのは、それぐらいだった。
その後は、眠れなかった。ずっとぼんやりとしていた。
日が昇ってから、蒸し風呂に行った。体と、心を落ち着かせたかった。ビゴーも来ていた。どうやら同じく、眠れなかったようだった。
「今日はふたり、寝ていましょうか」
「そうですねえ。ひとまず、そうしましょう。あたしも、びっくりしちまったからね」
風呂から上がって、煮出した珈琲をすすりながら、それだけ交わした。
仮住まいに戻り、寝台に潜り込んだ。腹は、減っていなかった。そうして、そのまま眠った。
眠りの中で、考え事をしようと思った。それでもやはり、何も思いつかなかった。
女の体。思い返せるのは、それだけだった。
次の日の朝まで眠って、ビゴーとふたり、あのカフェに行った。
あの女中は勿論、いなかった。
「メタモーフは、どじを踏んだと言っていました」
ひと通りのめしを片付けたあと、話をはじめてみた。
「そしてあの傷。刃物じゃない。けだものの、爪のような」
「本当、そうだよ。びっくりしちまったぜ」
男の声。
「いやあ、おかげさまで生き延びれたぜ。旦那がた、ありがとうよ」
近づいてきたのは、きっと、若い男だった。
自分たちの卓。空いている席に、勝手に腰を掛けてきた。そうして、近くの女中に、めしを頼みはじめた。
「お前は、まさか」
「名乗るほどのものじゃあございません?もとより、顔も名前もございませんしね」
揶揄うような口ぶりで、男は手を広げた。
顔も名前もない人間。つまり、メタモーフ。
「ようやく、意識が戻った程度だからさ。めしを済ませたら、また戻る。ちゃんとお白州は頂戴するから、安心しなよ」
目元が隠れるぐらいの、長い髪。それぐらいしか、特徴はなかった。
「あんた。礼をするためだけに、来たっていうんですかい?」
「ご名答。おふたりとも、遠方からお越しだろう?いつまた会えるか、わからんしね。礼は言える時に言わないと、言えなくなっちまうもんだろう?まして今回は、死にかけたわけだからさ」
からから笑いながら、届いためしに、口を付けはじめた。とても意識が回復したばかりとは思えないほど、口も手も達者である。
「ガンズビュールは本当、裏がちゃんとしてなかったから、大変だったよ。大赤字だ。でもこれで、あの“細腕”さんを真ん中において、お手々繋いでやっていけるだろうさ」
「それがここでの、本当の目的か」
「そうさね。基本、余所で稼いで、裏表関係なく、機能していない部分を立て直す。それが俺の、生業さ」
心の底からの、驚きだった。
行政や治安維持機能の、立て直し。義賊や任侠ともまた違う。為政者のそれに近い。
世の中を、よくする。それを、こいつはひとりで、やってきていた。顔も名前も、捨ててまで。
それでもやはり、不審なものが残っていた。
「ボドリエール夫人についてだ。相当、荒らしていたようだが、何をする気だった?」
ボドリエール夫人への、暴行未遂。
強めた語気に対し、ちょっと困ったように、それは身を乗り出した。
「ありゃあ、あいつの自作自演だよ。部屋も、格好もね。俺はちゃんと、正面から訪いを入れた」
「何をするために?」
その問に、それはにやりと笑い、指先で口元を叩いた。
「唇ひとつ、頂戴しようってね」
答えに、ビゴーとふたり、頭を抱えてしまった。
本気の答えだ。やっぱりこいつ、ただの悪戯好きだったのだ。
「迷惑なやつですねえ」
「いやあ、ご迷惑をおかけしました。でも、それぐらいしなきゃあ、今回は本当、大損だったんだよ。ひと通り終わったから、綺麗どころにベーゼでもして帰ろうかってね。そしたら一発で見破られて、がっつり引っ掻かれたってわけ」
「夫人は女性だ。熊じゃない」
「そこなんだよ、旦那」
神妙な声だった。届いた珈琲に軽く口を付けてから、続ける。
「ありゃあなんか、違うやつだ」
「違うというのは?」
「何というか、オカルトの類だ。そういうのが、一番近いと思う。今後も関わるようであれば、気をつけたほうがいい」
髪の奥に見える瞳。真剣な、ちゃんとした色。
本気で言っている。
「俺のはこれでも、種も仕掛けもちゃんとある。あれは違う。種も仕掛けもない。奇妙で、危険だ」
「常々、怪しいとは思っていた。出現の仕方。他の、ボドリエールの血族の消え方。そしてあの、頭脳」
