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神々を継ぐもの  作者: パウロ・ハタナカ
第三章 遠征
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 砦の地下は換気が悪いのか、(よど)んだ空気には腐臭のほかに(ほこり)とカビの臭いが混ざり合っていて、ひどい吐き気を(もよお)した。石壁は結露(けつろ)漏水(ろうすい)所為(せい)で暗く湿っていて、あちこちに気色悪い昆虫の姿が見られた。しかし頻繁に人の出入りがあるのか、どこにあるのかも分からない燭台の黄色い灯りが、地面にゆらゆらと黒い影をつくりだしているのが見えた。


「ラライア、なにか気配を感じ取れるか」

 ルズィの小声に答えるように、彼女は頭を縦に振る。

「鼻はダメになってるけど、生き物の気配は感じられる」

「そいつに敵意はあるのか?」

「ううん、それは分からない」


 ルズィは息をつくと、腰に差していた両刃の剣に手をかける。そして足音を立てずに階段の先に広がる薄闇に向かって歩いていく。アリエルとラライアも強烈な腐臭に顔をしかめながら、狭い通路に侵入する。どうやら通路の先は地下牢(ダンジョン)になっているようだ。


 そこには捕虜や犯罪者を収監する檻が設置されていたが、それは一般的な牢獄ではなく、足元の空間を利用した石牢だった。床の入り口には、ひとひとりがやっと通れる幅の鉄格子があるだけだったが、内部は広く、多数の捕虜を同時に収監できるようになっていた。けれどその檻に入っていたのは、どう見ても罪人とは思えない人々だった。


「もはや原形はとどめていないが、あれは死体の山だな」と、鉄格子の(そば)にしゃがみ込んでいたルズィが言う。「それに、生きた人間の気配も感じる……。兄弟、混沌の残り香は確認できるか?」


「いや、侵入者を検知する(たぐい)の護符も確認できない」

 アリエルはそう言うと、やけに低い天井や黒ずんだ壁に明滅する深紅(しんく)の瞳を向ける。薄闇のなかで()いまわる昆虫と、蜘蛛の巣に捕らえられたネズミの姿がハッキリと見えたが、呪術の痕跡は確認できなかった。


「森に死体を(かえ)さない理由は?」

 ラライアの言葉にルズィは沈黙するが、やがて溜息をついて口を開いた。

「ここに死体を捨てているわけじゃない、おそらく牢のなかで死んだ人間の死体を処理するのが面倒になったんだ」


 ルズィが指を鳴らすと、鉄格子の向こうに球体状の小さな発光体があらわれる。アリエルは青白い光に照らされた空間を見て、すぐに後悔することになった。そこに積み上げられていた死体の多くは女性のモノで、まるで拷問の痕のような無数の傷がある死体で埋め尽くされていた。


 その多くは濃い(うみ)のような腐敗液を垂れ流した状態で放置されていて、黒々とした昆虫や太ったネズミが()いまわっていた。


 腐敗の進行で腹部がパンパンに膨らみ、鼻や口から体液が流れ出ている女性の首には刃物で斬り裂かれた傷痕があり、肛門から漏れ出た便に含まれる(うじ)は肉食昆虫の餌になっていた。


 視線を動かすと、ボロ切れのように無残に破壊された女性の死体が目についた。鼻は噛み千切られていて、唇は耳元まで裂け、目玉はくりぬかれていた。女性に対する恨みは相当なものだったのか、女性器には錆びた小刀が突き刺さっていた。


 生きた状態で石牢のなかに放り込まれていた女性たちの排泄物と、死体から漏れ出る腐敗液が混ざり合い、床には泥状の層が形成されていた。そこに(むら)がる昆虫は胃の中身を吐き出しそうになるほど気色悪いものだった。


「けど……このままにはしておけない」

 ルズィは錠がついていない鉄格子を開くと、備え付けの縄はしごを降ろした。

「下に行って生きている女を連れてくる。兄弟はここで待っていてくれ」


 ルズィは照明として機能する無数の発光体を身体(からだ)の周囲に浮かび上がらせると、瀕死の状態で横たわっていた女性の近くに立つ。指を鳴らして小さな火球を爆発させると、炎の熱波で周囲にいるネズミや昆虫を追い払う。それからしゃがみ込むと、裸の女性を抱いて戻ってくる。


