18
野営地で待っていた豹人の姉妹と合流すると、異形の化け物と武装集団が争っていた区域に向かう。戦狼のラライアも同行するつもりでいたが、ルズィは許可せず、照月家の武者たちと一緒に野営地に残る仲間たちの護衛を任せた。彼女は不貞腐れていたが、龍の幼生を守ることの重要性を認識していたので、不満を口にすることはなかった。
鬱蒼とした薄暗い森を進み、戦闘区域に接近している間も、激しい戦闘音と殺されていく野盗たちの悲鳴が絶え間なく聞こえていた。しかし現場に到着する頃には、辺りはしんと静まり返っていて、動物や昆虫の鳴き声すら聞こえなかった。
ルズィは足元に転がる死骸や、足首まで浸かるほどの血溜まりを避けて倒れていた大柄の男の側にしゃがみ込むと、何事かを囁く。気心の知れた友人に話しかけるみたいに。
それから腰に差していた両刃の剣を抜くと、躊躇うことなく男の首に突き刺した。
その間、大柄の男はルズィを見つめているだけで声を上げなかった。微かに聞こえてくるのは、男の鼻と口からぼこぼこと泡を立てながら漏れ出る血液の音だけだった。
アリエルは戦友の背中から視線を外すと、樹林の間に見えるグロテスクな肉塊に目を向ける。カラスと視覚を共有していたので、戦闘の様子は上空から確認していた。が、地上で見るソレは、狂気の園と呼ぶに相応しい場所になっていた。
化け物から漂ってきているのだろう、周辺一帯には腐臭が立ち込めている。それは皮膚にまで染み込むような死臭だ。
血溜まりに横たわる死体を跨いで化け物に接近する。泥のなかに倒れた男の身体は奇妙な角度で捩じれていて、脊柱は引き千切られ、腹部の皮膚でかろうじて下半身と繋がっている状態だった。腹部から飛び出ていた臓物には、すでに気色悪い昆虫が群がっていて死肉を貪っている。
その死体を跨ぐとき、なにか硬いモノを踏んだことに気がつく。足元を確認すると、土に半ば埋もれた頭蓋骨の骨片と数本の歯、それに千切れた舌が見えた。
顔をあげると、首のない男が大樹の枝に突き刺さっているのが見えた。手や足は付け根から捩じ切られていて、裂けた腹部から垂れ下がる腸が風にゆらゆらと揺れている。死臭を嗅ぎつけたのか、親指ほどの蠅が死体の側を飛び回っている。
死体の足元には、肘から切断された腕が手斧を握りしめた状態で転がっている。それは赤黒い血液と泥に汚れていたが、奇妙な生々しさがあり、今にも動き出しそうに見えた。
地面には生物が這ったような跡があり、ヌメリのある体液が――多くの場合、それは血溜まりだったが、粘度のある膿のような液体も残されていて、一目で異形の化け物が通過した跡だと確認できた。その周囲には野盗たちの無残な死骸が転がっている。
潰されて原形を失った顔面や、側頭部が吹き飛んで脳の一部がこぼれている頭。まるで布を絞るように、上半身と下半身が引き千切られている死体。仲間の呪術に巻き込まれたのか、ひどく焼けただれて手足を硬直させた焼死体。そして昆虫のように叩き潰されて地面に埋まった死体。
その多くは、凄まじい衝撃を受けたことが致命傷になっていて、内臓はグチャグチャに潰れ、眼球は飛び出すか頭部にめり込むようにして潰れていた。
樹木や岩に叩きつけられた男たちは、肋骨や脊柱が折れていて、支えをなくした身体は糸の切れた操り人形のようにグニャリと丸くなっている。裂けた腹部や肛門から内臓が噴出している遺体もある。彼らの死にざまは安易に想像することができたが、果たして彼らは苦しみながら死んだのだろうか?
