07
倒壊した塔を横目に見ながら狭い路地に入り、旧兵舎のすぐとなりにある埃っぽい備蓄倉庫までやってきていたアリエルは、人気のない石造りの建物に入る。壁掛けの燭台がつくりだす暗い影のなかに視線を向けると、積み上げられたまま放置された空の木箱や、蜘蛛の巣に覆われた棚が並んでいるのが見えた。
すでに使われなくなった古い道具や巻物、それにかび臭い毛皮が詰め込まれた箱は目につくが、日々の活動に必要とされる物資が不足しているのは誰の目にも明らかだった。
蝋燭の薄暗い灯りのなか、アリエルとルズィは倉庫を管理する世話人に手伝ってもらいながら、首長から手に入れていた物資を所定の場所に運んでいく。ウアセル・フォレリが南部遠征に必要とされる物資を確保してくれていたので、過剰になるモノは〈境界の砦〉に残していくことになった。とくに食料品等の物資はいくらあっても困らないモノなので、惜しまず兄弟たちに提供することにした。
それが終わると、石に近きもの〈ペドゥラァシ〉が待つ鍛冶場に赴く。数週間前に製作を依頼していた呪術器を受け取ることになっていたのだ。
ふたりは氷のような寒風が吹きつける広場を通って、目的の塔に向かう。すると広場で訓練していた新人が泥濘のなかに倒れるのが見えた。顔の半分に醜い火傷の痕がある大男は、痩せ細った少年を蹴り倒して嘲りの表情を浮かべている。
「あいつは使いモノにならないな」
ルズィの失望まじりの言葉にアリエルはうなずく。稽古の相手を打ち負かすことに、さほど大きな意味はないし、教官から評価されることもない。砦で必要とされているのは、混沌からやってくる怪物と戦えるだけの体力と技術を持つ者であり、訓練でソレを身に付けることが重要とされていた。仲間を倒して得意顔で勝ち誇る者など必要ないのだ。
ある種の残虐性を含む精神疾患や障害を抱える罪人が送られてくる所為で、兄弟たちの多くは助け合うことの重要性を理解していないが、混沌と対峙するときに最も必要とされるのは仲間たちとの信頼関係だった。その仲間を訓練で追い込んで、憎しみを植え付けるような行為は愚行でしかない。
しかし辺境の砦に送られてもなお、かれらの多くは弱いものいじめを行い、争うことを止めようとしない。やはり守人は名誉というものを知らない野蛮人の集団に成り下がってしまっている。不愉快だったが、それを変えることは難しい。だからアリエルは口を噤む。異常者相手に綺麗事を並べ立てることほど意味のないモノはない。
鍛冶場の倉庫に案内してもらうと、アリエルは懐に入れていた収納の腕輪を装着する。
『それが首長からの、個人的な報酬というやつか……』
アリエルが収納の腕輪から取り出した木箱を確認しながら、武具師のクルフィンは岩にも似たゴツゴツした腕を動かして太刀を手に取る。
『ふむ、たしかに質は悪くないな』
「ああ、たしかに悪くない、けど俺たちは南部の亜人どもを相手にするんだ」と、ルズィが両手に手斧を持ちながら言う。「もっと質のいいモノを期待していたよ」
『お前たちの任務は商人の護衛だったんじゃないのか?』
クルフィンの四つの眼で睨まれると、ルズィは肩をすくめる。
「南部の湿地帯には邪神を崇拝するイカれた亜人が徘徊してるんだよ。連中に襲われることはバカにでも分かるぜ」
「人の魂を堕落させるって噂の邪神か……」アリエルは別の木箱を開きながら言う。「そいつも混沌の領域からやってきたと思うか?」
「どうだろうな。亜人どもは蛆虫が這いまわる暗い洞窟からやってくるって話だ。その邪神とやらも、地下深く、俺たちが想像もできないような世界からやってきたんだろう」
「砦の地下にある〈奈落の底〉みたいな場所か?」
「かもしれない。それより、その箱には何が入ってるんだ」
ふたりは木箱のなかを覗き込む。
「その小袋は?」
