このゆびさきにふれないもの【前編】
初の投稿になります。
この作品を二年前に書き上げ、その後あらゆる賞に応募するも受賞までは到らず、しかしこのまま眠らせるには惜しいと思い、少しでも人の目にふれさせたくこのサイトを利用させて頂きました。
経験の浅い稚拙で文盲な文かもしれませんが、読んで頂けると嬉しいです。
二回に分けアップするつもりでいます。
ぜひ最後まで読んで頂き、読了後もコメント欄に評価や感想などを添えて貰えると、今後の励みになります。
「時間ないよ怜ちゃんッ」
叔母の急かすように呼ぶ声が、浴室の扉を通り抜けて質が変わって聞こえ、立ち込める蒸気の中にとけて混じり合って響いた。その声は確かにいつも聞いている叔母の声だけど、でもどこか、いつもの声とは密度も彩度もふるいに掛けたみたいに、扉一枚分削がれ、日頃のものとは違って感じられた。
「わかってる」
そう返す私の声も反射して加工され、狭い室内を反響して余韻が細く耳の中を抜ける。
狭く薄い鼓膜を猛スピードで走り去って、私の意識に自分の声として認識された。その音の響きは、白い湯気を視認できない速度で細かく震わせながら、この狭い空間を縦横に飛び交っているようだった。
コックをひねりシャワーを止める。お湯の柔らかな音色が途端に止んで、一瞬静寂が流れ込む。僅かに遅れて、叔母の立てる物音が静けさの端に聞こえだして、止めたつもりのノズルの先端からは、透明な滴がゆっくりと蕾のように膨らみ始め、その膨らみが消えたように視界からぱっと無くなると、真下に置いた湯桶を跳ね、快いしっとりとした音が微かに聞こえ耳をくすぐった。
私はコックの位置をもう一回確かめノズルの先を視認した。湯桶の位置を少し変え、白い湯気のこもる浴室を出た。
叔母は私のことを怜ちゃんと呼んだ。
本当は怜子だけど、そうとは呼ばず怜ちゃんと呼んでいる。呼ぶとすれば怜子な気もするけど、それに私自身怜子で全然構わないのに、叔母は怜ちゃんと私のことを呼んだ。その理由が知りたくて、だから私は昔一度、なんで怜子と呼ばず怜ちゃんなのかを訊ねたことがあった。すると叔母はテレビに向ける視線を幼い私に移し、「可笑しなことを聞くのね」とひとつ言葉を返して、「怜ちゃんは怜ちゃんだからよ」と、そのとき笑顔でそう言った。
確かに怜ちゃんは怜ちゃんだ。
でも私には、その言葉の意味が解らなかった。当時の私は、叔母の目を見てわけもわからず頷いていて、それ以上深く尋ねることもしなかった。いまだに叔母は私を怜ちゃんと呼んでいて、その理由は今も謎だけど、でも私はその怜ちゃんを、案外気に入っていた。
体を拭いて洗面台を前にする。
鏡に映る裸の自分。中学二年の自分。
白い肌に私が写り、その私が鏡に映る。特に秀でたとこのない中の上ぐらいの容貌。そして膨らみかけた胸。ようやく見て取れるウエスト。振り返れば重力に臀部はゆるみ、成長途中の身体は何もかもが中途半端に思える。濡れたセミロングの髪が黒く艶を放ちくしゃりと下に垂れさがる。光沢も持つ、黒い羽根が濡れたような私の髪は、鏡に吸い付くように映り込んで、十四の思春期の肌を白く際立たせた。
その髪からヒタリと落ちる数滴の滴が、背中を伝わりお尻、踵を伝い、床に敷かれたマットの中に抵抗なく吸い込まれる。視線を感じるわけでなく、当然見られてるわけでもないのに、体を覆うようにバスタオルを巻き付け白い肌を隠す。棚からドライヤーを取り出し、ぐるぐるに捻じれたコードをコンセントに差し込む。捻じれたコードがさらに捻じれてドライヤーに煩わしく干渉した。
スイッチを入れると不快な音がさらに煩わしい。思わず耳をふさぎたくなった。勢いよく吹き出す熱風で濡れる髪を梳かしながら時間をかけ湿度を蒸発させていく。
一本が一ミリにも満たない髪は当然のように水を含んでも膨らむことはなく、互いが吸着して付き合い、自然と束ねられたひとつひとつの塊を解かすように細く、白い指を絡ませ風を通し一糸一糸乾かす。
叔母と住み始めて八年が経った。
私は幼い頃に両親を亡くし、他に身寄りのいなかった私を、母の妹の洋子叔母さんが引き取り育ててくれている。最初は戸惑うことばかりだったけど、八年も一緒に過ごしていると、叔母との生活にも随分と慣れてくる。
「遅刻するわよ」
耳を埋める風音の僅かな隙間に、朝食を作る叔母の声が小さく届いた。私は風をゆるめ櫛で梳かしながら髪を整える。
「わかってるっ。もうちょっとで終わるッ」
大きめの声で返して、鏡に映る自分を外行き用に整える。髪をオイルで保湿し下着を身につけ、タオルを巻いたまま部屋まで戻り、ベットの上に出していた肌着と冬用の制服に袖を通す。僅かな火照りと湿り気を帯びた肌に生地が馴染むように流れる。着慣れた服がどこの違和感もなく今の私の全身をすっきりと覆い、まるで自分の肌みたいにピタリと張り付く。
「早くしなさい」
叔母の声に微かな焦りが交じる。
姿見の前で衣服を整える。細いリボンを結び薄茶の上着の襟を直して、チェック柄のスカートを一周回って皺の有無を確認する。この八年の間に叔母から怒鳴られた記憶を辿ってみた。辿ってみたけど、私の中にその記憶が見つからない。私の行いも大いに関係あるんだろうけど、基本的に叔母は声を荒げ、捲し立てるタイプとは違うように思う。
「もう終わった」
鏡を見ながら、オイルの付いた軽く乱れた髪を押さえるように手で直して居間まで急いだ。
肌の余熱もなくなり、春先を過ぎても残る寒さが居間全体にあとを曳いていた。中央のコタツに手足を投げ入れ暖をとる。スイッチは入れてあった。包むような柔らかな熱が四つの手足をじんわりと温める。
叔母の手で、お盆に乗せた料理がコタツの上に次々と並び始める。
納豆に味付き海苔、それに卵焼きと軽めに焦げた鮭の切り身。
台所に戻る叔母が言った。
「怜ちゃん、お味噌汁おねがい」
「わかった」
その声で台所へ向かう。手足の熱を惜しみつつ、コンロの上のお鍋のふたを開ける。
白い湯気がせきを切って上がり、フタの水滴が滑るように中へ数滴流れ落ちた。味噌特有の香りが辺りに広がって、ガラス製のフタを水滴に気を払い後ろの小机にそっと置いて、お玉を手に取り中を数回かき混ぜた。味噌の旨味が全体に行きわたり、中の具材が気持ち良さげに泳ぎ回った。ふたつ並ぶ小ぶりなお椀に、叔母と私の分を注ぎ分けお盆にのせる。お椀の縁を汚さないようそれなりに結構気を遣う。注いだお椀がお盆の上でふたつの湯気を白く湧き上げていた。
「怜ちゃん。これもおねがい」
叔母はご飯茶碗をふたつ私に手渡した。こちらも炊き立てのご飯がふたり分、私の手の上で湯気を上げていた。青い水玉の茶碗には一杯分の小山がふわりと作られ、黄色い水玉の方にはその七分目くらいの小さな山ができている。そのふたつをお盆に乗せた。
「怜ちゃん、お箸もね」
「うん」
箸立てから箸を二膳手に取った。石竹色の少し長めの箸が叔母のもので、それより短い萱草色のが私のだ。その他には露草色の箸が三膳、円を描いて扇状に並ぶ。この箸は主にお客様用として使用する。その横の同色の箸置きもふたり分お盆に乗せて、それぞれにコタツの上に並べる。石竹色の箸と、青い水玉模様の茶碗を叔母のところへ並べ、体重が気になり出した私のとこには叔母と同じ模様だけれど、水玉が黄色い茶碗を並べた。萱草色の箸置きをそばに置き、同じ色の箸をその上に載せた。
汁の入ったお椀は胡桃色と飴色をした木目の美しい小ぶりなやつだ。それらを叔母と私のところそれぞれに並べる。胡桃色のお椀を叔母の茶碗の横に並べ、飴色のお椀を黄色い茶碗の隣に置いた。
配膳を済ませコタツに入る。手足を暖め叔母が来るのを待った。居間の時計を見てリモコンでテレビのスイッチを入れる。家のテレビは少し前に壊れて調子が悪かった。電源を入れると先に音声が流れ出し、数秒経ってようやく映像が映った。壊れたとき叔母は懐かしそうに、「まるで昔のテレビみたい」と愉快そうに笑っていた。結局買い替えるつもりはないらしく、今もそのまま使っている。
画面には朝の情報番組が流れていて、いつも変わることなく訪れる朝を、いつもの時間にいつも通り言葉と映像に乗せている。そこで語られる二ユースに特段興味はないし、その内容もそれほど理解してはいないけど、毎朝の占いだけは幼い頃から欠かしたことはなかった。
私の星座は牡羊座で、今日は十二星座中九位となっている。お世辞にも良い順位とは言えない。
【新たな目標が見つかりそう。今日一日アンテナを張って過ごしましょう。スーツを着た男性に朝一番に挨拶すると運気が良くなりますよ。ラッキーカラーは白】となっていた。
ポップで華やかな画面に青い文字が横たわる。そこには別段悪いことも良いことも書かれてはおらず、それはまるで私の毎日を象徴しているようだった。
台所の物音が止んで、片付けを済ませた叔母が私の向かいに腰を下した。
「それじゃ食べようか」
叔母とふたり手を合わせ軽く会釈する。
