第一章 Ⅲ
瞬間、レオンの体はまるで魔法にでもかかったように動かなくなった。日常から隔絶されたような空間の中に迷い込んだような、時間さえも止まったような、そんな不思議な感覚に支配される。
「え……」
思わず喉からこぼれ落ちたその言葉に、それ以上の意味はなかった。ただ目の前の存在に、そのひたすら奇妙な雰囲気に呑まれた末に出た、無意識の反応。
レオンは半ば呆然と、周囲の状況も自分の立場さえも忘れ、ただ見入った。
灰色のコートに身を包み屹立する、その少女の姿を。
凛としてもなお澄んだ、瑠璃色の瞳を。
冷たく鋭い眼光が、真っ直ぐにレオンを捉えている。一切において氷のような冷たさを感じさせる少女が、ただ静かに、しかし圧倒的な異彩を放って存在していた。
その幻想的と言うにはあまりに強烈過ぎる姿が、レオンの心底にある何かを刺激する。周囲を取り巻く人だかりなど、すでに背景の一部に過ぎなかった。
腰元にまで伸びる亜麻色の髪が、風になびきさっと揺れる――途端、流れることを忘れた時が、再びゆっくりと動き始めた。
どれほどの時間、固まっていたのだろうか。気がつけば、彼女はレオンの目の前までやってきていた。レオンの方が頭ひとつ分ほど背が高いので、必然的に見下ろす形になる。
「おい、貴様」
不意に彼女が口を開いた。曇りのない、透き通った声音である。その声は辺りの喧騒にかき消されることなく、はっきりとレオンの耳に届いていた。しかし――
レオンは、依然として不思議な感覚の中にいた。彼女の存在が、やはり異質に思えてならなかったのだ。まるでそこにいること自体が不自然とさえ思えるほどの存在感。周囲との調和が取れていないような、ただ彼女だけがぽつりと浮き立っているように見える。
「貴様、聞いているのか?」
再度の呼びかけに、レオンははっと我を取り戻した。彼女の鮮やかな、しかし深みのある青色の瞳がこちらを見上げている。
「……ええ、何でしょうか?」
多少怖気づきながらも、レオンは何とか言い返す。十代後半かと思われる見た目の彼女であったが、そこにはその容姿からは想像もできない妙な威圧感を覚えた。
「あの男」
何を言われるのかと思いきや、彼女はただそれだけを告げると、騒がしい群衆の隅でぐったりとうな垂れている例の若男を指差した。レオンは首を傾げる。
「彼が、どうかしましたか?」
「あのまま放置しておいてもいいのか?」
「えっ?」
レオンは思わず素頓狂な声を上げた。
「そろそろ騎士団の者がやってくるはずだ。そうなれば、当然彼は捕まることになる。貴様はそれでいいのか?」
彼が捕まるのは当たり前のことだ。事件の当事者であり、街の条例に反して剣まで抜いた。無論、それはレオンも同じことだが、事を抑えるためにやむを得ない抜剣だったので、条例に記されてある「不用意な抜剣」には当たらない。
しかし、思うに彼女の言いたいことはそういうことではないらしかった。つまり、彼をこのまま捕まらせてもいいのか、ということだ。
「……どういうことですか?」
彼女の意図が読めず、レオンは多少の警戒を持ちつつ聞いてみた。
「彼が『魔術師』の子だということを忘れたのか?」
レオンは短く、「あ」と声を漏らす。彼女の考えがようやく呑み込めた。
「――つまり、そういうことだ」
レオンの理解すらも悟ったらしい彼女は、ふっと口元に微かな笑みを浮かべる。
彼女の考えていること――それは、例の若男の受ける処分についてだ。
街中で剣を振り回した場合、通常ならば少額の罰金か、あるいは二、三日ほど牢屋に入れられる程度で済む。しかし、彼は『魔術師』の子だ。それを理由に与えられる刑罰が重くなる可能性も当然のように考えられる。
とは言え、多少刑罰が重たくなるほどならば大した問題ではない。規則に反したのは確かであるし、金を払うか牢獄で大人しくかさえすれば、いずれはもとの生活に戻れるからだ。つまり、彼も『魔術師』たちと同等の、あるいはそれに近い扱いを受けることになるのではないか。彼女はそう考えている。もちろん、その可能性も否定できない。できないのだが――
「しかし、さすがにそこまでするでしょうか?」
もし彼が『魔術師』だったならば、おそらく二度と外に出られないことになる。それは彼らが危険な力を持っているからという国の危険視によるものだ。第一、『魔術師』というだけで捕らえられ監禁されてしまう。
しかし、彼は『魔術師』ではない。いくら『魔術師』を親に持っているとはいえ、彼自身は何の力も持たない一般人に他ならないのだ。危険ではないのだから、刑罰が重すぎるようなことにはならないはずだし、何よりなってはならない。レオンはそう考える。
「いくらなんでも、それでは差別になってしまいます」
だが、彼女の瞳は揺らぐどころか、逆にひときわ鋭さを増した。
「今の国の姿勢を侮ってはいけない。彼らは本気で『魔術師』という存在を消そうとしている。そして、彼は仮にもその子供――つまり『魔術師』の血を引いているのだ。国はこの事件をいいことに、彼を重刑に処す可能性は高い」
