06〈マツグの落とし子〉
恐怖で身体を震わせていた女性の視線で、アリエルは自身の右手に握られていた鞘の存在に気がついた。彼は後退り女性から距離を取ると、静かな動作で地面に鞘を置いた。どうやら青年は、自分が想像していたよりもずっと緊張していたようだ。
ノノは太くて長い尾を左右に振りながら女性に近づくと、彼女の頬に手をあて、爪を立てないように親指で涙を拭いてあげた。そしてさらに身を固くする女性に向かって微笑んでみせる。けれど戦闘による高揚感で淡い光を帯びていたノノの瞳を見て、彼女は心臓を締め付けられるような恐怖を感じる。豹人の笑顔を知らないことも致命的だった。
「お前たちを傷つけるつもりはない。誤解を招くような行動を取ったことを許してくれ」
青年がノノに視線を向けると、美しい豹人は滑らかな所作で納刀した。恐怖に身を固くしていた女性はそれを見ると、へたり込むようにしてその場に座り込んだ。
青年は身を寄せ合うようにして壁際に立っていた巫女の集団に視線を向ける。淡い燐光を帯びた鎖が何処に繋がっているのかは分からないが、目的の〈遺物〉に関係があるのかもしれない。
「危害を加えるつもりはない。必要なモノが手に入ったら出て行く。だからそこを通してくれないか」
それでも反応を示さず、動こうとしない集団に対してノノが静かな声で鳴いた。
『私たちに敵意はありません』
しかしそれは逆効果だった。遺跡を占拠している部族は〈亜人〉との交流がないのだろう。さらに身を寄せ合い身体を固くする巫女にお手上げ状態だった。強引に押し通ることもできたが、彼女たちは神殿を管理していて、その仕事に誇りを持っているようだった。
言い方は悪いが、ここは無理せず彼女たちを懐柔したほうが、〈遺物〉の捜索を円滑に進めることができるかもしれない。
アリエルはじっと巫女たちを見つめたあと、ノノに声を掛けた。
「戦が終わるまでの間、ここで彼女たちを保護する。護衛のための戦士を部屋の入り口に待機させてくれ」それから青年は口を閉じて思考する。
「リリを連れてきてくれるか、無害な豹人の言葉になら耳を貸してくれるかもしれない。……女戦士がいたら良かったんだけどな」
『人間の女性を……ですか?』
青年がノノの言葉にうなずくと、彼女は神経質そうに尾を振りながら部屋を出ていった。
青年も彼女のあとに続いて部屋を出ようとしたが、そこで思い立ってふと足を止めた。そして、へたり込んだまま涙を流す女性の近くにしゃがみ込んだ。
「さっきは悪かった。怖がらせるつもりはなかったんだ……それで、よかったら君の名前を教えてくれないか」
彼女は何度かしゃっくりをあげた。
「クラウ……ディア」
「クラウディアか」
青年は何度かその名を舌の上で転がせる。
「力強い響きを含んだ名だ。守りたいモノのために自身を犠牲にすることも厭わず、武器を持った戦士の前に立つことのできる勇気ある女性に相応しい名だ。君はこの神殿の――名も知らぬ神の誇りなのだろう」
彼女は涙を流しながら何度もうなずいた。
アリエルは部屋の前までやってきていた片耳の守人に彼女たちの護衛を任せると、拝殿の奥に続く廊下を歩いた。すぐに別の部屋を見つける。そこは食堂として使われていたのか、木製の草臥れた長机と椅子が並んでいるだけで、とくに目ぼしいモノは見つけられなかった。
食堂を出て歩いていると、土が剥き出しになっていた廊下の壁が石材と漆喰で補強されていることに気がついた。この先に何か重要なモノがあるのかもしれない。足を進めると、廊下の突き当たりに金属板が埋め込まれた扉があるのが見えた。その扉には錠がかけられていて、厳重に管理されていたことが窺えた。
扉の上部にある小窓で室内を覗き見るが、暗くてなにも見えない。そこでふと思い出して、青年は祭壇の上に置かれていた銀色の鍵束を懐から取り出す。鍵を探すのに手間取ったが、すんなり錠が外れて扉が開いた。
ノノを呼ぼうとして振り向くと、燭台を両手に持ち、こちらに向かって歩いてくる彼女の姿が見えた。
「ありがとう」