「まあ、疑いすぎると気付かれるだろうから、そこは程度だろうね。とにかく、深入りはやめとけってぐらいさ」
ちらと、ビゴーを見た。こちらも、言っていることは信じているだろうが、受け入れがたいという表情だ。
やはり、ボドリエール夫人には、何かがある。直感と疑念が、確信に変わった。あれとはいつか、ぶつかる日が来るだろう。
それがどのようなかたちになるかは、予想もつかない。
「さてと」
そいつはポケットから、銭を出してきた。三人分の会計だとしても、ちょっと多い。
「俺はしばらく、療養生活だね。それが終わったら、また来るよ、旦那」
「また、とな?」
「約束したろ?生命ひとつ、くれてやるって」
微笑んでいる。信用のできる顔。
「顔も名前も都度都度だが、生命は一回こっきりだ。好きに使ってくれ。密偵だろうが、暗殺だろうが、何でもやるよ?」
生命ひとつ、くれてやる。そういうことか。
顔も名前もない人間。それを、手元に置ける。どうしてかその言葉は、信頼できた。こいつは決して、裏切りはしない。
生命ひとつ、貰った。何よりも、頼もしいものを。
「まずは休め。万全になってから使おう。どうせ牢獄にいるふりぐらいは、できるんだろう?そのためにも、まずは怪我を治し、体調を整えることだ。相当、無茶をしてきただろうからな」
「ありがたい話だね。大事にして下さるとは」
「持て余しているだけだよ」
答えに、そいつは鼻を鳴らした。
そうして背中を向け、手を振りながら。
「けったいなやつですね」
「でもまあ。めでたしめでたし、ですかな。思ったより、腹の割れるやつみたいですし」
ビゴーの顔は、穏やかだった。
メタモーフが夫人を襲ったことに、何よりの怒りを見せていた。穏やかで人当たりはいいが、女に手を上げるのを、何よりも軽蔑するし、そういうやつには、一切の容赦がない。
そういう荒々しい強さも、持ち合わせている人だった。
「ボドリエール夫人だけは、頭に入れておきます」
「中尉殿は、そうなさい。ふたりも疑ってかかれば、それこそ気付かれるでしょうから」
「ご負担をかけます、先輩」
頭の片隅に、それを置いた。そういう風に、頭を作り込んでいる。
収穫は三つ。信用ならない、不気味な女と。信用できる、不気味な男。そして、信用のおける、気持ちのよい友だち。
それが自分にとっての、メタモーフ事件である。
7.
澄み切った水面に、魚影が見えた。
手のひら、三枚分ほど。ぼんやりと、そこにいる感じである。
「あれ、行ってみましょうか」
そう、一言。
毛鉤のようなもの。それに、豚の皮を、油に漬けたものだろうか。とにかくそういったものを引っ掛けている。魚の鼻先から、かなり離れたところに落とす。水面の波紋。その広がりが、届いたぐらいだろうか。魚影が、のそりと動き出した。ゆらゆらと水中を沈みゆく、抽象的な何かを、じっと見つめている。
ちょんと、動かしただけだった。
吸い込んだ。竿が、立ち上がる。糸の張る音。思わず、声を上げていた。細く、短い竿。その胴の部分まで、大きく入っている。魚の頭の方向をよく見て、竿の立て方を変えていく。
そのうち、導かれるように。船の縁まで、それが近づいてきた。
屈んで、手を伸ばす。水中。開かれた下顎。掴んで、水面が、割れる。
鬨の声。小さく。
「まあ」
こちらは、大きな声を出してしまった。
深い碧色の鱗が美しい、大きな黒鱸だった。
「こうやって、釣んですよ」
船頭さんは、ちょっと格好を付けて、そう言ってくれた。黒髪の、目の細いハンサムだった。
「食いしん坊とはいえ、基本は臆病です。身を隠すなり、気を張るなりしている。こいつは真ん中に陣取って、気を張っていた。確かめるために、近づいたんです」
「へえ、食欲じゃないのね?」
「そう。好奇心とか、警戒心かな?最後は、反射も。腕に蚊が停まったら、思わず叩いちゃうでしょう?そんな感じです」
微笑みばかりの、ポーカーフェイスだった。
その後も船頭さんは、何匹かの大きな黒鱸を釣ってくれた。ゆらゆらと泳いでいるものや、物陰に潜んでいるもの。色々な釣り方を、見せてくれた。魚の探し方、見定め方、そして、その緊迫感のあるやりとり。見ていて、心が踊った。