いつからかいただきますと口に出して言わなくなった。小さい頃は毎回手を合わせ、口に出して大きな声で言っていたように思う。中学に入ってからだ。叔母は何も言わない。だから私も気にしてはいなかった。
テレビを眺めふたりして黙々と箸を進める。
若いアナウンサーが人気俳優の結婚報道について喋り始めると、叔母がその声に便乗した。
「そういえば怜ちゃん。この人結婚するみたい。しかも相手の女性も女優でね、お腹に赤ちゃんがいるんだって。昨日のテレビでは妊娠六ヶ月とか報道されてたけど、知ってた?」
「ううん。今初めて知った」
「怜ちゃん、昨日ニュース見てないの?」
「うん。見てないよ」
「昨日のお昼にテレビで結婚発表してたんだけど、この人今人気なんだって。先週のドラマも視聴率凄かったし、それにほら、顔もイケメンじゃない?」
「どうかな? かっこいいとは思うけど、そこまで興味は湧かないかも」
「そうなの? 何で?」
「だって、あまり好みじゃないし」
「でも職場でもこの人の人気凄いのよ。休憩中なんてね、ワイドショーで取り上げるたびに周りの仲居さんキャーキャー騒いじゃって、テレビの音なんて全然聞こえないんだから」
叔母は旅館で仲居として働いている。私と住み出した頃にはそこで働いていたから、少なくとも八年以上はいる計算になる。叔母は仕事のことは私に話さないし、私からも尋ねたことは一度もなかった。
「イケメンなのもそうだけど、あの厚い胸板がいいんだよね。怜ちゃんは?」
「私はちょっとムリかも」
「でもがっしりしてる方が男らしくて良くない?」
「どうだろう、私は苦手かな」
「なにかあっても守ってくれそうだしさ、隣にいて安心できるでしょ」
「それは少しわかるけど、でも生理的に受け付けない」
「怜ちゃん、マッチョの人嫌いだった?」
「絶対嫌いってわけじゃないけど、でも異性としては見れないかも」
「そう。ちょっと残念。あの逞しい肉体の魅力を怜ちゃんとも共有したかったのに」
叔母はそう言ってテレビのチャンネルを変えた。すると天気予報が流れ出した。地域ごと、そして三時間置き、そして一週間と、画面には太陽マークがいくつも並んでいた。
「怜ちゃん、もうそろそろ行かないと遅刻するんじゃない」
「うん。わかってる」
画面の時刻をちら見して残りのご飯を急いで流し込んだ。
「ごちそうさま」
皿を流しに置いて、洗面台で髪と服装を確かめる。
「怜ちゃん。今日はお弁当用意してないの、お昼はパンでも買って食べて」
「わかった」
鏡に映る自分に体裁のフィルターを被せ、教科書が満杯に詰まった鞄を抱え家を出た。
アスファルトに立ち上空を見上げる。
四月の空は底抜けに透明だった。朝の陽射しに思わず手を翳してまぶたを細め、陽を覆う手の平に確かな春を感じながら、地に滞るひやりとした気配が、行き場を無くしたひと握りの冬を、私の肌に冷たく匂わせる。
私はこの季節を結構気に入っている。いや、季節というよりさらに限定的なもの、時期といった方がより正確かもしれない。冬の寒さほど厳しいものでなければ、夏の暑さほど不快ではない。けれど晩春ほど穏やかでもなければ、心寂しい秋ともどこかが違う。そんな時期。空へと伸びる手の平の確かな春に、足肌をさわる冷気が冬の余韻から姿を変えて、別の新しいものへと移り変わりそして、頭の霧を晴らす。それを体感で感受して、それに感応する。
一度大きく息を吸い、静謐で凛とした空気を体の奥深くにまで行き渡らせる。その風は隅々を巡る。体内を余すことなく循環し、一つ一つの自分がリフレッシュしていくのを細胞感覚で感じる。こうすることで全ての自分が新しく生まれ変わる気がした。何かを払拭するような、鬱屈したものが無に帰すような、そんな気配を感取していた。
微かな露を朝が香らせ、ローファーの靴音が一定のリズムで澄んだ空に広がる。
残る露はアスファルトにも朝を香らせる。
まだ背の低い陽射しはガードレールやブロック塀、それに住宅やアパート、遮蔽物で日の届かないアスファルトの表面を黒く滲ませる。その他を灰色に染めて、不規則な淡いモノトーンでこの道を彩る。汚れのない森閑とした道を。そんないつもの路、変わることない通学路を、少しだけ、鮮やかなものへと変える。
友人と待ち合わせに使っているバス停まで歩いていると、スーツを着た男性が遠くの方から現れた。いつもは見ない人だった。朝の占いを思い出し声をかけようか迷う。毎朝いない人がここにいる。何故ここにいるのだろう? そう思う。その容姿を見て、今日の私のために歩いているようにさえ感じられた。私がいつもの時間より少し遅いから? それとも彼が朝早くに目が覚め、時間的に余裕があって会社までの道を単に遠回りしただけで、そのせいで今日この場所で居合わせたのか、でもそんなのとは全く関係なくて彼に何か用事があって、たまたまこの道を通ったところを私が偶然通りかかっただけかもしれない。そんなことを考えてたらすぐそこまで迫って来てて、だからすれ違いざまその男性に声をかけ頭を下げた。すると相手も笑顔を作って軽く会釈し、気持ちの良い挨拶を返してくれた。私は軽い安堵感を覚えつつ、これで少しは運気が上昇してくれるかな、とこれから始まる今日に小さく期待して、友人の待つバス停まで歩くペースを速めた。
私は歩を進めながら、多分だけど、さっきの男性の影響かもしれない、とその誘引みたいなものを思考の端に意識しながら考える。
八年前にいなくなった父と母が、最近私の夢に出てくるようになった。その夢を今この場で思い起こしてみても、それがどんなものであったか、その中身は一切思い出すことはできないけど、でも彼らの夢を見たあとは、なぜか毎回憂鬱になった。
最後にふたりを夢に見たのはいつ頃だろうと記憶を浚ってみるけど、それは何ひとつ思い出せないほどに古い話のことで、そしてこの時期に、そしてさっきの男性のように、忽然と出現した彼らの夢にどこか不自然で、何か兆しめいたものを私に予期させる。何かの切っ掛けと言うか、始まりみたいなそんな、理由はわからないけど、形を成さない漠然とした予感みたいなものを自分の中で、その思い出せない夢に私は感じ取っていた。
先に視線を送ると、待ち合わせのバス停で女の子が手を振っていた。同級生の足立麻衣だ。私も手を振り返す。歩調が自然と速足になった。
「麻衣、おはよう」
「おはようユッコ」
麻衣の小さな顔には整ったパーツがバランス良く並ぶ。彼女の顔は可愛いと言われる種類の顔立ちだ。身長も高く、まるで雑誌で目にするモデルみたいで、同性の私でもつい見入ってしまうほどに可愛い。地毛の茶色いボブの髪が朝日に鮮やかに発色していて、首の辺りを緩やかにカールする。彼女は私にとって気を許せる一番の親友でもあった。麻衣は私のことをユッコと呼んだ。
「ごめん、遅くなっちゃった」
「いいよ。大して待ってないし。それよりユッコ。さっきの人知り合い?」
歩きながら麻衣が聞いてくる。
「何? 麻衣見てたの?」
「うん。ていうより見えたから」
「全然。今日初めてあった人」
「ダメじゃん、知らない人にむやみに声かけたりしたら」
麻衣の顔はすごく可愛いんだけど、でも背も高いし垢抜けているせいか、どこか大人びて見えた。
「でもテレビの占いで言ってたよ。朝スーツを着た男性に挨拶したら運気が上がるって。だから思わず声かけちゃった。でもいつもは見ない人だったから少し緊張した」
「やっぱり、そんなことだと思った。ユッコたしか牡羊座だったよね。それで順位は九位で、ラッキーカラーは白だったでしょ」
彼女の喋りは子供がピョコピョコ跳ねてるように早口で、会って最初の頃はその速さに圧倒されていたけど、でも今ではもう慣れたのか、一切気にもならなくなった。
「麻衣も見てたの。しかも覚えてるし」
「当然でしょ。あのねユッコ、そんな危ないことしてまで運気なんて上げなくてもいいの。もとの順位が九位なんだし、今さらそんなことしても大して変わらないと思う。それに逆にだよ、そんなことしちゃって相手が変な人だったときの方が怖いじゃん」
「大丈夫だよ。良い人そうだったし」
「ダメダメ。ユッコ全然わかってない。そんな人が怪しかったりするんだから。いくら相手が清潔そうな笑顔で品行方正に見えても、裏では何考えてるかわかったものじゃないよ」
私は思わず笑った。
「麻衣は考えすぎだから」
「何言ってるの。私達子供じゃないんだよ。自分の身は自分で守らなきゃ」
「心配し過ぎなの。麻衣は」
「もうユッコ、笑い事じゃないよ。ホントわかってる?」
「大丈夫。ちゃんとわかってるから。ちなみに麻衣は双子座だったっけ。何位だったの?」
「私? 私は十二位よ」
「それ本当? もしかして最下位なの? ねえ麻衣、それって私のこと心配してる場合じゃないんじゃない」
「そうよ。だから私、今日は信じないことにしたの」
麻衣は笑顔でそう言った。
麻衣とは初等部からの親友だ。
