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このゆびさきにふれないもの【後編】

 遅くなりました。

 原稿の改稿作業に思いの外時間がかかってしまい、前回の投稿から二ヶ月以上期間が空いてしまったことを先にお詫びします。大変申し訳ありません。

 前篇の方も数か所程度改稿させて頂いています。本編にはさして支障の無い部分ではありますが、若干不合理だった為、(自分の力不足のせいですが。)修正させて頂きました。もし興味をお持ちの方で、時間に余裕のある際にはこの機会に読み直してもらえると、より一層この作品を楽しんで頂けると思います。

 自宅の鍵は開いていた。

 叔母の勤める仲居の仕事は早番と遅番があった。旅館の仕事がどんなものか私は良く知らない。興味が無いわけではなかったけど、でも仮にそれを聞いてみたところで、叔母が素直に教えてくれるとは思えなかったし、テレビで得たくらいの漠然とした知識は私にもあったけど、もちろんそれだけのはずはなくて、本人に聞いたところで、「大した仕事じゃないわよ」と笑い飛ばすのが推察できたので、この八年間尋ねたことは一度もなかった。

「ただいま」

 靴を脱いで部屋まで向かう。水の音が台所から聞こえていた。

「お帰りなさい」

 叔母の声がその音に混じり合う。

「ただいま。今日早いんだね」

 台所を覗いて叔母の背に言った。

「今日早番だったから」

「何か手伝う?」

「大丈夫よ。ゆっくりしといたら」

 叔母は喋りながら横顔を見せた。

「お風呂は? 沸かそうか?」

「ありがとう、でも大丈夫。お風呂も洗っといたから、もう少しでお湯溜まるはずだから、先に入っちゃって」と笑って返した。

 叔母と私の間で、いつもしている会話がいつものように交わされる。私にはその背が大きなものに思えて、でもそれと同じくらいに、小さなものにも感じられた。

 部屋のベッドに鞄を投げる。

 それと変わらないほどの速度で自分の体もベッドに投げ込んだ。

 空気の抜ける情けない音のあとに、その重さを空色の布団が抵抗なく緩衝させる。現実にある重さを、可視化する重さを、肌に触れるものや数値化できる重さを緩衝し、私の重さを受け止めつつ支えながら、物理的に緩和する。肉体にかかる重さを、その圧力を、摩擦や衝撃を緩め、あらゆる痛みを和らげそして分散させる。前身に程好い圧を感じ、そこに熱がこもり始める。

 そのまま瞼を閉じた。

 暗い幕が視界を塞いだ。その幕はとても遠くにあった。でも自分の近くにあって、でもとても遠くにあった。その幕のせいで真っ暗で、全てが真っ暗で、吸い込まれそうなほど真っ暗な夜陰に覆われていて、もうすでに吸い込まれているようにさえ感じた。その幕をめくりたかった。たった一枚の幕を捲りたくて暗闇に手を挿し出していた。その幕の向こうが見えているのに、想像できているのに捲ることができない、手が届かない、足が動かなかった。ふれることができず、自分ではどうすることもできなくて、だからもう考えないようにした。だからもう考えないようにしていた。ただ流された、ただ流されて、ふれないようにして、意識しないよう毎日を過ごした。

 そのまま私は、こもる熱に吸い込まれ眠りに落ちた。

 …………。

 …………。

 冷気が肌をさわった。

 それで目が覚めた。

 視界は薄暗くて、部屋の景色が黒い輪郭で浮かんだ。寒い、眠っていた、暗い、夜? 寒い、日が落ちてる、何時? 寒い、寒い、そう思った。机の時計は横を向いて見えなかった。見えたとしてもこの暗がりでは見れたかな、そう思いながら身を起こして壁のスイッチを押して明かりを点けた。

 一度の瞬きで視界が開け、そのまばゆさにしばらく俯いた。黒い輪郭に色が着色される。部屋を照らす白い明かりが輪郭に色を与え、手ざわりを与え、奥行きを与える。天井には白い室内灯が丸く光っていた。その明かりは白く輝いていて、照射するその光に手をかざした。その光を介し瞳に反映するのは私の手で、当然だけど肌色をした私の手の平で、その光は白というより透明で、透明な光で、白い光でなく透明な光と表現するほうが正しように思えた。

 机の時計を見た。三十分ほど時間が経っていた。

 窓の外は暗く日はすっかり落ちていて、隣家の明かりがぽつぽつと目に付いた。目線を上げて空を見てみたけれど、室内の明かりのせいか、星明りは見えない。

 夕食まで時間があった。

 鞄を机に置いてカーテンを閉め、家着に着替え制服をハンガーに通してラックに掛けた。下着を持って脱衣所まで向かう。

 灯りを点けると、脱衣所の黄色い光が上空から直射する。

 鏡に立つ私はひどくやつれて見えた。

 髪に艶はなくなって纏まりすらなくなっていた。肌はキメや張りを失い、白さまで失って見えた。いや、失っていて。脱衣所の黄色い光が、透明な光がその喪失を助長する。

 美術室で見た麻衣の顔を思い出して笑みが零れた。

 鏡を通して目の前には麻衣と同じ顔が映る。

 そして衣服を脱いだ。

 そこには裸の私が映った。フィルターを外した剥き出しの私が映る。ありのままの自分がその鏡に反映していた。十四歳の私が、中学二年の私が、女である私が、人である私が目の前の鏡に反射する。黄色い光で反映していて。その目に私が映り込む。私の顔が映り込む。黄色い光で、いや、透明な光で映り込んで私の瞳に立っていた。

 その顔はあのときの麻衣と同じ顔をしていた。色々なものを失った麻衣の顔に見えた。鏡に映る麻衣と同じ顔の私は、やはり同じであって、でもやはりどこか別人だった。

 浴室の扉に手を掛けた。

 麻衣も悩んだりするのかな、麻衣と同じ顔の私は、でもそうじゃない私は、麻衣と同じ表情で、でも違う表情でそう思いながら扉を開けた。

 湯船に浸かると少しだけ気がまぎれる。

 温かな湯船に浸かり、毛穴から流れる汗が身体の中の老廃物を外に押し出す、とかなんとか、そんな話を昔何かで聞いたことがあった。テレビでしていた話しだったか麻衣から聞いた話であったか、はっきりと覚えてはいないけど、湯船の中に浸っているとなるほど、と思える。

 熱過ぎずぬる過ぎず、心地良い温度のお湯に身体を沈めていると、ゆっくりと滲む汗にそう思える。全身清らかになったように感じる。

 余りにも心地良いから、この心地良いお湯に老廃物も誘き寄せられるのかな、などと考えてしまっている。もちろんそんなことはありえないんだけど。でもそう思えるほどに、やっぱり心地良い。その心地良さに少しだけ気分が軽くなる。

 身体を洗い浴室を出ると、夕食の香りが脱衣所を埋めていた。

 春とはいえ夜になると空気はまだ肌寒い。

 鏡の前に立つと、鏡の私からは湯気が全身から湧き上がっていた。そこに映る私は生気を与えられたように見えて、それに黒いものが抜け出たようでもあって、頭の中は自分ものじゃないみたいに重たいんだけど、それでも鏡の中の自分はすっきりと見えていた。

 湯気が薄まると冷気が一気にさわり始める。バスタオルで体の水分を急いで拭って服を着た。

 髪の水分をもう一度丁寧に拭い取り、捻じれたコードをコンセントに差し込みスイッチを入れ、手早く髪を軽めに乾かしタオルを羽織る。

 台所からは物音がしていて、とき折り蛇口から水が出る音が聞こえては止まった。そしてお皿同士の擦れる音や、お鍋とコンロの擦れる音も聞こえてくる。

 コタツの上はまだ何も置かれていなかった。

 台所を覗いて言った。

「何か手伝おうか?」

「大丈夫よ、テレビでも見といたら」

 背中を向け叔母はそう言って、「欲しい時には呼ぶから座ってれば」

 水を出して付け足すようにまた言った。

 コタツのスイッチは入ってはいなかった。

 スイッチを入れ背中を丸め、手足を突っ込んだ。コタツの中はまだ冷たい。だけどそのまま、その姿勢のまま右手だけを出してそばのリモコンでテレビを点けた。

 テレビはやっぱり壊れていて、黒い画面から音声だけが最初流れた。その音は今流れているテレビの音声だけど、でもどこか違う場所から、ここではない別の空間から聞こえてくるようだった。

 少し遅れて液晶が色付くと、宛てもなく浮遊していた音が居場所を手に入れたように、画面の映像にピタリときれいに重なり合った。

 テレビからは男性の声がしていて、ニュースを読み上げている。画面の映像は外国だった。そこに映る男性も外国の人で、映っている場所も、瓦礫や壊れたビルが林立している。カメラに向けて喋っている言葉は英語でも日本語でもなく、私に理解できる言語ではなかった。それは翻訳され聞こえてはいても、その内容は判然としなかった。だけど深刻なのは瓦礫と表情だけで伝わってくる。

 瓦礫の中に映る男性と、ニュースを読み上げる男性ふたりが、互いに喋っている内容を私は理解できていない。いや、単に理解できていないとは違って、翻訳され、言葉として理解できてはいるけど、その内情を正しく把握できていない。画面の向こうでは今まさに戦争が起きている。それがテロなのか、あるいは紛争といわれるものか私には判らないけど、彼らはその戦争がどんな経緯で行われ、そしてその戦争でどのような被害が起きていて、そしてそれがどこまで拡大しているのかを懸命に見ている者に伝えてくれている。でも私はそれを見て、彼らの想いにどこまで親身に寄り添えているのだろう。瓦礫の中にいる男性のリアルな声と、そして今、何万キロも離れたテレビの前にいる私は、今日初めてこんな戦争が起きていることを知った。そんな私に、彼らの言葉を正しく理解できているはずがなかった。でも画面を通して、彼らが切実に何かを訴えているのを汲み取ることはできた。

 でもだからと言って、私にはどうすることもできない。何かを伝えたいことは距離を越えて伝わるんだけど、その距離が絶対で、色んな意味でゼロにはできない。その人は自分ではなくて、家族でも親戚でもなくて赤の他人だ。地球の裏側にいる人で、それは自分にはどうすることもできないことで、結局、違う世界のことに思えてしまう。

「怜ちゃん、配膳手伝ってくれる」

 叔母がひょっこり顔を出した。

 ようやく温まり出したコタツから手足を抜いて台所へ向かった。

 美味しそうな匂いが充満していて、その香りは居間全体にも漂っていた。でも台所だともっと強く香った。 

 叔母は左手に持つ大きな皿に、しっかりと煮詰めて味の染みた鰤の切り身と大根を一人前見栄え良く盛った。菜箸をお玉に変えて、中のおつゆを数杯回しかけ私に手渡す。

「はい、持ってって」

 私はそれをお盆に乗せて、箸立てからふたり分の箸とそばの箸置きも同じお盆に乗せた。下に引くランチョンマットを探したけど見つからなくて、だから叔母に尋ねた。

「ランチョンマットは?」

「汚れが酷かったから洗っちゃってる。あれなかなか乾かないし、明日新しいの買ってくるから、今日はそのまま配膳してくれる?」

「わかった」

 居間のテーブルを片し台拭きで拭いて、叔母の座る場所、私の座る場所それぞれに箸を並べて、叔母のところに料理を置いた。

 テレビの映像は切り変わっていた。画面は外国ではなくなっていて、今朝見ていた結婚報道が一音一句変わることなくそのまま流れ出していた。

 台所で小机に置かれたもうひとり分の大皿と、そばに置かれた小鉢の白和えにサラダもふたり分、お盆に乗せ居間のテーブルに配膳した。

「ありがとう怜ちゃん」

 背後から声がして、叔母は持ってきたご飯と味噌汁を、私の置いた小鉢や大皿の隣に微かな音を鳴らして並べ、また台所へ戻った。

 流しを片す叔母を少しの間待っていた。コタツに手足を入れる。中はすでに温まっていた。

 台所を片し終え、叔母が座るのを合図に手を合わせ食べ始めた。

 今朝の結婚報道を繰り返し見ていた。朝の会話がそのまま持ち越され、たまに叔母が職場での出来事を織り交ぜた。その話に相槌を打って、たまに答えながら、たまに問いかけながら箸を進めた。

 今朝の話がしばらく続いて、その話が落ち着いた頃、学校のことを叔母に切り出した。

「洋子叔母さん、今度学校建て替わるんだって」

 唐突な話題に叔母は一瞬表情を止めて、戸惑いつつも口にする。

「そうなの? あぁ、けどそうかも。あの学校も相当古いから」

「うん。見ててそう思う」

「でしょ。私が通ってた頃から古かったもん」

「何年ぐらい前だっけ?」

「卒業して二十年くらい経つかな」

「私産まれてないね」

「言われてみればそうだね。もう二十年かあ。あの頃から古かったな。あの校舎台風来ちゃうと大変でさあ。風の勢いで建物軽く揺れちゃって、しかもその影響でギシギシ音もすごくって、授業中先生の声が聞こえなくて苦労してた」

「それ今も。台風のとき凄い音してる。先生によってはメガホン使って喋ってる」

「そうそうッ。そういえば私の頃もそんな先生いた。聞こえ易くて助かるんだけど、あまり気分良くないんだよね、あれ。怒られてる感じがしてさ。それに職員室の引き戸。建付け悪くてなかなか開かないんだった。今はどう?」

「それも変わらないみたい。私あまり行かないからよくわからないけど、でも職員室の扉片方開かないって友達が話してた」

「やっぱり。あれまだ直してなかったんだ」

 叔母は呆れた表情で口にした。

「揺れると言えばさ、怜ちゃん。学校で地震があるとき机の下に隠れるでしょ」

「うん。隠れる」

「それでね、実際に起きてる地震は小さな規模なの。震度二程度の小さな揺れなんだけど、でも建物は四か五ぐらいに結構な動きで揺れてね、そのたびに倒れるんじゃないかって毎回ヒヤヒヤしてた。古い建物だしどうしようもないことだけど、やっぱり怖いよね」

 叔母の言葉どおり確かに揺れた。地震自体滅多に遭遇はしないけど、でもこのまま倒れてしまうんじゃないかと思えるほどに、地震のたびに校舎は大きく揺れた。私が初等部五年の頃、一度大きな地震があった。校舎は軋む音を響かせ前後左右に長い周期で揺れて、そのときはそのまま校舎ごと潰れてしまうんじゃないかと思え、ハラハラしながら机の下に丸まっていたことを思い出した。古いし木造だから当たり前のことだけど、その直後すぐに学校側が業者に依頼し校舎の一斉点検を行っていた。当時は先生や彼らが、必死に何をしてるのかさっぱり解らなかったけど、今ならその必要性も理解できる。あれから三年近くが経過するし、建付けの悪さも含め、麻衣も言ってたことだけど、あの校舎は建て替る時期を迎えているのかもしれない。

「そうだ怜ちゃん。教室の柱だけど、落書きがいっぱいしてあるでしょ?」

「どうだろう、気が付かないな」

「怜ちゃんはあまり興味無いのかもしれないね。でも面白くてね、あの頃の男子って思春期って言うのかな? 怜ちゃんくらいの男の子って変わってるのよね。あるとき休み時間にさ、教室の柱に男子が数人でマジックで落書きしててね、あとで気になって見てみたんだけど、そしたら【○○ちゃん大好きだ~】て結構大きめの文字で書いてあってさ、そばには携帯の番号にメールのアドレスまで記されてたんだよ。お姉ちゃんとふたりで男子って本当バカだよねって話してた」

「何それ、面白い」

「随分昔のことだし、そんなこと今はしないだろうけど、でもあの頃の男子って何でああなんだろう?」

「それ少しわかるな。男子ってどうしてあんなに騒々しいんだろう」

「だよね。ほんとそうなの。でも何だか忘れちゃってたな。学校の話してたら昔を思い出しちゃった。私も二十年前、怜ちゃんみたいに制服着てあの学校に通ってたんだよ」

 そう言われ叔母の中学時代を想像してみた。してはみたけど、その姿がいまいち私の中で明瞭にイメージ出来ずにいた。

「そっか。あの学校とうとう無くなっちゃうんだね」

 叔母が当時を懐かしむように言うと、その言葉が気配を反転するよう空気の質を少し物悲しいものへと変える。

「けど無くなるわけでもなくてね、建て替わるんだって」

 それを打ち消すつもりで返した。

「へぇ~、どう建て替わるの?」

「それはまだ教えてもらってなくて」

「そう。でもしょうがないことなんだろうね。あの校舎も古い建物だし」

「うん。そうかもしれない」

「あの学校ね、私がいた頃に築八十年とか聞いたことあるの。だから今は百年以上経ってるんじゃないかな」

「見ててそんな感じがしてる」

「何だか寂しいよね。建て替わるだけとはいえ、今の校舎が新しくなるわけでしょ」

「そうみたい」

「それってさ、今の学校とは変わってしまう、てことでしょ」

「うん」

「それってやっぱり、無くなっちゃうのと変わらない気がするな。私には」

 それに無言で頷いた。

「まだ詳しいことは知らされてなくて、学校から貰ったプリントに書いてあったの。あとで持って来る」

「わかった。目通しとく」

 心寂しい空気がそのまま漂い、その後もテレビを話題に箸を動かした。結婚報道が終わると政治や経済ニュースが流れ出し、男性の硬質で抑揚の無い声の隙間に分け入るように、叔母の思い出話がときどき挿し込まれた。

 食事をすませ、叔母にプリントを渡すと自室に戻った。

 鞄の中身を明日の授業と入れ替え終えると、勉強しようと机に座る前に、イーゼルと呼ばれる木製の三脚に自然と手が伸びていた。

 私は洋子叔母さんの実家に住んでいる。

 事故で両親を亡くしたことをきっかけに、単身住んでいた叔母も借家を引き払って、母の実家、なので洋子叔母さんの実家でもあるこの家でふたり一緒に住み始めた。

 あの事故から八年が経った。

 飛行機事故で両親を亡くし、その後母を追うようにお婆ちゃんが亡くなった。それ以来父の親戚とも疎遠になってしまって、家族と呼べる人は実質的に叔母だけだった。

 あの日私を置いて旅行に出掛け、帰ってきたとき、ふたりの身体はなくなっていた。それは父ではなかった。母とは違った。

 目の前のカルトンと呼ばれる画板と似た画材には、木炭紙がクリップで挟まれ、イーゼルに立てかけられている。その左上には、両親の写真が同じクリップでカルトンに止められている。

 その写真はどこで撮ったものかはわからない。

 その写真には私が写っていないので、私が生まれる以前の写真であることはわかった。だけどその写真がどれくらい前に撮影されたものかはわからなかった。写真には日付けの印字もなくて、写る背景にはそれを示すような情報も見当たらない。空、そして下の方に掠めるように写る海? と思しき群青色の何かが、白いものを散りばめ写り込んでいる。上半身だけ写るふたりの顔は穏やかな笑みを浮かべていて、私の記憶の顔と同じようにも思えるし、でもどこか、違っているようにも見えた。

 この八年間でふたりの顔は薄らいでいた。

 それが良いことなのか悪いことなのかはわからなかった。けど何かを止めたかった。それだけは確かで、零れ落ちる何かを止めたくて、その隙間を塞ぎたくて、その感覚は八年間消えることはなかった。

 真っさらの白い木炭紙に鉛筆をすべらせる。

 構図を整え線を描いていく。鉛筆を動かして、一本の線を曳いていく。純白で無地の、白い紙に一つ一つ、一本一本強く深く刻むように、そして丁寧に丹念に、その一つ一つを、一本一本を何本も重ねて、何十本何百本と重ねて、無数に重ね合わせてその輪郭を目の前の紙に、自分の中に浮かび上がらせる。

 カルトンの左上、クリップで止まる写真を見て、そこに写るふたりを見る。父を見て、母を見て、ふたりの全てを見てそこに描くのだけど、だけど見えてくるものは、徐々に浮き出てくるものは違うもので、似ているけど違うもので、同じのようで同じじゃなかった。描かれた父は父ではなくて、それは母とも違って、空っぽの形骸で。そうしていつものように何かが、毎日何かが、手から指から線から、輪郭から、いや、違う、埋まらない何かから、ぼろぼろと音を立てて、音を感じて零れ落ちた。

