37〈先兵の風穴〉
雨に濡れて霞んだような、寒々とした空気に支配された暗い森を進む。淡い薄緑色の光を放つキノコや苔が見えてくる場所までやってくると、アリエルは体内で練り上げていた呪素を角灯に送り込んでいく。
鉄製の囲いと薄いガラス板、それに持ち手だけの単純な作りになっている角灯のなかで光が瞬いたかと思うと、次の瞬間には球体状の発光体が浮かんでいるのが確認できるようになった。それは灰色がかった青紫のぼんやりとした光で周囲を照らしていく。
その淡藤色の光に包み込まれるようにして、アリエルとラライアは暗い森を歩いた。角灯を起動するためには、それなりの呪素が必要だった。けれど並みの呪術師よりもずっと多くの呪素を体内に蓄えているアリエルにとって、それは大きな問題にならなかった。それよりも砦の倉庫に長年放置されていた古ぼけた角灯が、今も使えることに驚いていた。
「俺の近くにいてくれ」
アリエルはそう言うと、角灯を左手に持ち替えて、それからラライアに向かって右手を差し出す。
「ねぇ、それって本当に幽鬼に効果があるの?」
彼女はアリエルの手を握りながら訊ねた。
「ああ。頼りない光だけど、この光が届く範囲から出なければ幽鬼は俺たちの存在を認識できなくなるみたいだ」
「そうなんだ……。ねぇ、もうちょっと明るくすることはできないの?」
アリエルは眉を寄せ、それからカチャカチャと角灯を弄る。
「残念だけど、これが限界みたいだ」
足元に注意しながら移動を続けると、急に気温が低くなり、吐き出す息が真っ白になっていることに気がつく。〈先兵の風穴〉に近づいているのだろう。ここから先、警戒を怠ることはできない。混沌の領域と呼ばれる場所の多くは、死に直結するような脅威で溢れていて、気を抜くことはできない。
「やれやれ」と、アリエルは思わず溜息をつく。
それは守人の口癖だ。彼らは「やれやれ、今日も偵察任務なのか」と、毎日のように同じ言葉を繰り返して無理に笑う。そして気が狂うような混沌の気配に身を晒しながら危険な領域を偵察する。怖気と狂気との間で、彼らは何とか正気を維持しようとするのだ。
「やれやれ」というのは〝気合を入れていくぞ〟〝泣き言を言っても何も変わらないんだ。さっさとそいつを片付けちまおう〟〝どうせ死ぬときは、何をしても死ぬんだ〟という意味で使われた。
「やれやれ、また厄介事だ」と、自身を奮い立たせるように言葉を口にする。
守人はいつ死んでもおかしくない人々が背負う感情的な重荷を抱えて生きている。生に対する執着や痛みに対する恐怖、意志に反して強制される任務と牢獄のように逃げ場のない砦。それらすべての重荷が、肩から下ろすことのできない実体を持たない漠然とした重荷として彼らを苦しめる。
かれらには森の守護者としての役目が要求されているのだ。そして彼ら守人にとっても、その役目を失ってしまうのは恐ろしいことだった。守人は混沌の眷属を殺し、そして殺される。それはある種の決まり事のように、また呪縛のように彼らに課せられた使命だった。
数百年もの間、森で続けられてきた決まり事から逸脱してしまわないためだけに、守人は暗い森で死んでいく。もはや栄光や名誉のためではない、ほかに出来ることがないから混沌の領域を偵察し、暗い洞窟に侵入して、混沌から這い出た怪物と戦う。
毎朝、目が覚めるたびに、一寸先は闇と知りながらも、守人は死に近づくための一歩を踏み出す。彼らはただじっとその時が来るまで耐え、重荷を背負い続ける。自ら命を絶つことができれば、あるいはずっと楽だったのかもしれない。
でも彼らにはそんなことをする勇気はなかった。自らを裁くことのできる精神力を持っていたのなら、彼らは初めから犯罪者に成り下がることもなければ、辺境の砦に送られることもなかったのだから。