私達の学校は小学校と中学校が一緒になっている。一般に小学校と言われる学部を初等部と呼んでいて、中学校を中等部と呼んでいる。学校の行き帰りは今でも一緒に通い、中等部になって一度は同じクラスになったけど、今年の新学期からは互いに別のクラスになってしまった。だからといって校内で全く会えないわけではなくて、麻衣と私は同じ美術部でもあるので、クラスが別でも夕方になると、美術室で一日の疲弊した顔をお互い見合って笑っている。
美術部では主にデッサンを習う。デッサンとは絵画はもちろん、彫刻工芸など、造形作品全般の基礎となるものだ。日々麻衣と木炭紙に鉛筆を走らせ、この能力とセンスにコツコツ磨きをかけている。
麻衣は私のことをユッコと呼んでいた。
出会った頃は洋子叔母さんみたいに、怜ちゃんと呼んでいたんだけど、というより、当時の麻衣に、「何て言う名前?」と聞かれたから「怜ちゃん」と答えて、だから麻衣は私のことを怜ちゃんと呼んでいたと思うんだけど、それから暫く経って、「怜ちゃんの呼び方変えたい」といきなり言い出して、その理由を聞いたら、「だっておばちゃんといっしょだし、少し変化つけたいじゃん」と当時の麻衣は、本人しか理解し得ない理由を私に言った。
結果、ゆるい紆余曲折を辿り今の呼び名になったんだけど、決まるときは思いの外すんなりと決まった。あれは七年前の学校からの帰りだった。「ねえ怜ちゃん。イッコって呼んでいい?」と麻衣が聞いてきた。
「なんだかそれって数字みたい」と私がそれに不満そうに返すと、「それじゃイコなんてどうかな? わたしけっこう好きなんだ」と彼女はまた尋ねてきて、「それは行こうみたいでイヤかも」とそれも拒否したら、「だったらイコッチは? これはダメ?」と麻衣は次の候補を出して聞いてきた。
「それはちょっと男の子っぽいかな~」とそれも遠慮するよう断ると、「じゃあイコりん。これは可愛いし女の子っぽいでしょ」と次の呼び名を麻衣は提示した。
でもそれもどこか嫌だったので、「なにかちがう気がする」とその呼び名もやんわりと否定すると、「だったらイコぴょんは?」とまた聞いてきた。
「それってイコりんといっしょじゃん」とそれも嫌で遠まわしに断ると、「もう、せっかくいろいろかんがえてたのに。え~とね、じゃあユッコ?」と言った麻衣の言葉に、あっ。「それいいかも」と思った瞬間にはそれがそのまま声に変わっていて、「んじゃきまり。今日からユッコね」とそれを聞いた麻衣はそのとき嬉しそうにそう言った。
自分の名の小川怜子にゆの字はひとつも入っていないんだけど、だけどこんな感じで、色々婉曲しつつも、でも案外あっさりと決まってしまって、麻衣はそれから私のことをユッコと呼ぶようになった。
幼い私はその夜気になって、次の日何でユッコなのか学校に行くとき麻衣に聞いてみたら、本人曰くそこに特に意味はないらしく、「用意してた呼び名が全部ダメになっちゃって、どうしようか考えてたら思い付いたんだ」と歩きながら私に、それが偶発的な閃きだったことを素直に告白した。「でもユッコて良いよね、私好き」とも言っていて、私からすると麻衣の言った候補がどれもパッとしなかったから、逆にユッコが良く思えただけなんだけど、でも今日までの七年弱を麻衣はユッコと呼び続け、私もそのユッコを怜ちゃん同様、それなりに気に入っていた。
学校の古いフェンスと木々が見えてくる。
この学校は無数の樹木がぐるりと一周校内を取り囲む。青葉を湛えた広葉樹が見上げるほどに葉を広げ、幹回りは私の両手では届かない。と思うほどにどの木々も大きい。さらにそばに近づくと、その根元に古びたフェンスが見えてくる。薄いメッキは元の色が判らないほどにほとんどが剥落し、上空を覆う木々も虚しく、雨に晒され酸化した茶色い錆が地面とさり気なく交ざり合う。そんなフェンスにとけ合うグラウンドの最奥に、どっしりと長方形に寝そべる建物、それが私達の通う学び舎だ。長方形の真ん中に、三角の屋根が少し突き出て乗っている、昔ながらの学校だ。
私はこの学校も気に入っている。
初等部の頃から通っているし愛着もあるけど、それ以上に色んな意味で気に入っている。古いと言ったらそれまでだけど、時代を感じる建物だと思う。淡香色の分厚い外壁は傷みが激しく日に焼けていて、帽子のように見える緋色の屋根も、表面には半透明な白い膜が霞むようにかかり、本来の色は識別しにくいけれど、白濁した緋色に数えきれない時間と、本来は鮮やかな色彩であったことが所々で確認できた。あの痛んだ外壁や変色した屋根も、長い間雨や風に晒され、強い陽射しを私達に代わり受け止めてきたことを思うと、感謝というか、尊敬というか、相手は建物なんだけど、そんな感情が私の中に湧き上がってくる。
この校舎がどの年代に建てられたか調べたわけではないけど、おそらく、築百年を越える相当に古い建物なのは間違いなくて、そこには膨大な月日が蓄積されていて、この拙い知識でその片鱗にふれようと思うだけでも、胸がいっぱいになる。
「何やってるんだ足立~、小川も~。遅刻するぞ、早くしろ~」
裏門の前で男の先生が叫んだ。
私達は毎回裏門から学校に入る。正門と違い校舎が近く、その方がグラウンドを短縮できる分、早く教室に辿り着くことができた。
スーツに薄手のコートを羽織った川上先生が立ち番している。
「あっやばい。ユッコ急がなきゃ」
この先生は私達が一年のときの担任だ。そして麻衣が密かに憧れを抱く先生でもあった。でも半年前に結婚した。そのとき麻衣は、かねてからの念願だった過度なダイエットに成功して激やせした。二週間ほど食事が喉を通らなかったらしい。
「ほらおまえ達、急げ」
「は~い、今行きま~す。ほら、ユッコ早く」
速足で門まで向かう。先生は挨拶しながら生徒の服装に目を配る。
「おい山下。シャツのボタン上まで留めてネクタイもちゃんと締めとけ、靴箱のとこに校長先生立ってるぞ。それと靴もきちんと履いとけよ。踵踏んでるんじゃないぞ」
「おはようございます。川上先生」
「おはようございます」
「ん。お早う」
川上先生の声は少し低くてアクセントに特徴があった。その口調は一年のときと変わっていない。手足が長く色白で、電柱みたいにすらりと身長があって、顔の感じは喋り方にギャップがあるけど端正で、細い曲線だけで構成された、都会のカフェに座っていそうな今時の顔をしていた。
「川上先生、聞いてくださいよ」
「何だ? 足立。どうかしたか?」
「先生。私今日、傘忘れちゃいました」
麻衣の声色が突然変わり、声が頭三コ分くらい、急に前へ飛び出すように明度が増した。質もトーンもさっきまでとは別物になった。
「傘? おまえは朝から何を言ってるんだ。暫く傘は必要ないぞ。ちゃんと天気予報見たか?」
「ちゃんと見ましたよ。昼から傘マーク付いてましたもん」
「それ本当か? 寝ぼけてたんだろ」
「えぇ~、先生ヒド~イ」
麻衣は川上先生の前では豹変した。
川上先生が担任だった頃の去年一年間ほぼ毎日、HRが終わると職員室に戻ろうとする先生を捕まえては今みたいにじゃれ合っていた。
「おまえはいったいどこの天気予報を見たんだ。ここ一週間傘は必要ないぞ。暫くは晴天だ」
「ウソ~。ホントですか?」
「本当だ。 あのなぁ~足立、おまえは最近悪ふざけが過ぎるぞ。だいたい天気予報はどこもそんなに変わらんだろ。それにお前たちもいい年なんだぞ。天気予報や占いばかり見てるんじゃなくて、ちゃんとニュースも見ろよ、いつも言ってるだろ足立。小川もだぞ」
「は~い」
呆れた表情の先生に、麻衣がおどけて笑ってみせた。その仕草も愛嬌があって凄く可愛いかった。というより、少し上目遣いで先生にそう見せていて、容赦なく可愛いく映る。私は隣で普通に頷いた。
「ほら、早く教室に行かないと遅刻するぞ」
「は~い。わかってま~す」
「足立~。「はい」だけでいいだろう。おまえはいつも一言多いぞ」
「気を付けま~す」
「取り敢えず急げよ。あんまり時間ないぞ」
「は~い。ユッコ、行こう」
私達は門を抜け、すぐそばの校舎に向かい歩き始める。
「あ~残念。二年になっても川上先生が担任なら良かったのに」
私は思ったことを尋ねた。
「麻衣は本当に先生のことが好きだねえ」
「当然じゃん」
白い歯を見せ、麻衣はコロコロ子供のように笑った。
「それにしばらく雨降らないから傘要らないよ。天気予報見てこなかった?」
「ううん。ちゃんと見たし知ってるよ。それにしてもユッコは全然わかってないんだよね~。あのね、話す内容なんて何でもいいだよ。ただ先生と一緒に居たいだけなんだから」
私に顔を近づけ、嬉しそうにそう返すと麻衣は何かを視界に見とめ、そのまま視線は背後に流れ「おはようございます」と彼女は何かに頭を下げた。
気付けばそばには靴箱があって、振り向くとすぐ後ろには校長先生が立っていた。卵のような体型に雪のように白い髪、丸い頭に温和な顔が乗っている男性の先生だ。私も慌てて頭を下げた。
「おはようございます」
「はい、お早う御座います」
表情が笑顔になって、優しそうな瞳が皺の中に沈んだ。
「ふたり共、朝から賑やかですね」
私達は一度顔を見合わした。そして麻衣口を開いた。
「そんなことないですよ校長先生。私達こう見えて普通のテンションで、毎朝こんな感じです」