言葉の節々から、真実味を匂わせる彼女の強い感情が伝わってくる。その威勢に圧倒されたわけではなかろうが、レオンの胸中に微かな不安が生まれた。彼女の意見を裏付ける、ある話を思い出したのだ。
約三年前、ヴァスティリア王国が『魔術師』排除の志向を固めたとき、国は『魔術師』本人のみならずその関係者――親や子は当然、配偶者やその他『魔術師』とある程度深い関係にある者さえ対象者にしようと考えていた。だが、さすがにやり過ぎだとの反発の声が多く、やむを得ず『魔術師』だけという今の体勢を取ることになった――そんな話である。
噂程度で流れていたとはいえ、もしその話が本当だったとすれば、重刑の可能性も決して低くはないはずである。
「そして、それは絶対に見逃してはならない問題だ」
断言する彼女に、レオンは全くの同感だった。
だが、ここでひとつの疑問が浮かんでくる。彼女はなぜ、そのことをわざわざレオンに提言したのだろうか。彼女の目的が、今ひとつ掴めない。
いや――レオンは小さくかぶりを振った。本当はわかっている。つまり、彼女は彼を逃がすべきだと言いたいのだろう。それはレオンも同意見だった。規則に反した責任と刑罰との均衡が崩れた不当な判決が下される可能性があるのだから、彼を逃がすことに引け目を感じる必要はないし、むしろ当たり前とも言える。
しかし、レオンにはそれを行動に移す踏ん切りがどうしてもつかなかった。
彼を逃がすことは、言い換えれば犯罪者を許すことと同義ではないか。そして、それはすなわち法に背くということにはならないか。そんな思いが、レオンを思い留まらせる。
「ですが、可能性としてそこまで高いわけでは――」
だから、そんな本心からではない弱気な言葉が、つい口からこぼれて出てしまう。
「何を言っている。可能性の高さなど問題ではない。重要なのは、たとえ僅かでもその可能性があるということ。貴様を動かす理由は、それだけで十分なはずだ」
全くもってその通りだった。先程から彼女は、常に鋭い部分を的確に突いてくる。
「そもそも、この事件は不平等極まりない」
未だに騒ぎ立てる人だかりを見回しながら、彼女は不意に切り出した。
「周りの人々をよく見てみろ。誰が悪者扱いされている。間違いなく彼だろう。対してあの中年男と言えば、まるで自分が被害者だと言わんばかりの態度だ」
不愉快に顔を顰めながらも、彼女は続ける。
「だが、実際はどうだ。事実として剣を抜き襲いかかったのは彼だが、だからと言って彼だけが悪いと決めつけられるわけがない。そもそも、この事件の発端はどちらにあった。話の流れから見て、確実にあの男が原因だ」
彼女の推測は正しいと思われた。おそらく、若男が『魔術師』の子であると知った中年男が、それを理由に彼を罵倒したことからこの事件は起こったのだろう。
「とすれば、両者とも悪いことになるだろう。中年男は私怨から彼を罵り、彼はそれに耐え切れず剣を抜いた。見方によれば、彼が被害者とも考え得る状況だ」
だが、これは彼女が若男に肩入れしているわけではない。条例に反して抜剣した彼も悪いが、そこまでに至らせた中年男も同じく悪いのであって、ゆえに彼だけを悪者と決めつけるのは不平等だと言っているのだ。
「周りの連中はそのことをわかっていない。特に彼の場合は、『魔術師』の子だから、という理由で市民からより差別的な目を向けられることになる――」
そこまで言い切って、彼女は再度レオンに視線を向けた。
「実に不愉快だ。貴様もそう思わないか?」
もはや賛否を求める問いかけではなかった。答えなど決まり切っている。
「……当然です」
「ならば動け。貴様の手で彼を救ってやるべきだ」
彼女の意見はもっともだった。レオンは若男を救うために剣を抜いた。もし彼が中年男を殺していれば、極刑は免れないからだ。だが、結果として同じことになるのなら、わざわざ抜剣して助けた意味がなくなってしまう。どうせ事件に絡んだのだから、最後まで彼を救うことに努めるべきなのかもしれない。しかし――
やはり、レオンには決心できなかった。どうしてもその一歩が踏み出せない。
「……そうか」
口籠るレオンを見て、彼女は呆れたようにふっと息を漏らす。
「貴様はまだ、縛られているのか」
その言葉は明らかに冷え切っていた。先程までの熱意の欠片もない。見限られたのだと、レオンはすぐさま察した。
「では私が動く。少しでも期待した私が馬鹿だったようだ」
そう言って歩き出した彼女を、レオンにはもう止めることができなかった。自身への苛立ちを抑え込むように、ぐっと拳を力強く握り締める。
簡単な決意――自分はそんなことすらできないのか。誰かを守るためなら、たとえ自分を犠牲にしてでもやり通すのではなかったのか。あのとき、そう誓ったではないか。
だが、結局動けなかった。彼女の言葉に、素直に頷けなかった。
「俺は何をやっているんだ……」
ふと思い至り周囲を見渡してみるも、彼女の姿はとうに消え失せていた。今から探したところでもう遅い。すでに自分は逃げてしまったのだ。
間もなくして、騎士団の者らしき影がふたつほど、商店街の先に垣間見えた。
もはやここに留まる必要は完全になくなった。レオンは胸の奥につかえるわだかまりを感じながら、静かに広場を去った。