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神々を継ぐもの  作者: パウロ・ハタナカ
第三章 遠征
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16


 森の異変に最初に気がついたのは、地面にしゃがみ込んで戦狼(いくさおおかみ)の足跡を確認していた斥候(せっこう)の男だった。彼は風に揺れる木々の枝を見つめたあと、深刻な表情で言った。

「イヤな気配がします」


「オオカミが恐ろしくなったのか?」

 バシリーの人を小馬鹿にしたような笑みに彼は気を悪くするが、その挑発には乗らなかった。もう若いとは呼べない年齢になっていたし、自分自身の実力を過信するあまり、族長に(たて)ついて守人の砦に送られた経験があるのだ。バカな真似はするまいと決めていた。


「……いえ」彼は顔を伏せると、オオカミの足跡を見つめる。「守人は森の(けもの)を恐れたりしません。ただ――」

「ただなんだ」バシリーは語気を強めながら言った。


「混沌の領域を偵察していたときに感じていた気配に似ています」

「なにが混沌の気配だ」

 バシリーは嫌な音を立てながら痰を吐くと、不機嫌な顔で周囲にいる男たちを(にら)んだ。


 うなじの毛が逆立つような嫌な気配は感じていた。しかし守人として偵察任務に()いたことのないバシリーは、その気配が呪素による作用だと勘違いしていた。それは激しい戦闘が行われた場所で頻繁に感じられる気配であり、警戒に値しない状況だと考えていたのだ。


 もしも戦士としてではなく、呪術師として戦闘訓練を受けていたのなら、彼も異常に気がついたかもしれない。


 そのふたりのやり取りを黙って聞いていた大柄の戦士は、口をはさむべきなのか迷っていたが、覚悟を決めて口を開いた。

「これは邪悪で恐ろしい混沌の気配です。〈門〉から()い出た化け物が近くにいるかもしれません」


「混沌の化け物に、異次元につながる門か……守人のつまらない戯言(たわごと)だな」バシリーは鼻を鳴らす。「俺がまだこんなに小さかったころ、混沌の化け物とやらに集落を襲撃されたことがある。けどな、どうってことはなかった。理由が知りたいか? 呪術師たちが簡単に追い払っちまったからさ。そいつらは首長の軍にも招集(しょうしゅう)されないような(みじ)めな呪術師だったが、それでも化け物の相手ができたんだ。それなら何を恐れる必要がある」


「混沌の化け物は総称です」と、大柄の男は指摘した。「あの怪物どもを区別するのが面倒なときに使う言葉です。けれど化け物の種類は千差万別で際限がないんです。ひとりで対処できる化け物もいれば、数十人の守人でやっと相手にできる化け物もいます」


 バシリーは退屈そうに空を見上げて、木々の枝の間から見えていた空を眺める。

「てめぇは何を怖がってるんだ。ここにいる野郎は、守人として訓練された戦士なんだろ。なら何も問題ないんじゃないのか、このバカ野郎が」


 大男は口元を引き締め黙り込む。よれよれの黒いマントのフードの下から覗く眸が、怒りを抑えつけようとして(あや)しく光っているのを斥候の男は見てとった。その大男はバシリーが砦に派遣されて来る数年前から守人として偵察任務を遂行してきた。兄弟たちは彼に敬意を示し、軽んじることなど一度もなかった。


 けれど彼の心に渦巻(うずま)いているのは怒りだけでないようだった。斥候の男は、そこに別の感情を内包していることに気がついていた。それは〝怒り〟と、無慈悲な殺戮(さつりく)にいたる〝憎しみ〟との間にある紙一重の緊張感だったのかもしれない。


 戦闘力で勝る(かしら)に手を出すのは自殺行為だったが、斥候の男には兄弟の気持ちが理解できた。この余所者(よそもの)は真の恐怖を知らないのだ。きっと(かしら)も森で生きる人々のように、混沌が森に落とした影が過去のモノだと考えている。すでに脅威は過ぎ去り、怪物の数々は物語に登場する創作物でしかないのだと。


 実際、斥候の男も十数人の女性を強姦して、そのうちの何人かを殺したのが発覚しそうになって砦に送られることになったとき、彼は死刑にならなかったことを喜び、守人の存在に感謝したモノだった。


 混沌の脅威を目にしてからは、自分の浅はかさを後悔するようになったが、とにかく、数え切れないほど混沌の領域を偵察した古参であり、守人が恐れる〈獣の森〉の偵察任務も経験していた。


