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ウアセル・フォレリが雇った傭兵たちが遠征のための準備を進める間、アリエルは龍の幼生と照月來凪の能力を事前に確認するため、彼女たちを連れて湿地の偵察に向かうことになった。一時間足らずの偵察を予定していたので、青年に同行する戦士は戦狼のラライアだけだった。
「あまり遠くには行くなよ」
ルズィの言葉に反応してアリエルは毛皮のフードから顔を覗かせる。ひどく緊張しているのか、硬い表情を浮かべている。
「わかってる。人気のない場所を探して彼女の能力を確認したら、すぐに戻ってくるよ」
「それがいい、南部の湿地帯は守人すら組織を維持できなかった過酷な土地だ。危険だと感じたら、すぐに離脱するんだ」
「了解」
頼りない返事にルズィは不安そうな表情を見せたが、兄弟の言葉を信じることにした。
「一応、彼女にも忠告しておくか……」
彼はそう言うと、傭兵たちに取り囲まれているラライアの側に向かう。気の毒になるほど怯えている傭兵を余所に、彼女は曇り空を眺めながら退屈そうに欠伸をしていた。
都市の入り口を警備していた蜥蜴人たちは、厳重な警戒態勢のなかでラライアを包囲している。都市の有力者に危険性がないと説得されていても、巨大なオオカミが近くにいるだけで自然と緊張してしまうのだろう。森で早死にしたくなければ、オオカミや猛獣の襲撃に警戒しなくてはいけない。祖先から受け継いできた不安や恐怖が精神に、そして身体に刻まれているのだろう。
そこに〈黒の戦士〉を護衛に引き連れたウアセル・フォレリがやってくる。
「出発する準備はできたのかい?」
穏やかな表情を見せる褐色の青年とは対照的に、アリエルは青白い顔でうなずく。
「ラナを待っているところだ」
「照月の娘か……それにしても、ずいぶんと顔色が悪いみたいだね。体調が悪いのかい?」
「いや、緊張しているだけだ」
アリエルの言葉にウアセル・フォレリが怪訝な表情を見せる。
「君でも緊張することがあるのかい?」
「誰だって神経質になるときくらいあるさ」
「もしかして湿地を恐れているのか? それなら〈黒の戦士〉を護衛として――」
「違う」と、彼の言葉を遮る。「たしかに湿地を支配する魚人は恐ろしい連中なのかもしれない、でも俺が恐れているのはラナの能力のことだ。もしも俺たちの計画が間違っていたら、もしも彼女の能力が発動しなかったら。そのとき俺たちは……」
「森を出るどころか南部の湿地を彷徨い、そして惨めに死ぬことになる。つまり君は失敗を恐れているんだね」
アリエルはウアセル・フォレリの青い眸を見つめて、それからうなずいた。
「俺ひとりが死ぬわけじゃないからな」
「悲観的なのはベレグだけだと思っていたけど、君も臆病風に吹かれることがあるんだね」
「俺は真面目に――」
「君を揶揄っているつもりはないよ。でも不安に思うことなんてないんじゃないのかな。僕らは誰かに強制されたわけでもなく、自分たちの意思で遠征に参加しているんだから。そうでしょ? この計画が実現すれば、僕は南部との販路を獲得できるかもしれない。そうなれば商人として大きな利益を得ることになる。当然のことながら、照月家にも思惑がある。それに君が言ったように、豹人の姉妹が女神の使者なら、彼女たちの種族にも何かしらの利益がもたらされる。戦狼だってそうさ、あの厳格な掟を守る女族長が娘たちを縄張りの外に出したんだから」
「龍の子とクラウディアたちのことを忘れていないか?」
アリエルの言葉にウアセル・フォレリは苦笑する。
「たしかに彼女たちは優秀な治癒士だけど、南部は龍の〝お世話係〟が来るような場所ではないね。でも小さな龍は同族のもとに帰ることができるかもしれないんだ。そう考えると、君が何もかも背負おうとする行為は、なんだが間抜けみたいに思えない?」