 眠くはなかったけど、いつもの時間にベッドに入った。

 不思議だった。睡魔はいつものようにやって来た。浮かぶように、だけど沈むように、緩慢に浮遊して、底に、中に、ゆっくりと落ちた。吸い込まれた。

 …………、

 …………、

 夢を見た。

 俯瞰していた。だけど私だった。

 昔の記憶なのか、イメージなのか、あるいはその両方。なのかは判らなかった。あやふやだった。

 布団で寝ていた。この家だった。

 声がした。母の声に。父の声がしていた。

 鼓膜を介さず頭の中に直接響いて、それは音声ではなく映像として、聞こえた。

「お母さん、怜子のことお願いします」母の声がした。

「ご迷惑お掛けして本当にすいません。お義母さん」父の声も聞こえた。

 そしてお婆ちゃんが言った。「いいのよ、気にしないで楽しんできなさい。でも怜ちゃんも可哀想。こんな時に体調崩すなんて」

 すると母が、「本当に間の悪い子なんだから。だけど病状も大したことないみたいだし、すぐに良くなるはずだから」

 私の額や頬をなでて、また、「この子はもう、なにもこんな時におたふく風邪にかからなくてもいいのに…」

 と、言った。その言葉には笑みが見えた。優しさが見えた。寂しさが見えた。見えてはいなかったけど、そう思った。その声にそう感じた。

 お父さんが言った。「お義母さん、本当にすいません。三日ほどで戻りますので、どうかよろしくお願いします」

 お婆ちゃんが、「こっちのことは気にしなくていいから、楽しんできなさい」

 そう言ってふたりを送り出した。

 夏だった。昔の記憶だった。

 縁側に近い畳の上に寝ていた。布団の中で寝ていた。

 熱かった。頭が重かった。身体が重かった。気分が悪かった。頬が痛かった。苦しかった。しんどかった。

 お婆ちゃんが団扇で仰いでくれていた。

 縁側からは外が見えた。空が見えた。青い空が見えていた。小さい何かが、白い雲を真っ直ぐ伸ばして飛んでいた。

 それは飛行機だった。それは旅客機だった。

 それはイメージだった…。

 でもやっぱり、 あやふやだった…。

 …………。

 …………。

 目覚めは悪かった。

 夢の中をそのまま持ってきたように、そっくり持たされたみたいに頭が、体の全部が重かった。

 時計を見たらいつもより早い時間に目が覚めていた。でも少し早いくらいでいつもとそんなに変わらなかった。

 台所から音がして、叔母が起きてることに気付いた。

 気分が冴えなかった。熱いシャワーを浴びるため浴室に向かった。

 叔母に挨拶をして脱衣所で服を脱いだ。

 朝の冷気が肌を敏感にした。刺激した。電気は点けなかった。少し薄暗かったけど、視力は確保出来てたし、点けようとは思わなかった。

 鏡には私が映る。鏡の私は白い身体に血色の悪い顔が青白く乗っていた。その顔はいつもの私の顔だけど、でも毎朝見る自分のものとは違って見えた。

 扉を開け浴室に入る。

 硬質で異質な冷気が肌に追い打ちをかける。

 空気のおもりを祓うように勢いよくコックをひねった。

 狭く白い空間が埋め尽くされる。水で、冷気で、冷たさで、刺激や音で埋め尽くされて、ゆっくりと変わる。お湯に、湯気に、温かさに、肌ざわりに暖かく、心地良く変わっていった。重さが軽さになって、寒さが暖かさに変わる。シャワーを浴びて少しだけ気分が良くなった。

 浴室を出て今度は電気を点けた。

 脱衣所の黄色い光が、透明だけど黄色い光が、私の姿を鏡に映して、その光が鏡を透して私の瞳にその姿を映した。そこにはいつもの顔があった。私の毎日の顔がそこには映る。血色の良い桜色の肌に火照った顔が乗った、いつもの私がそこには立っていた。さっきの私はもうどこにもいなかった。

 いつものように体を拭いて髪を乾かし整える。鏡の自分にラッピングする。鏡に映る私に、それを見ている私に、そう思っている私に余所行き用の自分を被せて、同じ顔に、だけど違う顔に作り変える。

 部屋に戻りラックの制服を取って、今の自分に袖を通す。今の私は大人、とは違っていて、だからといって子供、とも違う。そんな私がそれを象徴する服を、この皮膚に地肌のように馴染む服を、中途半端な私が、埋まらない私が、埋めようとしている私が身にまとった。

 そしていつものように流れる朝の番組。

 それを見ながら叔母と朝食を食べる。

 毎日決まった時間に同じ番組が流れ、毎日変わらない時間に流れる占いを見た。今日は六位だった。昨日と同じで、それほど良くもなく、だからと言って悪い内容ではなかった。同じように決まった時間に流れる天気予報も、見たのは昨日とは違う番組のものだけど、前日とさほど変わらなかった。お日様のマークがいくつも並んで傘は必要なさそうだ。

「お弁当できてるよ。それと今日は遅番だから遅くなるから」

「わかった」

 鞄に細長い弁当箱を入れて、重い鞄を抱え家を出た。

 いつものバス停で麻衣と落ち合う。

 登校するかたわら麻衣が聞いてきた。

「ユッコ、あの俳優結婚するんだって。知ってた?」

「知ってる。昨日テレビでやってたよ」

「私昨日の朝、天気予報と占いしか見てなくてさ、帰ってから知ったんだよね。ちょっと意外でさ~」

「叔母さんショック受けてたよ。凄い人気らしいね」

「そうみたい。きっとさ、顔もそうだけど、あの体格がいいんじゃない。筋肉がいっぱいついてるじゃん。きっとそこがいいのよ。て言ってもユッコにはいまいち伝わんないんだろうな」

「うん。私細身の方が好み」

「でしょ。ユッコってそうだよね」

 麻衣は笑顔でそう言った。

「相手の女性妊娠してるらしいよ。たしか六ヶ月だったかな?」

「知ってる。それにお腹の子女の子なんだって、ふたり共超超超の付く美形だしさ~、そのふたりの子供だもん、きっと可愛いよね。あぁ~私も川上先生との子供欲しい~」

「何バカなこと言ってんの。麻衣まだ中学生じゃん」

「そんなの関係ないよ。ニュース見てて欲しくなっちゃったんだもん」

「それこそ生徒と先生の禁断の恋になっちゃうよ」

「全然イイじゃん。先生と結婚できるんだったら私、何でもしちゃうな。だいたいさ~、何で十八才でなきゃ結婚できないの?」

「それは知らないけど…、でも麻衣。川上先生と結婚できるわけないじゃん。先生はもう結婚してるし奥さんもいるんだよ」

「そんなのまだわかんないじゃん。別れる可能性だってあるわけでしょ」

「それはそうだけど…」

「でしょ。私はまだ諦めてないんだから」

 麻衣は鼻息を荒くして言った。

「麻衣って変わってるよね」

「そう?」

「だって、昨日の朝あんなに私のこと言ってたのに。しかも歳の差だって凄いじゃん」

「それはそれでしょ。川上先生は全く怪しくないし。それに年齢だって大したことないよ。先生は三十で私十四でしょ、たったの十六じゃん。普通だよ」

「そうかな?」

「そうだよ。普通だよ普通」と返してから数秒後。

「んん。ふぁあぁ~ぁあ~、んぁ」

 鞄ごと両手を持ち上げ、麻衣は後ろが見えちゃうくらいに背を反るように引っ張って、大きな欠伸をひとつした。

「ごめん、最近寝つき悪くって」

「大丈夫?」

「うん、平気」と言ったあと、「あっ、ユッコそう言えば…」

 と麻衣が聞いてきた。それだけでわかる。というより解った。

「お弁当なら持って来てるよ」

「そっか、ならいいや」

 二年になってクラスが別になっても、お互いパンのときにはふたりで一緒に美術室で食事した。きっかけはパンを買いに行くとき、売店で顔を会わせたからだった。お互いパンであることは少ないけど、売店で居合わせ、一度一緒に食べたらそれがふたりにとって自然と決まりごとになっていた。

「昨日は売店で買って食べたけど、麻衣は?」

「私今日パンなんだけど、ユッコと一日違いじゃん。ちょっとショック」

 そう言って小さな口をあひるみたいに可愛く尖らせる。

 彼女のことは大抵理解ができた。

 もちろん全てではないけど、麻衣の言葉を最後まで聞かなくて言いたいことが解るときがあった。さっきもそうだった。でもどうしてあの言葉だけで意思の疎通が麻衣とできたのか、自分でも不思議だった。

 麻衣の言った、「あっ、そう言えば」と言う何気ない言葉の中には名詞はおろか、お昼を表す言葉も、昼食を表す言葉もお弁当も、勿論パンを表す言葉も入ってはいない。当然だけど、ふたりだけに通じる隠語とかとも違って、お昼やお弁当、パンを匂わす比喩めいた言葉でも全然なくて、これはあくまで私の想像だけど、麻衣の頭の中で、麻衣の感じた何かがそのとき、その瞬間ふっと湧き上がって、それがそのまま意識になって、疑問になって、文字の持っている普遍的な意味で麻衣の頭の中で文章となって、言葉となって、そのまま麻衣の口からアウトプットされたものだと思う。

 それを聞いて私も、「お弁当なら持って来てる」と返したわけだけど、それは私の中で、麻衣の言葉を聞いた瞬間、なぜかわからないけどそう感じた。そう思った。麻衣の言葉を聞いた直後、私の頭の中で感じた何かが瞬間的に湧き上がった。それを認識した途端、学校─お昼─売店─美術室─一緒に食べてる姿、そんな映像のようなものに変わって、一瞬で。いや、少しだけ、ほんの少しだけずれながら、でもほとんど閃光のような速さで一瞬で走り抜けた。瞬く間に消失して、だけど名残りだけが残って、そのままそれが意識になって、問いかけになって、答えになって文字として、言葉として、普遍的な意味と、だけど麻衣だけの隠語として私の口からアウトプットされたわけだけど、そのきっかけが何だったのか不思議だった。それは麻衣と私に通じる何かのはずで、ふたりだけの何か。それが芸能人の結婚報道なのか、朝から連想されイメージされたものか、毎朝見る占いから湧き上がったものかは判らないけど、もしかしたらそれらは全く関係なくて、奇跡的な偶然だった可能性も十分にあるんだけど、それでも理解し合えたのは確かで、そのときは意志が通い合っていて、間違いなく私達は通じ合っていた。それは紛れもない事実で、その理由がなんであれ、このことは麻衣との八年を証明していた。

 私達はいつもの時間に学校に着いた。

「おはよう。小川さん」

「あっ、おはよう上田さん」

 麻衣と別れたあと、教室に向かう廊下で上田さんと偶然会った。

 そろって教室に入り、鞄を机に置いて教科書を入れた。来る時間に関わらず、教室を埋める賑わいは昨日と変わらない。溢れる声に混じり上田さんと始業のベルを待った。

「小川さん。今日はお弁当だね」

 そんな話題を突然振られ戸惑った。

「何でわかったの?」

 凄く不思議だった。

「ごめん。驚いた? さっき鞄の中身がちょっと見えたんだ」

「ちょっとびっくりしちゃった。そうだよ。今日はお弁当。上田さんは?」

「わたしもそう。小川さんところはお母さんが作ってるの?」

「ううん。叔母さんが作ってるよ」

「? 叔母さん?」

「そう。上田さんのところは?」

「え? わたし? わたしは自分で作ってる。今日のは弟達のお弁当を作ったあまりなんだけど」

「上田さん弟がいるの?」

「うん。わたし初等部に弟がふたりいるんだけどね、弟達のお弁当、わたしが作ってる」

「本当に? すごいッ。そう言えば今週月の真ん中だもんね。うちの初等部変わってるよね。基本は給食だけど、月に一回お弁当の週があるんだもん」

「わたしも始め驚いちゃった。最初知らなくて、聞いてときびっくりしちゃった」

 うちの初等部は昔から、各自お弁当を持参する週が月に一度設けられていた。そしてその活動は小学校全体で見てみると数も少なく、行っている学校はなかなかに珍しいらしい。

「でも上田さん偉いね。もしかして毎月?」

「うん、毎月。それに朝ごはんも毎朝作ってる」

「それって大変じゃない?」

「そう言われると大変かも。朝は早く起きなきゃいけないし、それに大きな音も立てられないから色々苦労もするけど、でもわたし料理が好きだからかな、あまり気にならないな」

「立派だよ、上田さん。感心しちゃう」

「そんなこと…、ただ料理が好きなだけ。料理してると気が紛れるし」

「ううん、凄いよ」

「小川さんの家は叔母さんが作ってるんだね。聞いたときちょっとびっくりしちゃった。お母さんは? 具合でも悪いの?」

「違うよ。そんなんじゃなくてね、私が小さい時に父親も母親も死んじゃって」

「えっ…、ごめんなさい。わたしてっきり…」

「気にしないで。別に隠してるわけでもないから」

「でも…、知らなかったなんて理由にならないよ。本当にごめん」

「平気だよ。大丈夫」

「ううん。自分でも謝って済む問題じゃないのはわかってるんだけど、でも、ごめん…。」

「いいよ別に。全然気にしてないから、安心して」

「うん…。ありがとう。本当にごめんなさい」

 上田さんは相当落ちこんでいた。

 そのあともふたりで話し込んだ。彼女は徐々に明るさを取り戻し、好きなお弁当のおかずであったり、売店のパンの話であったり、星座の話であったりと、ちなみに上田さんは乙女座だった。そんな他愛もない話で盛り上がる。上田さんに肩を叩かれ、誘導されるように彼女の机の横を覗くと、バックを掛ける金具のそばに、可愛いクマをあしらったマスキングテープにピンクのサインペンで描かれた落書きがあって、それでも話が膨らんだ。そこには私達が日頃使わないような言葉で、【マジ激ヤバじゃないッ! めっちゃ神ってるんだけど。なかっちッ‼ 】とマジックで描かれてあって、「これ何かな?」「前から貼ってあったんだ」「多分女子だよね」「なかっち、てなに? 人の名前かな?」上田さんとそんなやり取りから始まって、最後は映画や本の話にまで進展していった。

「その文字ってすごく頭に残らない? 言葉の流れっていうのかな、音の持つ波形みたいのなのが心地良くて」

 と私が、誰が描いたかわからないその文の言葉の使い方というか、文章の洗練さをその場の雰囲気で、感じたままに称賛したら、それに上田さんも、「それわかる。音の響きみたいなのがすごい良くて、言葉もユニークだし、いつまでも耳に残るよね。でも小川さん。私前から思ってたことなんだけど、」と彼女は少し恥ずかしそうに前置きを入れてから、「すごく物語性みたいなものを感じない?」と私の意見に賛同しつつ返してくれた。

 様々なイベントをふらふらと辿って、最後は待っているエンディングへと辿り着く。そんな映画のような物語性? みたいなものを彼女はその文章から感じないではいられないらしい。

 一個一個の単語イベントを巡りながら、最後は末尾の固有名詞?(エンディング)に行きつき完結する。確かに言われてみればすごく物語性? と表現していいのかわからないけど、でもプロセスを経ての結果。あるいは道理や筋道。みたいなものをそこに感じないでもなかった

 もちろんその文章がどんな状況を表しているのか解らないし、そこに描かれた文字は私や上田さんが進んで口にする種類の語彙とは違っていた。それに決して誉められた言葉の使い方ではないのかもしれないけど、だけどそのシステムというか、構造的な造りが映画や本などに近しいものを確かに感じたし、それに感性を直接射抜いていく言葉の選び方がとても愉快で、あまり中身のない大して為にならない話の内容ではあったけど、でも彼女とそのことについて熱を入れて語り合った。

 そして私と上田さんはやっぱり似ていた。私は朝早く起きて誰かのために料理などはしないし、それに彼女ほど几帳面じゃないかもしれないけど、でもそれとは別のフィーリングや感性といったそんなものが似ていた。それを今日話をしてみてより一層感じることができた。そして上田さんもあの売店のツナサンドが好きだった。飲み物も同じでやっぱり豆乳を買うらしく、その話をした瞬間、私と上田さんのテンションは急激に上昇した。


 しばらくすると、いつもと変わらない一日が始業ベルを合図に始まった。

 授業開始と共に、クラスの誰もが言葉も発さずノートにペンを必死に走らせながら、朝から夕までみっちりと先生の字と言葉に、目と耳を傾ける。

 当然だけど私には、というよりここの生徒全員そうだろうけど、先のことは不可知だ。将来のことは誰にもわからない。それなのに私達は漠然とした予測に向け毎日学習する。そこに意味があると思い込んで、狭い机と黒板にだけ意識を集中させている。でもそこには何の根拠も存在していない。だけど叔母の言葉、先生の言葉、世間の言葉で自分を鼓舞して日々学習する。教育機関で学ぶ必須である教科全て大人になるため必要なのだろうけど、でもどう必要であるのか解らないままに、いずれ大人になると理解できるんだろうけど、でも今は何も解らず目隠しされてる状態で、それが必要であると錯覚しながら先生の話に耳を傾け、教科書に目を通して黒板の文字をノートに書き込んでいく。

 自分のしていることに目的などあるのだろうか? 書き込まれたノートを見て思う。あるにはあるんだろうけど、そう無理に自らを納得しても、頭の中は捉えようの無いもので満たされていた。いまいちはっきりとしない、大人になるという明確にイメージできない目標、でもそれが今を生きるということであって、私の存在理由の一つでもあって、私が生きている目的の一つだ。それが今の私の大部分を占めてるのだろうだけど、でもそれは麻衣も上田さんも一緒だ。このクラス全員そうであるかはわからないけど、生徒の大部分を占めているのは間違いなくて、それを学ぶことで毎日が過ぎていく。意味の解らないことに理由を付けて、その作業を淡々とこなして、一秒、一分、一時間と時が経過して、そして一日が過ぎて、一年が流れていって、年々歳を取っていく。大人になっていく。

 誰にも先のことはわからない。今の私は今の自分にだけしか理解できないものだ。少し前のこと、少し先のことを回想し考察したところで、それは今の私が過去や未来を想像しているだけで、それを巡らせてるのはあくまでも今の私だ。今ここで、座って授業を聞いている私で、それはその時々の場面ごとに存在している私とは違う。この先の人生には高校生の私、大学生の私、社会人の私、結婚している私や子育てしている私もいて、それぞれの未来で生きる私の抱く意思や考えは、同一である自分でさえわかるものではないし、それにこれから先、どのような人生を送るのかすら今の私にはわからない。

 今私の中にあるもの、今の私を構成している形、というか器、というべきそういうもの。それ自体は直接目では見えなくて、自分を意識すること、自分を認識すること、自分を理解しようとすること、総じて感じることになるのだろうか、そうすることでしか実感できないいものだ。

 当たり前のことだけど、それは他人には直接ふれることはできないもので、私、という肉体を介して初めてふれることができる。網膜に映る私、声帯を震わせる声、刺激を与える身体、今を認識している私、という存在が発する言葉で、表情で、仕草や態度でしか理解できないものだ。そこには他人が知る自分がいて、知らない自分もそこにいる。意識する自分、無意識の自分、複数の私がそこにいて、それらの私が年を重ね濃度を変えて、経験するごとに小さく大きく、薄く濃く変わっていって年齢を積んでいく。

 その形はその時々で毎回違う。それは中にあるもの、経験したもの、経過した時間が違うのだから当然なんだけど、今の私、机に座り授業を受ける今の私には今現在の私の形があって、向かいくる時間でその中身を取捨しながら自分を形作る。その中身は過ぎる時間の経緯で、喪失もすれば新造されるものもあって、経験ごとに甘美になるものもあれば、苦渋に変わるものもある。その濃度も時と共に変化する。そうやって自分を構成しているものを膨らまし成長させる。基本的には膨らむもの、成長するものだと私は思う。経験によっては縮んだり、退行することもあるんだろうけど。

 そこには麻衣と私だけの形もあって、叔母や上田さんとの形も、そしてもちろん自分だけのもあるんだけど、それに私と父の形もあって、母との形も存在していて、それらの形も時間と共に変化する。増減して濃淡がついて、喪失して新たに作られ、そうして今の私が変わる。今の私で無くなる。そして少し前の自分にはもう二度と、戻ることはできない。

 今の私は今までの私でできていて、今まで選んできた、選ばされてきた選択の結果が今の私なんだけど、戻れない自分に大事な何かがあるようで。振り返れない過去に、置き去りのまま、埋まらない何かが残っているようで、あの頃の想いに、あの頃の自分に戻りたくて堪らなくなる。父と母がいた頃に戻りたくて、でも戻れなくて、それでも一日はやってくる。日は昇り日は沈み一日は流れる。私の形は一日一日姿を変える。今日の私を、昨日の私を置き去りにして。大事なものを零れ落としながら、でも大きく膨らんで、形を変えていく。ぼろぼろと零しながら、ふたつの隙間から、塞がらない隙間から、父と母ふたりと、叔母との隙間から音を立てて、音を感じて毎日が零れ落ちた。

 毎日記憶が改変される。戻りたい過去が、戻りたい自分がどんどんと遠ざかる。段々薄れていって。そして無くなっていく。

 だから絵を描いた。薄まらないように、無くならないように、ふたりを描き続けた。留めておくため白い紙に鉛筆を走らせ続けた。

 そうすることしかできなかった。

 放課後、美術室で絵を描いていた。

 隣りには椅子をひとつ空けて麻衣が座っていた。

 椅子はまるく並んでいて、部員が座って手を動かしている。そのまるは綺麗な円じゃなく少しいびつで、部員が思うままに座って思うままに歪んでいて、その中心のモチーフを見つめる。部員各個のモチーフを、だけど自分だけのモチーフを見つめ、手元を見つめ、木炭紙を見つめる。鉛筆の先、その線を見つめ、一本一本の線を、束になったひとつの線を見つめ、その中から輪郭を見つけ出し、自分だけのモチーフを描写する。

