17
生命に満ち溢れた薄暗い原生林に、悲鳴と衝撃音が木霊している。その悲鳴は森に息づく多種多様な昆虫や肉食動物、それに猛毒を持つ蜘蛛やムカデといった節足動物を驚かせる。しかし同時に奇妙な静寂が密林を支配している。そこでは騒がしい鳥の鳴き声すら聞こえてこない。
森を支配しているのは、あるいは逃れることのできない絶望と死の気配だったのかもしれない。そしてそれに気がついているからこそ、ありとあらゆる生命が影に潜み、脅威が過ぎ去るのを静かに待っているのかもしれない。
異形の化け物は守人くずれの野盗を叩き潰すことに飽きると、動きをとめ、その大きな身体を覆うブヨブヨとした肉を振動させた。すると身体のあちこちが裂けるようにパックリと開いて、体内からウネウネと動く無数の突起物があらわれる。気色悪いヌメヌメした体液に濡れた器官の先には、瞳にも似た大きな感覚器官がついているのが見えた。
化け物が姿を変化させたことに驚いたのだろう、呪術を準備していた野盗たちは思わず動きを止めるが、バシリーの怒声が聞こえると攻撃を再開する。集団のなかには混沌の生物との戦闘を経験した守人もいるようだったが、それでも悍ましく、眩暈のする気配に怖気づき動きを止めてしまう者や、まるで気狂いのように笑い出す者もいて戦場は混迷を極めていた。
人々を発狂させる悍ましい気配が濃くなると、化け物は無数の突起物を小刻みに震わせながら、それぞれの眼を野盗たちに向ける。と、次の瞬間、異形の眼から眩い光が放たれたかと思うと、男たちの身体が次々と破裂するのが見えた。攻撃を逃れた野盗は、辺りに飛び散った仲間の臓器や手足を見ながら唖然としていた。
化け物の攻撃はバシリーが使用した呪術にも似ていたが、たった一度の攻撃で術の性質や仕組みを看破して模倣したとでもいうのだろうか? ベレグは化け物の異常さに恐怖し、自身が標的になっていないことに安堵した。
『よう、兄弟』と、ルズィの声が聞こえる。『そっちの状況を教えてくれるか?』
ベレグは閃光の瞬きとともに破裂していく野盗を見ながら答える。
「連中は得体の知れない化け物相手に奮戦しているが、ダメみたいだな」
『予想通りだな……全滅しそうか?』
「ああ、じきに全滅するだろう」
しばらく沈黙が続いたが、その間も野盗たちは化け物の攻撃で駆逐されようとしていた。
『バシリーは健在か?』
「隻眼の男なら……」ベレグは周囲を見回して、姿を隠していた野盗の頭を探す。「小賢しい奴だ。仲間を盾にして逃げ回っている」
『そいつを始末できるか?』
ベレグはバシリーの動きを確認して、それから口を開いた。
「やれないことはないが――」
『ならやってくれ。そいつは厄介な呪術の使い手だ。この戦闘を生き延びるようなことになれば、俺たちの脅威になる可能性がある』
「……了解」
ベレグは眼下に視線を移すと、日陰になっている場所を確認しながらバシリーに接近できる安全な経路を探す。化け物との戦闘に巻き込まれるわけにはいかなかったし、バシリーが使用する不可視の衝撃波に対抗する術を持っていないので、彼に存在を察知されることも避けなければいけなかった。
体内の呪素を練り〈認識阻害〉の効果がある影を生成しているときだった。空気をつんざく破裂音のあと、斥候をしていた男の左脚が吹き飛ぶのが見えた。悪逆非道の限りを尽くしてきた男は、まさか我が身にそのような不幸が訪れるとは考えてもいなかったのか、まるで信じられないといった表情で血に濡れた下半身を見つめる。
「クソったれ……」と、彼は悪態をついた。そして殺されていく仲間の悲鳴を余所に「ああぁ、クソったれがぁ……あのクソ野郎が……」と、放心したように同じ言葉を何度も繰り返した。
そして急に戦闘の真只中にいることを思い出したのか、斥候の男は立ち上がってその場から逃げ出そうとした。もちろん、彼を支える足はもう存在しなかった。斥候は顔から地面に倒れ込む。欠損した足の付け根は痙攣して引き攣り、勢いよく噴き出す血液の間からジュクジュクした肉と折れた骨が見えた。
