04
各軍団の長が報告を終えると、大広間はしばらくの間、奇妙な静寂に支配される。
誰も何も言わなかったし、身動きすらしなかった。アリエルだけが周囲を見回していて、事の成り行きを見守っていた。流血沙汰を期待していたわけではないが、肩すかしを食わされたような気分になっていた。
沈黙のあと、戦士たちが短槍を床から僅かに持ち上げるのが見えた。アリエルは少しばかり遅れて石突で床を突き立てる。慌てていたからなのか、思わず力が入り床の石材を砕いてしまう。力を入れた分だけ、鋭い響きが返ってきて大きな音を立ててしまう。やり過ぎた。そう思って顔を上げると、こちらを見つめる師団長と目が合う。
意識せずとも人の視線を惹きつけてしまう群青色の大きな瞳。その左目から頬にかけて小さな傷痕がある。艶のある黒髪を美しく飾るのは、光の反射で生まれた光の輪だ。ハッキリとした顔立ちの美女は、子どものような無邪気な笑み浮かべて、じっとアリエルを見つめる。
いくつかの戦場を渡り歩いていたアリエルは、これまでにも美しい女性に出会う機会に恵まれていた。愛した男以外には、絶対に笑顔を見せようとしない切れ長の琥珀色の瞳を持つ美女がいれば。男を魅了するだけ魅了し、北部に棲息すると信じられている吸血鬼が獲物の血を吸い上げるように、男の財産をすべて奪い、そのまま何処かに消えてしまった灰色の瞳を持つ美女もいる。
男に抱かれる感覚に夢中になり、誰にでも身体を許してしまい、悲しみにくれる儚げな瞳を持つ女性もいる。綺麗な言葉をつむいでくれる男性がいれば、喜んでついて行き、利用されるだけ利用され最後にはひとりになってしまい、どうして自分は幸せになれないのかと嘆く緑色の美しい瞳を持つ女性にも会ったことがある。
種族の違いによって愛した人と異なる時間の中を生きて、男性が亡くなったあとも、かれに操を立てながら生きる常盤色の瞳を持つ恐ろしく綺麗な女性も知っている。彼女たちは神々に与えられた美しさのなかで精一杯生きている。
しかしその美しさは、彼女たちに幸福だけを与えるモノではなかった。ときに悲劇をもたらすものでもあると理解しなければ、あるいは彼女たちの真の美しさには気が付けないのかもしれない。
そして不幸のなかにあって、己の美しさを武器にする女性がいる。愛する家族を殺され、己の価値を見失いそうになりながらも理不尽な人生を憎み、恥辱すらも生きる力に変えて運命に抗い続ける美しい女性が。
美しさを自身の完全性を高めるために利用してきた女性は、あるいは普遍的な美女性の中にあって異質な存在なのかもしれない。けれど、それでも彼女たちは人を惹きつけて止まない魅力を持っている。
赤い鱗の蜥蜴人が、その冷たい手をアリエルの肩にのせたとき、本当の女性を知らない若い守人は、まだ師団長と見つめ合っていた。
「おわりだ」
〝濡れたガマ〟の太い声を聞に反応して、アリエルはハッと息をつく。どうやら息を止めていたことにすら気が付いていなかったようだ。彼はゆっくり息を吐き出しながら、師団長に視線を戻す。彼女は勝ち誇ったような笑みを見せたあと、青年から視線をそらした。
すでに余興は終わっていたのか、ほとんどの戦士が部屋をあとにしていた。アリエルも蜥蜴人のあとについて大広間を出る。会議の場に残っていたのは、軍団長たちと、かれらの側近だけだった。師団長もミジェ・ノイルの仕事を補佐するため、大広間に残ることになるようだ。これから本当の意味での会議と、話し合いが行われるのだろう。
アリエルが部屋から出ると、重厚な扉が閉じられた。その扉の前に頑強な戦士が立ち警護の任務に就く。強面の大柄の戦士たちに睨まれながら、アリエルは扉の側を離れる。廊下ではインが待っていてくれていて、アリエルは彼に預けていた太刀を受け取る。会議で使用していた短槍も、そこでインに手渡すことになった。
「どうぞ、こちらへ」
インの言葉にアリエルは顔をしかめる。
「会議は終わったんじゃないのか?」