 テーブルにある一つの器。

 淡い紫色のマグカップ。そのカップの陶器の冷たさを見つめ、硬質な滑らかさを、丸みを帯びた呑み口を見つめ、少し大きな取手、色の白いカップの底を見つめ木炭紙に描く。

 音のない空間で、音はあるんだけど聞こえていない、認識していない空間、それは自分だけの空間であって、自分だけが存在している空間だ。その空間は皆が共有する教室でもあるんだけど、自分だけの教室でもあって、その教室の自分だけの空間で、目の前のモチーフを、淡い紫色の普遍的マグカップを、主体的に見つめ線を描いていく。

 線がいくつも合わさって輪郭となる。そのモチーフの、マグカップの主線。言わば骨格となるもの。外形みたいなもの。外殻。外核。

 鉛筆の黒い線。異様に角ばっていて尖った黒芯から伸びるひとつの線。一本の線。一ミリもない、まだ細い十分の一ミリほどの黒い線をいくつも重ねる。その黒鉛と粘土で出来た黒い線を木炭紙に描いていく。ひとつの線を、黒い線を、黒鉛と粘土の混ざったもの、ふたつを練り込んだもの、練り込まれたものを白い紙に写す。移した。一本一本、一ミリにも満たない細い線を木炭紙に描いて、何本も描いて積み重ねて刻んでいく。そして削る。整形する。

 練りゴムで、白い消しゴムで無駄なもの無くしていった。無駄なものを省いて捨てて、無駄ではないもの、必要なもの、そう思わされてるもの、大事なもの、そうではないもの、よく判らないもの、解ろうとしないもの、色々なものを消していく。消していった。

 そうして主線ができていく、骨格ができていく。外形、外殻、外核ができていく、そのようなものができていく。自分だけの輪郭ができていく。そこにを描写する。淡い紫を、硬質な滑らかさを、反射する光を、陶器の冷たさをそこに描写する。黒い線で、細い線を無数に重ね自分の色相いろを描いた。

 そうして描き上がったもの。描写されたものは共有しているモチーフで、だけど私だけのモチーフで、淡い紫色の、普遍的な、だけど主観的なマグカップだ。陶器のように冷やかで、重厚で硬質だけどシルクのようにきめ細かく滑らかで、呑み口はふくよかに優しげで握りやすい大きな取手、発色の違うカップの底、微かな光の反射、淡い紫色が白く光を反射する。黄色い光を、左から射す黄色い西日を紫のマグカップが、白く反射する。

 それは自分だけのモチーフだ。自分だけが見ている、自分だけが感じているモチーフで、淡い紫色の自分だけのマグカップだ。

 でき上がったその絵は、描き上がったそのモチーフは私に似ていた。いや、私だった。何もかもが同じで、私のように同じで、マグカップが、私が、まるでマグカップのように、まるで私のように空っぽだった。空洞だった。空白だった。欠落していた。

 学校から帰ると玄関には鍵がかかっていた。

 財布から鍵を取り出し家に入った。引き戸を開く音、閉める音、ガラガラと響いた。やけに大きく、いつもの音だけど、いつも聞いている、いつもと変わらない音だけど大きかった。大きく聞こえ響いた。そしていつもの玄関が、いつもの廊下が、いつもの居間が、自分の部屋が、違うものに見えた。いや、感じた。いつも以上に暗く寒く異質に、別なものに、自分とは違うもの、無機質なものに見える。思える。感じた。

 家に叔母はいなかった。鍵がかかっていたから当然だけど、「今日遅番だから遅くなるから」と言っていた叔母の言葉を思い出した。鍵を取り出す時に思い返していた。今朝そう喋ったことを思い出して鍵を開けて家に入った。

 いつもの家、住み慣れた家、だけどどこか違う、違う自室の机に鞄を置いた。

 自分の家が、自分の住む家が自分の家とは思えない。我が家だと感じない。叔母さんの家だしそれは当たり前のことだけど、それだけじゃなくて、そんな当たり前とは違うもの。視覚や聴覚で理解できるものではなくて、他人に理解し得るものではない、そんなもの。表面上に表れない深度の深いもの、奥にあって根深いもの、根本的なもの、明らかに質の違うなにかが肌にふれてくる。他人には理解できない、自分にしか解らず認識できない、そんなものが私にふれて。そしてなじんだ。とけて沁み込んで。無形であって目視できない、触れないんだけど、聞こえないんだけど確かに匂って、そこに存在を感じて、それはこの部屋で感じた。居間や台所で感じて、この家全体に漂っていて、学校で感じて。いや、それは確かに正しいんだけど、でもそうではなくて私に、自分にしかわからない私に、空っぽの私の中に感じていて、存在していた。表面に表れ漂っていた。

 押入れからアルバムを出した。

 かなり昔のものだった。表紙は裏も表もすっかり色褪せていて、表面のビニールは所々が紙から剥がれ乾燥していた。パリパリになっていた。部分的に破れも目に付いた。

 なぜそう思ったのか不思議だった。なぜ見たくなったのか、なぜアルバムを見ようと思ったのか理由を考えてみたけど、しばらく考えても全く解らなかった。ふと思ったことだった。ふと思い付いたことでそこに理由なんてないかもしれない。そう思うことにした。

 ふれた指に髪より薄いガラスのような、氷のようなビニールとは思えない微かにだけど固い、だけど頼りない感触が指の腹にふれる。ほんの些細な圧でビニールはちぎれた。そのぶん表紙の破れがひどくなってしまってさらに慎重に扱いながらも、私のめくる手が止まることはなかった。見るのを止めようとは思わなかった。

 テレビや映画で見るような、全体に薄黄色い色の透けた写真が数枚並んでいて、その右上の一枚に目が留まった。

 母だろうか? 赤ちゃんが女性の手に抱かれ写る一枚の写真。子供を抱く女性はお婆ちゃんの顔と部分的に重なった。きっと写っているのは若い頃のお婆ちゃんで、抱かれているのは母だろうと反射的に感じた。赤ちゃんだし当たり前のことだけど、写真の子に母の面影はまだなくて、その子は叔母の可能性もあったんだけど、私はわけもなくそれを母だと思い込み、でも実際に先のベージをめくり他の写真をパラパラ見ていくと、やはりその子は生まれたときの母だった。

 隣の写真はその子が寝ている場面を写したものだった。母と思しき赤ちゃんは小さなベッドの中で、ふわふわした白い毛布に包まれすやすやと眠っていた。毛布の隙間から見える小さな手がぎゅっとこぶしを握っていて、その手が小さくてか弱くて、だけど力強かった。ファインダーを覗いているのはきっとお爺ちゃんだろうと想像しながら、お婆ちゃんが覗いてシャッターを切る姿はイメージできなかったし、あまりしたくはなかった。場所はこの家とは違うどこか別の場所だった。ベッドはベビーベッドで、これが写るところを見ると親戚や友人宅とは違って、この家に越してくる以前の家かもしれない、そう考えていた。

 数枚ページをめくると小さな母が着物を着て立っていた。

 これも一瞬だった。ばねがタンッ。と音を発して弾ける速度で七五三とイメージできた。きっと三才になるお祝いを撮影したものだ。

 この家の玄関で写り、華やかな着物を身にまといお婆ちゃんと立っていた。母は動物園のリスみたいに頬を両方巨大にさせて、まるで不機嫌をそのまま絵に描いたような表情を覗かせていた。赤地に白い花柄の初着を着て、お婆ちゃんの横で不満そうな顔を浮かべ写っていて、何かあって叱られたのだろうと写真を見ながら想像し、だけどそのわけを知る術はもうなくて、膨れっ面で長い千歳飴を握る母の隣で、お婆ちゃんが別な子を抱いて笑顔で立っていた。きっとこの子が洋子叔母さんだ。互いに三つ違いだし、年の頃も辻褄が合う。この頃から母と洋子叔母さん、ふたりで写る写真が多くなりだした。

 またページをめくる。

 母の小学校入学。自分の上半身と同じくらいの大きなランドセルを背負い、叔母とふたり並んで立っていた。そしてその後ろにお婆ちゃんがいてみんなを正門の前で、お爺ちゃんが撮影した、と思われる写真。そこに桜は写ってはいない。だけどそれを想像させる薄いピンクの紙花であしらった看板がそばに立てられ、そこには入学式と母の身長よりも太く大きく書かれてあった。何年生か気になったけど、ランドセルの黄色いカバーで一年生であることがわかった。母は小さな笑顔を風船みたいに大きく膨らませ笑っていて、凄く楽しそうだった。

 母も洋子叔母さんも同じ小中学校を卒業している。

 そして私も同じ小学校を卒業していて、自然と同じ中学に通うことになり、そして二年後にはそこを卒業する予定だ。私達の通う学校は小中が一貫していて、小学一年から中学三年の九年間を同じ校舎で勉学に勤しむ。

 だけどその校舎も近く改築されることになった。二十年前、ふたりが通っていた校舎に今では私が通い、きっとその昔、もしかすると私が知らないだけで、お爺ちゃんやお婆ちゃんだってあの学校に通っていた可能性だって考えられた。そのことを想像するとあの古さにも頷けた。その奥深い年月を思量すると、その果てしないものに気を失いそうになった。思わず意識がその歳月の一部になって、消えてしまいそうな感覚に捉われていく。

 その感覚の余韻を軽く引き摺ったまま、また次にページをめくると、そこには二枚だけを除いて、やはり母や洋子叔母さんの写真ばかりが十枚近く並んでいた。

 母や洋子叔母さん、それに祖母の写真は沢山あるのに、祖父の写真は少なかった。みんなを撮るのに忙しかったのか、あるいはあまり写真に入ろうとしない人だったのかもしれない。そう考えると後者の方に思う節が記憶の断片となって顔を出してくる。積極的な人ではなかったように思う。また、寡黙な人であったように記憶している。祖母より一年早く眠るように亡くなって、生前は口数が少なく、居間に座って常に背筋がシュッと伸びている。そんな人だった。

 祖父の写真は家で写るものが多かった。

 開くページの写真は親戚の集まりに見えた。お盆か正月。写る人がみな薄手の服を着ているからお盆なのだろうと自分なりに解釈した。少し引いてる構図で、写真中央よりやや左にズレて写る祖父はあぐらをかいてカメラを見つめていて、黄色い液体の入ったグラスを高く掲げこちらに見せている。シチュエーションからそれがお茶とは考えられず、あのグラスの中はビールなのだろうと勝手に想像を膨らまし、それにしては泡立ちが少ないように思え、でもグラスに注がれ、随分と時間が過ぎたのかもしれないとも考えていた。そばのテーブルには瓶ビールも写り込んでいるし、おそらくお茶とは違いビールなのだろうとそれらを根拠にそう推測した。

 同じテーブルにはオードブルが並び、祖父のつかう小皿に食べかけの料理と割箸が置かれてあった。祖父と思われる祖父の面影を持つ人、多分に祖父であるその人は、満面の笑みで隣の人に話しかける。酔いが回っているせいなのか、その笑顔は本当に嬉しそうで愉快そうで、私の知らない、あるいは覚えていない、祖父の違う一面をそこに覗かせていた。

 隣の写真の祖父も同じ服装のため、きっと一緒の日に撮影したものだ。さっきの写真から随分と時間が過ぎて撮影したものだと思う。顔の赤みがさらに増していて、顔を上からぎゅっと押さえたみたいに、くしゃくしゃに笑っていた。

 写真に写る昔の祖父母。ふたりの持つ顔のパーツの面影、印象だけが私の中で一致する。それはきっとそういうもので、年を重ねて変化していく、違っていく表情に微かに残るもの、留まるものが一緒で、それは目に見えて感じてもいて、写真に写る昔の祖父母、母は小さく妹の叔母はまださらに小さくて、その祖父母の写真と、私の知る祖父母に感じる視差、そして機微、というべきほんの僅かな違いとつながりがそこにはあった。ふたりの写真にそう感じた。

 それは洋子叔母さんも変わらなかった。アルバムめくるたび、年を重ねるたびに昔と今が整合していく。微かな機微が明確になって、小さな視差が徐々に無くなった。私の知らない写真の叔母が成長して今の叔母に近づいて、顔の面影が今の叔母と合わさる。顔の雰囲気が、印象が段々と同じになった。

 それを母からは感じなかった。

 ページをめくると大人になった。幼い母は叔母と並んで年を重ね成長していき、写真が変わるごとに大人に近づいた。でもそこにあるはずの母の面影、そして印象、その全てが私の中でつながらず、丸ごと記憶を無くしたようにぽっかりと穴が開いているようで、叔母やお婆ちゃんと写る、そのときそこに存在したはずの母は、私の母と全く符合しなかった。

 アルバムを閉じていた。

 自室に戻ってイーゼルの前に座った。

 ただ描きたかった。

 何も考えず鉛筆を走らせたかった。

 クリップで挟まれたふたりの写真を眺める。空と海らしきものを背景に写る一枚の写真。そこに私はいない。私のいないふたりだけの写真。

 それは私の知るふたりだけど何故か違って見えた。それは確かに父と母だけど、写真の彼らと、私の知るふたりはどこか一致しなかった。

 だから別の写真を机から出した。

 その写真と入れ替える。その場所は微かな記憶にあった。水に白いインクが拡がるように薄く、輪郭が曖昧で境界がほどけるように根拠は薄弱だけど、それは確かに我が家で、間違いなく私の住んでいた家だった。指で軽い感じて、過去をコツンと弾いたように古い記憶が呼応した。

 写真には、生前暮らした自宅の前にふたりが立っていて、そして幼い私もそこにいる。私は母の手に抱かれ、そんな母より頭ひとつ分背の高い父が、母と隣り合って自宅の玄関を背景にしている一枚の写真。

 いつ撮ったものかは記憶に留まっていない。それもそのはずだ。母に抱かれる私はまだ赤ちゃんで、物の区別もつかなければ色の識別もつかず、言葉すら解さなければ光しか視認できない当時の私に、この状況を理解し記憶できていたはずもなかった。このときの私はただ母の手に抱かれ、静かに眠っていたのだと思う。

 三脚を立て撮った写真なのか、あるいは他の誰かにシャッターを切り写してもらった写真なのかはわからないけど、ふたり笑い顔だ。父はカメラ目線で、母は私に笑顔で微笑みかけている。

 写真に印字された日付けは私が一才時のものだ。オレンジ色をしたデジタル質の数字は、記憶している月日のどれにも一致しないもので、私の誕生日とも違い父でもなくて母とも違う。もしかするとふたりの結婚祝いなのかもしれないし、自宅の新築祝いなのかもしれない。そんな写真。

 十三年前のこの日、自宅の玄関には父が立っていて、その隣に母もいた。当時は私も生まれていて、この写真は確かにそれを証明している。だけど私には、写るふたりが違う人のようだった。写真のふたりは父でも母でもない別人に見えた。八年という歳月が、私の中でふたりを絶えず変化させ、遠く別なものへと変えていく。

 木炭紙に線を刻んだ。

 空っぽの何かを埋めたくて、満たしたくてだけど埋まらない、満たされない何かを自分の中に求めて描いた。でも見つからなくて、だけど術はなくて、他に方法を知らないから描き続けた。欠落する何かを補いたくて、でも何もかもを忘れたくて描き続け、鉛筆をひたすらに動かし続けた。その間は自分自身を捨てることができた。誰でもない自分になれた。

 だんだんと視界が薄れ、木炭紙が薄い闇と同化する。黒くて細い線が薄く、淡い闇に順化する。白色の紙が、そこに刻んだ輪郭が少しづつ、確実に暗い闇ににじんでいった。徐々に徐々に、はっきりと濃度を増して、薄い闇が濃いものに、深いものに変わり深度を増してさらに深く濃くなって見えなくなった。手さぐりになった。

 だから電気を点けた。

 深い闇を一瞬で晴らす透明な白い光。暗いものに色を付け、輪郭を与え奥行きを与える光。この部屋のベッドが、空色の掛布が、飴色の机や桜色のカーテンが、それに束ねているタッセルがこの部屋に浮かんだ。瞬時に、視界を介し私の世界に現れる。部屋に存在していたものが瞬く速さで出現してそこに主張する。そこにある自分をここに主張する、そこにあったことを主張して、それを象徴する。寝るためのベッドに飴色の机、そしてその上にある置き時計、陽を遮る桜色のカーテンにそれをくくるためのタッセル。それらがこの部屋に存在する意味を。そこにあり続ける意味を、自らの主張を象徴している。

 そして私の身体。私を私とする身体、私を私と認識している肉体。その象徴、私、というもの。

 私が私であるための象徴、主張している象徴であって存在しているもの。下半身や上半身、そして指先、そしてその先端、に握っている鉛筆は、私の主張を形にするものであって私の象徴を形造るもの、目の前のイーゼル、それにカルトン、描きかけの木炭紙、クリップで留まるふたりと私の写真。座っている椅子もそう、それらのものが自分を主張して象徴しながら私の主張を象徴している。この光の中でしていた。白い透明な光の中で存在していた。

 すでに日は落ちていた。外の冷気が窓を透して浸透していた。部屋全体に拡がり、服の上から肌表面まで潜り込んでいた。だから上着を取り出し一枚上に羽織った。

 時計は七時を指していて、窓越しに外を見た。

 夜も浅い時間だけど、人の姿は見えない。暗いからもとよりそれが普通だけど、行き交う車も見当たらなければ、視界を通る光ひとつなかった。ただただ静かな夜。静謐な夜。

 星も見えない夜だった。檸檬の形をした月がさり気なく、だけど深い闇を主張するよう存在し、けれど自分を主張するよう輝いていた。この闇夜に瞬いて、黒い世界にただ一つ、たった一つの明かりが、無くなることのない光がそこにはあった。その光は私が、私を思い始めた頃から輝き続けたもので、いや違う。それは私が生まれる遥か以前から、そこで耀き続けたもので、それは今も輝いていて、そしてこれからもそこにあって、常に闇に光り続ける。

 外に灯る隣家の明かり。

 暗い闇を黄色く灯す、白く灯す隣家の明かり。

 その明かりが温かく見える。周囲に点在する家の、ぽつぽつ灯る白や黄色の明かりがいじらしく見え、ひたむきに見え、一つ一つの明かりが掛け替えのないものに見えた。

 この部屋を照らす明かりも同じもののはずで、この部屋の闇を払う光、物に輪郭を与え、色を与え奥行きを与える光も同じもののはずなのに、等しい明かりのはずなのに、でも何かが違った。同質のものではなかった。

 暖かに見えた。

 窓の向こう、闇に灯る明かりが目映く見えた。この部屋とは違う光が、同じ光だけど違う光が眩しく見えた。その光が胸をきつく掴んだ。ぎゅっと強く握ってきた。小さな光だけど、小さな明かりだけどその光が全てで、その全部が私自身だった。でもそれは違う私でもあった。あの光を望む私はここにいて。私はあの光を希求する私であって、でもその光を手にすることのできないことを、私は知っている。

 ガラガラッと玄関が開いた。

「ただいま~」

 叔母の声が廊下や居間に響いて、台所脱衣所へと広がりながら一番奥の私の部屋まで届いた。この家全体に広がり私の鼓膜を揺すって、脳を経由し聞いた声だと私に思わせ、それが叔母だと認識させる。私は部屋から声を返した。

「おかえりなさい」

 そして居間に向かった。

 コタツにスイッチを入れテレビを点けた。叔母の足音が廊下を伝わりテレビの音に合わさった。

「怜ちゃん、ただいま」

 居間に顔を出し、叔母がまた言った。

「おかえりなさい」

 だから再びそう返した。

 叔母の声がまだあった。最初の「ただいま」の声が残っていた。いつもでも残っていて、私の部屋に、玄関に廊下に居間に、台所に、いたる所に残っていて、頭の中でいつまでも鳴っていた。

 自分の部屋から叔母が尋ねた。

「怜ちゃん。冷蔵庫何か入ってる?」

 中では着替えの最中なのか、衣類がカサカサ擦れるような音が聞こえていた。

「ちょっと待って」

 そう言って台所の冷蔵庫を開けた。中は空ではないけどめぼしいものは目に付かない。多少の食材が残ってはいるけど、それだけでの調理はむずかしく、だからと言ってそれらを組み合わせても、満足な料理にならないものばかりが冷蔵庫の中にはあった。

 最近は和食が続いていたように思う。昨日の夜はぶり大根だったし、その前は秋刀魚の塩焼きでその前はおでんだったように記憶している。さすがにその前まで思い起こすのは無理だけど、でもやはり和食だったように思う。残るのも練り物が多かった。卵やベーコン、豚肉や鶏肉なんか一つもない。秋刀魚や鰤の切り身が一切れずつ残ってはいるけど、仮にそれを調理したところで、並ぶ料理が互いに別々になる。それだとせっかくの食事が味気ないように思えるし、どうせ食するのであれば、ふたり同じ料理を食べた方が美味しいのでは、と思った。思って叔母にそう言った。

 全部をありのままに伝えたわけではないけど、冷蔵庫の中に残っているものと、そこにある食材で作れる料理のクオリティーの話だけを伝えると、「それじゃ買いに行こう」と着替えを済ませた叔母は、仕事で疲れた表情で、だけどそれを感じさせない笑みと声でそう言った。

 コタツとテレビを消してスーパーに向かう。歩いてもそれほど遠くはないんだけど、叔母の車で向かった。「歩いてもいいんだけど…、車で行こっか」叔母はそう言って車を出した。仕事終わりに歩く気分ではなかったのかもしれないし、荷物を持って歩く気力もなかったのかもしれない。そう思っていたら、「外はまだ寒いしね」とあとから、はにかんで付け加えた。

