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白銀の戦狼が暗い森のなかを駆ける。
ラライアは、どこか明確な目的地に向かって走っているわけではなかった。ただ死すべきモノたちから必死に逃げようとしているだけだった。その間、怖気づき、心が折れてしまいそうになり何度も足を止めそうになる。けれど背中に感じる温もりが、アリエルの確かな温もりが彼女に力を与えていた。
恐怖の影のなかを、どれほど駆けただろうか。
追跡してきていた幽鬼の甲高い叫び声が聞こえなくなると、彼女は速度を緩め、くるりと右回りに走り身体の向きを変えながら後方を確認する。追跡者の姿はない。鋭い牙が覗く大きな口を開いて舌を出すと、荒い呼吸を繰り返しながら暗い森を見つめる。
まだ全身の毛が逆立つような恐怖が纏わりついている。安心することはできない。〈先兵の風穴〉から距離を取るため、彼女は全速力で駆け出す。
アリエルはオオカミの背にしがみ付くようにして、姿勢を低くしながら暗い森を見つめる。どこまでいっても景色は変わらない。しかし何もかもが同じに見えるのは暗闇の所為だけではないのだろう。右を向いても左を向いても、なんの特徴もない鬱蒼とした樹木が立ち並んでいるので、景色に区別をつけることが難しいのだ。
かれは瞼を閉じて集中すると、上空を飛んでいたカラスとの間に意識をつなげるための経路を生成する。呪素で形作られた不可視の紐がカラスに接触した瞬間、俯瞰視点で森を見ることができるようになる。すぐに周囲の偵察を指示すると、大樹の間を飛んでいたカラスは大きく円を描くようにして高度を下げていく。
木々の枝に身を隠している動物や昆虫に捕まってしまわないように、注意して飛行する必要があったが、アリエルはカラスを信じて余計な指示を出さずに自由に飛行させた。広大な空は神々と龍、それに鳥の領分だ。地に這いつくばる人が侵していい場所じゃない。
森を駆けていたラライアの姿が完全に見えなくなると、気味の悪い静けさが立ち込める。まるで捕食者の影に怯える小動物のように、森そのものが息を潜めているようでもあった。アリエルはその静けさのなかで何も見逃さないように、カラスの眼を通してじっと暗い森を見つめ続ける。と、黒い影が動いているのが見えた。彼はすぐにカラスに指示を与えると、その黒い影を追跡させた。
「ウルクの猟犬!?」
アリエルは舌打ちすると、すぐに体内の呪素を練り上げながら周囲の土をかき集めていく。サラサラと宙に浮きあがった大量の土が、オオカミのあとを追うように飛ぶ。その不思議な光景に目もくれず、アリエルは百を超える礫を瞬時に生成していく。小さな礫は〈土の矢〉よりも攻撃力に劣るが、逃げるための時間を稼ぐためなので問題ない。
それに神出鬼没の猟犬に攻撃を直撃させるためには、点ではなく面で攻撃する必要があった。ノノやリリのように呪術を使い広範囲に亘って地表を陥没させたり、無数の〈土の棘〉を作り出したりすることができれば良かったのだが、そんな高度な呪術は使用できない。それなら少ない手札で勝負するしかない。
自身の血に宿る力を解放できれば、幽鬼とも互角に戦えたのかもしれない。しかし棺は空っぽで、戦力になるような死体を見つけられる算段もない。そもそも辺境の森にやってくる物好きなんていないのだから、亜人の死体を見つけること自体が絶望的だ。混沌からやってくる化け物の死体から魂を引き剥がし、棺のなかに捕らえることができるのか本格的に調べる必要があるのかもしれない。
いずれにしろ、今は追跡者に集中しなければいけない。アリエルは振り返ると、カラスから得られる情報を頼りに無数の礫を飛ばす。指の爪ほどの小石だったが、〈射出〉の呪術を使っているので、直撃すれば足止めくらいにはなるだろう。しかし百を超える小石が直撃する瞬間、ウルクの猟犬は黒い霧に姿を変え、すべての小石を難なく回避してみせた。
