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都市を囲むように、寄せ集めの襤褸を何枚も重ねて綴った無数の天幕が見える。そこでは数え切れないほどの人々が生活していて、間断なく降り続ける糠雨にウンザリした表情を見せていた。いつでも曇り空の陰鬱な土地だ。人々の気分が落ち込むことも理解できたが、人々が鬱々とした気持ちを抱えている理由には、どうやら別の大きな問題が関係しているようだ。
商人たちの話では、都市の周囲で生活する人々の多くが南部から逃れてきた難民だという。邪神を崇拝する亜人に土地を追われてしまった人もいれば、肉食昆虫の襲撃を受けて集落が壊滅してしまった人もいる。人々が〈抵抗の丘〉にやってくる理由はさまざまだったが、かれらが南部という厳しい土地の犠牲者であることに変わりないのだろう。
とにかく、見渡す限り不幸な人々がいる。傷ついた子ども、年老いた豹人、隻腕の蜥蜴人、赤子を抱いた少年。ありとあらゆる種類の人々が、種族や部族に関係なく、劣悪な環境で一緒に生活している。
足元に広がる粘着性の泥濘では、ひとの肉を好む沼ネズミと手のひらほどの甲虫が這いずり、行き倒れになった人々の身体に群がり身の毛がよだつような光景をつくりだしている。けれど通りを行き交う人々は慣れてしまっているのか、その光景に関心を示すことはない。それはあくまでも他人事であり、些細な出来事なのかもしれない。
南部で生活してきた人々の日常の中では、ソレはありきたりな出来事で、その小さな悲劇にいちいち心を痛めていては、気がおかしくなってしまうのかもしれない。そして冷淡でなければ、この場所で生きていくことはできないのだろう。
薄着の娼婦が多く見られる場所では、あちこちの天幕から艶のある嬌声が聞こえてくるが、そのすぐ外では大柄の蜥蜴人に絡まれた男性が泣き叫びながら命乞いをしている。男は殴られ、鼻血と泥にまみれながら許しを乞う。しかしそれもこの辺りでは、ありふれた日常の風景なのか、男のことを気にする人の姿は見られない。客引きの少女すら男の存在を無視している。
と、ボロ布を身につけた蜥蜴人の小さな女の子がやってきて、クラウディアの被布の裾をクイっと引っ張る。暗い青緑色の鱗を持ち、頭頂部から背中にかけて生えている灰色の体毛は油と砂埃でボサボサになっている。その小さな子が、クラウディアに向かって何かをねだるように手のひらを差し出す。
お腹が空いているのかもしれない。クラウディアが携行食として持ち歩いていた乾燥した果実を差し出すと、女の子はグルグルと喉を鳴らしてから小走りで天幕に戻っていく。クラウディアがホッと安心したのもつかの間、次々と幼い子どもがやってきて食べ物をねだるようになる。
彼女が数十人の小さな子どもたちに囲まれて動けないでいると、ルズィは〝やれやれ〟と溜息をつきながら彼女のもとに向かい、さっと背中と脚に腕を回して抱き上げる。クラウディアを奪われた子どもたちは悪態をつきながらルズィに掴みかかるが、彼は子どもを軽くあしらいながら歩いた。
それでもしつこく絡んでくる子どもには、腰に吊るしていた短刀を見せてやる。すると彼らは悪態をついて離れていく。大人げないように見えるかもしれないが、狡猾な子どもたちのカモにされ身ぐるみを剥がされたくなければ、隙を見せることはできない。
ちなみに、戦狼は都市を警備する傭兵たちに足止めされていて一緒にいなかった。ラライアたちの巨体を目にしていたら、そもそも近づいてこなかったのかもしれない。
排水不良で汚水が溜まった通りでは、酸っぱい垢のニオイにまみれた集団に行く手を阻まれる。ルズィにあしらわれた子どものひとりが、かれらの背後にいるやくざ者に告げ口をしたのかもしれない。そいつらは守人の恐ろしさを知らないような浮浪者だったが、遅れてやってきた戦狼の姿を見て尻込み、そそくさといなくなってしまう。