 車の中はまだ温かい。

 叔母が運転席に座ってエンジンをかけるとラジオが鳴り出した。

 覚えのある音楽がラジオから流れ出して車内に拡がる。どこで聞きかじったか、ドラマか何かな気もするけどはっきりとは思い出せない、そんなファジーな曲が耳に入り鼓膜を刺激した。最近聞いたように思うし、でも少し前だったような気もする。それほど古くないのは間違いなくて、音楽番組はさほど見ないから、テレビのCMに起用された曲かもしれないけど、そのわりには記憶していたフレーズが意外に長かった。もしかすると何かのテーマソングか、ドラマで流れた曲を知らないうち記憶していたのかもしれない。音楽自体嫌いではないけど、だからといってそれほど興味があるわけではなかった。だからはっきりと覚えていないんだろうけど、でもそんな私でさえ知っているフレーズがスピーカーからは流れていた。

 その曲が鳴りやむと、次は男女の声がこちらに被さるように車中を占めた。その声は溌剌として楽しげだった。ここから男女の姿は見えないんだけど、でもそんな楽しげな様子が伝わってくる。声や行間を通し声の向こうを想像させた。

 車内で叔母は話さなかった。

 私も話さなかった。

 なぜだか話したい気分ではなかった。だからラジオを聞いていた。

 叔母も同じ気持ちだったのかもしれない。誰かと話したい気分ではなくて、今はラジオを聞いていたかった。あの曲に耳を傾けていたかったのだ。そう考えていた。どうしてかそんな気がしていた。

 次曲に入る前にスーパーには着いた。

 スーパーは人が多かった。仕事を終えた客と重なるためか、この時間帯は異様に多かった。

 狭い店内に、広い店内だけど狭くなった店内に、沢山の人がいた。そして食材をカゴに入れていた。カートを押して肉に卵に、それに野菜や果物色んなものをカゴに入れていた。鮮度を見ながら、分量を思料しながら消費期限、賞味期限を見ながら目や色で、欲しいものとそうでないものを選んでいた。

「怜ちゃん。何か食べたい物ある?」

 カゴを手に叔母が聞いてくる。

 お腹に入れば私は何でもよかった。だから「何でも平気」と返した。

 すると叔母は、「もう、作る側からするとそういうのが一番困るんだよ」と嫌な顔で口にした。

「でも私、何でも大丈夫だよ」

「そうじゃないの。あのね、怜ちゃんの今の気持ちはどんなものでも食べたいし、食べられるんだろうけど、それは私も同じだったりするんだよ。それにいつもは私が献立を決めちゃってるし、たまには怜ちゃんに、て思って聞いてみたんだけどな」

 叔母は笑ってそう言った。

「それならちょっと待って」

 私は暫く考えた。

 叔母はそういうけど本当に出てこない。

 というより、浮かんでこなかった。もこの場合違っていて、こういう場面でそんな言い回しをすることがあるけど、それは少し違っている。実際には、叔母から質問された直後は数種類の料理が頭の中には出現していて、それらは食べたいものとしてちゃんと脳裏に浮かんではいるけど、種類が多くてどれにするか決断できない、という表現の方が的を得ているように思う。

 ここ最近和食が続いていたし、私としては洋食や中華でも良かった。ハンバーグやビーフシチュー、麻婆豆腐にエビチリでもよくて、なんなら一昨日食べた秋刀魚の塩焼きでもよかったし、昨日食べた鰤大根でも私は全然構わなかった。だから言った通りどんなものでも平気だったんだけど、でもそれをそのまま伝えても、また同じ言葉が返ってくるのが想像できた。

 悩んで歩いている間にも、叔母は食材をカゴに入れていく。自分の中で決めてるものがあるように、というより叔母にはきっとあって、それに沿って店内を巡り、取捨選択してカゴにどんどん食材を詰めていく。

 どう、決まった?

 先を歩く叔母がそんな顔でこっちを振り向いた。

 だから私は。

「お鍋とかどうかな?」と返した。

 本当は何でもよかったけどそう言った。

 秋刀魚の塩焼きでも、昨日食べた鰤大根でもよかったけどそう言った。洋食でも中華でも本当はよくて、ビーフシチュウーでもハンバーグでも、麻婆豆腐でもエビチリでもよかったけどそう言った。

 お鍋を選んだことに特に理由はなくて、食べたい料理として頭の中に浮かんでさえいなかったけど、自然と、溢れた言葉がそれだった。

「そうね。最近お鍋食べてなかったし、良いかもしれない。何のお鍋にしようか? 怜ちゃん、食べたい鍋料理ある?」

「叔母さんに任せる」

 鍋料理なんて何も思い付きそうになかったし、それにもうこれ以上考えたくはなかった。だからそう言った。

「だったら石狩鍋にしよう。もうすっかり春だけど、でもまだまだ夜は寒いしね、ちょうどいいかもしれない」

 そう言って叔母は必要なものを買い足しに、来た道を戻った。

 周囲は人で溢れていた。

 カゴを持って歩いている親子に、食材を眺め頬杖を突く女性。そして仕事帰りに立ち寄る主婦。そして主夫。

 彼らも今の叔母のように、家族の今日の献立を考え、明日の料理を考えながら、お昼のお弁当、明後日明々後日の朝食に夕食、それらを思案しつかう順序を考えながら店内を回っている。回る順番を思慮しながら巡り、そしてカゴにものを入れていく。

 彼らの間でも、さっきの私達みたいに他愛のない会話が、まるで呼吸のようにやり取りされたりするのだろうかと、ふと思った。主婦として、主夫として、そして親子として何気ない日常と同質の、空気のように自然で、ふれているのに気が付かないほど背をピタリと重ねた会話が、息を吐くよう交わされたりするのかなと、そんなことを考えていた。

「さあ、怜ちゃん行こう」

 レジをすませ私達は店を出た。

「帰ろっか」

 駐車場で座席に乗り込み、叔母がそう言って車のエンジンをかけた。

 すると麻衣の姿が突然目に飛び込んだ。

「ちょっと待って」

 通路は挟んだ向かいの駐車スペースに、私服の麻衣と男性の姿が店の灯りに照らされ見えた。ふたりは車に乗っていた。助手席の麻衣は隣の男性に親しげに話しかける。運転席の男性には見覚えがあった。

 川上先生だった。

 鼓動が一瞬で速まり皮膚が熱を感じる。

 先生は右手をハンドルにかけ麻衣を見ていた。麻衣は上半身ごと先生に向けている。店の強く黄色い光は車内を明るく映し、燥ぐ麻衣の横顔を照らしていた。

 先生は学校とは違って穏やかで、私には見せない、無防備で砕けた笑みを麻衣のほうに向けている。そして何かを語りかける。会話の内容はここからではわからない。だけど車内の楽しげな気配はふたりの雰囲気から私の視界へと伝わった。

 目線はふたりを捉えていて、疑問が絶えず頭の中を巡っていた。何で麻衣が? 先生といったい? そんな不安が私の中で混ざり合いながら、意識の全部を不快な胸騒ぎに変える。

 不意に彼らの、華やかだった空気が一変し始めた。車内の音と称する揺れの全てが何かを起因に無くなった。

 彼らの気配が瞬時に凪いで、見えないもので強く張り詰め引き締められていく。周囲の内圧はぐんぐん上昇し、まるでそれに連鎖するようふたりの笑顔が剥がされ、それに比例する力。空間が狭まっていく、と感じる力が働いていく。ふたりの間隔が、秒単位で薄まっていくのがわかった。彼らの距離が、その互いの空間が無くなりゼロになって、表情が暗く染まってまるでその時、時間が止まって見えた。

 それは麻衣とは違った。麻衣ではなくなっていた。まるで別人だった。彼らは互いに触れ合い、麻衣の顏も先生の表情も光を躱すように闇に紛れ視認できない。

 ふたりは唇を合わせていた。数秒間いや、数分間、いやもっと、数時間ふたりはそのままだった。私の視界で彼らは微動だにしなかった。全てが強制的に停止したように、唇を合わせそのまま、永い時間ピタリと止まって見えた。瞳の中で延々に、彼らは動かなかった。いや、動けなかった。いや、そう感じた。でも実際はたったの一瞬だった。止まっていたのは、ほんの僅かな一コマ。ほんの数秒程度。でもその短い時間が永遠にも感じた。

 麻衣がいなくなっていた。

 今朝の麻衣が、今日の麻衣が消えていた。美術室の麻衣が、私達の八年間が喪失した。ほんの一瞬で、たった一コマで別なものへと変わった。私の中で違うものへと姿を変えた。

「怜ちゃん。どうかした?」

 叔母の声が思考を裂いて、その瞬間ふたりはどこかに消えていた。闇に溶け、私の視界に存在していない。前方には一台の車が停車し端でブレーキランプが点灯していた。私の視界を遮るよう塞いでいた。

「ううん。なんでもない」

 叔母を見て微笑んだ。なぜ微笑んだのか自分でもわからなかった。でもそうしないと自分の中の何かが、叔母との何かが壊れてしまいそうだった。

 帰りも喋らなかった。

 言葉を発さず叔母は運転していて、私もそんな気分ではなくて、通り過ぎる光をただ眺めた。

 静かな車内にラジオだけが耳を突いた。スピーカーの微震が音になって外耳を抜ける。音楽が流れ、歌や男女の声が私の鼓膜を振動させる。多様に織り込まれる効果音が波として、空気の震えとして内耳を刺激し音になって脳で変換された。音や言葉に変わり私の意識に届いた。でもそれはラジオが届けたように錯覚していて、私は能動的に聞いていた。けどやはりそれは届いたことであって、ラジオ自身が私に届けていると認識していて、でも結果、それはどちらでもなくて、そう思うこと自体錯覚であったのかもしれない。

 だけど響いた。どこかは判らないけど確かに反響した。

 それは頭の中で感じて、だけど全身のようだった。どこなのか曖昧で判然としないけど、だけど響いた。スピーカーを揺する揺れが車内に、空気を震わす振動が鼓膜に、そして頭に、そして全身に響いた。やけにくっきりと、それにはっきりと木霊し車内全体に、いや、空っぽの私に、空洞の私に響いた。

 無数の光の粒の流れをその車内で、家に着くまで眺めていた。


 帰り着いて居間にいた。

 点けたばかりのコタツはまだ冷たくて、だから手足を入れようとは思わなかった。それに手持ち無沙汰じゃなかったし、とても見る気さえしなかったけど、リモコンでテレビの電源を入れた。僅かでも気分を変えたかった。さっきの記憶を何かで薄めたかった。

 すると台所で声がした。

「怜ちゃん、お風呂の準備まだでしょ」

「うん。まだ」

「それならちゃちゃっとやって入っちゃって」

「叔母さんは?」

「私ごはん食べてから入るから」

「わかった」

 部屋で家着に着替え下着を手に浴室へ向かう。

 手袋をしてスポンジに洗剤をなじませ、浴槽を洗い始める。

 さっきの記憶がまだひりついていた。感情かんぶが炎症みたいに腫れ上がってひりひりしていた。それを打ち消そうと必死に浴槽を磨いた。それでも車のふたりが頭を離れなかった。何をしようとどこに意識を傾けようとそれは変わらなかった。

 浴槽を流し終え、排水溝に溜まった髪を廃棄する。そのまま湯船に黒いゴム栓をして、そばの給湯器のボタンを押して湯を張った。

 外は夕食の匂いが漂い出していた。

 その匂いは居間まであとをついてきて、浴室からここまでその匂いが空間を隙間なく埋めていたけど、食欲はゼロだった。食べる気は微塵も湧いてこなかった。

 居間のコタツはもう温まっていて、手足を中に突っ込んで、チャンネルをやみくもにザッピングする。数の少ない地方の番組を一巡二巡と繰り返す。リモコンのボタンを押すごとに離れたテレビの番組が切り替わり、そのたびに映像が切り替わり音声も切り替わる。

 どこもニュースばかりが流れた。なぜかは解らないけど、夕方から夜にかけての時間帯はどこも報道番組だけを流していた。地方だけが特有なのか、もしくは働く人のためか、あるいは夕食時の憩いの一環? なのかは判らないけど、大体決まった時間に重なるように放送しているようだった。

 そんなどうでもいいことを考えていた。そんなどうでもよくて、考えないでいいことを今は考えていた。画面に映る男性を眺め、隣の女性を眺め、漏れ出る音声をただ流して聞いていた。小さなマイクとレンズを跨いで、画面越しに声が届く。男性の声が、それに女性の声が届き映像が届いて、私に、みんなに伝えていた。

 何を?

 伝えたいことを。この国や世界のことを伝えていた。訴えていた。私や洋子叔母さんを含め、これを見ているみんなに、私たちのことや、それに関わるもの伝えていた。私達の造るものや造り上げたものを伝えていた。

 何のために?

 台所でコトコト音が鳴っていて、土鍋の蓋が小さく動いて重なり合う音がして、居間全体に香りと合わさり漂っていた。

 居間の時計を一度見た。八時半丁度を指していた。そしてテレビの時刻に目を向ける。そこにはそれより一分早い、20:31と表示されていた。アナログデジタルに係らず、示す時間は互いに若干ズレていた。少しだけど確実に、ぴたりと合致していない。電池が微弱であるのか時計の構造がそうなのか。あるいはその両方、もしかしたら元がそういうものかもしれない。ぴたりと合致しないものかもしれない。

 居間の時計も画面の表示もいい頃合いだった。湯を張り二十分ほどが経過していて、給湯器が音を鳴らして湯船を見ると、八割ほどのお湯が白い湯気を中で上げていた。

 脱衣所で衣服を脱いで身体を流し湯船に浸かる。

 体を沈めるごとにお湯は体積を増した。湯船の容積内で増加して、私の沈めた体積分、沈めた速度と同じ速さで急増していった。

 そして溢れることなく、浴槽の縁ぎりぎりで揺らめいて、そして膨らんでいた。透明な液体がふくよかに膨張していて。温かなお湯がたゆたんで、だけど零れずに、だけど溢れずに踏み留まっていた。微細な動きに呼応してそれが伝播して伝わる。私の動きに揺れて拡がって。干渉するあらゆるものがダイレクトに響いた。でも耐えていて。縁で留まっていた。私のほんの一押しで零れそうなほどに張りつめ、膨張していて。そして自分の中の声にならない言葉がその透明な湯船の中に、思わず溶けた。

 あんなの…、いいわけないよ。

 そんな言葉が水の分子の間に音も無く溶けだしそれに、ばかだよ。麻衣は…。そんな思いが湯気を上げ揺らいでいる湯の中に、渦を巻いてどんどんと流れ込んだ。

 そして私が手を上げる些末な仕草でいとも容易くその膨らみは決壊した。囲いを越えて、外へと溢れ出た。押し止める手を振り払うように浴槽の縁を下へと伝い落ちた。

 髪や身体を洗い終え、お風呂を上がって身体を拭う。そして今の私を隠すようにバスタオルで裸の自分を覆った。

「怜ちゃん、そろそろできるよ」

「わかった。ちょっとだけ待っててッ」

 赤らむ顔の女が鏡に立ってそう叫ぶ。黄色い光に照らされ、タオルを巻いて鏡に映る私が、型の崩れたぐちゃっとしたモヤを内側に溜め込んで、鏡に向かって、叔母に向かってそう叫んだ。桜色の身体は湯気を上げ、くしゃくしゃに濡れた髪をフェイスタオルで伸ばしながら拭う。挟み込んで押し付けるように、黒い髪の湿度を青いタオルに吸着させた。

 そしてよりの入ったドライヤーのコードをコンセントに差し込んで、そのコードが手に障る。剝がれかけた瘡蓋かさぶたのように持つ手に触れて、痛みを持って触れてきて、煩わしさを感じながら乾かして、そこに耐えがたい何かがあった。それは痛みを伴って残った。

 着替えを済ませ台所を覗いた。

 そして叔母の背に言った。

「何かすることある?」

「こっちの方はとくにないから居間をおねがい。コタツの上を片して台拭きで拭いてくれる。それにお箸と取り皿も必要だから用意してくれると助かる。あとランチョンマットも。新しいの買っといたから、ふたり分敷いといてくれる」

「わかった」

 台拭きを持ってコタツの上を片す。

 角に置かれた葉書にチラシ、それに新聞。そしてテレビのリモコン、爪切りに耳かきも。全てが端に寄せてあって、大して物が散乱しているわけではなかった。でも食事をするには不便なので片付けるんだけど、日常的にコタツの上はこうなっていた。朝から夜の間にこの程度には散らかっていた。

 耳かきや爪切りなんかを専用の小箱に収め新聞も片した。要らないチラシや葉書はゴミ箱に投げ入れ、台拭きでコタツの上を拭う。

「そうだ怜ちゃん。コンロも用意してくれる。カセットコンロ」

 どこにあるか場所を思い出せなかった。

「どこにあるんだっけ?」

「えーっとたしか…、食器棚の下のほうに入ってなかった? 右側の引き戸を開けたとこ」

「先に用意した方がいい?」

「ん~もうちょっとは大丈夫かな。先にマットや取り皿用意してくれる」

「うん」

 台所でお盆を手にして、取り皿とお箸を乗せる。同じ机にランチョンマットが封を切って二枚、ふたつ折りに置かれてあった。無地の青と黄色のもので、おそらく使っている茶碗の色に合わせたのだと思い、どちらを使うか敢えて聞かずコタツの上に並べた。食器棚の下からカセットコンロを取り出した。叔母の言葉通り下の引き戸の右側にあって、ガスを取り出し見てみると未使用のまま、なのかは覚えていないし判らなかったけど、ほぼまるまる残る重量が右手にった。振ってみてもそんな感じがあった。

「ガスはどう? 入ってる? 一時間くらいは持ちそう?」

「多分。時間はわかんないけどいっぱい入ってる」

「それなら大丈夫かな、火はきちんと点くと思うんだけど、あっちで一度ためして見てくれない?」

 居間でコタツにコンロを置いてつまみを回してみる。一瞬ガスの臭いが鼻腔を衝いて熱気が噴き上がる。青い色彩が揺らめいていた。瞳の向こうで光と熱を放出していた。

「どう、ためしてみた? 使えそう?」

「うん、大丈夫みたい」

「それなら今からお鍋持ってくるから火点けてくれる」

「今点いたままになってる」

「だったらそのままにしといて」

 音を引き連れコンロのとこまで叔母がやってきて、そして土鍋を置いた。強火の火を中火に弱め、蓋がコトコト動いて湯気と香りがあふれ出る。出汁と味噌、それにバターの香りがより明確に、濃い濃度で呼吸に合わせ鼻腔を通り過ぎていく。

 けどやはり気分は以前優れないままで、食べる気は起きてはくれなかった。麻衣を思い出さないよう意識してはいても、それでも不快なものが胸部に変わらずあり続け、胃が灰色に塗り潰されていた。ぎゅっとした塊が自分の重心を暗色に支えていた。

 私は、叔母の用意していたご飯をふたり分マットの上に配膳すると、叔母が来るのをコタツに座って待った。

「ちょっとだけ待ってて」

 叔母のいる方からそんな声が聞こえてきて、そこにガチャガチャ大きめな音が合わさりバタバタ慌てるような足音もさらに被さった。数分後、叔母は台所を片し終え、余った具材を持って居間に来るとその皿を土鍋の隣に置いた。

「よしッ。それじゃ食べよっか」

 エプロンを外して私の向かいに座り、いつもみたいに互いに小さく手を合わせると、叔母が鍋つかみをはめ上蓋を取った。

「怜ちゃん、この鍋食べるの初めてじゃない?」

 蒸気と合わさり、鍋の香りがさらに強く上昇し、昇る香りが天井を伝い四方に拡がり壁に沿って居間全体に拡散した。そう見えた。白い湯気が香って視覚でそう感じた。嗅覚でそう感じた。

「うん、初めて。いい匂い」

 食欲なんてないのに、だけどそう言った。

 いらないなんて言えなかったし、そうなった訳も言いたくないし思い出したくもなかったし、それに何がなんでも食べきるつもりだった。今日は無理にでも流し込むと決めていた。

「怜ちゃん、取り皿ちょうだい」

 叔母に取り皿を渡すと、土鍋のスープを軽く混ぜ、豆腐や鮭、野菜なんかををその皿に入れていく。

「このバターがすごく良い味出してるの。寒い地方の料理だけどよく考え付いたよね。身体も温まるし。バターが入ってるからあまり食べ過ぎると大変だけど、でもたまにこんな重いのも食べたくなるのよね。怜ちゃん、ダイエット中だったでしょ。だからバター少なめにしといたけど、怜ちゃんバター大丈夫だった?」

「ん。多分大丈夫」

「良かった。それなら一度食べてみて。きっと美味しいから。あとは好きなの自分で取って食べて」

 程好く盛られた皿を私は叔母の手から受け取り、それに箸を伸ばしてみる。豆腐と鮭の順でひと欠けらほど口に含んで、スープを胃に流し込んでみた。確かに美味しかった。濃厚でまろやかで、魚と野菜の旨味がスープに染み出していて、初めての鍋料理でバターの多い少ないまでは判らなかったけど、目の前の料理は間違いなく美味しいと思える味だった。