アリエルが布袋を手に取り、手のひらの上で引っ繰り返すと、爪の大きさほどの長方形の小板が出てくる。その藍鉄色の板は、アリエルが知らない鉱物から削り出され加工されたモノで、表面に小さく神々の言葉が刻まれているのが確認できた。
クルフィンに確認してもらうと、どうやらそれは念話可能な距離を飛躍的に伸ばす呪術器と同等の効果を持つ道具のようだ。アリエルが所持している球体状の呪術器は、砦の倉庫に保管されていた大昔のモノだったが、物資のなかにまぎれていたモノは、改良され小型化されていた。おそらく呪術の研究機関〈赤頭巾〉の協力で作製されたモノなのだろう。
「連絡を取るための道具か」と、小板を手に取って確認していたルズィが言う。「こいつを使って俺たちの会話が誰かに盗み聞きされる危険性はないのか?」
『ふむ、念話の盗聴か……首長からの監視を警戒しているのだな』
クルフィンは長い腕を伸ばして、作業台から丸いガラスレンズのついた片眼鏡を手に取ると、それを使い呪術器に刻まれた小さな文字を調べる。その片眼鏡も呪術器として機能するのか、レンズの表面に文字や記号のようなモノが浮かび上がるのが見えた。
『余計な言葉は刻まれていないようだ』
「安心して使えるってことか?」
ルズィの言葉に反応して、クルフィンは岩のような身体を揺らす。そのさい、硬い皮膚から砂のようなモノがサラサラと落ちるのが見えた。
『だが文字が薄くなっている。長時間の使用には耐えられないだろうな』
「武器は新品だったけど、さすがに呪術器は新品を揃えられなかったみたいだな」
それでもアリエルは驚いて、意外な顔をしていた。そもそも褒美のなかに呪術器はないと思い込んでいたので、首長がそれなりに気を使ってくれていたことに気づいた。
『使い古しでも問題ない、文字は書き直しておく。それに丈夫な革紐で編まれたアームバンドがいくつか余っている。そいつを加工して小板を仕込んでおいてやろう』
「腕に巻きつけておけば、いつでも安全に連絡を取り合うことができるようになるってことか……」
ルズィはそう言うと、木箱のなかに手を伸ばして紙の束を拾い上げる。
「こいつは護符か……すごい数だな。聖地に夜襲をかけるときにだって、こんなに支給されなかった。それに攻撃系統の呪術が込められた〈呪符〉もある」
アリエルは顔をしかめながら数枚の紙を受け取る。それほど質のいいモノではないが、少なくとも砦で支給されているモノより上等な紙で作られていた。
「攻撃に特化した純粋な札か、たしかに砦では見られないモノだ」
アリエルの言葉を聞いて、ルズィは思わず苦笑する。
「護符は一般的なモノだが、攻撃に使われる呪符は戦場にいる戦士たちにしか支給されないモノだからな。それに、お前はいろいろと規格外のくせに世間に無関心だから気づいていないと思うけど、この砦には呪符を作れるだけの優秀な呪術師がいないんだ」
ルズィの言葉に嫌な顔をみせたあと、アリエルは言う。
「でもルズィは優秀な呪術師だと思うけど」
「たしかに炎は俺の領分だ」かれは得意げに言う。「けど、呪符が作れるほど器用じゃない。そんなことより、ほかにも何か貴重なモノがあるかもしれない。その箱を開けていいか?」
アリエルの返事を待たずに木箱を開けていく兄弟の姿を眺めていると、クルフィンに名を呼ばれる。
『ほれ、頼まれていたモノだ』
かれは六本の指を使い、作業台の上に綺麗な装飾品を丁寧に置く。それは冠にも似ていたが、頭部を覆うものではなく、単純に額を飾る環状の細い頭飾りだった。
「サークレット……ですか?」
『うむ、姉妹のために用意したモノだ。呪術の効果を高める力が付与されている』
そのサークレットには、絡み合う植物の曲線によって形作られる複雑な幾何学模様が彫られていたが、装飾品自体に派手さはなく、豹人である姉妹でも問題なく装着できる構造だった。彼女たちの耳のことも考えて作製してくれたのだろう。アリエルはクルフィンの思いやりに感謝した。