07
アリエルは扉を肩で押し開けて外に出ると、薄暗い廊下を歩いて巫女たちが待機していた部屋に向かう。とにかく〈遺物〉の手掛かりを掴まないことには、この作戦が無駄になってしまう。主力部隊を指揮しながら陽動役を買って出てくれたルズィのためにも、なんとしても遺物を見つけ出さなければいけない。
部屋の前で待機していた片耳の守人に声を掛けたあと、リリと一緒に部屋に入る。巫女たちはまだ警戒しているのか、相変わらず部屋の隅に固まっていた。そこで青年は異変に気がつく。淡い燐光を帯びた鎖の位置が、寝台の上に移動している。
彼は視線を動かしてクラウディアの姿を探す。目が合うと、彼女はおずおずと集団の中から進み出てきた。
アリエルは急いでいたが言葉に苛立ちを含ませないように、できるだけ優しく訊ねた。
「落ち着いたか?」
「はい……もう、大丈夫です」
巫女は先ほどよりも小さな声で返事をして、恐る恐る青年の顔を盗み見た。そして泣いたことで赤くなっていた頬と鼻を隠すように俯いた。
「この神殿に保管されている〈神々の遺物〉について教えてほしい」と、彼は率直に言う。
クラウディアはゆっくり顔を上げて青年の顔を見た。そして何かを話そうとして口を開いたが、すぐに諦めて唇を閉じた。それを見た青年が難しい顔をして考え込むと、彼のとなりに立っていたリリが深く息を吸い込む。
『わたしたちは敵じゃないよ。この神殿に保管されているっていう遺物がほしいだけ』
リリが牙をみせて鳴いたので、青年は彼女が怒っているのかと考えたが、リリはいつものように落ち着いた面持ちで瞳の色合いを変化させていた。
『だから安心して、わたしたちは味方だよ』
クラウディアは真剣な表情で青年のことを見つめていたが、やがて振り向いて巫女たちと視線を合わせた。
「彼らを信じましょう」彼女のその一言で巫女たちは観念したのか、青年と豹人のために短い祈りの言葉を口にした。「けれどあなたが求めている遺物のことは知りません」
『それは困った』と、リリは長い尾を左右に振る。『ところで、そこにいるのは?』
寝台の側に集まっていた巫女たちは、互に顔を合わせて困ったような表情を見せる。
「あの子の世話をするために、私たちはこの地に連れて来られました」
クラウディアの言葉のあと、巫女たちは寝台から離れた。
『蛇!?』
リリが驚いて体毛を逆立たせると、彼女の尾が膨らむのが見えた。
「いや、蛇じゃない。あれは龍の幼生だ」
アリエルの視線の先には、鎖に繋がれた龍が横たわっていた。蛇のように細長い身体を持っているが、小さな四肢が確認できた。やや灰色がかった白菫色の鱗は白いフサフサとした体毛に覆われている。〈天龍〉の特徴である立派なツノと鬣は確認できなかったが、幼生だということを考慮すれば、それほど不思議なことじゃないのかもしれない。
『龍の子どもってこと?』
リリが首をかしげると、アリエルは自信なげに答えた。
「俺も見るのは初めてだから断言できないけど、おそらく龍の子だ」
『小さいんだね。一ラァオもないかも』
彼女は寝台の横にしゃがみ込むと、寝息を立てている小さな龍をじっと見つめた。全長一メートルほどの小さな個体だったが、すでに龍の面影がある。
「でもどうして龍の幼生が神殿にいるんだ?」
青年は巫女たちの間を通ってゆっくり寝台に近づいた。どうやらあの奇妙な鎖は、龍が逃げてしまわないために使用されていたようだ。淡い光を帯びていたのは、それが呪術によって鍛えられた金属だということを示すためだったのかもしれない。
アリエルは龍の美しさに思わず目を奪われた。すでに心を奪われてしまっていたので、それが無駄な努力だと分かっていたが、それでも努めて冷静なフリをした。
彼は息をついて、それから手の甲で龍に触れてみた。鱗が湿っていて熱がある。龍の幼生はもぞもぞと身体を動かして、苦しそうに「はふぅ」と、息を吐いた。
「病気なのか?」と、クラウディアに訊ねる。
「この子は身体が弱くて、月に何度かこのような状態になります」
「……それで、この鎖は」そう言って鎖に手を近づける。鎖は熱を帯びているのか、焚火のなかに手を入れるような嫌な感じがした。
「私たちが神殿に連れて来られたときには、すでに鎖に繋がれていました。その鎖について知っている人がいるとすれば、おそらく位の高い神官だけだと思います。ですが神官は私たちと口を効きません」
「鎖を外してあげられないのか」
彼の言葉にクラウディアは力なく頭を振る。
「私たちはソレに触れることすらできません」