 でもやっぱり、それ以上箸は進んではくれなかった。それでも味の感想だけは正直に伝えた。

「美味しい。バター全然気にならないね」

「でしょ。たまにはこういうガツンとしたのもいいわよね。怜ちゃんに決めてもらって正解だった」

 そう言って叔母も自分の皿から鮭とスープを口にする。

「うん、いい感じ。おいしく出来てる」

 そして満足気に笑った。

 そばではテレビから声が漏れていた。私達の会話の隙間にさり気なく差し込む。そのくらいの音量で。ふたりの茶碗もカチャカチャ鳴った。土鍋からも音は聞こえていた。

「そういえば怜ちゃん。昨日話してた学校のことなんだけど」

「学校?」

「そう、近々建て直すって話。昨日してたでしょ」

「うん。それがどうかしたの?」

「大したことじゃないんだけどね。時期はいつくらいになりそう?」

「時期って?」

「取り壊しを始める時期。もう決まってることなんだろうし、いつくらいかなって」

「まだ教えてもらえてないよ」 

「ざっくりにも聞いてない?」

「聞いてない」

「そっか。でもきっと年内よね」

「どうだろう。それはわかんないけど、どうして?」

「ん…、ちょっとね…」

 叔母は言葉を濁し、何かを考える素振りを見せ話を一端切り上げると、お玉を握り、クツクツと微弱にたぎる鍋の具材を自分の取り皿に入れた。

 私はそんな叔母の様子が多少気に掛かったけど、今はそれ以上聞こうという気はしなかった。だから深く考えずに料理を流し込んでいた。

 食べ始めると衣服に熱がこもり始め、上体を捻るたび、湿度を含んだ蒸気が首から顎のラインに沿って服の間を駆け上がる。汗が小さな穴をくぐる勢いなのか、あるいは深部に溜まる熱のふくらみせいなのか、皮膚が一枚肌から持ち上がる感覚に襲われて、無数の汗腺が湿り気を帯びた。にじむ汗が意識に伝わってくる。そして食べながら、羽織っていたカーディガンを脱ごうか迷っているときに、叔母が急に驚くことを口にした。

「ねえ。今度一緒に学校行かない?」

 一瞬意味が解らなかった。

「えっ?」

 と自分の口が意志を離れ勝手に呟いた。

 箸には椎茸が挟まっていて、思わず手は固まり口の前で宙にぶらんと取り残されていた。瞳の焦点は叔母の顔に合わさり、その外れの方では椎茸がぼんやりと湯気を上げていた。

「私。怜ちゃんの参観日、あまり行けなかったでしょ」

 叔母は熱そうに豆腐を頬張り始め、だから食べ終わるのを待って言った。

「でもそれは、叔母さんの仕事が忙しかったからだし…」

「まあそうなんだけど、初等部の頃最初の二三回は行ったけど、それきりだったもんね。卒業式もだけど、中等部の入学式も行けなかったし、どうにか時間作ろうと考えてはいたんだけど、それ以降はなかなか難しくって。ごめんね。どうしても行事が重なっちゃうと他の仲居さんを優先しちゃって」

「ううん、全然気にしてないよ。忙しいのわかってるし」

「ありがとう。でもそのせいもあるんだ」

 また意味がわからなかった。

「そのせいって?」

「最後に学校見ときたいな。て」

 そう言って叔母は残りの具材を土鍋に入れると火を強くした。

「私ひとりで学校の敷地内に入るわけにもいかないしさ、でもだからって、事情を説明して中を覗かせてもらうのもね、何か自分的じゃないっていうか、ちょっと違うのよね。隣に先生いても落ち着かないし、ゆっくりくつろげない感じ? そんな感じがするの」

 何となくわかった。だから頷いた。

「仮に入れても許可ないと怪しまれるだけだしさ、それに警察なんて呼ばれたらそれこそ大変ことになっちゃう。私も女性だしそこまでの大事にはならないだろうけど、でも学校からすれば不審者でしかないわけでしょ、呼び止められてさ、色々説明しているうちに興醒めしちゃいそう」

 それにも頷いた。その感じも理解できた。

「だから怜ちゃんが一緒なら心配いらないでしょ。あの学校の生徒だしさ」

 それも納得ができて頷いて、だけど思いもしない展開に当惑中だった。

「よし、決まり。そのときは付き合ってね」

 その一瞬の迷いも虚しく空回って、叔母の強引な誘いに躊躇いながらも首を縦に振っていた。そしてそれから椎茸を口にした。その椎茸はすっかりひえて冷たくなっていた。表面は乾燥していて、それでも味が染みてて軟らかで、冷めても味は出来たてのまま変わらなかった。

 食事を済ませ、部屋で外を見ていた。

 檸檬の形をした月が、昨日とは違う場所で輝いていて、星明りはまるで昨夜を再現するよう目には映ろうとしない。この暗い世界で星も光っていて、だけど視界に入らなくて、深い夜を正視する。見えているのに見えていない、そんな感じだろうか。それとも単純に見れない、だったりするのかもしれない。どちらにせよ星が光っているのは間違いなくて、瞳はその光を確かにとらえているけどその光が弱すぎて、頭の中で光と認識されていないのか。それとも、放出する光が室内の明かりに融けていて、それを視認しないだけなのか。もしそうであるなら、互いの光はどの辺りで混じり合うのだろう。この部屋の遥か向こうの星のそばなのか、あるいはこの部屋の中なのか、もしくは互いの距離の中間なのか。どちらにせよどこかで光は混じり合っていて、それでとらえることができなくて、私の目には暗闇だけが映って見えるのかもしれない。

 吸い込まれそうな暗い夜を眺め、その夜の向こうを彼方まで見透して、その光を見ていた。見えてはいないけど、だけどそこにあるよう暫く眺めていた。すると眠気が押し迫りそのままベッドに倒れ込んだ。仰向けで、顔だけ机に向けて時計を見ると、まだ随分と速い時間で、少し麻衣のことを想い返して、でも昨日今日と机に座っていない自分を思い出して、勉強もしなきゃ。そんな焦りも感じつつ、でもイーゼルが視野の端に写り込んで、そこに描きかけの絵が置かれていて…。絵も描きたいんだけど、そうも思って…。だけど頭が段々ぼやけ…。意識が遠く離れていって…。だからそのまま眠ることにした。布団の中にもぐり込んだ。

 …………、

 …………、

 家にいた…。

 昔の家に…、この家ではない家に…、

 遠い昔のようで。まるで違うことのようで…、

 古いビデオを見ているようにも思え、フィルムに入り込んだような、そんな色褪せた情景、と思われる場所に立っていて。とけ込んでいた。オレンジ色の光源に。チラつく光に。

 台所に母が立っていた。

 水の音がした。していて。していないんだけどしていて、しているように聞こえる。聞こえてきた。

 母の後ろ姿を見上げ、話しかけて、そして水の音が止まる。止まった気がした。止まって振り返った母に何かを言った。

 そして笑った。西日を背に、母が何かを言ってこっちを見て笑っていて、温かかった。西日が? 母が? どちらかはわからなかった

 …………、

 …………、

 父がいた。白い光に、外で。

 父の声がして、走っていて。聞こえないけど走っていた。父の声に向けて。父の背に向けて。走って、

 草の上を、緑の芝生を。公園? 広場? どこかはわからないけど、周りを木に囲まれた場所で。走った。

 空が青くて、白くて、透明で。

 父の膝に追いついて、そして笑った。なぜかわからないけど笑って、笑っていて。声が聞こえた、笑い声が聞こえる。

 父の声が、母の声が聞こえて、笑っていた。

 いつもでも、いつまでも笑っていた。

 ………。

 ………。

 変わることのない風景。いつもの天井。

 だけどいつもと違った。

 電気が点いていた。部屋の明かりに一瞬困惑した。

 何が起きたのか理解できない。部屋に明かりがついていて、だけど朝日が射していて、それで目が覚めた。今に記憶が繋がらなくて過去を遡る。昨夜の私を、眠る前の自分を思い返した。昨日夜を眺め闇に思いを馳せていて、そのまま寝たことを思い出した。強い眠気にベッドに入りそのまま、電気も点いたままでカーテンも開いていて。夢を見ていた。

 でもどんな夢か、思い出せない。

 だけど思い出そうとする意識の向こうに、いや、裏側にその気配が残っていて、それがふれて。五感を経由しない、懐かしい何かが意識のそばにまだいて。段々と消失していく。一秒ごとに姿が薄れ、蒸発して留め置こうと手を伸ばしてもすり抜けて無くなって。正方向に秒針が刻むたび、馳せる思いに比例して失われ。まるで反比例して散逸する。していく。今。

 微かな余韻を置いて無くなって。

 その響きも霧のように消えて。でもその響きに鼓膜を添わせた。記憶を頼り意識を添わせ、見た夢を考えていた。

 ほんの数秒前の夢を、ベッドの中で考える。

 でもやはり跡形もなくなっていて、何も思い出すことはできそうになかった。

 机で何か輝いていた。

 それが時計であるとすぐに気付いた。時計のガラスが室内灯の白い光を、透明な光を白く反射し鞄の隣で存在している。時刻は見えなくて、意味も無くそこに現存し、無造作に置かれた鞄も机の上に少し斜めに、いつもとは違う場所で落ち着きなくその存在を主張して、引き出された椅子も、開けっぱなしのカーテンも、相互に作用し乱雑な空間をそこに作り上げていた。乱れたベッドから起きて、昨夜からの明かりを消して時刻を確かめる。いつもより早い時間に目が覚めていた。それは昨日よりも早い時間で、でもまた眠る気にもならず、ベッドの乱れを直し、直したベッドに腰を下ろしいつもとは違う朝日を眺める。

 さっきの夢をまた考えていた。

 記憶からも消えようとする夢を、そして中身の失せた、まるで空き箱だけになった夢の跡について思考を巡らせる。

 よく夢を見た。

 と口にするけど、何が見ているのか気になった。

 寝ている間は瞼は閉じられてるし、視覚からの情報は全て遮断されていて全く入ってこないのに、それでも夢は、意識の表層に映像として流れ込んでくる。ということは、というより、流れてる場所が意識なのかすら私には判らないけど、ただその映像を漠然と覚えていることや、そのときに感情だけが動かされていることにそう呼んでいるだけで、全盲の状態で映像が流れるということは、頭の中に記憶されている経験や感情、抱いている願望や思いなんかが映像となって流れてる。ということになる。

 そもそも人は、見ようと思い見たものや、自らに聞いたもの、意図して発言したことは当たり前に意識しているし、それは当然で、人間は意識しないと見えないし、意識しないと聞こえないし、意識しないと喋れない。突発的なことで稀に例外はあるだろうけど、それは外部の刺激に咄嗟に反応しているだけで、そこにその人の意思は介入されていない。だから意識してる、ということは=そのことを考えている。あるいはそのことを思っている。という状態なんだと私は思う。そう考えると夢は、何が見せるのだろうと思うんだけど、それは単純に、私の頭の中が見せてることに間違いはないけど、そこに当人の意思が介入するのだろうかと、私は思う。でも夢を見るときは、私自身眠っているのだからそれまずあり得ないし、そうなるともしかしたら夢というものは、無意識、と言われる自分が意識の最奥にいて、その意識していない無意識の私が、気脈を通じて見せてるものかもしれない。

 そもそも夢の中は判然としていない。

 理路整然とは言い難く、全てが曖昧で、散文的且つ、抽象的だ。見ている夢は自由で奔放だけど、体感している私は自由とはほど遠く、縛られていて、能動的とはいえず、だけど受動的ですらなくて、そこには私の思惟など存在していない。事の起こりをまるで他見して、あるいは傍観して映像を見ているだけで、そこに私の意思が介入し、思索奔走する余地は少しもない。そう考えると夢は、意識に関わりなく脳の深い部分、生き物の核なるところ、コアな場所が見せるのかもしれない。と思いベッドを立った。

 放置されたままの乱れた部屋をいつもの日常に戻そうとした。投げ置かれた鞄を床に置いて、机の脚に凭れるよう立て掛けた。遠く机と距離の空いていた椅子も、まるでそれが二時間後の自分を暗示しているように、元の机の懐の位置に収納した。

 潜考していた思念が外部に向くと、小さな音に聴覚が反応した。トントンと音がして、まな板を打つ包丁の音がトントンと聞こえ、叔母が起きていることを知ってそのまま部屋を出た。居間を通りコタツを点けて、シャワーを浴びようと浴室まで向かう。辺りはすでに朝食の匂いが漂い出していた。

「怜ちゃん。おはよう」

 叔母の声がそう聞こえ、「今日は普段より早いのね」とその響きは二の句を続け、「うん」と私は返事して、そしていつものように「おはよう」と私も返した。

 きっと今日も普段と変わりない一日がいつも通り始まる。私は脱衣所の鏡に写る、よりの入ったドライヤーのコードみたいにぐるぐるに捻じれた自分自身を眺めながら、麻衣のことを思い浮かべそう考えていた。


 あれから十日以上経っていた。

 いつものように朝のホームルームが終わり先生がいなくなると、途端に教室は騒々しくなった。

 そして雨が降っていた。 

 雨は嫌いだった。

 静かな雨が嫌いで、激しい雨も不快で、全部の雨がそうだった。全てを流す雨音が嫌悪でしかたなかった。

 その雨が教室を外から激しく打っていた。その振動が室内の空気を媒体にして、薄い私の鼓膜を左右に小さく揺らしていた。

 外は雨が強く降っていて、何かを洗い流すよう一昨日から長い時間絶えず降り続いている。その音色の合間をいつもの喧噪が慎ましやかに教室を満たしていた。規則的に、持続的に雨が校舎を鳴らし、止むことなく雨音が続いて、ノイズのように鼓膜を突いて私の中をザ──、、振動していて、その音が私の頭を埋めていく。一定のリズムで。川の流れとも違い流動的に動く、躍動的な音ともまた違う波形で周期的な、そして機械のように人工的でカラカラに乾いた、砂に埋もれて乾燥した音が頭を埋めて、刻むように小さく脳を震わしながら、色々なものを洗い流して、あらゆるものが砂みたいにその音に呑まれ流されていく。

 思惟を流し感情を流して、乾いた音に私の輪郭だけが残ると、その形骸を、殻のような空虚な私を、それさえもサラサラと砂に戻して私の全てがそこから無くなっていく。

 それと同じ雨が。

 ふたりが戻ってきた日と同じ、強い雨があの日のように降っていた。八年前を記憶に再現させる雨が、地上を目がけ矢のように降り注いでいる。

 八年前のあの日、目の前には白い木箱がふたつ並んで写真の前に、花に囲まれ置かれてあった。

 そのひとつを叔母は私に母だと伝え、もうひとつを父だと言った。何も入っていないふたつの箱をそう呼んで、ふたりは帰ってきたと私にそう教えてくれた。

 でも中は空っぽだった。いくら隅までのぞいてみても誰も見当たらなくて、写真やお花や、服とか本とか帽子とか、そんなのばかりが中には収められていて、だから私は、「お父さんは?」そう言っていない父の居場所を、そして「お母さんは?」そう言ってどこにもいない母の存在を、まだ幼かった私は、ふたりに置き去りにされたと思い尋ねた。

 すると叔母は何も知らない私を抱きしめて、「帰ってきたの。怜ちゃん」そう言って肩を震わせながら、「帰ってきたんだよ」そう言って私を抱いたまま、泣いていた。

 あの日ふたりは大きい消しゴムで擦ったみたいに、それにリモコンのボタンを押すように簡単に、跡形もなく私の前から消えて無くなっていた。そしてたったひとりここに私が取り残された。自分だけが置き去りにされた。

 ふたりが見えなくなって、空気のように私の重さがなくなった。空気のようにどこにも自分が見付からなかった。いくらどこを探しても、何をどう探してもふたりが見付からず。瞳に全く映ろうとしなかった。ブリーチされたように、まるで幻のみたいに過去が脱色されて、色素が抜け落ちて、自分がなにかわからなくなって。でも私は確かにここにいて、でも私はどこにも存在していない。自分が誰かもわからなかった。ふたりを探そうとする私が、叔母に抱かれる私が、それが誰かもわからなかった。

 その日も雨が強く叩くように降っていた。火葬場のガラスの向こうを、煙突の薄い煙が曇る空へと溶けていた。いつまでも、私を囲うように雨は降り続いて。煙は流れ希薄に、降る雨に打たれずぶ濡れになりながら、白い煙が灰色の空へと濡れて流れ拡がって、空の色と混じり合っていた。

 そしてどこかで雨音が鳴っていた。その音が私の耳に。今の私に聞こえていて。幼い私にも聞こえていた。あの時の雨が変わることなく今も降っていた。私の内側で降り続いて。私の外側でも降り続いて。

 私のそばで絶えず、鳴っていた。

 そして私にふれた。

 肩を不意に何かがふれた。

 それに振り返る。

 そこに上田さんがいた。たった今座り終ったばかりでこちらの方を向いていた。不思議そうに、だけど心許ない様子で私に視線を向けていて、その表情のまま口を開いた。言った。

「どうかしたの?」

 意味がわからなかった。

「えっ?」

 と返した。

「だって小川さん。何度呼んでも返事しないんだもん。わたし心配になっちゃって」

 不安そうに目尻下げこっちを見つめていた。

「ごめん。もう大丈夫」

「本当?」

「うん。本当」

 そう言って笑顔を作ってみせた。

「それならいいけど、でも本当大丈夫? 最近の小川さん少し変だから」

「全然平気、ごめんね。心配かけちゃって」

 張りのある声を無理に引っ張り出してそう言った。

「ううん。気にしないで。それより小川さん。校舎の建て替え、日程決まったね」

 あれから十日以上が過ぎていて、外は昼とは思えないほど光が薄く、色が消えたように目には映ってはくれなかった。外は灰色になっていて、教室の向こうは薄墨色に拡がっていた。

 校舎の件は二日前に担任から説明があった。工事は一か月後に開始され、半年ほど音が煩いだろうが我慢するように、とのことだった。受験を控えた三年には気の毒に思うが、辛抱してもらうしかないな。と最後にそう付け加えていた。あとの細かな指示は追って連絡するらしい。

「うん。急だよね。一か月後なんて。もう少し早く教えてくれればいいのに。先生達も」

「本当そう。あのときみんなぶつぶつぼやいてたもんね。突然過ぎるよ。勉強してるのわたし達なのに。」

 上田さんがそう言って笑った。黒い髪が風も無いのに今日もゆらゆら揺れていて、一時限目を待つ雨音の中、夏の陽炎みたいにそれが揺らいで見えて、その感じが今の自分と重なった。何かを必死に模索している、地に足が打ち止められていない自分と酷くダブって見えた

「それでね、小川さん。知ってた? この校舎の建て替えだけど、全部を造り替えるんじゃないんだって」

「それどういうことなの? 上田さん」

「改修て言うのかな。新しく一から造るのとは違んだって」

「改修? へぇ~。どんな感じに改修するんだろう?」

「うん。わたしもこれ弟から聞いた話なの。だからどこまで確かな情報かわからないんだけど、だからそのつもりで聞いてて。あ、それとこの話、まだ先生達しか知らないみたいなんだ。だから先生達の前では話さないほうが賢明かも」

「わかった。気を付ける」

「それでね、小川さん。この校舎古いように見えるけど、使えるところはまだいっぱいあるらしいの。だから傷んだところだけを造り変えるんだって」

「でも相当古いけど、使えるとこなんてあるのかな?」

「去年の夏休みに一度詳しく調べてるみたいだよ。この建物木造でしょ。骨組みっていうのかな? 柱や梁はしっかりしてるみたいなの。だからそういうところはそのまま利用するみたい。地震がきても平気なように対策はするみたいだけど。でね、新しく造り変えるのは内壁や外壁なんだって。教室や廊下の天井でしょ、それに床板も変えるって言ってたよ。まだ使えるみたいではあるんだけど、この際だから変えてしまうらしいの」

「それってどうなるの? 今見えてる部分が新しく造り替わるの?」

「そうなんじゃないかな。多分だけど」

 私は先日思ったことを口にした。

「何かさ、色々大変そうだね」

「色々って?」

「先生も言ってたけど、教室では授業を進めながら校舎の建て替えをしていくわけでしょ」

「どうだろう? でもきっと…、そうなのかな。この前ホームルームでそんなこと言ってたし」

「そんな環境でさ、私達落ち着いて授業なんてできるのかな?」

「どうかな? ちょっと騒々しくて大変そうだけど…、でも先生も言ってたけど、少しの騒音は我慢するしかないのかも。工事をする人も音を立てずになんてできないだろうし…」

「だよね。物音立てずに工事なんてできるわけないもんね」

「うん。それはちょっと難しいんじゃないかな」

「そう考えると色々大変に思えて来ちゃって。私達だって来年は受験でしょ。今だって必死に授業についていってるのに」

「わかる。想像するだけで凄く大変そう…」

「でしょ。何だか考えただけでも気が滅入ってきちゃって」

「わたしも。でも小川さん、半年我慢すればいいだけだしさ」

「うん。そうだね」

 上田さんは休み時間の喧騒の中、「だから大丈夫だよ」と静かに答えあとには視線は宙を舞っていた。

 雨の音を周囲にくっ付けながら、ざわざわがやがやと、クラスの多様に色付けされた生徒の声や感情が波の粒に変わって、まるで浴びせるように私達の身体にばんばんぶつかってきた。