『エル』と、灰色がかった白花色の体毛に覆われたノノが青年のとなりに立つ。『あれから目立った動きは確認できませんが、気をつけてください。次の標的は私たちになる可能性があります』
頭のなかで響くノノの声にうなずいたあと、アリエルは完全に沈黙していた化け物の姿を眺める。ノノが言うように野盗を皆殺しにした化け物は動きを止めていたが、戦闘による傷は確認できず、いつ動き出してもおかしくない。
「ノノとリリは俺と一緒に来てくれ」
ルズィの言葉に、艶のある黒い体毛に覆われたリリが首をかしげる。
『なにをするつもりなの?』
「あの化け物を燃やす」
『私たちに敵意はないみたいだし、放っておけばいいんじゃないの?』
「ダメだ」彼はキッパリと言う。「俺は守人だ。人々の脅威になるような化け物を放っておくことはできない」
『なんだかめんどくさいね』
リリは不満を示すように低い声で唸るが、ノノと手を繋ぎながらルズィのあとを追う。
ベレグから戦闘の報告を受けて、化け物が炎に弱いと考えたのだろう。ルズィは呪術の炎で一気に化け物を焼き尽くす算段をつける。呪術師のなかでも類稀な才能を持つ豹人の姉妹と、炎の使い手であるルズィが協力すれば、あるいは化け物を仕留めることができるかもしれない。三人が呪術の準備を始めると、ベレグは大樹の枝に移動して周囲を監視する。
アリエルは炎の影響を受けない位置まで移動したあと、周辺一帯に漂う邪悪な気配に注意を向ける。危険な生物を寄せ付けないために、護符を使い浄化する必要があるだろう。けれどその前に、死んでいった者たちの魂の残滓を回収するべきなのかもしれない。
仰向けに倒れた死体の側で立ち止まると、意識を集中させ、瞑想にも似た状態まで精神を落ち着かせていく。すると視界の端から暗くなっていき、徐々に世界から色が失われていくような奇妙な感覚を覚える。
やがて死体のすぐ側に、霧のように朧気な輪郭を持つ人影があらわれる。それは異形の化け物に殺された者たちの魂の――あるいは思念の残滓とも呼べるモノだった。青年は、恐怖や憎しみを抱え、しかし行くあてもなく立ち尽くす黒い影に意識を向けた。すると地面から無数の腕が伸びてくるのが見えた。傷つき腐敗した醜い異形の手は、それら無数の影を地中深くに引きずりこんでいく。
アリエルが瞼を閉じると、彼の意識は暗く冷たい渦の底に向かって沈み込んでいく。そして気がつくと、深く底の見えない竪穴の、薄暗い石造りの螺旋階段に立っている。暗黒が支配する世界を彷徨する青年の背には、つねに嫌な視線が付きまとう。彼はその視線を無視しながら、しかし充分に警戒しながら階段を下りていく。
しばらく進むと、壁際に無数の棺が立っているのが見える。棺の蓋は開いていて、中身は空っぽだったが、死者たちの思念によって形作られた黒い影が苦し紛れに残した無数の傷痕が見えた。青年はその血に宿る力を操作しながら、地上で捕らえていた無数の魂を引き寄せる。
そして棺が閉じていく残響を耳にしながら瞼を開いた。が、そこでアリエルは自分自身の姿すら見えない完全な暗闇のなかに立っていることに気がつく。その場所は、文字通り暗黒の世界だった。
彼は混乱し、茫然と立ち尽くしたまま暗闇を見つめ続けた。なんの心構えもなしに暗闇に放り込まれたことで、恐怖を感じるよりも先に、ひどい無力感に苛まれてしまう。それは立っている力すら奪い、己の存在する疑いたくなる異常な感覚を伴っていた。
けれどその暗闇の中で、何かがズルズルと這うような奇妙な音が聞こえるようになると、彼は再び己の存在を認識することができるようになった。
近くにいる。アリエルは音が聞こえる方角に向かって歩き出そうとして、なにかヌメリのあるブヨブヨした物体を踏みつけたことに気がつき動きを止める。その瞬間、鼻を突く腐臭に呑み込まれる。あまりの刺激臭に吐き気を催した。不思議な燐光を目にしたのは、ちょうどそのときだった。
満月の夜に花開く月光花のように、青紫色の淡い燐光を帯びた異形の化け物の姿が見えた。ソレは不定形の運動器官をウネウネと動かしながら、ゆっくりとアリエルに近づいてきた。