きつく繋がれた鎖の所為なのか、鱗が赤く爛れていて、体毛が抜け落ちている箇所が確認できた。さすがにこれは不愉快だな。と、アリエルは頭の冷静な部分で思った。その瞬間、胸の奥、ずっと深いところで何かが冷たくなっていくのを感じた。
それに気がつくとアリエルは寝台を離れ、部屋の入り口に立っていた片耳の守人に視線を合わせる。すると兄弟は何も言わず太刀を抜いて、部屋の中央まで歩いていた青年に向かって刀を投げる。
手を切ってしまわないように注意しながら空中で刀を掴み取ると、鎖を叩き斬るつもりで渾身の力を込めて刃を振り下ろした。
甲高い音と共に太刀が二つに折れ、刃がどこかに飛んでいく。
嗚呼、どうしようもなく不愉快だ。アリエルは顔を上げて天井を見つめる。
「あ、あの!」と、クラウディアが慌てたように大きな声を出す。「その鎖は呪術師たちによって鍛えられた金属で、それで……えっと、どんなことをしても壊せないって、神官たちが話をしているのを聞いたことが――」
青年は彼女に手のひらを向けて言葉を制す。
気に入らない。アリエルは怒りで胸が苦しくなるのを感じた。神官だか何だか知らないが、まだ生きていたのならこの手で殺していただろう。グニャリと視界が歪み、鼓動が速くなっていく。蝋燭の火が弱まり、神殿全体が軋むような音が聞こえてくる。
青年はその場にしゃがみ込むと、黒く禍々(まがまが)しい靄を纏った指先で鎖に触れる。
次の瞬間、鎖を覆っていた燐光が弾けるようにして消えて、硬いモノが割れる甲高い音が響き渡る。すると指先で触れていた箇所から広がるようにして、鎖は黒い塵に変わりサラサラと崩れていった。
『リリ!』と、ノノが血相を変えて部屋に飛び込んでくる。
青年が顔を上げると、彼女は一瞬、怒りに満ちた険しい表情を見せた。
『混沌の気配を感じました。リリ、ここで何が起きたのか説明して!』
牙を見せながら唸る姉を見て、リリは狼狽える。
『わたしにもわからないよ。気がついたら妙な気配が立ち込めていて――』
青年は姉妹を意識の外に置くと、ゆっくり深呼吸して、それから瞼を閉じて五つ数えた。
一、二、三、四。
「ノノ、大丈夫だ。何も問題ない」貧血にも似た気持ち悪さを感じながら、青年は足に力を入れて立ち上がる。「リリも怯えなくていい」
巫女たちに視線を向けると、なにが起きたのか理解できず固まったままの表情で青年のことを見つめている者や、禍々(まがまが)しい〝気〟に当てられ、震えが止まらなくなった身体を抱いている者もいた。アリエルが使用した能力は、身を守る術を持たない巫女たちの近くで使用するには、あまりにも危険な能力だった。
気持ちを落ち着かせたあと、寝台に向かって一歩前に踏み出そうとしたときだった。気がつくとアリエルは暗い空間に立っていた。
ノノとリリの気配はなく、巫女たちの姿も見えない。まるで自分の魂だけが、暗い地の底に引きずりこまれたような、そんな気味の悪い感覚だった。その暗闇に耳を澄ますと、誰かが囁く声を聞いたような気がした。それが本物の声なのか、それとも幻聴なのか分からなかった。しかしその声も聞こえなくなり、アリエルは暗闇にひとり取り残されてしまう。
深紅に明滅する瞳が暗闇に慣れて、少しずつ周囲の様子が分かるようになると、暗がりの中に潜んでいたモノの存在に気がつく。冷たく鋭い刃を首筋に押し当てられているような、気が狂ってしまいそうになる恐怖に襲われるが、あまりの殺気に逃げ出すこともできなかった。と、低い唸り声が聞こえたかと思うと、暗がりから巨大な顎があらわれる。
それは暗闇と恐怖で形作られた龍の幻影だった。それも自分を丸呑みにできそうなほど巨大な龍の頭部だ。アリエルはじりじりと後退しながら直感的に悟った。〝あの龍を探しているのだ〟と。
龍の鼻先が近づくと、彼は足を止めて自分自身に言い聞かせた。それはただの幻影だ。この場に存在しないモノに傷つけられるはずがないのだ。暗闇のなかで龍の巨体が動いて、空気が揺れ動くのが感じられた。しかしそれは影のように、物音ひとつ立てなかった。
気がつくと、寝台に近づくために踏み出した足が地面に接触した瞬間に戻っていた。あの恐ろしい暗闇は跡形もなく消え、龍の気配も感じられなくなっていた。アリエルは注意深く周囲を見回して、それから塵に変化していた鎖を見つめた。あの鎖には、龍の存在を隠匿する呪術が使用されていたのかもしれない。
『どうしたのですか、エル』
ノノが小さく唸ると、青年は自分が体験したことを正直に話した。
「龍が子どもを探している」と。