片方の燭台を受け取ると、彼女と一緒に暗い部屋に入っていく。
蝋燭の灯りに照らされた部屋は暗く、綺麗に並べられた長机に本棚が微かに見える程度だった。火の気がまったくないことからも、神殿を不法占拠していた部族にとって重要な書類が保管され、管理されていた場所だと推測することができた。
ノノの呪術によって室内に生物が潜んでいないことを確認すると、本棚に収められている書物を眺めながら歩いた。神々が人々と共存していた時代に、〈盲目の信徒〉によって記された書物が保管されているかもしれない。
そしてそれは〈神々の森〉で生きるすべての部族にとって、極めて重要な資料になる可能性を秘めている。青年は淡い期待を抱きながら書物を確認していく。
燭台を目線の高さに合わせながら適当な本棚に近づく。書物を数冊引き抜いて手に取ると、近くの長机に載せて椅子に座る。それから綺麗な装飾が施されている本を手に取る。金糸で刺繍がされた書物は、森に生息する〈マツグの落とし子〉の毛皮が使用されているのか、驚くほど滑らかな手触りだった。
地上の遺跡で戦士たちが殺し合いを続けていることを思えば、椅子に座ってゆっくり読書している余裕なんてないが、リリが巫女たちと交渉している間、なにもせずに時間が過ぎるに任せるのなら、少しでも情報を得たほうがいいだろうと青年は考えた。
パラパラと羊皮紙を捲りながら文章に目を通していく。それは失われた神々について記された書物だった。
そして部族の長老たちが神話として語る〈創世記〉についても書かれていた。神々が〈最果て〉に旅立ち、世界から神々の影響がなくなり始めた時代に起きたとされる戦争の数々、そして神々に創造された多くの種族が、己が神のために覇権を争った長く苦しい時代が過ぎ去り、帝国の建国と共に始まった〈第一紀〉までの出来事が簡素に書かれている。
国家間の戦争と内戦を経て、帝国からの独立を勝ち取り誕生した多くの国家についても書かれていたが、〈神々の森〉という世界しか知らないアリエルにとって、それはどこか現実味のない物語でしかなかった。
森で生きることを選んだ種族に関して詳細に綴られていた書物も確認できた。〈カワトカゲ〉の鱗だろうか、それは触り心地のいい薄緑色の革で装丁された書物だった。
■
〈神々の血を継ぐ子供たち〉について。
書物の巻頭でアリエルは衝撃を受ける。
自らが創造した生命を残し〈最果て〉の地に旅立ったとされる神々は、己の血族のために自身の――神としての能力の一端を、最初の〈神々の子供たち〉に授けたとされている。どのようにしてそれが行われたかを知る者はいないが、様々な諸説がある。
神々と交わったとされる説や、神々の奇跡によって身体改造に及んだとされる説もある。ハッキリと言及するならば、想像の数だけ諸説は生まれるので、これ以上は追及しても無駄なのかもしれない。青年は適当に読み進めることにした。
〝神々の血を継ぐものたちの能力は多種多様だ〟と書かれている。世界の理にまで影響を及ぼしかねない能力から、大地を耕し生命を芽吹かせる能力。翼がなくとも空を自由に飛ぶことのできる能力や、戦闘において重要視される破壊的要素を含む能力など、確認されているだけでも数千種類に及ぶ能力が存在するという。
それらの異能のなかでも、とくに興味深いのは太陽や星の動き、また天体を観察するためだけに存在する能力があるということだ。これらが示していることは、本当の意味において神々は人々を救い、助けるためだけに能力を与えたということだ。
しかし一部例外もあるようだ。アリエルは頁をめくる。
世界中で行われている戦争の影には、各国の勢力均衡を崩しかねないほどの戦闘能力を有した〈神々の子供たち〉の存在が確認されていて、能力者の獲得を主とした組織の動きが活発に見られるようになっていた。過剰な戦闘能力を与えられた種族が存在することが、世界秩序にとって大きな脅威になっているとも書かれていた。
何故、〈最果て〉の地に旅立った神々は己の血族に、このような〝過剰〟なまでの能力を与えたのだろうか、それは今も議論されているが正確には分かっていない。