 私や上田さんの肌や制服を勢いよく弾いて幾つも軌道を変えていきながら、当然それは瞳に映るものではないけど、でも教室中を目に見えない速さで飛び跳ねてるのを辺りを見渡しながら全身を使って感じ取っていた。

 そんなクラスの様子をしばらくふたりで眺めていたら、彼女の声が私の名を呼んだ。

「小川さん」

 それに一拍だけ間を入れて、「なに?」と返した。

「なんだか寂しくなっちゃった」

「どうしたの急に?」

「小川さんと話してて思ったんだけど、この校舎が新しく変わってしまうことは、今見ているこの景色が消えて無くなることでもあるんだなって思ったの」

 その言葉に「うん」と私は頷いて、雨音が包む騒がしい教室を再度見渡した。

「さっきのも弟に聞いた話だから、実際にはどんな感じかわからないけど、でも建て替わるのは本当で、だからそれってね、半年後にはこの校舎の何もかもが無くなっちゃって、全く違うものに変わってしまうことでもあるんだよ」

 私はまた呼応するよう「うん」と相槌を打った。感性が互いに似ているせいだろうか、彼女の想いがまるで自分のことのように理解できた。

「それでね、工事が終わってしまったら、私達は何もなかったみたいにまた授業を続けるんだよ。新しくなった校舎で、前だけを向いてまた勉強を続けるの。そう考えたらさ、少し寂しくなったんだ」

 私はまた頷いて、彼女はそれを見て少しだけ嬉しそうに笑う。

「私の中ではね、小川さん。この学校が新しくなることで期待って言うのかな、一新て言うのかな、それともリフレッシュ。とでも言うのかな。そんな前向きな感情が確かにあるんだけど、でもそれだけじゃなくて、それはこの建物が無くなることでもあって、そう思うとやっぱり悲しいことでもあって、何だかとても複雑で。言葉にするのが難しいんだけど、わかる? 小川さん」

 きっと上田さんの中では、交ざり合わないふたつの思いが共生していて、それは私の中にもあった。私の内側で滞留する、何だかもやもやとした形の無い、境界の無い、境目の無い、そんなものが私の中で、撹拌していた。

「うん。何となくだけど、わかる気がする」

 唇を閉じたまま、彼女は数ミリだけ口角を持ち上げると、またさっきみたいな微かな笑顔を覗かせ、そして自分の中の小さなつまみを左に回したみたいに声のボリュームを下げて、そばの私にだけ聞こえるくらいの声量でぼそっと呟いた。

「雨、止まないね」

 目線はそのまま表情ごと外に流れ、私も同じ灰色の窓に視線を向ける。

「あのね、小川さん。わたし去年の秋頃だったかな、この学校に転校してきたんだ。だからまだ日が浅くって、あまり親しい人がいないんだ。だから前の席の小川さんが気兼ねしないで話せる人で安心した」

 その言葉にこっちも本心を伝えた。

「そんなの私も一緒だよ。私もこのクラスに仲の良い人全然いないから、だから上田さんと席が隣になれて良かったと思ってるんだ。上田さんとは何だか気が合うし」

 それを聞いた彼女はまた数分前に表情が巻き戻った。口角を少しだけ持ち上げ、さっきみたいな笑みを私の前で再現してまた小さく笑ってみせてくれた。窓の向こうは雲のせいで夜のように暗くなっていて、まるで雨が細い線になったように見えた。無数の線が降ってきて窓の外に幕を張って。ぼやけた視界の先にはグラウンドが見えていて。水溜りが滲んで見えていた。波紋がいくつも広がっていた。

 隣には麻衣がいた。アスファルトは黒く濡れて所々で水溜りができていて、平坦な道に微小な不陸が雨水で浮き彫りになって可視化して。避けながら歩いて、部活帰りのいつもの道を麻衣とふたり歩いて帰る。雨が落ちて傘を鳴らして。頭上から雨音が落ちてきて、いつもの道が少し違うものに感じる。いくつもの雨粒が黒いアスファルトを跳ねて。そして靴を濡らして。歩くごとに靴下が濡れていくのがわかった。

 十日前の記憶がいまだ鮮明に残る。あの駐車場での出来事が、あの日から隣の麻衣が別人に見えていた。

「そういえばユッコ、聞いた?」

 強い雨の中、麻衣の声が辛うじて聞き取れた。

「学校のこと?」

 少し声を張って返すと、「そう。来月から始まるみたい」

 大きめの麻衣の声が戻った。

「それならこの前先生から聞いた」

「どんな感じで建て替えるか知ってる?」

「詳しくは知らないけど、クラスの子に聞いた話だと、全部を建て直すんじゃないみたいなこと言ってたよ。でもどうなんだろう? その子半信半疑だったし、麻衣は何か聞いてる?」

「私もそう聞いてる。簡単に言えば今の学校をベースにリフォームするんだって。そんな風に言ってた。作業をしながらベースを補強したり、悪い所が見つかったらそこもきちんと修繕していくとかなんとか」

「私が聞いた話もそんな感じだったかも」

「ユッコは誰から聞いたの?」

「クラスにいる女の子。私の後ろに座ってる子で上田さんって言うんだけど、その子も詳しく知ってたよ。私はその子に教えてもらったの。その子初等部に弟がいるみたいで、その子はその弟から聞いたんだって」

 すると麻衣は驚いたようにふたつの瞳をぱっと見開いた。

「ねえユッコ。その上田さんだけど、もしかして下の名前は葵って言うんじゃない?」

「そうだよ。え? 何で麻衣が知ってるの?」

「うん、知ってる。というより最近知ったんだけど、彼女とは家が近くなの」

「本当に? ちょっとビックリ。世間は狭いっていうか、何かそんな感じ」

 本気でそう感じた。麻衣が上田さんのことを知っていた。しかも近くに住んでたなんて、そんなの想像すらできていなかった。思いもしないところで私達は繋がっていた。そしていつもみたいに今日も私は話しかけていた。制服を着た隣りの麻衣は別人なのに、私は変わらず以前のように話しかけている。

「それよりユッコ、上田さん学校ではどんな感じ?」

「どんな感じって、普通かな」

「普通って?」

「普通に明るい女の子。私達と変わらないよ」

「そう。ならいいけど…」

「どうしたの、麻衣?」

「ううん、何でもない。気にしないで」

 会話の流れを突然絶とうとする麻衣の態度が気に掛かった。

「そんなこと言われても気になるよ。何? 何でそんなこと聞くの?」

「ユッコには関係ないよ」

「でも上田さんのことでしょ?」

「ユッコには関わり合いのないことだよ。それに大したことでもないし」

「大したことないなら言ってよ。それに上田さんのことなら関係あるよ」

 何故か彼女に対し必要以上に必死になっていた。それほど親しくないはずなのに、それなのに麻衣の口止めしている内容がひどく気になった。それがどうしても知っておかねばならない事柄のように思えた。

「ユッコには言いたくない」

「何で? 麻衣教えて」

「イヤ。教えたくない」

「どうして? 何で教えたくないの?」

「教えたくないから教えたくないだけ」

「そんなの理由になってないよ。ねえ麻衣、聞かせて」

 気になって仕方なくて、もうすでに自分の中で抑えが効く状態ではなくなっていた。自分自身でも懸命に隠そうとする麻衣を前に、引こうという思いなど微塵も感じられていなかった。

「ムリ、言えない。だから今の話忘れて」

「そんなことできるわけないじゃん」

「ダメッ、言いたくないもんッ」

「ここまで聞いて忘れるなんてできるわけないよ。言ってッ」

「イヤッ。ダメなものはダメッ。絶対教えない」

「そんな風に言われたら気になるに決まってるよ。お願いだから聞かせて」

「もう頑固だなぁ、ユッコは知らないほうがいいってッ」

「何で? 何で知らないほうがいいの? いいから言って」

「ユッコが知っても良いことないよ。それにきっと嫌な思いするだけだから」

「全然いいよ。それでもいいから聞かせて、お願い。上田さんのことだし知りたいよ」

「きっと後悔するよ」

「絶対しないから大丈夫。だから信用して」

「…………」

 麻衣はしばらく考えると、はぁ~と声にならない、だけど思わずそう聞こえてきそうな深く大きな溜め息をひとつだけ吐いて、「…わかった。…でも、知らないから」とやっとこちらに聞こえるくらいの声の大きさで呟いた。

「本当。ありがとう」

 そして諦めたように一度深呼吸をすると、普段の彼女とは異なった、緩やかな上下を見せ振幅する呼吸のような静かなリズムでゆっくりと話し始め、それに伴い降る雨も、僅かにだけどその勢いを弱め出した。

「ユッコ。上田さんね、私の家の向かいに住んでるの。そこに確か去年の終わりくらいだったかな。引っ越してきたの」

「うん。それは聞いてる。麻衣と家が近くなのは知らなかったけど、秋ぐらいに転校してきたのは聞いた」

「そう。それでね、上田さんの家、少し変わってて…」

「変わってる?」

「そうなの」

「どう変わってるの?」

「それがね、最初はどこにでもいる普通の家族に思えたの。越してきた初日はみんなで挨拶にも来てくれて。そのときは家族みんな楽しそうで、すごく仲の良い家庭だなって見てて思ったんだ。お父さんもしっかりとした人で、言葉使いも丁寧だし、お母さんは上田さんに似て優しそうでね、うちのお母さんともすぐに仲良くなって、よく世間話とかしてたみたい。外で会ってもみんな礼儀正しくて、毎朝挨拶もしてくれるし、良い家族だなって思ってたの」

「うん、そうだね。上田さんを見てるとそんな感じする」

「でもね、ひと月経った辺りから急に変わりだして…」

「どう変わったの?」

「夜にね、彼女の家から大きな音や怒鳴り声が聞こえるようになりだしたの」

「何それ? 本当?」

「うん。最初はクリスマスの前日だった。今でも覚えてる。上田さんの家からガラスの割れる音がしてね、何だろうと思ったらその直後に男の人の大きな声が聞こえてきて、でもそのときはすぐに収まったの、だから私達も普通の諍いていうか、単なる夫婦喧嘩ぐらいにしか思ってなくて、気にも留めてなかったんだけど…」

「違ったの?」

「うん…。その日だけじゃなかったの。一週間くらいしてまた同じようなことがあって、また大きな物音と大きな声が聞こえきて、しばらくしたら収まるんだけど、夫婦喧嘩にしては少し様子がおかしいねって家族と話してたら、そしたら一週間くらい経った頃に同じようなことがまた起きて、これはいよいよ変だねって話してて…」

「どう変なの?」

「一方的な感じなの。男の人が大きな声で相手を脅してるって言うか、罵ってる感じで、相手は多分お母さんだと思うんだけど、汚い言葉を浴びせてる。でね、そんなことがたびたびあって、ううん、たびたびて言うか、最初は週に一回くらいの間隔だったの、だけど回数を重ねるごとに騒音や叫び声が段々激しさを増して、その頻度もね、どんどんと間隔が短くなって、最近ではほとんど毎日聞こえてくるの」

「虐待っていうのかな。それとも家庭内暴力っていうのかな、上田さんのお父さんね、お酒飲むとそうなるみたい。人が変わったみたいになって、暴力振るってしまうみたいなの。上田さんの家五人暮らしなの。お父さんにお母さんに上田さんでしょ、それに弟もふたりいて、初めは本当に仲の良い家族だなって思ってたのに…」

「ユッコ。私達ね、私と上田さんだけど、家が隣同士なのにあんまり仲良くないんだよ…。変な話だよね」

 麻衣はそう言って、今にもきゅっ、と音を立てて壊れてしまいそうな小さな笑顔を作って微笑んだ。

「今ではね、夜になるたび激しい罵声が聞こえてくるの。それと同時に物がぶつかる音や、棚が倒れたような物凄い音がして、「お前が悪いんだよ」て大声で何度も言ってる。多分上田さんのお母さんのことを言ってるんだと思う。そしてね、そのお母さんを庇って上田さんもやられてる。声が聞こえるの。上田さんの悲鳴が聞こえて、泣き声が聞こえて、そして罵声がまた酷くなって、「葵、お前本当に俺の子か?」とか言いながら凄い物音がして、聞いてて堪らなくなる」

「うちのお父さんがね。あまりにも酷いからって何度か上田さんの家に行ったこともあるの。だけどそのたびにお母さんが出て謝るだけらしくて、事情を聞いても何も話してくれないみたいなの。私もね、一度用があって伺ったことあるの。そのときはお母さんがいなかったみたいで、上田さんが玄関まで来てくれたんだけど、でも上田さんそのとき、雪の降る真冬なのにだよ、白い薄手のTシャツにスカート一枚だけで玄関に出てきたんだよ。いったい何をしてたのかわからないけど、上半身ずぶ濡れになってて、髪からは水がいっぱい滴って、身体寒そうに震わせてた…。それでね、胸元は下着がわからないよう手で覆って隠してたけど、でも濡れた服からは黒い痣が透けて見えてたの。両肩とか、鎖骨の下とか、お腹とか、表からは見えないところばっかりに。黒く滲んでて…。生地が薄いせいで、それにシャツが濡れてたから、それが浮かび上がって服の下からはっきりと見えてるの。鎖骨のとこなんて直接、顔を覗かせてて…。私それ見て何も言えなくて…、何もできなくて、あんなのあり得ないよ。ひど過ぎるよ…。」

「きっとお母さんもそう、私達には見えてないだけ…。じゃなきゃあんな怒鳴り声や叫び声が聞こえるはずないもんッ」

「ねえユッコ…」

「うん…」

「どうして?」

「えっ?」

「何でなの?」

「何で上田さんだけあんな目に遭うの。あんまりだよ。あの子私達と変わらない普通の子だよ。ねえユッコ、なんで…?」

 麻衣は泣きそうに声を震わせていた。目の前にいる麻衣が、辛そうに顔を歪ませる麻衣が、あの日以前の麻衣の姿と、私の中で綺麗に重なっていく。

「ごめん。ユッコにこんなこと言ってもどうにもならないことわかってるのに。最近彼女のことで夜も眠れないことが多くて…」

「ううん、その気持ちわかるから」

「うん…。ありがとう」

「それでね、私達もできることをしようてなって、私の両親も最初の頃は警察や児童相談所に連絡してたの。だけどその人達があの家族に介入するたびに騒音や叫び声が激しくなって、それでも頑張って続けてたんだけど。そしたら上田さんのお父さん、私の家にまで押し掛けるようになって…。そうなりだして、うちの両親も干渉しなくなっちゃったの。今ではあの家族と目も合わせなくなっちゃって。だけど毎日聞こえてくるの。激しい物音と罵声が。それに上田さんの悲鳴が聞きたくないんだけど、だけど聞こえてきて、その音を聞いてることしかできないことが辛くて…」

「でもね、ユッコの話聞いて少しほっとした。上田さんが学校では楽しそうにしてくれてるのがわかって、少し嬉しかった。これからもユッコは仲良くしてあげて」

 そう語った麻衣の表情はどこか寂しげ、でも僅かに微笑んでもいて、ふと私の知っている彼女の形に、ふれてる気がした。

 麻衣は上田さんへのどこにもたどり着けない、行き場を欠いた休まる術のない想いに苛まれながれ、この世界にどうにもならない現実のあることを知って、その複雑にもつれた心境を自分の表情と言葉をもって、私に無意識に伝えてくれていた。

 それを聞いて私は愕然とした。

 麻衣の話を聞いていて、彼女のことを想像していて、そこには暴力とは掛け離れた明るい姿が浮かぶ。教室で見せる彼女の優しい瞳と楽しげな様子は、虐待とは無縁で、そんな現実離れした世界とは正反対に見えた。

「大丈夫? ユッコ」

「うん。平気」

「ちょっと湿っぽくなっちゃったね」

 そう言って麻衣は話題を変えた。

「そういえばさ、どうなるんだろうね? 学校のリフォーム。私たちの授業は毎日欠かさずあるわけでしょ、授業しながらそんなこと出来るのかな」

「どうかな? 難しいことはわからないけど、空いてる教室も沢山残ってるし、きっと出来るんじゃない」

「そっか。やっぱりそうだよね」

「多分だけどね。それより麻衣。麻衣はその話誰から聞いたの?」

「この話?」

「そう。誰から聞いたのかと思って」

「川上先生だよ」

「うそっ? 川上先生が教えてくれたの?」

「うん。教えてくれたというより、無理やり聞き出しちゃった。一昨日の夕方、先生の家の近くで偶然会ったんだ。そばに先生の住んでるマンションが見えててね、だから家に入れてて頼んでみたんだけど、さすがにそれはムリだった。断られちゃった。そのマンション一階がコンビニになってて、そこで最初先生と普通に授業の話してたんだけど、そしたら途中から校舎の建て替えの話になって、そしたら先生、その話必死に隠そうとするんだもん。私可笑しくって。無理に迫って聞き出しちゃった。ああ見えて先生口が堅いんだよね。苦労しちゃった」

 そう言って笑う彼女は子供のように愛らしくて、その笑顔には陰り一つ見当たらなかった。

「けど周りは知ってる子が多いよ。校内にもかなり知れちゃってるみたいだし。それにわざわざ隠す類の話じゃない気がするな」

 とさり気なく先生を擁護すると、麻衣は目の前の水溜りを少し勢いを付けて、軽々と飛び跳ねた。地面に着いた衝撃で傘の雫が無数に落ちて。水面を弾いて。水溜りに雨とは違う波紋をいくつも拡げていて。少し先で私を振り向いて。

 言った。

「ねえユッコ」

「何?」

「私ね、この間先生とキスしちゃったッ」

 その瞬間、あの日の麻衣が頭の中に蘇った。

 先生と麻衣が、車の中のふたりが、私の意識のすべてを奪って知覚が、一瞬で無くなった。

 何も言葉が出なかった。何も返す言葉が思い付かなかった。感覚が何もなくて、少し先で、麻衣が無邪気に笑ったように見えた。いや、きっと笑っていた。そんな彼女を少し離れて、少し遠くで眺めていて、無数の線が地面に落ちて雨になって。視界が霞んで、麻衣の姿が薄く滲んで輪郭がぼやけて見えた。雨が傘を叩いて音が空から降って来て。

「学校、消えて無くなっちゃえばいいのにッ」

 また言って。

 思わず

「えッ?」 

 と聞いていた。

「勉強、大っ嫌いッ。それにさ、私も生徒じゃなくなるでしょ。だから、学校なんて無くなっちゃえばいいのにッ」

 麻衣は大きく叫んでそう言って、うん。本当だね。無くなっちゃえばいいのにね。と私は言った。言って、頷いた。上田さんのことを思い浮かべながら、言っていた。


 家でテレビを見ていた。

 画面を夕刻のニュース番組が流れていて、そこから音声が絶えず漏れている。映像も音にくっ付きひたすら流れて私の視界に入っていた。光の速さで、画面の色や動きを私の瞳が感知して、音がスピーカーを経由し空気を揺らして、鼓膜を伝い私に届いた。でも私は把捉してなくて解釈していない。少しも認識してなくて、叔母がこちらに顔を出して私に何かを言って。そして唐突に映像を視認して音を受動した。

 台所に戻ると叔母はまた言った。

「どうかしたの?」

 少し大きな声でそう言って、「どうして?」と返した。

「何となくよ。何となくそんな感じに見えた」

 少しくぐもった声に感じた。台所にいるからそう聞こえたのかと考えていた。ふたりの間の、台所から居間までの距離がそう思わせて、包丁がまな板と鳴っていて、流しの前で俯いている叔母の姿を想像していた。

 あれから気分が優れなかった。

 お風呂に入っても全く改善されず、何も話す気にならなくて、食欲も皆無で、すぐにでもベッドに横になりたかった。

「今日、先に休んでいい?」

 叔母が顔を覗かせてた。

「どこか具合でも悪いの? そういえば顔色も良くないみたいだけど」

「ううん、大丈夫。学校で少し疲れちゃっただけ。休めば良くなると思う」

「それならいいけど。ご飯は? 何か食べられそう?」

「ごめん。食欲もあまりなくて…」

「そう、それなら寝るのが一番かもね。何か食べたくなったら言って。すぐに作るから」

「うん。ありがとう」

 そう言って部屋に戻った。

 雨はまだ降っていた。窓をにじませ、色を混ぜるように外の世界をガラス越しに浸潤させて、降り続いている。目の前に点在する隣家の明かりが濡れた窓を透して膨張して、膨大に見えた。それを見澄まして。光が拡がって、ふくよかに肥大して私の視界に反映していた。タッセルを解いてカーテンを閉めた。部屋を満たす雨音が遮られ、でも微かに鼓膜の中まで響いた。気付きにくいほど些末に、けどそれと分かるほど顕著に。ベッドに入り明かりは点けたままで空色の布団に包まった。

 …………、

 …………、

 夢の中で居間にいた。周囲の見覚えある景色が夢の中で再現されていた。

 この家の居間にいて、今はもう置かれていない、紺色のソファーに私がひとりで座っていた。

 いつの頃かわからず。それが体験した記憶なのかさえ定かではなかった。でも幼少期の私がそこにはいて、昼間なのに薄暗かった。今日のように暗い日で、けど雨は降ってはいなかった。音だとわかるものはそばには何もなく、そこは日の光の全く届かない空間で、でも自分や周りの景色は薄く認識できていた。寒さも暑さも感じなかった。

 私以外誰もそこにはいなかった。

 父も母もいなかった。お婆ちゃんもお爺ちゃんもいない部屋で、私は泣いていた。でも涙が流れることはなくて、でもやはり私は泣いていて、いつからだろう?