彼は立ち止ると、振り返ることなく答えた。
「貴方に会いたいという人がいます」
「会いたいか……それは俺の知っている人なのか?」
「答えてはいけないことになっています」
アリエルとイン、それに蜥蜴人のモリャル・タンガは黙って廊下を歩いた。時折、通り過ぎていく部屋の中から小さな話し声が聞こえた。薄暗い廊下の突当たりまで進むと、幅の広い階段が見えた。その階段を上がると、先程までいた場所と代り映えのしない広い廊下に出る、辺りはしんと静まり返っていて、夜闇を映し出す窓からは、都市に吹きすさぶ風の音だけが聞こえた。
紺色の絨毯が廊下の中央に敷いてある。その絨毯の上を音もなく進んでいく。大きな両開きの扉の前でインは立ち止った。扉の下から微かな光が漏れていたが、部屋の中からは物音ひとつしなかった。
扉の前には、東部治安維持部隊の戦士に支給されている革鎧を身につけた屈強な戦士が数人立っていた。彼らが示し合わせたように扉を開くと、インが扉の脇に立つ。
「呼ばれるまで、しばらく待っていてください」
彼はそう言うと、音も立てず扉を閉めた。
アリエルはその場に立ち尽くしながら、静かな部屋に視線を向ける。部屋の中央に低い机が置かれ、その近くには触り心地の良さそうな毛布が敷き詰められた長椅子が置かれていた。それなりに教養のある者なら、部屋のなかにある調度品の見事さに目を奪われていたかもしれない。しかしアリエルは興味を示さなかった。
高い天井には呪術師によって生み出された手のひら大の発光体が浮遊していて、その横に吊るされた燦爛たる照明器具が発光体に反応して部屋を明るく照らしていた。いつまでも立っていても仕方がないので、アリエルは太刀を机に置いて長椅子に座った。
手持無沙汰を嫌い、天井付近を浮遊する発光体が、一体どんな原理に基づいて、そこに存在していられるのかを考えようとしたが、まったく集中することができなかった。
そもそもアリエルは、先の見えない展開というものが嫌いだった。常に先読みして行動するように心掛けているため、自分自身の意識で事態を制御できない状態に陥ると、途端にひどく不安になってしまうのだ。
かれは心を落ち着かせるため部屋の中を歩きまわり、手に取った刀を鞘から少しばかり引き抜き、刃の状態を確認する。気分に変化はなかった。あるいは――と、刀身を見つめながら思考する。首長に龍の存在が感づかれてしまったのではないのだろうか。
神々の血を継ぐ能力者を欲している勢力は数多ある。もちろん首長もそのひとりだ。もしも神々に連なる龍の子を隠匿していることが知られてしまったら、ひどく厄介なことになるだろう。
このまま城を抜け出して、猫科の魔獣を揶揄ったり、大声を出したかった。けれど長椅子に座って、澄ました顔をしながら呼ばれるまで待つことしかできなかった。
しばらくして扉が開くと、見知らぬ男女が姿を見せる。ふたりはアリエルの存在に気がつくと、笑顔で会釈する。
「はじめまして」
青年は立ち上がると、ふたりに向かって軽く頭を下げる。細身の体型に上等な衣類に紺鼠色のマントを羽織った男は、ひどく疲れた顔をしていた。
「君は確か守人の――」
「アリエルだ」
「やっぱりね」と、黒髪の男は笑みをみせる。「そうだと思ったんだ。会議に参加してるって聞いてね、どうしても君に会ってみたかったんだ」
アリエルはその男のことを知らなかったし、会いたくもなかった。
「白い髪に赤い瞳か、噂通りの顔立ちだね。守人にしておくには惜しい顔だ。お前もそう思うだろ」彼はとなりに立っていた背の低い女性に言った。彼女はアリエルに視線を向ける。が、向けただけで何も言わなかった。
「君のことを〝師団長の男娼〟なんて呼ぶ連中がいるのも肯ける」いや、君を悪く言うつもりはないんだ、と男は笑った。「客観的事実を述べたまでさ。それにこんなことを話していると知られたら、師団長に対する不敬罪で投獄されてしまう。だから君も、この話は聞かなかったことにしてくれよ」