 かれは全身の鳥肌が立つような視線や、得体の知れない気配のなかに含まれる死の恐怖を知っていた。そしてだからこそ、森に漂う混沌の気配に誰よりも早く気がついた。それは化け物と対峙したときに、鼻の奥に感じる鉄のニオイに似ていた。


 その感覚を経験したことのない人間に説明して、状況を理解してもらうのが難しいことも分かっていた。混沌の領域も知らず、これまでの軍での実績だけで砦の指揮官になった男なら、なおのことだ。でも確かに〝何か〟が近づいてきている。それは執念深く、怒りと憎しみに満ちた感情を抱きながら、着々と接近してきている。


 こんなことになるのなら、適当な女を(さら)って砦を離れるんだった。斥候の男はそう考えていたが、後悔するには遅すぎた。ソレは彼らのすぐ(そば)までやってきていた。



 影に潜みながら野盗たちの口論を盗み聞きしていたベレグは、見知った顔があることに気がついた。〈境界の砦〉で共に訓練した兄弟の姿も確認できた。やはり野盗は守人くずれの連中の集まりだったようだ。


 人知れず畜生にも劣る所業を繰り返していた集団が、かつての兄弟だったという事実に彼は打ちのめされたが、それも仕方ないことだと諦めにも似た感情を覚えた。もしも砦の地下で行われた凄惨(せいさん)殺戮(さつりく)の跡と女性たちの死体を見ていたら、別の感情を抱いていたのかもしれない。けれど〝幸運なこと〟に、彼はその悲惨な現場を見ることなく、そこに立っていた。


 念話を使いルズィに状況を報告したあと、接近してくる邪悪で禍々しい気配に注意を向けた。〈獣の森〉を偵察しているときでさえ感じたことのない不快な気配に顔をしかめたあと、ベレグは大樹(たいじゅ)に向かって影を伸ばす。


 太い(みき)に黒い(あざ)をつくるように伸びていく影が充分な高さまで届くと、ベレグはその影のなかに――まるで液体に()かるようにして姿を溶け込ませていき、次の瞬間には高さ数十メートルの位置にある枝の上に立っていた。


『油断するなよ、ベレグ』と、ルズィの声が頭のなかで響く。『その化け物は俺たちに敵意を示さなかったが、得体の知れない化け物である以上、いつ気が変わってもおかしくない』

「連中が化け物の標的で間違いないのか?」


『標的であることを願っているよ』

 ベレグは兄弟の物言いに思わず苦笑したあと、樹木(じゅもく)を倒しながら接近してくるグロテスクな肉塊に視線を向けた。


 最初に化け物に反応して攻撃したのは、斥候の警告を小馬鹿にしていたバシリーだった。彼の手のひらの先で(まばゆ)い光が(はじ)けると、耳をつんざく破裂音とほぼ同時に、遠く離れていた化け物の身体(からだ)の一部が破壊されて周囲に飛び散る。その衝撃は(すさ)まじく、ベレグが立っていた大樹(たいじゅ)が大きく()れるほどだった。


「戦闘が始まった……」

 ベレグが傍観者に徹するために体内の呪素(じゅそ)を操作すると、彼が立っていた場所に〈認識阻害〉の効果がある不自然な影ができていき、彼の身体(からだ)を包み込んでいく。その間も、ベレグの視線は(おぞ)ましい化け物に向けられていた。


 未発達で不完全な手足や臓器が衝撃波で飛び散り、森を赤黒く染めるが、異形の化け物は身体(からだ)を震わせるだけで、すぐに損傷した箇所を気色悪い肉で補い治していく。呪術による強力な攻撃だったが、それでも化け物を仕留めきれなかったようだ。


 バシリーは舌打ちすると、声を荒げながら野盗たちに攻撃の指示を出す。すぐに呪術の炎や矢が飛び交うようになり、ほぼすべての攻撃が化け物に直撃する。しかし突進してくる化け物の勢いを止めることはできない。さすがに先ほどの呪術は連続で使用できないのか、バシリーは何事かを(わめ)きながら後退する。


 その間も野盗たちは必死に応戦していたが、集団の中に突っ込んできた化け物はブヨブヨした肉体を操作して、丸太のように太い器官を形成すると、それで野盗たちを叩き潰していった。

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