 流す涙が変化していた。

 瞳に映らないものへと変わって、皮膚を流れないものへと変わる。重黒い悲泣に変わり、濃縮した傷心となり癒着して、私の深部にまで侵食していた。

 この星で私の影だけが消えて無くなって、自分だけがこの星で呼吸をしていないような、あるいは真っ暗闇の宇宙の中心に、私ひとりが取り残されたような、そんな深い寂寥が、空気のように取り巻いていた。少し上空で傍観している私の周りに、そしてソファーに座る幼い私に滞留していて。

 そして私は泣いていた。ただ泣いていて。

 何かを待っていた。

 …………。

 …………。

 目を開けると部屋の明かりが点いていた。カーテンが視界に入り、そのまま寝たことを思い出して仰向けになった。目映い灯りに目元を腕で覆って。寝返りを打って身のままに体を預ける。夢の思念が意識の裏に残留していた。暗澹あんたんとした不快なものがまだ裏側にあって、もうしばらく眠ろうと瞼を閉じた。

 でも眠ることができずベッドから起き上がる。雨音は止んでいた。気分は優れなかった、けど幾分かは良くなっていた。時計の見える位置までベッドの上を移動する。時計の針は夜の十一時を過ぎていて、秒針は今も休息なく動き続けて時を前に進めていた。一秒ずつゆっくりと着実に。休みなく機器的に進み続ける。私の身体もそれに伴い成長する。一秒一秒緩徐に、だけど歴然と有機的に、時を刻む秒針に並走していた。私の細胞一つ一つが生まれ変わりながら、先へと身体も進んでいく。自分の意思とは関わりなく今の私を置き去りにして、息つくことなく前へと歩み続ける。

 喉の渇きを感じ台所へ向かうと、居間の明かりが点いていて、テレビの音が漏れて聞こえた。

「怜ちゃん、具合どう。少しは良くなった?」

 テレビに交じり叔母の声がそう聞いてきた。

「うん。眠ったらずいぶん良くなった」

「それなら良かった。お腹はどう? 空いてない? 何か食べられそう?」

「ううん、食欲はあまりなくて…」

「だったら飲み物は?」

「それなら平気かも。温かい物は飲めそう。何かある?」

「そうね、ホットミルクは?」

「多分大丈夫」

「ちょうど牛乳が買ってあったの。すぐ温めるから座って待ってて」

 その声で居間に向かうと、叔母と入れ違いになった。すれ違いざま叔母は私の顔をじっと見て、「さっきより顔色は良くなってるみたい」とひと言言って笑ってから、そして台所へ向かった。やがてそっちで物音が鳴り始めると、私は校舎のことを思い出して口を開いた。

「洋子叔母さん。学校のことなんだけど」

「学校? 学校がどうかしたの?」

「工事の日程がね、決まったみたい」

「そうなの。いつから始まるの?」

「一か月後って言ってた。今からひと月後に工事が始まるんだって」

「結構急なのね」

「みんなそう言ってる」

「あとでそのプリント見せて」

「プリントは貰ってないよ。先生から直接そう聞いただけだから。でも近いうちに詳しく説明してくれるみたい。そんなことも言ってたし」

「そう。それなら急いだほうがいいかな。怜ちゃん、明日学校は?」

「休みだよ。あす明後日は土日だし、それに祭日も挟んでるから振り替えになってて、学校は三日間休み」

「予定はどう? 忙しかったりする?」

「もしかして学校に行くの?」

「そうしようかと思って。急いだほうが良さそうだし」

「空いてるよ。特に予定も入ってないし、勉強しようと思ってたくらい」

「だったら三日目の休みはどう? 私もその日は仕事休みだし」

「私は大丈夫」

「だったら決まり。明々後日の休み、怜ちゃん付き合って」

「うん。わかった」

 その夜は不思議と特別だった。

 居間から覗く台所の灯に温もりを感じた。その後も叔母の話に合いの手を返しながら、テレビの漏れ出る音声と映像に意識を向けていた。コタツの中はほど良く温もっていて、叔母の立てる微かな音がこちらの方まで控えめな感じで聞こえていた。

「はい、どうぞ」

 五分後そう言葉を添えて、私の前に置かれたホットミルクは温かかった。ハチミツがひと匙落とされていて、甘くて。美味しくて。そう思った。


 空は晴れていた。

 いつもの通学路をいつもの制服で身を包んでいつものように歩いていた。でも今日は手ぶらで、だから鉛のように重く茶色い学生鞄に苛まれることもなく、そして隣にいるのは麻衣とは違って叔母だった。叔母とふたり、同じアスファルトの道を学校まで歩く。いつもは麻衣と共有している時間を、今日は叔母と分かち合っていた。通い慣れた道だった。いつもの朝を繰り返すように、道路沿いのガードレールに沿うように歩を進め、ブロック塀に囲まれた住宅をいくつも過ぎた。背の高いアパートを何軒か通り過ぎ、今も昔も変わらない通学路を学校まで歩く。変わらないな、この道も。そう言って叔母の子供時代を振り返りつつ、当時のままの変わらない道程をふたりで喋って歩きながら、移り変わり進んでいく街並みに目を向けていた。共に歩く隣の叔母はもちろん大人なんだけど、でも幼い叔母もトタトタ燥いで足音を鳴らして、大人の叔母の少し後ろをついてきているようだった。叔母と一緒に歩いていたら、そんな錯覚に陥っていた。

 学校には三十分ほどで到着し、そのまま歩を進め十分くらいで正門まで辿り着いた。

「懐かしい。昔のまんまッ」

 叔母は門の前で声を上げると、敷地に入って校内をきょろきょろ見渡して、そして少し走って一度深呼吸をして、「怜ちゃん。ほら、早くッ」そう言ってさらに奥まで入りまた辺りを見回して、懐かしんでいた。昔を。遠くに見える築山を見て、並んでいる鉄棒を見て、その横のプールを見ながらそこに、昔の自分を思い出していた。そのまま歩いて校舎に向かい、古びた壁板を手でなぞって、建物を見上げ、その横顔に感情は読み取れないけれど、きっと何かを思っていて、それは多分、当時の自分を、ここにいた頃の自分を今の校舎の中に、今の自分の中に追懐している。そう思い叔母の視線を辿り、その表情を横から黙って見つめていた。

 校舎の外周を歩いて回りながら、音楽室を覗いて、図書室を覗いて、各教室を覗いて歩きながら。

「本当に懐かしいな」

 叔母はまた言った。

「怜ちゃん。私ね、こう見えておっちょこちょいでさ、小さい頃忘れ物が多くて、学校でお姉ちゃんによく物借りてたの。習字道具やリコーダー、それに体操着も借りたなあ。でも体操着は流石にぶっかぶかに大きくて、結局ばれちゃって先生に怒られちゃったんだけどね。それに学校の行き帰りは毎日お姉ちゃんと一緒でね、雨の日なんて私置き傘してるせいかな、私の傘よく盗まれちゃって、そんな時お姉ちゃんの傘に入れてもらってたの。でも子供用の傘って小っちゃいんだよね、結局ふたりとも体半分びしょびしょに濡れちゃって、傘は無くしちゃうし体は雨で濡れちゃってて、帰ってお母さんに怒られて、それをお父さんに告げ口されてね、そのあとお父さんにも怒られちゃうの」

 まるで子供のようだった。

 嬉しそうに当時の思い出を語る叔母があどけなく見えた。

「なんかそれ、すごく叔母さんらしい」

 私が茶化すように言うと、「あっ。それ褒めてないでしょ」と叔母は私を見て嬉しそうに笑った。

「それとね、覚えてる。怜ちゃん?」

「何?」

「お姉ちゃん勉強の教え方全然下手くそだったんだよ。本人は丁寧に教えてるつもりなんだけどね。全く丁寧じゃないの。昔よく教えてもらってたんだけど、その度に喧嘩になって、そこだけは嫌いだった」

 私は覚えてなくて、だから左右に頭を振った。

「怜ちゃんもそうだったんだよ。お姉ちゃんの家に遊びに行くとね、ドリルをしながら怜ちゃんよく怒られて泣いてたから、だから私それ見て、苦労してるんだろうなあって密かに思ってたの。でもまだ小学校に入る前のことだったし、怜ちゃんが覚えてないのも当然かも」

 叔母は愉快そうにまた笑みを溢すと、視線を校舎に移して中を眺め出した。

 すると突然呼び止められた。

「どうかされましたか?」

 不意にそう問われ、声の方を振り向くと、そこに校長先生が立っていて、また口を開いて不思議そうに聞いてきた。

「どうかなさいました?」

 咄嗟の事で戸惑いながら叔母が挨拶をして、皺を湛えた丸い顔が奇妙な様子で私のほうを振り向くと、私もそれに会釈して、先生も小さな会釈を返した。私を見ると、怪訝そうな表情が幾分か柔らかくなって、叔母が事情を説明し始めた。その話にとき折り私が補足して、不穏だった気配が徐々に緩和する。五分も経つとピリついた空気も随分と弛緩して、先生は事情を察したようで、象のような温和な瞳が皺に埋もれ笑顔が零れるようになりだした。

「なるほど、あなたはこの学校の卒業生で、最後に校舎を見に来られたと、」

「はい。許可なく入ってしまいすいません」

「いやいやお気になさらず。それにしてもそうですか、あなたも。なにを隠そう私もここの卒業生なんですよ。と言いましても私が通っていたのは四十年以上も前のことでしてね、この校舎はそのときからありました。ここはその頃と何も変わってはいなくて、せいぜい変わったのは私みたいに年を重ねたくらいのもので、その当時も古い建物でしたけど、今となってはそのころ以上に草臥れてしまいましたね、この校舎も。私もなんですが」

 と皺を掘り下げ冗談めいて笑ったあと、「老朽化のためとはいえ、この校舎がなくなってしまうのは残念でなりません」と寂しそうにあとを付け足した。

「断わりもなく本当にすいませんでした。どうしても最後に見ておきたくて」

 叔母は頭を下げ一度謝罪した。

「でもやはり無くなるんですね。先生から直接お話伺った今でも、この校舎が無くなることが俄かには信じられなくて」

「わかります。私も同じ思いでしてね、全くと言っていいくらいに実感が湧いてこない。工事まであと一か月もないというのに、困ったものです。ひと月後には工事が始まってしまって、そして半年後には今の建物はなくなってしまうというのに、それを頭のなかではしっかりと理解できてはいるんですが、その事実が私のなかで、なかなか真実味を帯びてきてくれないんですよ」

「そのお気持ち良くわかります」

「おそらくといいますか、そうなのでしょうけど、建物への想いを私自身が断ち切れていないんでしょうね。ですがこのようなこと、あまり褒められませんよね。模範となる立場の私が、いつまでも過去にしがみついてなどいて、こんな後ろ向きなことでは他の教員に示しがつかないと重々承知してはいるんですけれど…」

「そんな…。私もそうで、せめて最後にひと目見たくてここまできましたけど、でも今先生の口からその想いを耳にして、やはり無くなることを肌で感じました。とても残念です」

 先生が惜しむような仕草で校舎を見上げると、叔母も視線がその動きを模倣した。けれどまたすぐに叔母は頭を下げて、自分の非礼をきちんとした形で再び謝罪した。

「とはいえ、無断で立ち入ってしまい申し訳ありません」

 それを慌てたように先生は手で制した。

「いいんですよ、そんなことは」

「けれど校長先生、やっぱり寂しいです。自分が過ごした学校が無くなってしまうのは。校舎が建て替わるだけなのでしょうけど、それは私にとっては違う建物で、私が九年間過ごしてきた校舎とは別なものになってしまう気がして…」

「同感です。おっしゃりたいことは良くわかります。私もこの学校と共に成長したようなものですから、ですので今回の件をまるで自分のことであるかのように思えてしまっていて、私が教師になってこの学校に戻ってきて、もう十五年ほど経つんですけれど、ここに当初赴任して、四十年ぶりにこの校舎を目にしたときはさすがに驚きました。私が幼い頃に記憶していたままで、その頃と何も変わってはいなかったものですから、とても感慨深かったのを覚えているんです。それこそなんといいましょうか、縁とでも言うんですかね、そのようなものをこの建物にそのとき強く感じましてね。当時はこのまま、この学校に定年まで骨をうずめてしまうんではなかろうか。そんなことを理由もなく信じ込んでいましたよ。とても変な話ですよね。信用にたる根拠など何もないといのに、それに定年まではまだ二十年近くあったんですけれど、でも本気でそう思っていました。そのときは本当にそんな運命というものを信じてました」

「わかるような気がします。一度卒業した母校に、今度は教師として戻って来たんですから、そこにはとても特別な巡り合わせみたいなものがあったのではないでしょうか」

「そうですね。そうかもしれない。本当にあるのかもしれませんね。この世界にはそんな不思議な結び付き、みたいな力が。ここで教師としての最期をこのまま本当に迎えることになるかもしれません。こんな話、若いおふたりには大袈裟に思われるかもしれませんが、私はこの校舎に今までの生徒の思いが込められていると思っていましてね。それは喜びであったり怒りであったり、悲しみであったり慈しみであったりと、良き思い出も悪しき思い出も含めて様々でしょうけど、その思いが出来事の記憶と一緒に、この校舎には幾つも込められていて、そこにはもちろん、生徒一人一人が抱き感じた感情や思いなども当然含まれているんでしょうけれど、それ以外にもクラスで共有した志であったり、それに運動会や文化祭だったりの各行事を通して得られた学年ごとの経験や、全校生徒が一体になった思いなど、それら形を有さないものが百年以上の長い時を積み重ね、この校舎には無数に、そして途方もなく収められているように思え、そしてそれらはもう私にとっては建物という枠すら超えてしまっていて、私達と何ら変わりないものだと思えてしまうんです」

 校舎を見上げたまま、深い眼差しを浮かべ先生は熱を込めてそう語ってくれた。でもすぐに照れを隠すように少し崩れた笑みに表情を変えて、「申し訳ありません。年甲斐もなく熱くなったりして、おかしなことを口にしてしまいました」と自らを諭すように笑った。

「そんなこと…」

「こんな話、やはり大袈裟でしょうか?」

「いいえ、校長先生のそのお考え、とても良くわかります」

「おぉ、そうですか。いや~嬉しいです。今思わずテンションが上がってしまいました。」

 先生は私に目線だけを振ると、横顏に笑みを覗かせ、丸い顔が今にも嬉しそうに勢いを付けて転がっていくように思えて、その様子に私もつい頬が綻んだ。

「そう思うとですね、粗雑と言いますか、この校舎を無下には扱えなくて、役目を終えたあともどこかで留めておきたいと思うのですよ」

「留めておきたい…? ですか?」

「はい。卒業した一人一人の生徒。それに教卓に立った教師全員に留めておいて欲しいと思いまして。これはまだ一部の教員しか知らないことですが、教室で利用していた木材の一部で写真立てを作り、皆さんにお配りしようと考えていましてね」

「そんな大事な話、部外者の私に話してしまわれて大丈夫なんですか?」

「大丈夫ですよ。先週決まったことですから、もう誰に話そうと問題はありませんし、生徒にも近いうちに担任からの説明があると思います。ですから何も心配は入りません。安心して下さい。すでに卒業している方には、当校に保管してある資料で一人一人連絡を取っている最中なのですが、これが行ってみると思いのほか人数が多く、中々に手間のかかる作業でして…」

 苦笑して語尾を濁して、先生はその大変さを私達の前でぼやいてみせたけど、でもそこには先生の持つ温かい笑みも見え隠れして見えていた。

「素敵なお考えだと思います」

「ありがとう御座います。そう言って頂けると励みになります」

 先生はこり固まったぎこちない笑みを瞬時に緩めると、叔母に感謝を述べた。

 それからもひと頻りふたりは喋り合った。

 それは十四の私でも理解できるような浅めの内容だったり、ときにはそれとは違って、政治に踏み込んだ少し難しめの話題だったりをふたりは話した。職員室の扉が何度直してもすぐに開かなくなってしまうことや、少子化でこの学校の生徒が年々減少していること。そして建て替えに際して頑丈なコンクリート製ではなくて、こうゆう時代だからこそ、敢えて今の校舎そのままに利用すること。そしてその想いを少しでも生徒の皆に汲み取って欲しいと校長先生は話した。叔母はそれに、「わかります」「私もそうで」など、途中に合いの手を入れながら、深く頷いて、しばらくその話に耳を傾けていた。別れ際校長先生に、「どうせですから中を覗いて行かれませんか? 御案内しますよ」と叔母は勧められたけど、その誘いを丁重に断って、私達は校長先生に別れを告げた。

 そして一度校庭に出た。

「怜ちゃん。もうひとつ行きたい所があるの。向こうのフェンスのそばに桜の木が立ってるでしょ。そこ」

 叔母はそう言うとグラウンドの向こうを指差した。

 その方角にふたりで暫く歩いた。

 グラウンドには数名の生徒が点在していて、そのなかに制服姿の上田さんを視界に見留めた。彼女は校舎のそばのケヤキの木の下に設置された、卒業生が作成していった木製の細長いベンチに腰を下して、グラウンドを見つめていた。私は叔母に断ると、一度離れ彼女に小走りに近づいた。

「上田さん」

 彼女はこっちを振り向くと、すぐに私に気付いて立ち上がった。

「あっ、小川さん」

 その拍子に黒い髪がいつものように揺らいだ。でも今日は少し異なっていた。教室の外で、弱いけど少し風も吹いてるせいで、日頃見ている重心に沿う流れとは違って動きがまるで不安定で、軸の壊れた振り子のように揺れが秩序を失っていた。

 私が軽く挨拶すると、返すように彼女も明るい言葉をこちらにくれた。そして同じベンチに私達は隣り合って座った。

「小川さん、今日は学校休みだよ。どうしたの?」

「今日は叔母さんの付き添いで来たんだ」

 そう言って叔母のほう見ると、叔母はこちらに背を向けグラウンドを迂回して目的地へと歩いていた。

「上田さんこそどうしたの?」

「わたしは弟達と来たの。弟達ね、今サッカーしてる」

 上田さんはグラウンドを見て言った。

「わたしね。よく学校に来るの。とくに休みの日はそう」

 笑顔だった。

 いつもの笑顔で変わらない表情。いつもの上田さんらしい柔らかな口調でいつものように彼女は私に喋りかける。

「小川さん、今日すごくいい天気」

「本当だね、この間の雨が嘘みたい」

「うん、この間の雨すごかったもんね。何かさ、久しぶりに本気を出して降ってみた。ていう感じがした」

 楽しそうだった。そして嬉しそうに燥いでみえた。

 その様子に、雨の日の記憶が蘇る。

 あの日の麻衣の話が、瞳を塞ぐように激しく視界に押し付けられた。今の彼女の雰囲気が、何故かあの日の彼女と重なる。まるで正反対なはずなのに、何ひとつ一致しないはずなのに、何故か互いに強く惹かれあう。雨音の中で聞いていた、麻衣の言葉の一つ一つが上田さんの笑顔に被さった。徐々に被さり厚く重く幾重にも積み重なっては私の中で際限なく比重を増していく。

「ねぇ小川さん、何か変な感じしない?」

「どうしたの?」

「休みの日に学校で会うのってさ、何か変な感じするよね。ちょっと照れくさいっていうか、何かそんな感じがする」 

「その感じわかる」

「やっぱり、小川さんもそうなんだ」

 そして私はいつものみたいに話しかけていた。彼女の前で自分を偽りながら、何事もないよう自然を装い接していた。

 嘘のようだった。彼女の柔らかい表情が、それをさり気なく補完している穏やかな句の調べが、暴力それに虐待、そんなものとは解離して見えた。

「何かさ、町でクラスの子とばったり会ったときにも似てない」

「言われてみればそうかも。似てる」

「ね、だよね。取り敢えずお互いに挨拶はするんだけど、いざ話し始めると何を話していいかわからない、みたいな感じで。」

「そうそう」

「何かお互いにさ、畏まっちゃうんだよね」

「そうなの。何でなんだろう」

 彼女を覆う気配に、麻衣の言葉が錘となって漂っていた。目の前の彼女の姿に、父親に暴力を受けているもうひとりの彼女の像が重なった。暴言を吐かれ、殴られ悲鳴を上げる上田さんが、そう告白した麻衣の言葉が何層にも被さり重層的に真実味を増していく。話せば話すほど、そして同じ時を彼女と過ごすほどに強くシンクロしていった。それなのに私はただ、そばに立つことしかできていない。勇気のない自分が、それを聞くことすらできない自分が、ただ隣に立って、一緒に笑っていた。まるで欺くように、彼女に喋りかけていた。空っぽの器に虐待という事実を押し込んで、歪な小さな器に抑圧して、彼女を騙すように知らないふりをしながら、クラスメイトの仮面を被り偽善を振り撒いていた。