彼は細い眼を、さらに細めて笑った。
「そうそう、君が聖地で手に入れた機密文章には目を通したよ」彼は低い声で言った。その声に含まれる冷たさから、場の空気が変わるのが分かった。
「あれはとても貴重なモノだよ。野営地にいる血腥い戦士たちには、たいして意味のないモノだが、権力を持つ者の手に渡れば、その価値は計り知れない。君が我が軍で、要人暗殺を主とした汚れ仕事をしていたことは知っている。その君になら、あの文章は喉から手が出るほどに価値があり、手に入れたいモノだったのではないのか?」
「価値はない」と、アリエルはきっぱりと言った。
「暗殺はあくまで仕事の一環としてやっていただけのこと。他部族の秘密に興味はない」
「ふぅん。ところで、あの文章に首長に関する情報が含まれていることは知っていたかい?」
男が導き出そうとしている結論が掴めず、アリエルは苛立ち始めていた。
「君たち守人が、あの辺境で何かを企てていることは分かっている」
「守人が首長を裏切るために、あの文章を使用すると考えているのか?」
「それは無理でしょ」と、彼は鼻で笑う。「だって君は、すべての機密文章を軍団長に提出した。そうでしょ? 少なくとも私はそう聞いている」
「そう言うことか」と、アリエルは溜息をつく。
「どう言うことでしょうか?」男はワザとらしく首をかしげる。
「俺が例の文章をくすねたと思っているんだろ?」
「違うのですか?」
「違う」
「そうですか……」男は不気味な笑みをみせた。
「ああ、議論の余地すらない」
男は、その黒い目に冷ややかな怒りを浮かべた。
「ところで、あの戦に参加した守人は無事でしたか?」
「結果は知っているんだろ」
男はうなずくと、アリエルをじっと見つめる。
「知っていましたか、首長が君に預けた戦士たちを部族から召集して、君の部隊に派遣したのは私だったんだよ」
喉が渇いてきた。アリエルは腰に差していた太刀の柄を握ろうとしたが、机の上に戻していたことを思い出した。
「かれらは、誰ひとりとして戦場から帰還していません。死亡も確認できていないので、〝行方不明〟という扱いにはしていますが。でも、仕方ないことです。反乱部族の優秀な呪術師と戦ったのだから……それにもしかしたら、ひょっこり顔を出すかもしれません。だから、それはいいのです。ですが――」
かれはアリエルの視線が机に置かれた太刀に向けられていることに気がつくと、同じように太刀に視線を向ける。
「あの戦場で、どうして首長の戦士たちだけが、都合よく〝行方不明〟になってしまったのでしょうか?」
「戦場に可能性を持ち込むことは馬鹿げている」アリエルは男を睨み、努めて冷静に言葉を続ける。「でもどうしても理由がほしいのなら、俺がくれてやる。連中は戦場に立つ覚悟ができていなかったんだ。だから恐怖に呑まれて本来の力を発揮することなく死んだ」
「あるいは」と、男は言う。「彼らの存在は、君たち守人にとって邪魔になっていた。だから戦士たちを故意に死地に追いやり排除した」
アリエルは男の首を刎ねる自分自身の姿を想像したが、それを実行することはなかった。
「言いがかりだな。そもそも、そんなことをする理由がない」
「いいや、君は何かを隠している。そしてそれは、かれらを死なせても隠さなければいけないことだった。何故なら、君がやろうとしていることは首長の地位すら脅かしてしまうことだから……。あるいは、もう――」
アリエルの感情に反応したのか、男のとなりに立っていた女性が彼の腕をぎゅっと掴む。
「いや、失礼。私の妻は臆病なんだ」と、男は何事もなかったかのように振舞う。「ですが、この話はここまでにしておいたほうがいいみたいですね。では、いずれまた会いましょう」
男はそう言うと、アリエルのすぐ横を通って部屋を出る。
「君が何を企んでいるにせよ、ミジェ軍団長の顔に泥を塗るようなことはしないでくれよ」
扉の閉まる音が聞こえた。けれどアリエルは振り返らなかった。