黒鱸とは名が付くが、翠玉のような鮮やかな色に、目を奪われた。
「ボドリエールさん、戻りましたよ」
船頭さんが、船着き場で待っていた男に、声を掛けた。
宿のシェフさんである。もっと西の方の、それも旧い訛り。ずっとにこにこしていて、愛嬌があった。
「どやった?面白かったろ。兄ちゃん、かっこよかったやろ?」
「楽しかったですわ。見えている魚は釣れないって言うけれど、本当にお上手で。素敵でしたわ」
「兄ちゃんは、それ、上手いからなあ。僕はでけへん。見えてないほうが釣りやすい」
喋りながらも、シェフさんは、手のひら一枚にも満たないほどの黒鱸を、釣っては戻してを繰り返していた。そうやってずっと、きゃあきゃあとはしゃいでいる。
「おじさまは、小さいのがお好きなのね?」
「そやね。僕は子どもと遊ぶのが好き。セコ釣り、言ってね。子どもやから、何でも楽しんでくれるの」
まさしく子どもと戯れるようにして、小さいものばかりを、根こそぎ釣っていく。黒鱸たちも、疑似餌に興味津々といった様子で、水中に入った側から、我先にと飛びついてくる。その様子がなんだか、子どもにお菓子をあげるおじさん、そのもので、微笑ましかった。
「せこい釣りって、面白い呼び方ね」
「格好付けて、フィネスとか、兄ちゃんたちは言うけどね。あとはもうちょっと上の人たちは、こういうの、あまり好かへん。ちゃんと大きいの、釣りなさいって。僕はほら、遊びやもん。せやから、セコ釣りでええの」
「俺だって、遊びですよ。真面目に遊んでます」
「僕は不真面目やもん。遊んでくれるのとしか、遊ばへん。兄ちゃんは、いい女、口説き落とすのが、好きなひと」
「そりゃあ。ボドリエールさんのファンですからね」
ポーカーフェイスのままの船頭さんの言葉に、思わず笑ってしまった。
「そういえば、ボドリエールさんのお召し物。油合羽ですか?その色、新作ですかね。紺色の“短合羽”なんて、見たことがなくって」
やはり素敵な微笑みのまま、船頭さんが聞いてきた。
「自分で染めてみたの。油を抜いて、藍染め。色の調整は、油の入れ具合かしら」
「へええ、すごいなあ。器用というか、意欲が強いんやね。油合羽なんて、女の人、着ないもの。あれやってみよう、これやってみようって、思うんやろね」
「そうですわね。思いついたことを試すの、大好きですの」
「いいなあ。格好いい。俺もやってみようっと」
「船頭さんはきっと、お似合いですことよ。紺とか、青色のイメージですもの」
おだて言葉に、船頭さんは、ひときわの微笑みを返してくれた。本当に落ち着いた、ハンサムなひとである。
北西部の高原地帯、フォンブリューヌ地方。そのうちの、ロジェール男爵領に、旅行に来ていた。
南方大陸原産の、黒鱸という淡水魚を養殖しているというのを、最近知ったので、見てみたかった。水質によらず生息可能であり、繁殖力が高いため、取り扱いが難しいものの、うまく養殖できれば、ひとつの名物になるかもしれないとのことだった。実際、このフォンブリューヌに多い、透明度の高い堰止湖ならば、大きく育つようだ。
口が大きく、大食漢とは言われるが、消化する力が強いわけではないので、満腹になったらしばらく動かない。速く泳げるわけではないので、小魚たちには追いつけない。群れからはぐれた魚や、砂利蟹や蛙などを、待ち伏せして食べることが多い。また、共食いというか、間引きをする性質らしく、小型の同種も獲物にする。水草や卵は食べず、完全な肉食性だから、水を汚すこともない。大きすぎず小さすぎずで、他の肉食魚や水鳥たちにも狙われることもあり、頂点捕食者にはなれない。何だか都合のよい生態である。
見た目は鱸より、曹以や羽太などの根魚に近く、捌かせてもらった感じも、それに近かった。張りのある、淡白な白身。ムニエルやポワレ、フライが美味しかった。色々な味付けで楽しめるだろう。
宿のシェフさんが、どうせなら釣るところを見てみないかと、黒鱸の釣りが上手な、遊覧船の船頭さんを紹介してくれた。お茶目なシェフさんと、二枚目の船頭さん。ふたりを含め、地元の人達は、本当に素敵な人ばかりだった。