「クソッ」
アリエルは腹立ち紛れに悪態をついたが、猟犬の動きは想定していた。すぐに追加の礫を用意しながら攻撃の機会を待つ。数百の礫の生成に大量の呪素を消費することになり、身体の負担も増していく。体温が奪われていくような嫌な感覚に顔をしかめながら、彼は樹木の間をじっと見つめる。
そしてカラスから得られる視覚情報に合わせて、タイミングよく無数の礫を一斉に発射した。しかし幽鬼は目標の場所にあらわれず、凄まじい速度で飛んでいった礫は大樹の幹に直撃し食い込む。すぐにカラスの眼で幽鬼の位置を確認すると、実体化した幽鬼が――もちろん実体化していたのは衣類や武器の類だけだったが、何もせずにじっと立っている姿が見えた。
「追跡を諦めたのか!?」
執念深いと言われている猟犬が追跡を諦める。青年はひどく困惑するが、幽鬼から逃げる絶好の機会であることに変わりない。
すかさず呪素を練り上げると、アリエルは土に水を混ぜながら無数の泥人形を作っていく。それらの人形は呪術によってつくられているため、多くの呪素を含んでいる。もしも猟犬が呪素に含まれる混沌の気配を追って来ているのなら、囮になるかもしれない。
ウルクの猟犬とまで呼ばれた幽鬼を騙すことができるのかは分からないが、やれることは何でもやるつもりだ。
もっとも、アリエルに作れるのは人形ではなく、せいぜい地面を高く盛り上げる程度の不格好な泥山だけだった。
その不格好な泥山をいくつか作ったあと、いつの間にか泥濘のなかを走っていることに気がついた。
「ラライア、すぐに止まってくれ!」
彼女も異変に気づいたのだろう。目の前の大樹に向かって飛び上がると、太い幹を蹴るようにして走っていた勢いを殺し動きを止めた。
『ここって――』
「〈蛆の洞〉に続く沼地だ。すぐに引き返そう!」
オオカミは無言でうなずくと、別方向に向かって駆け出した。〈蛆の洞〉と呼ばれる領域には、ウルクの幽鬼よりも厄介な存在が徘徊している。ある意味では、混沌の化け物の専門家でもある守人でも知らないような得体の知れない獣や、古の妖魔が跋扈している世界だ。迂闊に近づくことは死を意味する。
『幽鬼が追いかけてこなかったのは、〈蛆の洞〉に近づいていたからなのかもしれないね』
ラライアの言葉にアリエルはうなずいた。
「ウルクの先兵が恐れる領域か……。すぐに気がつくことができて良かった」
かれはそう言うと、心から安心したように息をついた。
『そうだね』と、彼女も同意してくれた。
「このままカラスを使って周囲の安全を確認する。何かあったら知らせるから、ラライアも警戒を怠らないでくれ」
『ん、まかせて』
しばらく移動を続けて追跡がないことが分かると、ふたりは野営の準備を始めた。残念ながら〈境界の砦〉に帰ることはできそうになかった。戦狼と一緒だからといって、夜の森を移動するのは危険過ぎる。
アリエルは〈念話〉を補助する呪術器を使い砦にいるルズィと連絡を取ると、砦に戻ることができそうにないことを伝え、〈先兵の風穴〉でウルクの猟犬に遭遇したことも報告した。数年間、その存在が確認されなかった猟犬の出現にどんな意味があるのかは分からないが、総帥なら適切な答えを持っているかもしれない。
偵察任務の報告を終えたときだった。アリエルは身に付けていた腕輪が淡い光を帯びていることに気がついた。しかしその腕輪は、収納の呪術器として機能する腕輪ではなく、聖地で〝イン〟から預かっていた〈空間転移〉を可能にする金の腕輪だった。
「ねぇ、エル。その腕輪は――」
ラライアの紅い眸を見ながら、彼は難しそうな表情を浮かべる。
「とっくに忘れていたけど、これは首長の呼び出しだと思う」
「首長」と、彼女は嫌な顔をする。
「大丈夫、前回のように戦に参加するためじゃない。今回は会議に参加するだけだから、すぐに戻ってくるよ」
「ほんとうに?」
アリエルは肩をすくめると、火をおこすために枯れ枝を拾いにいくことにした。