それらの強大な能力を有する戦士が誕生しない種族の唯一の救いは、その能力が最初の神々の子、所謂〝始祖〟と呼ばれる血筋にのみ継承されるということだ。
すべての種族に分け隔てなく能力が与えられているが、始祖と呼ばれるモノたちは、神々により近い能力を所有している。その誕生には謎が多く存在意義も判明していないが、神々によって創造された生命には理解できない法則に基づいているのかもしれない。
しかし自然界において時折、突発的に、あるいは必然的に強大な力を持って誕生する能力者があらわれるという。体内に流れる神の血で――。
■
『エル、こちらに来てもらえますか?』
青年は本を閉じて立ち上がると、燭台を持ってノノのもとに向かう。
『これです』
顔を上げると巨大な壁画が目に飛び込んでくる。
「美しいな」
最初に目につくのは水面に浮かぶ白銀の塔だった。それは湖の中心に……いや、海と呼ばれるモノのなかに立っている。そして塔の周りを飛ぶ天龍の群れが描かれている。かつて森にも生息していた巨大な生物で、蛇のような胴体を持ち、自由に空を飛ぶことができたという。
実際に見たことはないが、かなりの巨体だと聞いたことがある。その龍の大きさを考慮するならば、ここに描かれている塔はとてつもなく巨大なモノだと推測できた。
白銀の塔の頂上は雲に隠れていた。左に視線を向けると陸地が描かれている。蝋燭の灯りが届かず、燭台を持って歩くことになった。途中、椅子に足を引っ掛けて転びそうになる、しかし青年の目は、それでも壁画に釘付けだった。
海が途切れ、陸地が姿をあらわす。峰々があり、草原が広がっている。森しか知らないアリエルには奇妙な光景に映る。彼は足を止めて、少しばかり後退する。大陸の尖端に何かある。
青年は手に持っていた本を近くの机に置く。そして椅子を引きずり壁に寄せると、その上に乗る。
「ひどく小さいが……これは光を帯びた人間なのか?」
『エル』
声が聞こえると、彼は驚いて振り向いた。
『リリが来ています』
「そうか」
驚いた姿を見られたのが恥ずかしかったのか、青年は何事もなかったように振舞う。少しばかり壁画に夢中になっていたようだ。
すぐに部屋の入口に立っているノノのもとに向かう。
「外の様子はどうだ」
『とても静かです。〈霞山〉の麓に到着した本隊に対処するためだと思われますが、守備隊は神殿から離れました。広場で行われていた戦闘もすぐに鎮静化するかと思われます』
「そうなると、神殿は略奪を目的とした戦士たちの興味の対象になるな」
大扉が頑丈といっても限度がある。もう時間はあまり残されていない。
「それで、巫女たちと話はついたのか」
彼女の眸は淡藤色から紺藍色に変化する。
『はい。リリが彼女たちの混乱していた心を鎮めました」
「鎮めた……もしかして、人の気持ちを操作する呪術を使ったのか?」
『緊急事態ですから』と、彼女は鼻息を荒くした。
アリエルは振り返ると、机に置いてきた書物を見つめる。
「ノノはこの場所で重要そうな書物を探してくれないか。部族のことでも、この世界や宗教について分かるモノなら何でも構わないから」
『わかりました』
それから青年はいつになく真面目に言う。「神々の血を継ぐものたちについて記されている書物を見つけたら、優先的に回収してくれ」
『承知しました』
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〈マツグの落とし子〉
人喰いマツグとして知られた〝巨人〟の末裔だと信じられている生物は、全身が毛皮に覆われたサルのような生き物だが、頭部はヒキガエルそのもので、コウモリのような鼻と耳を持っている。人間や亜人の言葉を理解し、炎や風の呪術を操るほど賢いが、空腹のときには人間を丸呑みにすることもある。
警戒すべき種族ではないが、悪意ある個体も多く、森の部族は〈マツグの落とし子〉の生息域を避けて狩りを行う。しかし〈黒い人々〉の商人たちと交流が続いていることは現在も確認されている。