人と触れ合うのは、好きだった。特にこういった、それぞれの地の、それぞれの地にしか、いないような人々。自分にない経験と知識、そして体験を持っている。何より、偏見がない。自分を、ちゃんとひとりの人間として、見てくれた。
メタモーフが逮捕されて、しばらく経った。容疑の一切を、認めているという。
自分のところには、ダンクルベールを模してきた。匂いや仕草ですぐに分かったので、殺そうと思った。すんでのところで逃げられて、ダンクルベールのところに潜り込んだようだった。
メタモーフがガンズビュールに現れた狙いは、“ボドリエール夫人の唇”。中央から来た捜査官に化けて、ボドリエール夫人に接近したところ、その捜査官本人、つまりはオーブリー・ダンクルベール中尉によって捕らえられた。報道では、そうなっている。
本当の狙いは、貧民層の、生活水準の向上だったようだ。
後々、ビゴーから、そう聞いた。そういった人々が育つ仕組み、助け合う仕組みが、ガンズビュールは弱かった。いわゆる、悪党とか、裏社会というもの。それを、立て直したようだ。迷惑ばかりを掛けていた“明けの明星”亭の連中が壊滅したこともあり、貧しい人々でも、市場にものを並べたり、色々な仕事につけるようになっていった。マクロン男爵領のご隠居さまとも繋がりができており、いくつかの別荘の使用人としても、拾ってくれているようだった。
ガンズビュールは、貧富の差が縮まり、諍いが少ない、いい場所になりつつあった。
ダンクルベールは、軽い挨拶だけをして、首都へ帰っていった。太陽が、沈んだ。そんな気持ちになっていた。
持っていた連載などがひと段落したこともあり、取材と称して、しばらく筆を置いて、あちこちに出歩くことにした。そうやって、気を紛らわせたかったのかもしれない。そのうちにも、思いついたことを、言葉として、留めていった。太陽、お日さま、もう一度会いたい。やはり、そういう言葉が多かった。
“再びの人”。そういう題で、詩集として発表した。
反響は大きかった。今までの作風からは、かけ離れているとも。鮮烈な淫靡さは少なく、穏やかで、淡いものだと。そしてまた、その“再びの人”とはもしかして、とも。
巷を“動”で賑わせたボドリエール夫人の、“静”の一面。そう評された。
仕事に追われる日々。寂しさを、忙しさで塗りつぶしたい。筆はどんどん、早くなっていった。今までのような、情熱的な“動”の作風も。そしてまた、新しく拓いた“静”の作風も。
あれから一年余、経っただろうか。日向でぼんやりと、向日葵を眺めていた。
日傘は嫌い。温かさが、好きだから。人前では、格好を付けるために差すけれども、本当は嫌だった。今日はひとりきりだから、日傘はいらない。そうやって、お日さまの光を浴びながら、ぼうっとしていた。
「ああ、どうも」
不意に。あの時と同じように。
駆け出していた。きっと、ひどい顔だろう。でももう、そんなことはどうでもいい。ようやく、ようやく来てくれた。
ようやく昇った、わたくしの、お日さま。
「ダンクルベールさま」
やはりその人は、にこにこと笑っていた。
「いやあ、ご無沙汰しております。仕事で近くに立ち寄りましたもので。本当に、顔を見せる程度にはなりますが」
「それでもお越しくださったなんて。本当に嬉しいですわ。お元気でしたか?リリィちゃんも、大きくなったかしら」
「何とかまあ、元気でやらせていただいています。リリィも、もう歩き回っていますよ。ああ、そうだ」
ダンクルベールが、ひときわに微笑んだ。
「もうひとり、産まれました。また、女の子」
「まあっ」
心が、踊った。このひとの幸せが、もうひとつ増えたなんて。
「キトリーって、付けました。キティ。本当はきっと、そう呼ばないんでしょうけどね。また同じ、私と同じ肌の色です」
「いいじゃない。可愛い名前。リリィと、キティ。ああ、見てみたい。今度、連れてきていらっしゃいな。ご内儀さまともあわせて、是非ご挨拶したいわ」
「そうですね。妻が夫人のファンでもありますので、今度、連れてきますよ」
笑ってくれた。もう、はしゃいでばかりで、早口でまくし立てていたのに。それでもやっぱり、大きく包み込むような、穏やかな声。
ああ。こうやって、ずっといたい。
「よう、ボドリエール夫人」
差し込んだのは、がらがらした声だった。