その口調にさすがの私も驚いた。
「ちょっと麻衣。校長先生にテンションはまずくない?」
「そう? どうして?」
「だって、ちょっと失礼っていうか…」
「そうかな。ユッコは気にしすぎだよ」
麻衣は全く動じていない。それにどう失礼かもきっとよく解っていない。と直感的に思った。
「はて? テンションとはあまり聞き慣れない言葉ですね。英語のtensionのことですか? それともまた別な言葉なのかな?」
それにまた麻衣が答えた。
「校長先生、英語のテンションとはちょっと違ってます。ていうか全く別な使い方かも」
「それでは最近の流行りの言葉か何かかな?」
「どうだろう、流行りというか、全然新しくもないけど、でも英語とも違ってるし、でもずいぶん前から当たり前に周りのみんなで使ってます」
「ほう、そうですか。ですがあまり聞き馴染みがありませんね。そのテンションとはどのような意味なのでしょう?」
「意味、ですか…? 何だか改めてそう言われると、なかなかすぐには思い付かないな」
思いがけない問いを尋ねられ、麻衣は珍しく真剣に悩んでる様子だった。そしてしばらくしてその顔がぱんっと解けると、彼女の小さな口が音を発した。
「多分だけど、気持ち、みたいな感じかな、あと高揚感とか? そんな感じかも。そんな風にみんな使ってる。でも何だか人に説明しようとすると難しいかも。良いニュアンスの言葉というか、表現方法が見つからない」
それに校長先生は深く頷いた。
「なるほど。いや、大丈夫ですよ。ふたりの先程の会話と今のあなたの説明で、まだ若干不明瞭ではありますけど、大よその見当はつきました。それはいわゆる、気分や感情と解釈してもいいのかな」
「そんな感じかも。それにモチベーションとも似てる。そのときの気分や感情をテンションに置き換えて、その度合いを上がる下がるで表現する感じかな」
校長先生に敬語を使わず、タメ語で喋る麻衣の性格が時々羨ましく思う。先生は気にせず笑っていた。皺がより深く丸い顔に広がった。
「面白いですね。テンションですか。今日は良い言葉を教わりました。今度機会が会ったら使わせて頂きますね」
「はい、どうぞ使ってみてください。きっと若い子たちは気に入ると思います。あっ、でもその前に、一度ここで練習してみませんか?」
「練習ですか?」
「そう。使うならきちんと使って欲しいし、一回試しに?」
麻衣は留まるところを知らない。そばにいて少しも落ち着いてなんていられなかった。
「麻衣、相手校長先生だよ。何言ってるの」
「いいじゃん。そのほうが私も安心できるし。間違って使って欲しくないもん」
「麻衣はそうかもしれないけど…」
「それもそうですね。ではどのような場面でどのように使うのか、一度練習しておきましょうか」
「さすが校長先生。付き合ってくれてありがとうございます。それじゃ校長先生、先生にとって良いことってどんなことですか?」
麻衣は嬉しそうに尋ねた。
「それは当然、君達の勉強の成績が上がることですよ」
「それならそのことをテンションを使って表現すればいいだけです」
「ふむ。なるほど」
先生はほんの一瞬だけ考えた。
「それならこうでしょうか。新学期に入って生徒全員の成績がアップした。私も嬉しくなって思わずテンションが上がった。という風な感じでどうかな?」
「良いです。そんな感じ。教えていないのに思わず、とか付けるところがやっぱり校長先生、さすがだな。て感じです。イケてます」
「もう、麻衣…」
「いやいや、大丈夫ですよ。そして嫌なことがあった時はテンションが下がった、あるいはテンションが下がる、という表現になるわけだね。だから例えば、学校に遅刻して先生に怒られた。朝からテンションが下がった。というのはどうですか? もしくは、昨日友達と喧嘩したから、今日は朝からテンションが上がらないな。というような感じの使い方でも合ってるかな?」
「そうです。完璧です」
「なかなか面白い言葉ですね。ユニークで、柔軟性もあって」
「はい。私も麻衣も気に入っててよく使ってます」
「あなた達、クラスと名前は?」
「二年四組の足立麻衣です」
「私は二年一組の小川怜子と言います」
「足立さんと小川さんですか、今日はあなた達と話せて楽しかった。勉強になりました」
「校長先生。せっかく練習したんだし、きっと使って下さいね」
麻衣が念を押すように確認する。
「わかりました。ほら、ふたり共、そろそろチャイムが鳴ります。急がないと遅刻しますよ。勉強頑張って」
「はい。それじゃ失礼します」
私達は校長先生と別れ、麻衣はそばの時計を見るなり、「あっ、ユッコ。そろそろやばい」と慌てて靴を直して上履きを履いて、教室へと軽やかに走る。
「それじゃまた夕方」
麻衣の短めのスカートが弾むように上下に揺れて、廊下の向こうに遠退いていく。がやがやとした校内に始業ベルの予鈴が鳴った。人だかりが途端に慌ただしくなって、それに合わさるように私も、教室まで急ぎ足で向かった。
机の上に鞄を置いた。机が揺れて、途端に両腕に掛かる荷重が和らいだ。持ち手の跡が滲むように両手の指先に赤く残った。椅子に座って鞄の中の教科書やノート、それに筆記具を自分の机に入れる。午後からの分は鞄に入れたままで、昼の休みに午前の分と入れ替える。
一度、教室の時計を見て辺りを見回した。次のチャイムまでの十分弱、先生のいない教室は本当に騒がしい。いや、騒がしいよりも、忙しいという表現を用いた方が見ていて正しいように思える。
特に男子を見てるとそう思う。友人同士喋り合う男子を見ていても多様だ。すぐ目の前では男子が数人、ひとりは腿を片方机に引っかけて、もうひとりはその机に座って彼らを二三人で囲いながら、大声でわいわい喋り合っている。その斜め前では五人のグループが机にお尻を乗せて、その隣の人はその人の肩に手を置いたりして、なかには肩に肘を乗せたり腕を組んだりしていて楽しそうに皆で笑っていた。すぐ後ろでは机の横にしゃがみ込んで、そばに座る友人と会話しているふたり組も目に付くし、そのまま目線を窓際にずらしてみると、そこではまだ少し肌寒いはずなのに、上着を脱いで窓を半分ほど開いて、涼みながら喋り合う男子達も確認できた。
そんな忙しない光景の中で、まるで街の雑踏のように言葉同士が教室の中を行き交っている。
男子の声が多様な会話に変化して混ざり合い、圧を感じるほどに音と意識がこの室内に充満する。なぜに彼らはこんなにも忙しないのだろう。とそばで見ていて、聞いていて思ってしまう。彼らのとる一つ一つの行動に意識を向けていると頭の回路が追い付かずに錯乱してしまいそうで、その上、教室内を行き交う話の内容にまで深く思考を向けていたらとてもじゃないけど私は意識を失っている。とさえ感じる。けどそんな中でも、二割ほどの男子生徒は大人しい。彼らは机に参考書のようなものを開いてノートにペンを走らせているか、もしくは本を読んでいるかのどっちかだ。
それに比べて私達女子は大人しい人種だ。
男子のようにグループはできるけど、その仕草は立っているか座っているか、でしかない。強いてあげれば椅子に座って後ろも向いているくらいで、見ていてとても目に優しい。その声も男子の声に消され聞こえてくることも少ない。たまに元気の良いグループの快活な笑い声が聞こえることもあるけど、それもごく稀だ。そもそも声の大きさで男子に敵うはずもない。
そして大人しい女子の中にはさらに輪をかけ物静かな女子も少数存在する。彼女らは二割いる男子と同じように、本に目を向けるか、はたまた自由帳的なノート、もしくはスケッチブックを机に広げ、静かにペンを走らせている。不思議とこのグループは目鏡をかけている率が高いように思う。ちなみに私をグループ分けするとこの部類に入るけど、私は裸眼だ。
時計が八時半を指すともう一度ベルが鳴る。
教室が俄かにがたついて、生徒が弾くように場を離れ席に吸い込まれる。チャイムが終わる前に教室の扉が勢いよく開いて、担任の男性教諭が出席簿を持って悠然とした足取りで教卓まで歩いてくる。手の平を返して静まる教室には、日直の号令が淡々と響いて、座席を擦る音と朝の挨拶が一斉に教室を埋める。
この先生の声は川上先生より少し高い。その声で一人ずつ名前を読み上げる。はっきりした声で聞き取り易いけど、声の質は川上先生の方が私は好きだ。
私の出席番号は八番だ。だからこのクラスでは八人目に名前が読み上げられる。
出席順だと、小川怜子は最初の方に呼ばれる名前だ。だけど麻衣は足立なのでもっと早い。私はせいぜい五番から十番の間をうろうろするぐらいだけど、麻衣は昔から、一番から三番の間を行ったり来たりしている。
「小川怜子」
でも早く呼ばれたからといって、特に凄いことであったり、別段偉くもないんだけど、でも中途半端な六番や七番よりかは、一番二番の方が呼ばれる側も快いように思える。
「小川~」
でもそんなのはきっと気休めでしかなくて、これによって他者からの評価に変化が生じるわけもなく、こんなものは単に、自分の肯定感を満たす自己満足にしか過ぎないのだろうけど。