「小川さん? 急に黙って、どうかした?」

「ううん、大丈夫。それより上田さん。どの子が弟達なの?」

 私はそんな欺瞞に溢れる思念を脳裏から追い遣りたくて、だからボールを蹴るグループを見ながらそう聞いた。グラウンドの右端では初等部の男子が六人ボールを蹴り合っていた。

「黄色い帽子とオレンジ色の帽子を被った子なんだけど、わかる?」

「うん。わかる」

 ふたりはすぐに見つかった。サッカーを知らない私が見ても彼らの動きは異彩を放ってみえた。

「私でもわかる。すごく上手」

「家の事情で部活には入ってないんだけどね。時間があると友達に混じってよく遊んでるみたい」

「ふたりとも楽しそう」

「時間を見つけてボールばっかり蹴ってるんだよ。それより小川さんは? 付き添いって何の?」

「一緒に来てた洋子叔母さんね、この学校の卒業生なんだ」

 そう切り出して、ここに至るまでの過程を簡潔に説明した。

「そうだったんだ。だから最後に小川さんと」

「そう。最後にひと目見ときたかったみたい。さっき校長先生と偶然会ったんだけど、この校舎が無くなるのが今でも信じられないってふたりで話してた」

「その気持ちわかるな。わたしもそんな感じするもん。この校舎が無くなるなんて嘘みたいで、全然実感なくて。あのね、小川さん。わたしこの学校結構気に入ってて。あっ、これこの前話したね」

「うん、聞いた。古いけどそこが好きなんだよね」

「うん。それもそうなんだけど、でもね、それとはちょっと違ってて。何て言うのかな。わたしね、この学校が好きなの。でもこの好きってね、この前話してた古いから好き。とはまた別な感じなの。わたしこの学校が好きで、だけどこの好きって学校が楽しいっていうことでもあるんだけど、でも何でなのかな? 言葉にして伝えようと思うと確かに楽しいなんだけど、好きっていう言葉に変わっちゃう」

「好き?」

「うん。楽しいよりね、好きって表現した方が自分の中でしっくりと収まってくれるの。何でなんだろう?」

 ………。

「……それはきっと、」

「うん?」

 そこまで言葉が出かかり、でも私はそこで口を噤んでしまった。そしてそれから先の私の想いが声になって彼女に届くことは無かった。

「どうかしたの?」

「ううん。何でもない」

 それは多分この場所が、上田さんにとって唯一自分を守れる空間、あるいは時間だったから、ではないだろうか。

 それはまるで私において絵を描くという行為と同じであるように、自分を忘れることのできる場所、もしくは何者でもない自分になれる場所。そんな場所が彼女にとってはこの建物だった。

「でも、わかるよ。その気持ち」

「本当?」

「うん。全部じゃないけど、だけど上田さんの言いたいことは凄く伝わってくる」

「ありがとう。でもよくわかんないよね、ごめん。突然こんなこと喋り出しちゃって」

「ううん、何で謝るの?」

「おかしなこと話してるの自分でもわかってるんだけど…。やっぱり変だよね。何か今日、いつもの自分じゃないみたいで…」

「そんなことないよ」

「小川さんはどう? この学校、来てて楽しい?」

「うん。楽しいよ」

「ねえ小川さん。わたしね、この学校に転校してきて良かったと思ってるんだ。小川さんとも出会えて、クラスのみんなは楽しいし、この学校にいると嫌なことがすぐに無くなるの。辛いことがわたしの中からいつの間にか消えて無くなってる」

「だからなのかな。時間があるとね、この学校に足が向いちゃってる。家で嫌なことや辛いことがあると自然と、自分でも気が付かないんだけど…、でも気付いたらこの学校に来ちゃってて…。だけど…、こんなの普通じゃないよね。変なのわかってる…。でも…、本当何でなんだろう。今日のわたし可笑しいよね、ごめんね…。ホント、ごめん」

 膝で組まれた両手は強く握られ、その声は小さく震えていた。表情は俯いててわからなかったけど、それが笑顔のはずはなかった。

「…何だかまたおかしなこと言っちゃてるね、わたし」

「…ううん、平気だよ」

 私はできるだけ穏やかな声を彼女に向けた。

「今日どうしちゃったんだろう…。ごめんね。小川さん」

 喋る声は段々弱弱しくなって、あとの方は漸く聞き取れるほどに掠れていた。

「大丈夫。気にしてないから…」

「本当に変だよね、何でこんなこと喋ってるんだろう。さっきから謝ってばっかりだし、…バカみたいわたし。小川さんに最近変だね、大丈夫? て聞いといて、自分の方が変なんだもん。笑っちゃう」

 顔を上げた彼女の笑みは今にも泣きそうに崩れていた。

「そんなこと…」

「でもね。この学校に来て良かったと思ってるのは本当なんだよ…。でもどうしてだろう…、いつもはこんなこと…」

 絞るような声のあとすぐに、頬を微かな涙が流れ、それをわからないよう指先でそっと彼女は拭った。

 それを見た私の声帯が思わず揺れた。

 ふたりを隔てる五十センチ未満の距離を、その揺らぎが埋める。

「大丈夫だよ。私知ってるから、上田さんが辛い思いしてるの」

 喉を鳴らし空気を震わせ。

「だからさ…」

 私の口腔内を音が通り過ぎ、自分の想いが意志に変わり彼女のもとへ届いた。そんな気がした。そんな気がして、でもそれは気のせいで、そんなものはただの錯覚で、そんなものは単なる勘違いで、私の唇がまた震える。そして違う音を奏で、全く別な言葉を私の音は紡ぎ出した。

「私もそう」

 声が揺れて彼女に届いて。体現する。私の口がもうひとりの私を。違う私を意志になって声になって伝えた。弱い私を、情けない私を、無力で頼りない自分を彼女に届け、黙視している私を伝える。

「私も良かったと思ってるんだ。だって上田さんがこの学校に来てくれたから、私達友達になれた」

 そして精一杯に笑ってみせた。

 すると彼女は少し驚いて、でもすぐにいつもの変わらない笑顔で笑った。

「ありがとう」

 そう言って瞳に涙を溜めたままで、少しだけ嬉しそうに笑う。

 一度グラウンドを見て、そして上空を彼女は見上げると、私も同じ動線を辿る。

 いや、意識しないで辿っていた。

 空が視界にあった。

 雲ひとつない透明で、吸い込まれそうな空が青く、どこまでも広がって見えていた。きっと彼女にも同じ空が私のように瞳の全部を覆っていて、遠くまで彼女の視界を埋めている。私達はその空に同様の感情を抱いた。互いに重なり、そしてふれ合った。根拠もなくそう思った。

 グラウンドの右端で、男の子ふたりこちらに手を振り上田さんを呼んでいた。その声は大きくて、どんなに離れていてもそれと判るほどにくっきりとして鮮やかで、その響きはどこまでも遠くにまで届きそうなほどに力強く感じられた。

 私は上田さんと別れると叔母の後を追った。

 グラウンドを迂回しながら歩いた。

 正門と校舎をまっすぐ結んだその中間の左端、敷地を囲うフェンス沿いに植えられた桜の木の前に叔母は立っていた。正面の桜に手をふれ、何かを思うように硬直したまま動かなかった。

「叔母さん?」

 私はその背に呼びかけた。

「怜ちゃん。昨日の夜思い出したの」

 叔母は文脈に沿わない言葉を返しながら、とうに花を散らし葉桜になった桜の木を見上げていた。そばに近寄りその表情を覗いてみると、桜を望んでいる視線はさらに離れたずっと先の遠方まで伸びているように見えた。

 私も同じように桜を見上げ尋ねた。

「何を思い出したの?」

「二十年経っちゃった」

「二十年?」

「ここにね、中等部最後の日、お姉ちゃんのタイムカプセル埋めたのを昨日思い出したの。すっかり忘れてて、昨夜偶然思い出して…」

「ここに?」

「そう、お姉ちゃんの名前、桜の字が一文字入ってたでしょ。それに怜ちゃん知ってた? この桜ね、お姉ちゃんの生まれた年に植樹されたんだよ。三十八年前、ここに移植されたんだって。だからもしお姉ちゃんが生きてればこの桜と同じ年齢だから、三十八歳になってたんだよ」

 私は叔母の雰囲気が、何故か会話する空気とは違って感じられて、だから黙って叔母の話に耳を傾けた。

「でもね、本当は少し違うのかもしれない。この桜がこの学校に来たのは苗木の頃だから、ここに移植されたときには芽を出してから四五年は経ってたと思うの。だけどあの頃は私も中学生だったし、そんなの気にもしてなくて、当時もそのことは知ってたんだけど、でもそれ以上にね、ここに植えられたことのほうが特別なことに思えたの。それがこの桜にとって新しいスタートのようにも感じられたんだ。だからお姉ちゃんと話して合ってね、この場所に埋めることにしたの」

「あの事故からもう八年も経っちゃった。当時は怜ちゃんも小さかったんだよ。本当に泣いてばっかりで、大変だった。私怜ちゃんのことわからないことだらけで、どう接したらいいか毎日考えてた。私ね、きっと怜ちゃんもだけど、あの日から必死だった。お姉ちゃんの代わりはできないことわかってたけど、だけど怜ちゃんを悲しませたくなくて、ただ毎日をひたすらに懸命に走ってた気がするの。今思うと本当にあっという間だった」

「あの日を今でも覚えてる。今日みたいに穏やかに晴れてて、タイムカプセルを埋めた日は桜が満開に咲いてたの。本当は十年前に取り出すつもりだったんだけど、結局、今日になっちゃった」

 叔母は昔の映像を覗き見るようにそう言うと、先日ミルクの中に落とされていた、スプーン一杯のハチミツみたいに淡くて黄色くて透き通った、まるで陽だまりみたいな笑顔を私に向けた。でも物憂げな表情も保護色みたいにそこには透過して見えていた。あの日の麻衣と同じように、叔母の中のふたつの想いが私のもとまで絡み合いながら届いた。母への想いが、叔母の私への想いが長い距離を越えていく。その言葉を母のそばで感じていた。まるで面前の母に届いたように思え、でもそれと等しいほどに叔母のすぐそばにも感じていた。

 カプセルはそれほど深くないところにあった。叔母が桜の根元を小さなスコップで少し掘ると、木製の小物入れがビニールにくるまれ埋められていて、僅かに付いた土を払って中の箱を私に手渡した。

「それ、きっと怜ちゃんが開けた方がいいと思うの」

 そう言って箱と一緒にくるまれていた、一枚の桜の花びらを叔母は手に取った。きっと木箱とともにビニールに紛れ込んでそのまま埋められていた、当時の色彩を変わらずに残す薄いピンクの花びらを眺めながら、「理由はわからないけどそう思えるんだ。今日、怜ちゃんとここに来たのも、偶然じゃない気がしてるの」とあとを続けて、まるで昔を顧みるように、そして二十年前の桜を、その当時の様子を懐かしむように、その花びらを見つめ叔母は微笑んでいた。


 帰って来ると部屋に戻った。

 ベッドの上で暫く箱を眺めていた。目の前の二十㎝四方の箱の中に、母の思いが込められていて、そこには叔母の想いも合わさっている。ふたつが重なるように箱の中で交じり合っていた。今日一日そばにいてそう思った。思っていて日が暮れ出して、その頃にようやく手を掛けた。上蓋は難なく開いて閉塞した闇に一瞬で光が入る。その瞬間、二十年前の世界が部屋の中に拡散した。拡がって今の時代と混じり合った。中には封筒が一通と、古びた写真が一枚重なるように収められていて、中の写真を手に取ると、当時の鮮やかな彩度は箱の中ですっかりと色褪せていた。四隅は外に大きく反って湾曲していて、地色の白は黄ばみ、その様相に二十年の歳月を感じることができた。写真には女性がひとり写っていて、その被写体である女性は私と同じ制服を着ていた。リボンの色だけは違っていたけど、その同じ制服を着ている女性は、写真中央で円筒状の筒を握り、そのケースは思うに卒業証書で、その黒い筒を両手に抱え姿勢良く直立していて、その女性の目尻に、鼻の形と口元に、母の面影を掠めるように感じ取れた。それはこの前アルバムで見たどの写真よりも部位を縁取る線が砂を散らしたみたいにばらけた、精細さを欠くぼやけた写真だったけど、でも当時の母であるのが一目でわかった。

 十五才の母は、正門の前でカメラを向いて満面の笑みを浮かべていて、その表情には陰りひとつ見えなくて、晴れやかな顔で丸いレンズの奥を覗きこんでいた。私の瞳に笑いかける母は、不幸なんて言葉もその意味も、それがどんな形をしていて温かいのか冷たいのかも知らない笑みでこちらに微笑みかけていて、とても幸せそうに見えた。

 写真の下の薄い緑の封筒には、手紙が三枚三つ折りになっていて、その手紙を取り出し広げてみる。白い便箋はカサカサ大きな音を立て両手の中で広がった。乾燥していて少し抵抗があって、広げたあとも指先にその余韻が暫く残った。中には纏まりのある大人びた文字が幾つも並んでいた。当時の母の字を私は知らないんだけど、でもなぜか私にはそれが母の字のように思えた。それは間違いなく母の字だろうけど、それとは違って、写真に写っている母の、幸せそうに微笑む母が描いた字のように思えてならなかった。

 どんなことを書いたらいいのかとても悩んでます。描き出しはそう始まっていて、十年後の自分に向けて、横書きの白い便箋に母の文字が無数に連なっている。その文字を一つ一つ目で追った。

 そこには当時の母が描かれていた。母の思いが記され、母が中等部の頃の記憶、そのときの思惟や感情が母の言葉で描かれていた。それは当時の母の字で、母が中学生の頃の、その当時の便箋当時のインクで描かれていて、そこには母がいた。目の前の両手の中に。この便箋の中に。インクの中に文字の中に母がいて、存在していた。当時の母がふれていたはずの便箋。少し硬くなってゴワついた便箋に私がふれて。当時のペン。紙の上で変色して薄茶けた、母が使ったはずのペンのインクを私の目がふれて、母の描いた文字を描いた記憶を、そして思惟や感情を私が直接、ふれていた。

 イーゼルの前にいた。

 目の前のカルトンに。面前の木炭紙に鉛筆を走らせる。ふたりと私の写真を見て何も考えないで無心に手を動かした。ただひたすらに時間さえ忘れて。母の手に抱かれる私と、それを見ている母と隣でカメラを見る父と。ふたりと一緒になりたくて鉛筆を動かした。私の指先を。その先の鉛筆を木炭紙に滑らせふたりをなぞった。ただ会いたくて描いていた。ふたりに会いたくて。だから描き続けた。後ろに父を感じて、隣に母を感じた。目には見えないけど、確かに感じていた。すぐそばに、すぐ近くに感じていた。

 繋がりたくて、幾重にも線を重ねて父を描いた。母を描いた。その父にふれたくて、その母にふれたくて、母の腕に抱かれる私と重なりたくて手を動かしていた。

 描く軌道がいくつも積もり徐々に浮上し始めた。

 一ミリもない線が、それらが重なる一本の線とふたりをなぞる輪郭が、意志を持って私の前に立ち現れる。

 描かれた父は父だった。描かれた母は母だった。

 父と母が木炭紙に深く色濃く刻まれていく。

 私の父はすぐそばにいて、私の母も寄り添うようにそばにいた。私は母の手に抱かれ…。

 そして

 満たされていた…。


 …………、

 …………、

 その夜夢を見た。

 …………。

 …………。

 それは温かい場所だった…。

 父のとなりで…。 母の腕の中で…。

 視線の先には母がいて、あの写真のように陰りひとつない笑みで私に微笑みかけ、

 そばで父は見守っていた。

 母の笑い顔があまりに幸せそうで、私も一緒に笑っていた。

 それだけで満足で。 それだけで幸せで。

 ふたりがとなりで微笑んでいるだけで幸せだった。


 深いところの何かで、そう感じていた…。




















































 十年後の私へ


 どんなことを書いたらいいのかとても悩んでます。

 何だか不思議な感じがしていて、将来の自分に手紙なんて書いたことがないので、この場で何を書けばいいのか凄く考えていて、この文章を書いている最中も、色々と思案しながらペンを走らせています。

 十年後の私は何をしていますか?

 元気にしていますか?

 相手は自分であるのに、こんな質問していることがちょっと可笑しくて、この手紙を書いていて少しだけど照れくさいですし、それに擽ったい感じもしていて、でもやっぱり、不思議な感じがしています。

 これを読んている私はどんな私になっていますか?

 綺麗になっていますか?

 結婚はしていますか?

 未来の私は、この手紙を読んでいてどんな思いを抱いていますか?

 今の私みたいに胸の中が擽ったいような、恥ずかしいようなそんな気分でしょうか? それともどこか昔を懐かしく感じたり、当時の私を微笑ましく思っていたりしてますか?

 こんなこと初めての経験で、こんなことをしている自分に、言葉では言い表せない複雑な思いを抱いているし、でもその反面、新鮮な感じも受けていて、何だか楽しくも感じています。

 この手紙を読んでいるのも私なのですから、こんなことをわざわざここに書く必要はないのかもしれないけれど、でも今の自分のためでもあるので、やっぱり書いて留めておきたいと思います。

 これは妹が言い出したことなんですよ。

 私が将来の自分へ手紙を書いているのは、妹の思い付きなんです。今の私が便箋の前でペンを握っているのは洋子のせいなんです。

 この場で先に謝っておきますね。本当にごめんなさい。洋子の思い付きに未来の私まで付き合わせてしまって、申し訳なく思います。ご迷惑をお掛けしています。

 だけど、意外に姉思いの良い妹なんです。気紛れで気分やなところはあるけど、そんな妹に毎日助けられてます。

 でもそんなこと、ここに書かなくても当然わかっていますよね。読んでいるのも私なのですから。やっぱり何だか書いていて、とても不思議な感じがしています。

 今書いているこの手紙もそうで、私一人ならこんなこと思い付きもしなかったのかもしれない。いつものように突然のことで、「十年後のお姉ちゃんに何か届けようよ」と言い出した妹の言葉を最初聞いたときは驚きもあって、何にしようかと思い、戸惑いながら便箋を手に取ったのだけど、机に向かっていて、十年後の自分を思い浮かべてペンを走らせているうちに、段々と別の感情が湧き上がってきて、今は高揚感というか、待ち遠しいというような、旅行に行く前日のわくわくとした胸の高まりを感じています。

 今の私は結構幸せです。

 そんな妹がそばにいて、ちょっと口うるさくて面倒くさい反面、意外にしっかり者で、たまにそそっかしい一面もあるけど、あの子の持つ明るさには毎日助けられています。

 未来の洋子はどんな大人に成長しているんだろう?

 どうですか?

 少しは慎ましやかで穏やかな、大人の女性に成長しているのでしょうか?

 いいえ、きっと違うような気がするな。おそらくあの子のことだから、十年後も今と変わらず元気に燥いでるように思います。手紙を書いている今もそうだけど、何を書いているのか執拗に聞いてきて、そばで書いていてとても大変だけど、今の私はそんなあの子に支えられていて、将来の私も、今のように洋子の元気に、あの子という存在に支えられてるような気がしています。


 これを読んでいる私は幸せですか?

 元気に過ごせてますか?

 私には、この手紙を手にしている自分がどんな私になっているのか想像もつかないけれど、十年後の私を、未来の私を想像していて心が弾んでいます。

 今の私は幸せです。

 十年後の私はどうですか? 幸せですか?

 きっと、幸せですよね。洋子も私も、きっとだけど、幸せだと思います。だけど、だけど念のために、十年前の私から神さまにお願いしておきますね。

 これを読んでいる私も、今そばにいる洋子も、今の私のように、幸せでありますように。




                                     小川 千桜ちはる






























































「少しお話を聞かせてもらえるかな?」

「はい。今日は友達と来てるんです」

「君たちは高校生?」

「はい。東高の三年です」

「この街にもとうとうスゴイ大きなショッピングモールができたね。コンサート会場兼競技場も併設されてて。映画館もあるし、そばにはレジャーランドもあるみたいですよ」

「知ってます。私達もう四回目ですからッ」

「本当に! まだ開店して一ヵ月だよ。それだと週に一回来てる計算になるけど」

「はい。私達そろそろ大学受験も近し、今のうちに楽しんどこうと思ってて…」

 すると叔母の声が聞こえ、それを合図にテレビの音声が突然ぷつんと途絶えた。

「怜ちゃん、何やってるの。早くしないと時間なくなるよ。今日は友達三人で買い物行くんでしょ。遅れると悪いわよ」

「うん。わかってるっ。今終わったとこっ。それじゃ行ってくる」







                                         了


                                           

 最後まで読んで頂きありがとうございました。

 これからの執筆の参考のため、皆さんの意見を聞かせてもらえると嬉しいです。賛否はどちらでも構いませんし、些細なことでも結構です。皆さんの思った考えをそのままコメントしてもらえると、今後のためにもにもなりますし、なにより作家を目指している自分への励みにもなります。ぜひ宜しくお願いします。

 今回は貴重な時間をこの作品のために長い時間割いて頂き本当にありがとうございました。これからも書いていくつもりでいますので、もしよろしければこれからもお付き合い頂けると幸いです。


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