「久しぶりだねえ。やっぱあんた、綺麗だね。山奥の湖みたいだ」
そちらを向く。見たことのある顔。
「これはこれは、コンスタンさまも」
「俺のリュシアンが、世話になったみてぇだな。俺も、礼を言いに来たんだぜ?」
酒と煙草の匂い。猫背だけど、ダンクルベールと同じぐらいの背丈。それでいて、細身で、足が抜群に長い。白髪交じりの、癖がかった髪を後ろに流した、不敵な笑み。
飲兵衛の殿さま、アドルフ・コンスタン。
そうやって、のしのしと歩いてきて、ダンクルベールの肩に手を回した。
「どうだい?俺のリュシアン。いい男だろ?」
にやりと笑いながら、そう言ってきた。
抜群の見た目だが、恋敵でもある。目の前で肩まで組まれてしまった。
負けていられるものか。
「ダンクルベールさまは、本当に素敵なお方。以前は助けてもいただきましたし。でも、俺のって。もしかしておふたり、そういう関係なのかしら?」
意地悪な顔で、刺してみた。ダンクルベールだけ、ぎょっとした顔になる。コンスタンは、声を上げて笑っていた。
「そりゃあ、気になるよねえ。ただね、俺たちゃあもう、それ以上だぜ?体の交わりも、心の交わりすらも、もう、いらねえんだよ。俺の片思い、押し通しまくっただけだけどな」
「あら。それは羨ましいことですわね」
「リュシアンはな、夜の海なんだよ」
透き通る、がらがら声。そんなことを、言い出した。
「夕闇みてえな、綺麗な肌。深い、海の底みてえな瞳。この声の、さざなみ。こいつらがそう、呼んでくれってよ。だからこいつは、俺にとっての、リュシアンだ」
夜の海。
お日さまみたいなダンクルベールを、コンスタンはそう例えた。そしてリュシアン。コンスタンだけの、名前。
心の底から、嫉妬が湧いて出てきた。そして、意欲も。
「ねえ、コンスタンさま。わたくしもダンクルベールさまを、リュシアンって呼んでも、いいかしら?」
奪ってやろう。ひとりだけの名前。
「ダンクルベールさまは、コンスタンさまに、夜の海って仰ったのよね?でもダンクルベールさまは、わたくしにも、温かいお日さまだって、仰ってくれたの。だからきっと、リュシアンって呼んでも、構わないわよね?」
「そうだったのかい。でもちょっと、足んねえよなぁ?」
機嫌がよさそうに、紙巻を取り出して咥えた。婦女子の前で煙草なんて、とも思ったが、このひとに常識を求めてはいけない。
「あんたは、リュシアンに惚れた。まずは第一問、正解だね」
言われて、どきりとした。きっと顔が赤い。そのひとが眼の前にいるのに、それを言うだなんて。
こいつ。淑女に、恥をかかせたな。
「だったらもう。とことん、リュシアンに惚れな?」
紫煙をくゆらせながら、不敵な顔を近づけてきた。
とことん、ですって。もう、恋をしているのに。
「惚れて、惚れて、惚れ倒して、どうにもなんなくなって、そこから出てきた言葉が、リュシアンって言葉なら、それでいい。恥も外聞も、恋も愛も欲望も捨てて、そこまでたどりつけるんだったら、やってみな?」
惚れる。恋とか愛とかではなく、惚れる。心を、奪われる。一度、奪われるのに、もっと奪われる必要がある。それも、すべてを投げ出してまで。
いいじゃない。そうやって手袋を投げて寄越すなら、受けて立ってやる。
「かしこまりましたわ。絶対、貴方さまの口から、ご了承を頂戴してみせますわよ」
「ちょっと、夫人」
「五月蝿ぇ、リュシアン。こっちはお前の名前、かかってるんだぜ?なあ、夫人」
「そうですわね。私も淑女たるを、あるいは、パトリシア・ドゥ・ボドリエールたることを捨てるところまで、かかっておりますもの」
「いいねえ、やってご覧よ。惚れたやつに抱かれるんなら、そこまでだぜ。惚れたやつに、もっと惚れるんだよ。大変だぜ?二進も三進も行かなくなっちまうんだから」
「やってみせますわ。コンスタンさまを、ぎゃふんと言わせてやるんですから」
真剣な顔で言ってやった言葉に、コンスタンが口角を釣り上げた。
「交渉成立」
そうやって、ダンクルベールから離れて、背を向けてしまった。
「さあ、底なしの恋を楽しもうぜ?」
先に行ってるぜ。そう言って、コンスタンは離れていった。
底なしの恋。惚れて、惚れて、惚れ倒す。素敵な言葉。ひとりの詩人としても、とびっきりの好敵手。