「小川~、居ないのか~、返事しろ~」
「あッ、ハイッ」
呼ばれていたのに気付かなかった。しかも咄嗟の返事で声も少し上擦っていた。すぐに辺りを見渡し周りの反応を確認した。数名の生徒は私の方に視線を向けてはいるけど、その表情に特に変わった様子は見受けられなかった。私は軽い咳払いをして平然を装った。
出席を取り終わると静かな教室に先生の声だけが単独で響いた。一人一人に再生紙のプリントが配られ、そのプリントを見ながら先生は少し高い声で、その内容を順を追って説明していく。新学期の健康診断、それに学力推移調査、そして歯科の検診。それら新学期を思わせる各行事を一通り傾聴していた私は、その前年通りの内容に興味はすっかり失われ、まだ話の途中ではあったけど、傾けていた耳をぴしゃりと隙間なく閉ざした。
ホームルームが終わり先生が去ると、教室がまたもがやつき始める。そのがやつきにいつもと違う違和感を感じた。
「小川さん、大丈夫?」
後ろの席の上田さんが声をかけてきた。
腰まで真っ直ぐ伸びた黒髪が綺麗な女子生徒だ。彼女の髪はいつも揺れていた。風も無いのに不思議と揺れていて、それが私の中で彼女の印象となり強く定着している。スタイルは良く仕草はゆっくりと和らかで、所作に品の良さを感じた。上田さんは不思議と美しく見えた。顔の作りは私と同じで、可愛いとは違いそれほど美人ではないんだけど、でもその仕草と雰囲気が相まって彼女の姿が上品で、美的に強調されている。彼女とは知り合ったばかりで、まだお互いに友人とまではいかないけれど、新学期も始まり、このクラスでは仲良くしている生徒の一人だ。親友の麻衣ほど打ち解けてはいないけど、友人の少ない私にとっては数少ない話し相手でもあった。上田さんの下の名前は葵と言った。
「ねぇ小川さん、具合でも悪いの? もしかして風邪とか?」
上田さんは彼女固有のスローなテンポで聞いてくる。
一瞬何のことか迷ったけど、すぐにさっきの返事の件だと気付いた。
「全然。そんなことないよ」
「ならいいんだけど、何だか気になっちゃって」
「何だかまだ眠くって、昨日夜更かししちゃってそのせいかも、ちょっとウトウトしちゃってた」
実際は余計なことを考えていただけなのに、上田さんとはそれほど親しくないせいか、特に意味のない嘘を返していた。
「わたしてっきり体調でも悪いのかと思っちゃった。風邪でも引いたのかなって、春なのにまだまだ寒いから」
「ううん、大丈夫。全く平気」
彼女の口調はゆっくりなリズムだけど、でも間が抜けた感は少しも無かった。逆に聞き取り易くらいで、聞いてる方は心地よくも感じられた。その感じのまま不思議そうに言った。
「ねえ上田さん。さっきの先生の話だけど、この学校どうなるのかな?」
「学校?」
話の意図が理解できず聞き返した。
「うん。さっきの先生の話聞いてなかった? プリントにも書いてあるよ」
言われプリントを見たら、下の方に老朽化のため校舎の建て替えを予定しています、と書かれてあった。詳しいことはまだ決まってはいないらしい。
「建て替え?」
「そう、わたしもびっくりしちゃった。古いからこの学校建て直すんだって。みんなも驚いてる」
それを聞いて最初感じた違和感にも納得できた。言われてみれば教室がいつも以上にざわついている。
「この校舎建て替わるの?」
「そうみたい。いきなりのことでわたしもまだ戸惑ってるんだけど…」
私もだった。今耳にして、少しだけど頭の中が混乱していた。
「ちょっとびっくり」
「本当。突然だよね」
多数のクラスメイト同様、私も不意に理解を越える出来事に困惑していた。
「上田さん。この学校どうなっちゃうんだろう?」
「どうって?」
「この校舎、新しく建て替わるわけでしょ?」
「そうだと思う。詳しくはわからないけど…」
「それってこの校舎が無くなっちゃうってことなのかな?」
「どうだろう? でも先生は校舎の全体を建て直すって話してたけど」
「どう建て直すの?」
「それはわからないけど…、でも先生はそう言ってたよ。何だか想像もつかないけど…。でも急にどうしたの? 小川さん。何かあった?」
私はその言葉を聞いて急に冷静になった。でもどうしてか奥の方ではまだ何かが燻っていた。
「ごめん、何でもない。ていうよりね、大したことじゃないんだけど、私この学校、結構気に入ってて」
突然おかしなことを口走っている自分に気付いた。
頭では落ち着いてたつもりだけど、でも一度走り出した言葉は止まらなかった。
「だから、なくなって欲しくないかなって」
私の思いがけない告白に、彼女は以外にも呼応してくれた。
「あっ、それわたしも」
「上田さんも?」
「うん。実はわたしもそうなの。わたしね、この校舎古いけどそこが良くも感じてて、味があるっていうのかな、何だか趣があって、そんな感じが好き」
同感だった。
「私もそうかも。何て言えばいいんだろう? レトロ、て言うのかな、古いんだけど、でもその感じがすごく良くて」
「それ、すごいよくわかる」
上田さんは教室を眺め言った。
「建て替えなんてしないでいいのにね。このままじゃダメなのかな?」
「本当だね。私もそう思う」
この建物は昔を思わせる木造の造りで、見えている柱の角は全てが綺麗に丸まりくすんでさえいて、床板もまるで私達生徒の足裏に馴染むように表面は磨滅してしまっていた。しかも床板同士はほんの僅かにだけど、隙間さえ空いていて、たまにそこにプリントが落ちたりもしたけど、その全部が全部に何とも言えない温もりがあった。周囲には生徒達の忙しない声が溢れ返り、今もこの空間に過密に濃縮されている。
私は手元の用紙に視線を落とし書かれた文字を目で追った。
《老朽化のため校舎の建て替えを予定しています》
そこには間違いなくそう書かれてあった。
この校舎が取り壊される。
そのことに何かを感じた。
シンパシーみたいなそんな、上手く言葉では表現できないけど、形を持たないざらつくものが自分の中から姿を現してくる。この校舎が無くなる、そのことが何だか今の私と、私の毎日の日々と、ズレなく重なって感じられた。
チャイムが鳴った。
授業が始まり、目の前で先生の声が規則的に流れ、大きな黒板にテンポ良く高質で硬質な音が刻まれていく。その音をなぞりあとを続く白や赤の無機質な文字の羅列。それらの情報をひたすら頭に詰め込み、真っさらな白いノートに一心に描き写す。いつ誰が決めたのかわからないけど、この社会では中学までは義務教育になっている。
私達は毎日のように重い教科書をいくつも運んで学校へと通う。クラス全員そうであるかは少し疑問だけど、後ろに座る上田さんを含め、大半の生徒がそうだと思う。関節が壊れそうに重い鞄を抱え登校して、まる一日みっちりと頭に知識を蓄えて、そしてまた重い鞄を抱え自宅に帰る。そんな日々の繰り返しを小さな頃から何年も続け、そうすることでようやく、この社会で生きていく権利を私達は持ち得るらしい。そしてそんな思いをしてまで得たその権利すら、社会を形成する総人口の八割強を占める成人、と言われる大人へのスタートラインに立っているだけ、に過ぎないのだそうだ。
私達はその権利を得るために、同じ毎日を繰り返している。誰かにそうだと教えられたわけではないけど、社会で生活していくなかで、洋子叔母さん、親友の麻衣、そして上田さんやその他のクラスメイト、教卓に立つ先生、教科書、テレビ、そして自分を知らない赤の他人、今朝挨拶した人もそうだ。自分とふれ合うあらゆる人や物から様々な情報を感受して、知らないうちにそのように考える私が自分の中に存在している。
ふと両親が亡くなる前の、子供時代の自分を思い出した。
あの頃はただ何も考えず、過ぎる毎日が全力だったように思う。先生の滑舌良い大きな声に必死で耳を傾け、その内容をわからないなりに懸命に汲み取ろうとしていた自分を思い出した。緑の黒板に理解し易いように書かれた大きく麗筆な文字を、子供の頃の私は、その時の全部の力を注いで自分の真っ白なノートに崩れた文字で描いて、解ったつもりで、けど判りにくい内容で一行一行描き込んでいた。当時の私はそれで満足していたし、あの頃はそれで十分だった。
今思うと、あの頃の私は、先生の伝えたかったことの何割を理解していたのだろう、と考えることがある。それは今もそうだけど、四割だろうか。三割だろうか。いや、もっと低かったかもしれない。二割ちょっと、そんなものかもしれない。だけどそれで良かった。今はもう少しだけは理解できていると思う。
勉強の成績がどうであれ、クラスの仲間と手を取って、自分の全力を出し切れば認められたあの頃が少しだけ羨ましくもあって、それに懐かしくもあった。
