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葦原を移動していると、緑に苔生した岩場に出ることがあった。多くの場合、それらの岩の頂上には監視塔と思われる石造りの建築物があるのが確認できた。ことごとく崩落してしまった監視塔もあれば、今も健在だが、植物に埋もれ、小動物の棲み処になっているモノも見られた。
ただ、〈抵抗の丘〉を築いた商人たちが建設したと思われる建物の多くは、黒々とした沼地に沈み込み、廃墟に変わり見る影もなかった。やはり建築技術が関係しているのかもしれない。南部で生活していた人々は――彼らが人間なのか、それとも亜人なのかは分からないが、とにかくこの土地で建築に適した場所を知り尽くしていたのかもしれない。
その葦原を抜けると黒く捩じれた樹木が生い茂る場所に出た。足元には重く粘着性のある泥濘が広がり、ヤァカが引く荷車の移動を困難なモノにしていた。また茶色く濁った川には石橋が架けられていたが、それは途中で崩落していたので、対岸に渡るためには別の道を探す必要があった。
時間ばかりが過ぎていくなか、計画通りに移動できないことに焦りが募り始める。しかしどうすることもできない。もともと南部は未開拓の土地であり、人が生きていくにはあまりにも過酷な場所だった。遠征隊はその環境に徐々に適応していくことしかできない。
〈抵抗の丘〉を出発してから四日間、獣や昆虫からの襲撃に遭いながら移動を続けると、湿地は人を寄せ付けない魔境に変わっていく。一時間進むごとに道はより険しくなり、汚泥に足を取られ進むのが困難になる。
鳥のように長いクチバシを持つ〈キピウ〉というサルの群れに遭遇することもあった。幸いなことに、その人間の子どもほどの体長を持つ生物は臆病なため、遠征隊が襲われることはなかったが、群れの縄張りに誤って侵入してしまったときには、一時的に耳が聞こえなくなるほどの威嚇を浴びせられることになった。
なんでも、キピウという生物は仲間に危険を知らせるため、数キロ四方に響き渡る大声で吠えることができるという。厄介なことに彼らは夜行性で、野営地が見つかってしまったら、湿地の生物すべてを叩き起こす勢いで威嚇されてしまう。だから移動するさいには、常に頭上に注意して、黒い木々にキピウが潜んでいないか確認する必要があった。
それから、苔生した毛皮を持つオオカミに似た奇妙な獣からの襲撃も頻繁に起きるようになり、傭兵たちのなかには負傷する者もあらわれるようになった。それは戦闘慣れした守人も例に漏れず、何度目かの襲撃のさいには負傷者を出してしまう。
しかし遠征隊にはクラウディアを始め、優秀な治癒士が数名同行していたので、それらの怪我が大きな問題になることはなかった。とにかく手足がつながってさえいれば、治療できる可能性があった。そのことは傭兵たちの士気を維持する手助けになっていた。
もっとも、女性たちは顔を見られないように毛皮のフードや被衣を使用していたので、事情を知らない者にとって彼女たちは、呪術結社のように異質な存在に見えていたことだろう。
困難な状況でも移動は続けられたが、その間も照月來凪は己の血に宿る能力を使い、〈天龍〉から森を抜けるための情報を得ていた。ただそれは不安定なモノで、ハッキリと移動経路が見えることもあれば、まるで濃霧のなかを進むように先行きが見えないこともあった。
それでも彼女は詳細な地図をつくることを心掛けた。いずれその情報は彼女の一族を、照月家の再興につながると信じていたからだ。
そうしていつものように移動を続けていると、泥のなかに埋まるように、斜めに大きく傾いた鳥居が立っているのが見えてきた。高さ数十メートルの巨大な鳥居は圧巻で、一行は立ち止まってしばらく眺めていた。しかし木造の鳥居は朽ちていて、植物が絡みつき、あちこち苔生していて本来の姿を想像するのが難しい状態になっていた。
建築様式から、それが古の妖魔族が残したモノだと推測することができたが、それがいつから湿地に存在するのかは誰にも分からなかった。実際のところ、遠征隊に同行している狩人たちも足を踏み込んだことのない領域までやってきていたので、湿地に何が存在するのかを正確に知る者はひとりもいなかった。