絶対に打ちのめしてやる。跪かせて、この手にベーゼをさせてやる。あるいはお前も、惚れさせてやる。そうして、リュシアンと。
ああ、リュシアン。我が愛しき、オーブリー・リュシアン。なんて素敵な名前。
「アドルフさまが、ご迷惑をお掛けしました」
気恥ずかしそうな声で、我に返った。
「あの方。本当に、自分勝手なんだから」
「ああいえ、お気になさらず」
かしこまってしまったダンクルベールに、思わずといった感じで、声を出してしまった。褐色の頬が、少しだけ赤い。
二児の父。それに惚れる。抱かれもせず、惚れ倒して、そして愛称で呼ぶ。それってとても、ふしだらなこと。はしたないこと。淑女として、あるまじきこと。
でも、そうでなければ、パトリシア・ドゥ・ボドリエールではない。世間がそう見るであろう、ボドリエール夫人ではない。
「わたくしはね」
意を決して、言葉にしようと思った。
「ダンクルベールさまに、惚れちゃったの」
「夫人?」
「言ったでしょう?温かいお日さまだって」
きっと、頬は赤い。それでもいい。ちゃんと、伝えたから。
「半分程度に、留めておきますよ。娘ふたりに悪いですから」
頭を掻いて、目を逸らしながら。
「あら。ご内儀さまには?」
「勿論ですが。今はそっちに、気が行っちゃってますから」
「あらあら。夫であるより、パパさんなのね。何だか、想像通り。でも奥さま、拗ねちゃいますわよ?」
「そうなんですよねえ。また、肌の色が違うって、へそ曲げて。娘ふたりで女世帯なら、私を敵にして、女たちで仲よくできると思ったのに。もう、どうしたらいいんだか」
ふたり、顔を赤くしながら、笑いあった。
「そういえばなんですけど」
そして、ちょっと意地悪がしたくなった。
「どうして、お髪、剃り上げてらっしゃるの?伸ばせばきっと、もっと格好いいのに」
ダンクルベールが、ちょっとだけ、嫌そうな顔をした。
「いや、あの。それはね?」
「ボドリエール夫人の前では、嘘はつけない。紫の差した瞳は、すべてを見透かす。でしょう?」
微笑みながら。刺せるだけ、刺してみる。
言わせたかった。惚れたいから。惚れ倒したいから。
少しして、観念したように。ダンクルベールは顎髭をこすりはじめた。
「髪質が、どうもね」
ぽつりと。
「もじゃもじゃなんですよ。伸ばすと、ブロッコリーになる」
小さな声に、思わず、腹を抱えてしまった。
砂漠と大河の血。白い肌の人と、黒い肌の人のいいとこ取りの、美形の産地。髪を伸ばせばきっと、もっと素敵。でも、もじゃもじゃ。それが嫌だから、剃り上げてる。
可愛い。そんなこと、気にするだなんて。
笑ってしまった。そしてまた、惚れてしまった。涙が、こぼれそうなぐらいに。
「内緒にしますわ。誰にも言わないから」
「お願いしますよ?本当に嫌なんですよ、これ」
「やっぱり、貴方の恥ずかしがる姿。本当に素敵。たまらない。もっと見せてほしいわ」
「嫌ですよ。私だって、女性の前では格好を付けたいですから」
「あらあら、パパさん。粋がっちゃって」
「父親ですもの。そりゃあ、子どもの前でなくたって、ちゃんとした大人でいたいですよ」
困ったままの、素敵な笑顔。ずっと見たかった、お日さまの光。
なんて幸せなんだろう。わたくしだけのお日さま。心を照らし、温めてくれる。寂しさを忘れさせてくれる、わたくしだけの太陽。沈んでも、必ず訪れてくれる、再びの人。
ああ、我が愛しき人。出会ってしまった、わたくしの、運命の人。すべて、捧げたい。すべて、手に入れたい。そうやってずっと、一緒になりたい。ふたりでずっと、日向の中、お喋りしていたい。
ああ。我が愛しきオーブリー・リュシアン。わたくしは貴方を、いつの日か、貴方を。
喰べたい。
(つづく)
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・サバット(フレンチボクシング)
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・カーフキック
・青木大介
・村上晴彦
・片野英児
・STRIPPER / The Birthday
・涙がこぼれそう / The Birthday