勉強自体あまり好きではない。好きではないと断言すると少し語弊があるけど、勉強というより、記憶することがあまり得意ではない。だからといってそれほど乏しいわけではないけど、どうにか人並みではある。どうにか人並みの記憶力である私は、それ以上で括られる優秀と言われる部類に収まるためには、そこに自由を注がなければならないわけだけど、そうすることでいったいどこまで優秀になるのか、今の段階では自分には判らないわけで、そんな不確かな未来に時間を割くぐらいならむしろその自由で、スケッチブックを開いて絵を描いていた方が断然ましのように思えた。
そもそも勉強に喜びを見出せる人が珍しいんだけど、でもどの学年のどこのクラスにもそんな人は数名点在する。当然例外に漏れず私のクラスにも二三名は存在していて、今朝机の上で、参考書を広げていた人達がその数少ない数名に当たる。私が思うに彼らは、私が頭の中で意識して感じているスタートラインの存在すら知らずに、目の前に積まれた一段一段の段差をそのまま真っ直ぐ上へと登って行ってしまうのだ。今私が、頭の中でうだうだと考えている悩み?とまで言えるかは分からないけど、自分の中に抱懐する自分の在り方、とでも表現するべきだろうか、そんな不明瞭で形を成さない疑問すら彼らは思い付かないまま、トントンと軽い足取りで、目の前の段差を駆け上がっていってしまうのだ。
彼らは途中、立ち止まって後ろを振り返ることなどあるのだろうか。自分の軌跡を辿るようなことが。自分のしている毎日を奇妙に感じたり、深部にある感懐を顧みたり、自分の内側で日によって増減する、感情によって色相を変えたり匂いを変えたりする捉えようのない、自分の中にある疑問?と言うか漠然とした気持ちの揺らぎ、みたいなのにふれて、そこにある齟齬、と言うべき違和感みたいなものを自分の中に感じたりはしないのだろうか。
いや、もしかしたら今思いを巡らせるこのような悩み自体が平凡な学生だけに圧し掛かるものであって、頭脳が明晰である彼らにしたら、こんな疑点などすでに超越しているのかもしれないし、あるいはそんなものはただ単に、私ひとりが悶々と考えているだけかもしれない。
このことは洋子叔母さんにも麻衣にも、当然だけど上田さんにも話したことはない。そもそも人に打ち明けるものとは思えないし、だからと言ってみんながどうであるかは知らないし、特別知りたいとも思わなかった。たとえ誰かに打ち明けたとして、私自身が理解できてないものを他人に上手く説明できるはずもないし、逆に相談されたとしても、相手と同じように悩むぐらいしか今の私にはできないだろうな、と思っていた。
数名の優秀な生徒に比べ、私の成績は可もなく不可もなく、といったところで、人並みの平均的な学力を維持してどうにかクラスの真ん中付近に居座ってる状態だ。興味のない話を丸一日静聴し、黒板にびっしり書かれた文字をノートに描き写す。何のためにしてるのか私にはその目的すら解らないわけだけど、解らないというより、解るんだけどその内容がそれほど重要と思えないだけで、だけどその重要と思えない内容を毎日ノートに描き写し、家に帰っても復習し、耳や目で記憶しているからこそ今の学力をどうにか維持できている。
両親のいない私は、成績が下がり誰かに厳しく叱責されるわけではないけど、それでも親戚である洋子叔母さんは、ふたりを亡くしたあとの私の保護者でもあるし、私に普段と違う変化があれば当然そのことを聞いてくる。成績が大きく変われば保護者としてその結果に対して、一喜一憂して喜んだり褒めたり、それなりに叱ったりして私に接して、自分の持っている主観で私のことを理解し、私を理解させようとする。私はそれを当たり前に受け入れてるし、受け入れてる自分に対して何の疑問も抱いていない。その思いの裏には、私のため、という前提が叔母の中に隠れるようにしっかりと見えていて、それがあるからだと私は思う。けどそれはあくまで私への後押しに過ぎなくて、結果勉強するのは自分自身だ。両親を早くに亡くし、どこか足元が揺らいでいる私は、それに私を私として、どうにか人の形を成して留めさせているものは、叔母ではなくて友人の麻衣とも違い、当然上田さんとも違って、その学校の成績とデッサンだけだ。それだけが今の私に、私の毎日に、自分というものを形造っているように思えた。
「小川さん」
肩を叩かれ振り返る。
椅子に座る僅かな動作が視界に入り、上田さんの長い髪が左右に揺れた。
「もうお昼だよ。チャイム鳴ったけどご飯食べないの?」
彼女の机には、白い手の平サイズの弁当箱がひとつ置かれてあって、その横にはこちらも白い小さな水筒が並んで一本立っていた。時計を見ると、昼のチャイムが五分ほど過ぎていた。
「ごめんなさい、考え事してた…」
私は慌てて教科書やノートを机の中に仕舞った。
「もうお昼だけど、小川さんはご飯食べないのかなって気になっちゃって。もしかしてダイエット中とか?」
「ううん、そんなんじゃなくて。でも最近体重が気になり出したのは本当。だからダイエットもしてるんだけど、でもダメみたい。我慢できなくて、ついつい食べ過ぎちゃって」
彼女の穏やかな物言いにはつい気を許してしまう。明らかに麻衣とは正反対に位置する人だ。どちらかというと私よりに近い。そのせいか自然と親しみが込み上げ、気が付けば彼女の雰囲気に引き込まれている自分がいる。
「それわかる、わたしも。でも小川さんは全然気にならないよ。気にしすぎじゃないかな」
「そうかな?」
「うん、わたしはそう思うな」
「ありがとう。私今日パンなの、ちょっと買いに行ってくる」
そう言って席を立った。
上田さんと話しているとホッとする。というか心が和む。彼女特有の柔らかな語調のせいもあるかもしれないが、でもそれ以上にお互いの感性が近しいからこそ得られる安心感が上田さんにはあって、その感覚が私をそう思わせる。この感覚は上田さんと真逆である麻衣といても得られる。けどその印象は類似していて、どこか本質的なところが違っているように思う。上田さんから得られるこの感覚も、麻衣から得られるのとはまた違ってこちらはこちらで新鮮でもあった。
彼女の小さな弁当箱と水筒を見て朝の占いを思い出した。上田さんは何座だろう? 朝の占いも見てたりするのかな? まだ本人に尋ねてみたことはなかった。彼女の机に並んだ白い二つの持ち物に、売店へと向かう途中少しだけど気持ちが軽くなった。
そして叔母はいつもはお弁当を持たせてくれた。
ふたり分のお弁当を作り、そのひとつを私に持たせてくれる。
中身はどこにでもあるお弁当で、テレビや雑誌で見るような、そんな立派なものではないけど、でもそれは私のためのお弁当で、旅館で働いてるし昼は賄いがないのかなと思いながらも、そのことを本人に尋ねたことは一度もなかった。
今は売店に向かっている。今日は寝坊でもしたのかもしれない。叔母にだってそんな日がたまにある。
少し先に売店が見えてきた。お昼休みも結構回っている。いつもなら何か分からないほど人で溢れかえる店先も、今は黒い制服姿が二三人見えてるくらいで、普段なら見ることのできない店員の女性が私の目からもはっきりと見えた。
私は近づいて軽く頭を下げて、パンの棚を見て回る。
いつもはすぐに無くなるお気に入りのツナサンドが今日はあった。そのツナサンドをひとつと、保温棚から紙パックの豆乳を一本取って女性に手渡した。本当はジャムパンも欲しかったんだけど、体重が気になるため泣く泣く諦めた。
女性にお金を払い、商品の入った茶色い紙袋を受け取ると、中のツナサンドが袋越しに手にふれた。朝の占いを咄嗟にまた思い出していた。
お昼休みが終わると当然のように午後の授業が始まる。それからもやることは変わらない。教科書を午前と午後を入れ替える。机に座って同じように鉛筆を動かすだけだ。黒板に詰め込まれた単語のつながりを自分のノートに淡々と描き入れる。とは言っても、書かれたものをそのままノートに書き込む。とは違っていて、まず最初に、黒板や教科書に並ぶ言葉を一度自分に取り込んで、頭の中で消化する作業から始める。
この消化だけど、単に言葉を記憶する。とは違っていて、自分に取り込んだ単語を咀嚼して新たな言葉として理解することで、この消化した単語は自分の中で意味を持っている。この意味は、教育上で教わる学術的な意味合いも当然あるんだけど、それとはまた別の主観的なもの。その単語を取り込んだ時に脳が感じる、あるいは私の無意識の記憶が共感する私だけで通じる、私だけに普遍的であって自分だけの唯一無二の意味合い、あるいはそれは言い換えてしまうと、私だけの概念といえるものかもしれない。その単語にふれたときに自分の中で感じ、そして繋がるもの、いわゆる自分だけの色や特色、みたいなものを組み合わせて初めて机の上に広げているノートに鉛筆を使ってアウトプットするわけだけど、そのアウトプットも、机に広がる白い紙にただ闇雲に書き写すとは違って、単語の持つ学術的意味合いの緊密なもの、類語するもの、類同するもの同士を組み合わせ、そうするとその括りにも新たな意味が生まれる。そして描き込む。文字を寄せ過ぎず離し過ぎず、外周の余白を適度に残して全体の構図、というか長方形の白い紙に曳かれた無数の罫線に沿ってバランス良くノートを埋めていく。記憶するのはあまり好きではないけど、この作業自体嫌いではない。毎日繰り返しているこの作業を思い返してみると、どこかデッサンと通じるところがあるように思う。