しかしそれですんなりと街に入ることができたかといえば、残念ながらできなかった。一行は都市の入り口を警備していた傭兵たちに、またしても取り囲まれてしまうことになる。かれらは戦狼を必要以上に警戒して、入り口のすぐ近くにオオトカゲ(ラガルゲ)に騎乗した蜥蜴人や豹人を集めて戦闘に備えていた。
戦狼がただの獣ではないことを説明して、傭兵たちの誤解を解く必要があったが、アルヴァとヴィルマは服を着ていなかったので、傭兵の前で人の姿に戻るわけにはいかなかった。唯一、身体を隠すことのできる衣類を身に付けていたラライアは、アリエルの前で姿を変えることを頑なに拒んだため、交渉は難航する。
しかし無理もない。戦狼は、その存在がほとんど知られていない種族でありながら、人を乗せられるほどの巨体を持つオオカミの姿をしているのだ。傭兵たちが、はじめて目にした戦狼を警戒するのは当然のことだった。でもだからといって、このまま湿地に引き返すわけにはいかなかった。ウアセル・フォレリと合流しなければいけなかったし、熱い湯と石鹸を用意してくれる宿を探さなければいけなかった。
しばらく不毛な睨み合いを続けると、傭兵たちの中から派手な短槍を手にした大柄の蜥蜴人が出てくる。かれは何事かを喚き立てた。が、その独特な発音の所為で、誰も言葉を聞き取ることができなかった。
アリエルたちが困ったような表情を見せると、日に焼けた褐色の肌を持つ人間の女性が前に出てきて、蜥蜴人の言葉を通訳してくれる。
どうやら危険な獣を――この場合、危険な獣はラライアたちだったが、都市に入れることは絶対にできないとのことだった。
「どうしてだ」と、ルズィが落ち着いた声で訊ねる。「首長が定めた法によれば、友好的で共通語が理解できるのなら、いかなる姿の亜人も部族間で差別されることはないはずだ」
すると蜥蜴人が大声で喚き、それを女性が困ったように通訳する。
「〈抵抗の丘〉は商人組合の街で、首長は関係ない! ……だそうです」
「ふむ」ルズィは腰に差していた剣の柄に手を置く。「首長の法が意味をなさないのであれば、ここは無法がまかり通る都市という理解でいいのか?」
守人が纏う気配の変化に気づいたのだろう。蜥蜴人は舌を鳴らしてオオトカゲを呼び寄せて跨ると、短槍を握り直しながら穂先をルズィに向けて声を荒げる。
「理解は求めていない、さっさと帰れ! だそうです!」と、女性が慌てて通訳する。
「最低限の規律すら意味をなさない都市なら、俺たちが行儀よくする意味はないのかもしれないな……」独り言のようにつぶやいたあと、ルズィの眸が明滅して、彼の周囲で空気が燃えるように歪むのが見えた。瞬間的に生み出された熱によって、密度の異なる大気が呪素と混ざり合い陽炎のような現象を局所的に発生させたのだろう。
「お前たちの事情は理解した。それがどんなに馬鹿げた理由だとしても。けど俺たちにも引けない理由がある。だから押し通らせてもらう。すぐに何人か死ぬことになるだろうな。でも嫌とは言わせない。無益な殺し合いを望んだのは、この場にいるお前たちに他ならないのだから」
蜥蜴人はルズィの言葉に反応すると、声を荒げながら傭兵たちに攻撃の準備をさせた。統率の取れた見事な動きで十数人の傭兵が武器を手にしながら前に出る。それを見たルズィは苦笑する。
「おかしな連中だ。野生のオオカミが怖いと言っておきながら、訓練されたオオカミに手を出そうとするんだからな」
ルズィが洗練された所作で両刃の剣を鞘から引き抜くと、傭兵たちは這い寄る死の気配に怯え身構える。そして奇妙な静けさが辺りを包み込んでいく。聞こえてくるのは戦狼の唸り声と、傭兵たちの鎖帷子がジャラジャラと揺れる微かな音だけだった。しかしウアセル・フォレリの登場によって、その静寂は破られることになる。
ルズィは剣を鞘に収めると、やれやれと溜息をついた。
「来るのが遅いぞ」
それを聞いたウアセル・フォレリは、いつものように陽気な笑みを浮かべた。