「残念だが、もう手遅れだ」彼は背後に積み上げられた死体を見ながら言う。「治療は無理でも、せめて最期(さいご)に森の空気を吸わせてやりたい」

 ぐったりした状態の女性を引き上げたアリエルは無言でうなずくと、ラライアが上階から取ってきた毛布で彼女たちを(くる)んでいった。糞尿や精液、それに得体の知れない液体で汚れた女性たちはひどい臭いを放っていたが、誰も不満を口にしなかった。


 石牢の底には三十から四十の遺体が積み上げられていたが、息があったのは三人だけで、最高の治癒士がいても手の施しようがない状態だった。彼女たちは森の新鮮な空気を肺に入れてしばらくして、ゆっくりと呼吸を止めた。


 胸に抱いていた女性が息を引き取ったのを確認したアリエルは、喉が締め付けられるような怒りを感じながら、震える声で質問した。

「やったのは守人か?」


 歯が引き抜かれていた女性の死体を見下ろしていたルズィは、疲れたような表情を見せながら肩をすくめる。


「さぁな、俺には分からない。森に点在する守人の砦には、大将が信頼する優秀な兄弟が司令官として派遣されている。……が、ここにいる連中の大半は罪人だ。それなりの戦闘訓練を積んだ守人が、タガが外れた状態で野放しにされているんだ。そういう連中が何をしでかすのかなんて、誰にでも想像できる。けど、さっきも言ったように俺には誰がこれをやったのか答えることはできない。情報が少なすぎるんだ」


 この場所でも、守られるべき人々が守人に殺されていたのかもしれない。

 それなら、この場所で俺は何をしている?

 アリエルはひどい眩暈(めまい)と怒りに襲われ、世界がぐるぐると()らいでいるのを感じた。


「死体を燃やしてくる。浄化の護符を持ってるか?」

 アリエルから数枚の護符を受け取ると、ルズィは砦に向かって歩いていく。

「兄弟も気分が落ち着いたら砦内を調べてくれ。これをやった連中の手掛かりが見つかるかもしれない」


 アリエルは気持ちを落ち着かせるため、倒壊した石壁の瓦礫(がれき)に座る。世界が残酷なことは知っていた。決して弱者の存在を許さないことも。でも、それでも心が落ち着かなくなるときがある。どんなに諦めようとしても、どこか――心の深い場所で、まだこの世界に期待している自分がいることを知っていた。


 それでも、自分には〝世界を変えられる力がある〟のだと信じていた。けれど悲惨な現場に遭遇するたびに、その考えが揺らぐ。


 自分はちっぽけな存在で、世界を変えることなんて出来ないのだと。そして心が折れ、足を止めたくなる。でも、それでも足を動かすことを止めないのは、それが……その悲惨な光景が、途方もなく大きな世界の一部だと知っているからだった。残酷な一面を垣間見(かいまみ)たからといって、世界のすべてを否定することはできない。この世界にはまだ、信じるに足るモノがある。


「大丈夫だ」と、青年は自分に言い聞かせる。

「ここで立ち止まるわけにはいかないんだ……」

 まるで呪文のように、何度も(とな)えてきた言葉を口にする。


 青年は深呼吸すると、収納の腕輪から水筒を取り出し、適当な布を濡らしてから女性たちの顔を綺麗に拭いていく。それがどこであれ、彼女たちが綺麗な顔で旅立てるようにしたかった。強い怨念を(かか)えた魂を捕らえる機会でもあったが、彼女たちの魂を利用する気になれなかった。それに、アリエルには彼女たちの魂から流れてくる感情を受け止められる自信がなかった。


 女性たちの顔を見つめていると、ラライアが青年のとなりにしゃがみ込む。

「ねぇ、大丈夫?」

「ああ、俺は大丈夫だよ」

「そっか……」彼女は青年の横顔を見つめて、それから(たず)ねる。「これからどうするの?」

「こいつをやった犯人を突き止める」


「もしも、快楽殺人に溺れた守人の集団が犯人だったら?」

 アリエルは質問に答えなかったが、かれの表情を見て何をするつもりなのか理解できた。

「兄弟たちの血で守人の汚名をそそぐ……か」

 ラライアの言葉に青年は「やれやれ」と立ち上がる。


「念話を使ってノノたちに状況を報告する。ラライアもヴィルマとアルヴァに現在の状況を説明してくれ。戦狼(いくさおおかみ)には偵察に出てもらうかもしれない」

「近くで野営してるクラウディアたちもここに連れてくるの?」

「いや、彼女たちに地獄を見せる必要はない」

「了解」


 ラライアはオオカミに姿を変えると、その場で遠吠えをする。どこか悲しげな遠吠えは、しばらくの間、アリエルの耳に残ることになった。

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