描き込むといっても構図もそうだけど、単調な文字の繋がりを機械的に書き写す。とは違っていて、単語の持つ学術的意味の重要なものとそうでないもの、私の中で感じている色の違い、濃ゆさ、薄さなど、自分の中だけで主観的である色や特色、それらをそこに結び付けて頭の中で消化して組み直した単語に、字のサイズ、色、濃淡、これも自分の中だけで通じるものだけど、それらを当て嵌め、視覚から取り込む情報としても意味を持たせて記憶の繋がりを強くする。
その最中でも先生の話は止むことなく続くため、ときには手を止め、その話に耳を傾ける。その話も教育上重要な時もあるけど、もちろんそれとは違う時もある。
私は授業が終わると上田さんにノートを借りるときがある。そのたびに上田さんは快くノートを差し出してくれるんだけど、そこに描かれている内容というか、汲み取るべきものは全く同じ意味であるのに、描かれてるものはどこか違っている。
授業で描ききれなかった部分を上田さんのノートを見てあとから描き込むんだけど、私と上田さんの描き方では当然だけど違いがある。教わるものは教育上同じ内容で、しかも互いに同じ黒板を見て同じ先生の言葉を聞いているのに、ノートの上にアウトプットされ、表現されてるものは微妙に違う。
私も上田さんも、そのままノートに黒板の文字が複写されるわけではなくて、私の場合は要点を押さえた簡素なものになりがちだけど、彼女の場合は、誰が読んでも理解できるようにしっかりと描かれている。
そして私が罫線二行を使い、大きく描いてる重要な個所を、上田さんは濃いペン一行で描いていたり、私が青ペンで描いてる部分を彼女は紫色で描いていたり、赤色が緑色だったりと、変化してる文字は私も上田さんもほとんど同じだけれど、その変わり方はどこか違っている。それに私と上田さんでは描いてる文字にも違いがあって、社会での、その文字の持つ個々の役割は同じであるのに、人によってはその文字が大きめだったり小さめだったり、物凄く丁寧だったり雑だったり、尖っていたり丸まっていたりもしていて、その度合いも様々だけど、上田さんの場合は丁寧で小さめだ。
一枚のノートに並んでいる単語の配置、いわゆる全体の構図やバランスも私とは違う。ノートを構成している白い無地の、罫線が曳かれてはいるので無地とは言えないけど、その空間の使い方も私と上田さんでは違っていて、上田さんは二行に渡る長い文章を改行するとき、二行目を一行目の初めの文字に合わせ描き始めるけど、私は二行目の末尾に収まる範囲に少し余裕を持たせ、途中から描き始める。稀に一行目と二行目の間に余白を一行挟む場合もあるけど、それは日によって違う。
私が色ペンで下線を入れている文章があれば、同じ文章に上田さんは、色ペンでフリーハンドの綺麗な四角を描いて囲っていたりする。
当然のように、配置されている単語の位置もお互いに違う。表のようなものをちょっとした隙間に描き込んでいる場合もあれば、特性ごとに色分けして大きく丁寧に描いていたりする。その内容の重要度にもよるんだろうけど、狭い隙間に描き込んだ内容を蛍光ペンで囲んでいるときもある。
黒板に羅列する単語とその意味は全く同じであるのに、頭の中で噛み砕かれ消化され、指先から形として吐き出されたものは、私と上田さんではどこか違っていて、これは麻衣もそうで、洋子叔母さんもきっとそうで、それが当たり前と言えば当たり前なんだけど、その当たり前にある形がとても不思議でもあった。
夕方、授業も終わり鞄を持って美術室に向かう。
私が歩いている廊下は休み時間も含め、この時間からはかなり賑わい始める。そしてここでも男子は騒がしい、というよりはやはり忙しい、と言った方がその状況をより細部にまで表しているように思え、夕方の短い時間であるのに、朝以上に活性化する。
今三人の男子が私の前を、一列になって歩きながら声を震わせ喋り合っていた。少し距離があって、会話の中身は聞き取れないけど、左の男子は大声で、「聞いてないんだけど」とショックを受けたように立ち止まり、そして右の子は「いいじゃんか別に」みたいなことを言いながら、中の子の肩を強めに二回叩いた。そしてその子は肩を叩かれたせいか、その子を振り向いて、何かを言って仕返すように肩に軽くパンチを入れていた。彼らの話す内容はわからないけど、とても親しげにじゃれ合ってるように見えた。
そして今、彼らが親しく交わす言葉には社会全体で通じ合う言語としての働きと、それとは別の、咀嚼された単語のように、自分だけに共感できる唯一無二のものと、それとはまた別の、彼ら三人だけの持つ、彼らだけが共有している彼らだけの言葉が互いに混在している。そしてそれらが一括りとなり彼らの形が存在していて、そしてその形は括りごとに無数にあって、例えば、彼らの少し先にユニホームを着た野球部の男子がふたり立っているけど、左の帽子を被っている彼にも彼固有の言葉、というか彼だけの形、みたいなものが彼の中に存在していて、右の帽子を被っていない彼にも当然それはあって、今そこには彼らふたりだけの形も彼らにだけ存在している。そしてその形が野球部全体の形とも混ざり合っている。野球部の中にも彼ら以外の様々な規模の小さな括り、大きな括りが存在していて、その括りは全校生徒と混ざり合い、この校舎全体に多種多様に存在していて、そこには無数の結び付きが溢れているように思う。そしてその形を大袈裟に表現してぶつけあう男子は、見ていてやはり忙しいとしか言いようがない。
だけどこの時間は女子も朝以上に活発になる。
授業からの開放感からか、みんな朝よりも饒舌で、その声も聴いていてどこか張りがあるように感じる。
今は美術室に向かっている。デッサンは好きだ。題材に真っ直ぐに向き合える。余計なことを考えず、目の前のモチーフに集中していればいいし、そこに写し出されたものはみんなが目にしているモチーフだけど、紛れもない自分だけのモチーフでもあって、それはいわゆる勉強=アウトプット、という行為と通じるように思えた。
朝の話を思い出した。
この学校が建て替わる。プリントにはそう書かれてあった。要は今の校舎が取り壊され新しくなる、ということだろうけど、今の段階ではどのように取り壊されて、そしてどう建て直るのか、その辺をはっきりと理解できていない。
だけどそのことに何かが触れた。私の中の何かが音を立てて露出して。
意識に触れた。
蝋を塗ったように滑らかで、艶のある廊下を歩くとギシッと軋んで音がした。古いので当たり前だけど、その音は歩くたびに後ろをついてきて、この校舎に無数に詰め合う濃密な音に混ざり合ってすぐに掻き消えた。けどその音は間違いなくそこだけに存在した音で、その音は今までのここを確かに証明している。その音もそうだけど、黒く変色した木材にも形があって、その有色ともいうべき模様も、跡をついてくる音も、目に見えない時間を形として今までを証明していて、それらに意識を向けていると、その歳月にふれようと思うと、思わずその奥行に吸い込まれてしまいそうで、とても気が遠くなる。
気が付いたら美術室の前に立っていた。
引き戸を開いて扉を開けた。中には麻衣の他に四名の部員が中央のモチーフを中心に椅子を囲んでいて、周囲を見渡したけど、先生の姿は見当たらない。
「ユッコ。こっち、こっち」
麻衣は笑顔で手を振っていて、私も軽く振り返して鞄を置くため後ろの方へと向かう。後ろの方というのは、黒板の嵌めてある方が前だとすると、その対面側になる。
美術室は結構散らかっている。
というより、片付いているけど散らかって見える。の方がより的確だ。教室の四分の一程の大きさの準備室はもういっぱいで、入りきらない荷物が教室まで溢れそう見えてるだけで、それは無造作に置いてるようで綺麗に整理されていて、しかもきちんと整頓までされていて、それらはしっかりと片付けられている。
荷物の隙間から空いた棚を見付けそこに重い鞄を置いた。中からスケッチブックと美術用の筆箱を取り出すと、数人の生徒の脇を抜け麻衣の隣に腰を下した。
「ユッコ、遅かったね」
朝から変わらない内巻の毛先が可愛かった。彼女の声は弾んではいたけど、蓄積された一日の疲労は顔に表れている。
「ユッコの顔ひど~い、この世の終わりみたいになってる」
麻衣が私の顔を見ながら口にする。だから私も笑って返した。
「自分だってそうじゃん」
髪の艶が明らかにくすんで見えた。萎んだように肌の張りも失われ、白く澄んだ肌が皮膚色に滲んで見えた。きっと私の顔も同じだ。私が麻衣の顔を見て思っていることを、麻衣も私の顔を見て思っている。
顧問の先生が来るまで麻衣と話した。学校のことを聞いてみた。
「麻衣、学校のこと聞いた?」
「聞いた。建て替えるって話でしょ。ちょっと驚いちゃった」
「でしょ、私も」