その鳥居の近くで野営地の設営が始まると、アリエルは面倒な作業を嫌い、龍の子に会いに行くと言い訳を口にしてその場を離れた。しかし危険な地域にいるので、いつものように読書しながら時間を潰すことはできなかった。
そこで彼は見張りに立ちながら、ルズィから手に入れていた書物――彼は便宜的に〈恨みの書〉と呼んでいたが、その書物に憑いている怨念を支配できないか試みることにした。しかし沼地に立ち込める濃い瘴気や、邪悪な気配が障害になり集中することができなかった。言うまでもないことだが、混沌の気配も濃く、つねに誰かに監視されているような嫌な気分にさせられた。
アリエルは〈抵抗の丘〉で出会った〝老いた豹人〟の言葉を思い出していた。たしかに彼が言うように、呪術を制御するための訓練は必要で、それには瞑想が適しているのかもしれない。青年は深呼吸して心を落ち着かせると、瞑想をしてみることにした。楽な姿勢で倒木に腰掛けると、身体の感覚に注意を向けながら精神の流れを意識する。
しかし意識して瞑想を行ったことなど一度もなかったので、そもそも瞑想がどのような状態を示すのかも分からなかった。あれこれと考えを巡らせていると、背後から足音が聞こえる。振り返ると照月來凪がやってくるのが見えた。毛皮のフードから覗く彼女の顔には悪戯っぽい笑みが浮かんでいた。彼女も面倒な仕事から逃げてきたのだろう。
「こんな寂しい場所で何をしていたの?」彼女は青年のとなりに腰掛けながら言う。
「いつもの見張りだよ」
「そうは見えなかったけど?」と、彼女はクスクスと笑う。
「あぁ」と、どこか間延びした声で返事をしたあと、青年は言葉を選ぶように言った。「実は瞑想ができないか試していたんだ」
「瞑想……もしかして呪術の訓練を?」
どうやら瞑想と呪術という言葉は、すぐに互いを結び付けられるほど一般的に知られたことだったようだ。そのことについて訊ねると、彼女は瞑想について教えてくれた。
「東部では〝悟りを開く〟ために、そして西部では〝深淵に近づく〟ために瞑想が行われるの。でもそれは言葉の響きが違うってだけで、意味は変わらないの」
「深淵に近づく?」
彼女の綺麗な眸が赤紫色に変化するのを見ながら、アリエルは疑問を口にする。
「どうして呪術の鍛錬が悟りや深淵に関わってくるんだ?」
「大昔の偉い人の中には、人々の精神や魂というものが、いずれ行きつく場所があると考えた人がいたの」
「死後の世界ってこと?」
「それは分からない」と、彼女は黒髪を揺らす。「でも、その場所はありとあらゆる生命の魂が行きつく場所だと仮定した。そしてそうであるのなら、そこには膨大な量の呪素が眠っていると考えるようになったの」
「その人は、どうして魂や精神を呪素と結び付けたんだ?」
「呪素が人の意識や精神と呼ばれるモノに反応して、この世界に発現するからなんだと思う」
「待てよ……」と、アリエルは思いつきを口にする。「人の魂が行きつく場所に、膨大な呪素が存在するってことは――」
「そう」と、彼女は可愛らしい笑みを浮かべる。「人の魂も、呪素も同じモノだと考えたの」
「つまり俺たちが光を生み出すときに消費する呪素は、もともと誰かの魂を形成するモノだったってことか?」
彼女はうなずくと、暗い沼地に視線を向ける。アリエルが空中に浮かべていた発光体に照らされる彼女の滑らかな肌は、やや灰色がかった紫色を含んでいた。それが土鬼という種族特有の肌色だったのかは分からないが、触れてみたくなるほど綺麗だと感じた。
「もしも――」と、彼女は続ける。「魂と呪素が似たモノであるなら、それは私たちの身体や精神と深く結びついているモノであり、それを制御することができれば、より多くのことを実現することができるかもしれない……たとえば、人の魂を肉体に呼び戻すこともできると彼は結論づけたの」
「死者蘇生すらできる力を得るために、己の中にある深淵を覗く……か」青年は苦笑して、それから言った。「でもなんとなく瞑想の重要性が分かったよ」
「良かった」
照月來凪がホッとしたように息をついたときだった。戦狼のラライアが慌てた様子で飛び込んできた。どうやら野営地に食屍鬼の群れがあらわれたようだ。