傷の状態を確認した斥候は、今にも泣き出しそうな情けない表情を見せたあと、ズルズルと接近してきていた化け物にグシャリと潰された。
異形の化け物はこれまでに殺してきた野盗たちの死骸を体内に取り込み、肥大化していく。まるで背に殻を持つ軟体動物のように、気色悪い寄せ集めの肉を背負いながらズルズルと動く。かろうじて戦闘を生き延びていた数人の野盗は呪素を練り上げ、火炎の一斉放射で化け物を焼き尽くそうとする。
その炎は、ほんの僅かだが化け物の動きを止める効果があった。炎の呪術を操れる者が、あと三人か四人いれば、完全に化け物を仕留めることができたかもしれない。しかし野盗の多くは殺されていて、炎の呪術を操れる者も残っていなかった。
火炎を浴び続けた化け物は炎を嫌い、その場で動きを止めると、ブヨブヨした身体を震わせながら収縮していく。呪術の効果を実感した男たちは、火炎放射を続けながら小さく萎んだ化け物に接近する。が、それがいけなかった。突然、化け物は破裂するように膨張すると、近づいてきていた男たちに向かって無数の突起物を伸ばした。
金属のように硬質化した肉によって、男たちは串刺しにされ息絶えた。そして優秀な呪術の使い手を失ったことで、とうとう集団は抑えの利かない恐慌状態に陥る。しかし逃げ出す者の多くは丸太のように太い肉の塊に叩き潰され、殺されていくことになった。もはや彼らに逃げ場はなかった。
集団を指揮していたバシリーは、明らかに不自然な動きを見せていた。彼は、あくまでも平静を装い、仲間を助けるフリをしながら逃げる隙を窺っていた。この期に及んで、まだ己の保身ばかり考えているようだった。そしてだからこそ、ここでベレグが仕留めるべきだった。
事実はどうあれ、バシリーは指揮官として砦で行われた数々の蛮行の中心にいた人物なのだ。逃すことはできない。
異形の化け物がウネウネと動く肉を伸ばして、野盗のひとりを捕らえたときだった。バシリーは体内で練り上げていた呪素を一気に放出する。眩い輝きと耳の痛くなるような破裂音が森に響き渡る。野盗を捕まえて動きを止めていた化け物は、凄まじい衝撃を受けて吹き飛ぶ。
その衝撃波によって木々は揺れ、化け物が体内に取り込んでいた肉片や臓器、それに捕らえられていた男のバラバラになった身体が雨のように降りそそぐ。バシリーは味方を囮にして作り出した隙に乗じて逃げ出そうとした。が、そこで彼は妙な違和感を覚えて足を止めてしまう。
影に潜みながら接近していたベレグの〈影縫い〉の呪術によって、バシリーは拘束されて動きを止めてしまう。油断していたわけではない。抗うことのできない恐怖心によって彼は混乱していて、その場から一刻も早く離れたいと考えていた。そしてその恐怖が、歴戦の戦士を盲目にした。第三者の存在に気づいたときには、もう何もかもが遅かった。
異形の化け物が近づいてくるのが見えると、ベレグは影の呪術を使い、数十メートルの距離を瞬く間に移動して隠れた。化け物は先ほどの攻撃で損傷し、その醜い身体を構成する肉の大部分を失い、ひとまわりほど小さくなっていた。しかし損傷箇所はすでに修復されていたのか、動きに変化は見られなかった。
力を振り絞り拘束から逃れようとしていたバシリーは、背後から接近してくる影を見て歯をカチカチと打ち鳴らした。彼の頭は恐怖に支配され、もはや逃げることも考えられなくなってしまう。そして彼は、己を叩き潰すために形成される肉の影を見ないように、そっと瞼を閉じることを選んだ。それはどこか、穏やかさを感じさせる表情でもあった。
多くの女性を不幸のどん底に叩き落とした男の最後にしては、あまりにも呆気なく、そして滑稽な死にざまだった。けれどそれは彼に相応しくない死にざまに思えた。