「でもこの学校もかなり古いし、時期的にそうなんじゃない」
「建て替え時ってこと?」
「そう。でもそれがどうかしたの?」
私は上田さんと話したことを麻衣にも聞いてみる。
「麻衣はさ、この学校がどうなるのか気にならない?」
「どうなるって、新しくなるんだからそれはそれで良いんじゃない。まさかこのまま倒れることはないだろうけど、でもこの校舎も色んな所が痛んじゃってるし、職員室の扉なんて片方開かなくて使えないしさ、それに私達のクラスの窓も一か所だけど開かなところがあるんだよ」
「そうなの? 私のクラスは大丈夫だけど」
「そうだよ。初等部はどうか知らないけど、でも中等部だけでもかなりのクラスそうなんだって、まあエアコン付いてるから別に大丈夫だけど」
「そうなんだ。知らなかった」
「だからこの際全部新しくなった方が色々便利になるし、それに安心もできるじゃん」
やっぱり麻衣は上田さんとは違っている。ふたりはきっと対極にいて、上田さんと似ている私も、麻衣とは逆の性格だと自分でも十分過ぎるほど理解できている。でもそうだからこそ私と麻衣は、上田さんとはまた違った過程を経由した、良質な友人関係が築けてるのかもしれない。
「それがどうした? 何か気になるの?」
「ううん、大丈夫。気にしないで…」
「ならいいけど、ユッコって余計なことを色々と考え過ぎちゃうから」
「そうかな?」
「そうだよ。付き合い長いし顔見たら何となくわかるよ。ユッコって昔からそうだもん。あんまり難しく考え過ぎないほうがいいよ」
麻衣と知り合ったのは、飛行機事故で親を亡くしてこの街に越して来たときだ。私が六歳の時だから、かれこれ八年近くが経過する。
八年前、父と母は亡くなった。
飛行機が山の中腹に墜落し、ふたりは私の知らない場所でこの世を去った。私の寝ている間に他の世界に旅立って、私を置いていなくなっていた。ふたりのことはあまり記憶に残っていない。思い出、といわれる過去映像を思い出そうとしても、明瞭な色彩を描いてイメージされるものは何ひとつなくて、ひとり残された、黒い蟠りだけが今の私にはあった。
麻衣との付き合いは両親以上に長かった。麻衣は私にとって一番の親友なのは間違いなくて、そのことは麻衣も同じように思ってくれている、と私は思っていて、麻衣に直接尋ねたわけじゃないからはっきりそうとは言い切れないけど、でもきっとそうだと私は思う。麻衣の態度から私はそう感じてる。
だから私は、麻衣のことなら全部、とまでは言えないけど、殆どを知っている。知っているつもりだし、解る。解るというか、少なくとも私は、私といるときの麻衣の形が理解できている。初等部の頃から積み上げてきた八年の歳月は、私と麻衣の間に透明度の高い形。いや、器かな。そのようなものを造り上げた。それはあくまで私と麻衣だけの形であって、それは私と麻衣だけで通じ合う形でもあった。
麻衣の両親にも会ったことがある。というより何度も会っていて、三つ上にお兄さんがいることも知っている。もちろん話したこともあるし、夕飯も何度かご馳走になっている。遠くの親戚のことまではさすがに知らないけど、それらを含めて私と麻衣との形になっていて、私達はその形で通じ合っている。でも麻衣には麻衣だけの形があって、当然だけど私の中にもその形は存在していて、それはお互いに理解できないものだし、それはお互いに理解させない形なのだと思う。
麻衣は麻衣で自分の形を持っているわけだけど、その形は今までの麻衣で出来ていて、その形は麻衣の両親やお兄さんで出来ていて、その他の周りの人でも出来ている。私はそう思っていて、その濃度は共有する時間が長いほど濃厚になり、それとは逆で、少なければ希薄になって、その粗密は家族や他人で様々だけど、その全てが今の麻衣を形成していて、その形は今現在も彼女の中で積み重なっている。その規模や形も麻衣や私、それに上田さんもそれぞれに違っていて、それは人によって色々だろうけど、その形や大きさを変えながらその密度はどんどん濃密になっていく。
その中には麻衣のお父さんやお母さん、それにお兄さんとの形もあって、そこには私と麻衣との形も含まれている。その中には麻衣ひとりの形も存在していて、その麻衣は、私が日々悩んでいることで煩悶したりするのだろうか、と授業中ふと思う。けどその考え自体、かなり序盤ですぐに徒労であると気付いてしまう。潔いというか、麻衣のあの性格は、そのような悩みなど悩みとすら感じていないのでは、とそういう考えに自分の中で自然と落ち着いている。
当然このことは麻衣には話さないし、話そうとも思わない。話したところで一歩引かれる。かはわからないけど、でもお互いに気まずくなるのは目に見えていた。
黒板側の扉、教室の前側の引き戸が開いて先生が現れた。私達は椅子から立ち上がる。美術の顧問は今年転任してきた若い女性の先生だ。まだ日は浅いけれど教え方も上手で、部員の中では評判は上々のようだ。
美術室に教卓は置いていないため、先生は私達のそばまで寄ってくる。半ば強引に部長にされた最年長の男子部員の号令で、皆で先生に挨拶をする。そして席に座り、各自スケッチブックをおもむろに開いて、黒い芯が異質に尖った鉛筆を紙の上で滑らせ始める。
一年の終盤あたりは人物像を描いていたけど、新たに顧問の先生が変わったことで、部員の力を個別に把握しときたいとう理由から、新学期に入り一から図形や球体なんかを初心に帰り描き始めた。ちなみにあまり人気がないのか、今年新入部員はいなかった。今は短時間で描き終えるビンやコップなど、小さな対象物を描いている。素材の質感や、光の透過を描き分けるためだ。
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静かな時間が過ぎている。
私はこの時間を気に入っている。
少し黄色がかった光が古い木造教室に射しこむ。
射しこまれる陽射しは透明だけど、その暖かく澄んだ陽射しに含まれる温度や空気、そして波長、そのようなものが視覚以外の触覚、嗅覚を通して、仄かな色を私の瞳に光を透さずも、そう見せるのだと感じる。
カーテンが左右に束ねられている。そのタッセルが解かれ、カーテンが閉じられたことは一度もない。と前に部長に聞いたことがあった。その生地は薄い淡黄で、射しこむ日に薄く、黄色く透けている。日に焼けて、もとが白であるのか薄い淡黄であるのかすら、いや、あるいはこの陽射しのせいかもわからないけど、その色彩がこの教室に何よりも馴染んで見えた。
美術室特有の匂いが四角い部屋には立ち込めている。この匂いも気に入っている。滑らせる鉛筆の音が聞こえ、同じ音も私の手を通じて聞こえてくる。とき折り衣擦れの音もそこに混じり合う。
描き始めると意識は通わなくなる。
目の前のモチーフとしか、意識が通わなくなる。それは時間に比例する。長ければ長いほどにその濃度がどんどんと増していき、少なければ少ないほど薄く、透明に近くなる。
今四角いテーブルの上に、一つのグラスが置いてある。そのグラスを囲うようにパイプ椅子が円を描いて並んでいて、その椅子に座る部員が無言で鉛筆を動かしている。そんな彼ら、彼女らの座っている場所で、モチーフであるグラスが一人一人に見せている表情は個々に違っている。それはごく自然のことだけど、私から見える場所、それに麻衣からの見える場所、私の正面に隣り合う先輩ふたり、それぞれに違って見えていて、見ているのは同じ水を入れるガラス製のグラスだけど、でも見ているのはそれぞれ固有に存在するグラスで、私達が描いているのはそのグラスで、光の反射、写り込む景色、透明なグラスに透けて湾曲している背景、その全部が全部、それぞれに違っている。
その微妙な違いを汲み取ろうとグラスだけを見る。そこにある固有の光を、その固有の景色を見て、そこだけの固有の背景にふれる、そこに存在するグラスにだけ意識を通わせて。
すると私がグラスになっていく。段々と混ざり合い。私の全てがグラスと同化する。そのグラスが黒芯を伝い白い紙に線となり描写され、そして表現される。それは部員と共有するモチーフのグラスだけど、でも水を入れるガラス製のグラスでもあった。だけど固有に存在する自分だけのグラスでもあって、表現された自分だけのグラスでもあった。
何も考えないで良かった。いや、正確には少し違う。ただ目の前のことだけを考えていれば良かった。目の前にあるものだけを考えて手を動かした。指が動いている間は余計なことを、嫌なことを考えないですんだ。
外はまだ夕日が残っていた。
何だかその夕日がとても名残惜しそうに見えた。
夕刻は嫌いだった。暖かなオレンジ色の陽射しが時と共に消えていくこの時間が好きではなかった。薄黒く伸びる影もどこか薄気味が悪く、上空を流れるカラスの声も、その空間と浸潤して私の不快に拍車をかける。
麻衣とふたり喋りながら帰った。ただイヤだった。夕日が消えていくこの時間が不快で、この気配の全てが疎ましかった。必要以上に饒舌になっていた。
後編へ続く