彼の言葉にアリエルはムッとした表情を垣間見せたが、それは一瞬のことだった。すぐに自分の愚かさに気がついて、顔が赤くなるほど恥ずかしくなった。仲間たちは自分の願いのために集まってくれているのだと思っていた。自分が特別な存在だから、兄弟や他種族の仲間たちが団結したのだと。しかしそんなことはなかった。まだ年若い多感な青年は壮大な計画の一部でしかなく、彼が背負わなければいけない責任など存在しなかった。
ウアセル・フォレリはコロコロと表情を変える弟分の顔を愛おしそうに見つめたあと、彼の気持ちを変えるために別の話をすることにした。
「傭兵たちについて話しておきたいことがある」
「何か問題が起きたのか?」アリエルは眉をしかめる。「まさかとは思うけど、もう裏切り者が出たのか?」
「いいや」と、彼はどことなく残忍な笑みを浮かべる。「連中の過去を適当に調べさせたけど、一部の例外を除いて、ほとんどが貧農の子や部族から追放されて森を放浪する漂泊民の子孫だった。首長との繋がりまでは調べられなかったけど、それなりの人生経験を積み、南部で生きていくために死に物狂いでの技能を身につけてきた連中だ。神々への信仰心が薄い奴もいるが、誓を破るようなことはしないだろう」
「それでも裏切りを警戒する必要はある」
アリエルの言葉にウアセル・フォレリは当然だというようにうなずく。
「もとより、龍の子を連れ歩く照月家の娘には護衛がついている。戦闘慣れした傭兵でも土鬼の武者を相手にすることは避けるものさ」
「クラウディアたちは?」
「メアリーのことは覚えているな」
アリエルは足元の水溜まりに視線を落として、あれこれと考えたあと、ウアセル・フォレリに視線を戻した。
「顔を赤らめた東部人、バヤルの次に遠征の参加に名乗りを上げた女性のことだな」
「そうだ。そのメアリーに彼女たちの護衛を任せる」
「信用できるのか?」
「個人的に興味があって彼女のことは調べたけど、完全にシロだった。彼女が裏切る可能性は、〈イアーラの涙〉が凍結するくらいに難しい」
「凍らない湖のことだな……。つまり、彼女は絶対に俺たちのことを裏切らないってことか?」
「彼女は南部の生まれで、そもそも首長との接点はない。東部の戦や略奪に参加した記録も存在しない」
メアリーは魅力的な女性だった。すらりと鍛えられた身体に長い脚、少年のように大雑把に短く切られた黒い髪に、日に焼けた褐色の肌。黒く染められた鎖帷子は使い込まれていて摩耗していたが、錆はなく、よく手入れされていることが分かる。痩せた顔に鋭い目が冷たい印象を与えるが、性格は明るく、とにかく笑顔が素敵な女性だった。
ウアセル・フォレリより少し年上に見えたが、五つも離れていないだろう。傭兵たちは彼女に色目をつかい、モノにしたいと考えているようだった。彼も同じ気持ちだった。族長たちの上品ぶった娘を何人も抱いてきたが、彼女から感じるある種の野性味に、ウアセルは知らず知らずのうちに魅了されていた。
アリエルが険しい表情を見せると、彼は咳払いする。
「刺客と思われる集団に監視されていたことは、ベレグに聞いたよ。だから暗部の存在を疑う気持ちも理解している。でも疑うべき人間は他にもいる」
「たとえば?」
「首長の戦に何度も参加していた傭兵がいる」
「戦に……」そこでアリエルはハッとする。「もしかしてイザイアのことか?」
「ああ、戦士長として小部隊を率いるくらいには実力のある傭兵だ。そんな男が南部で何をしていると思う?」
「さすらい人なんじゃないのか?」
「〈黒の戦士〉が部族から離れることは滅多にない」ウアセル・フォレリは頭を横に振ったあと、護衛の武者を連れて近づいてくる照月來凪の顔を見る。
「でもイザイアは〈契約の護符〉を使ったんだろ?」とアリエルが言う。
「暗部に所属する戦士は、任務のためなら死ぬことを厭わない。それを教えてくれたのは君だったと思うけど」
「そうだなったな……」
「警戒は続ける。でもとにかく、どこかで妥協しなければいけない。僕たちだけで南部の湿地に足を踏み入れるわけにはいかないからね」
親友の言葉にアリエルは溜息をつくと、どんよりとした曇り空に視線を向けた。