けれど普通の暮らしや日常を知らないアリエルは、混沌の脅威に晒されている境界の砦にいながら、その重荷を知ることなく生きることができた。森で拾われ、守人に囲まれながら育った少年にとって、危険な領域を探索して怪物を殺す任務こそが日常だった。だからなのだろう、誰もが怖気づき足を止めてしまう場面でも、アリエルは息をするように死地に足を踏み入れることができた。
かれの心は誰よりも軽かった。もちろん人並みに恐怖を感じることはあったが、アリエルが危険地帯に赴くのは、誰かに強制されているからでもなく、過去の罪を背負っているからでもない、それが彼の日常だったからだ。
それでもアリエルは「やれやれ」と、魔法の言葉を口にする。
まだ幼いころ、暗い森に足を踏み入れることが心底恐ろしかった頃のことだ。よく大人たちの口調を真似たものだった。やれやれ。その言葉を口にすると勇気と自信が湧くような気がした。当時は理由が分からなかったが、今なら分かる気がする。アリエルは暗い森を見つめながら思った。
疎外感に苛まれていた孤独な少年は、その言葉を口にすることで大人たちとの一体感を得ようとしていたのだ。実に単純な理由だが、それなりの効果があったのだろう。
「エル」
ラライアの声で意識を現実に引き戻す。
「どうした?」
「角灯の光が消えそうになってるよ」
「幽鬼に反応しているのかもしれない」
アリエルは小声でそう言うと、彼女と一緒に草陰に隠れる。角灯は腰に吊るして、右手に手斧を、左手は練り上げた呪素を放出できるように準備しておく。
「ねぇ」ラライアはアリエルの背中にやわらかな乳房を押し付けるようにして言う。「そんな武器じゃ幽鬼とは戦えないよ」
「わかってる。俺が警戒してるのは混沌の領域からやってくる食屍鬼だ」
「食屍鬼か……たしかに厄介な連中だね」
「ここで待機する。ラライアは食屍鬼の気配を探ってくれないか」
「了解」
それからアリエルは思い出したように訊ねた。
「予備の手斧があるけど、使うか?」
「ううん」彼女は頭を横に振る。「私にはこれがあるから」
ラライアが手を持ちあげると、爪が見る見るうちに伸びていくのが確認できた。
「鉄鎧すら引き裂ける戦狼の爪か……たしかに武器は必要ないな」
だけどその爪ですら敵わない存在がいることを忘れてはいけない。アリエルは木々の間に立つ人影に視線を向けた。一般的に幽鬼と呼ばれる存在は、適切な道具と対処法を知っていれば恐ろしい相手ではない。けれど〝門〟を使い〈ウルク〉からやってくる幽鬼は、その常識が通用しない存在だった。かれらはこの世界と完全に異なる理のなかにある存在だった。
視線の先で黒い人影が揺れるのが見えた。黒いマントの下に灰色の長衣を身に付けていることは分かるが、人の姿は確認できない。我々が見ているのは門の向こうから、こちら側の世界に干渉する幽鬼の幻影だと言われていた。
その黒い幽鬼がゆっくり接近してくると、寒さに強いラライアが震えるほど周囲の空気が冷やされていく。淡藤色の光が瞬くと、アリエルは腰に吊るしていた角灯を手に持つ。すると体内に蓄えていた呪素が角灯に吸い取られていくのが分かった。幽鬼から所有者を守るため、膨大な量の呪素が使用されているのだろう。
幽鬼の接近にアリエルはひどく慌てるが、今さらどうすることもできなかった。ラライアが言うように、彼の装備では幽鬼を傷つけることすらできないのだ。一方、黒い幽鬼が手にする白銀の剣は、明らかに呪術鍛造された刃物で、刀身には神々の言葉が刻まれているのがハッキリと見えた。
その剣を手に入れるためだけに、これまでにも多くの守人が幽鬼に戦いを挑んで殺されていた。ウルクからやってくる幽鬼を殺すことはできない、それが分かっていても、剣に魅了された人々の気持ちを変えることはできない。それほど美しい剣だったのだ。
「やれやれ……」
アリエルは唇を舐めると、幽鬼の行動に備えた。