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戦闘訓練する守人を横目で見ながら、アリエルとルズィは煤で汚れた薄黒い石壁の塔に入っていく。途端に周囲は薄暗くなり、静寂に支配されていく。空気には灰と埃、そしてこれまでに積み上げられた年月のニオイがした。
暗闇に耳を澄ましてみると、通路の先から鋼を叩く小気味いい音が微かに聞こえてくる。守人の黒装束を身につけたふたりは、影のなかの影のように、半円筒状の天井になっている廊下を進む。
しばらくすると、大きな両開き扉の隙間から炉の炎が見えてくる。その温もりが感じられる黄色い灯りは、鍛冶場の入り口にかけられた太いしめ縄の影を床に落としていた。埃を被った古い照明器具が吊るされていた天井は高く、やけに広い空間だったが、雑多な物で溢れている所為で見た目よりもずっと狭く感じられた。
蜘蛛の巣や埃が目立つ石壁の窪みには木製の棚が置かれ、大量の木炭や砂鉄、そして鉄鉱石が詰まった木箱が無雑作に積まれているが、鍛冶道具だけは炉のすぐ近くに置かれた作業台に整然と並べられているのが確認できる。それにふたりの足元には〈獣の森〉に生息する肉食動物の毛皮が敷かれていて、そのすぐ近くには水棲の大蜥蜴のモノだと思われる厚い革が広げられたまま放置されている。
ルズィは足元に転がる用途不明の道具に注意しながら部屋の隅まで歩いていくと、指を鳴らすようにして蝋燭を灯していく。すると石壁に無数の武器が飾られているのが目についた。太刀や弓、斧や大槍がずらりと並んでいて〝ここでバカな真似はするなよ〟と、来訪者に無言の警告を発している。もちろん境界の砦に侵入して、盗みを働くような愚か者はいない。だからその警告は、鍛冶場にやってきた守人に対するモノだった。
壁際に並ぶ長机には無数の武器が置かれている。肉食動物の牙をナイフに加工したモノや、大樹から採れた貴重な木材を使用した弓、それに飾り帯や装身具が放置されている。アリエルは適当に周囲を見回したあと、埃を被っていた胸飾りを拾い上げ、丁寧に埃を払っていく。
部族の狩人たちに恐れられている恐鳥の綺麗な羽で飾られた胸飾りは、蝋引きされ革紐で編まれていて、装身具としてだけでなく、森で生きる女性たちの逞しさや美しさが秘められているようだった。とくに恐鳥の羽は見事なモノで、手のひらほどの羽は鮮やかな青紫色だったが、炎の灯りにかざすと燃えるような赤色に輝くのが分かった。
その胸飾りを見ていると、石に近きもの〝クルフィン・ペドゥラァシ・ベェリ〟の
声が頭のなかに響いた。
『そいつが欲しいのか?』
「いえ、そういうつもりで見ていたんじゃ――」
『それをこっちに』クルフィンは岩にも見える身体をゆっくりと動かす。
緑青色のひび割れた硬い皮膚は、彼が動くたびに石が擦れるような微かな音を響かせた。
『ふむ』と、クルフィンは六本の指で胸飾りを受け取る。『これなら、あのオオカミの娘も喜んで身につけるかもしれないな』
「どうしてラライアのことを?」
アリエルが質問すると、クルフィンは二つの眼で彼を、そしてもう二つの眼で胸飾りを見つめる。
『すっかり老いぼれてしまったが、〝ラゲルサの娘たち〟のことは忘れていない。しかしとうの昔に見限られたと思っていたが、彼女たちは今も我々守人と共にあるのだな……』
クルフィンはそう言うと、指先でなぞるように革紐を撫でる。
『素晴らしい出来だが、戦狼が使用するには伸縮自在の付与が必要になるだろう。オオカミに姿を変えた瞬間に壊れてしまうようでは、防具としては使い物にならないからな』
「伸縮の言葉か……それなら」と、ルズィがやってくる。「こいつにも神々の言葉を刻んでくれないか」
彼が作業台に置いたのは、胸飾りと同じ素材で作られた腰巻きだった。しっかりした腰帯には恐鳥の長い尾羽がついていて、臀部も隠せるようになっていた。
『どれ、ついでに修復と身体を保護する言葉も刻んでやろう。貴重な素材が使用された装身具だ。身代わりの護符よりも高い効果が期待できるだろう。……それにしても、その子にずいぶんと入れ込んでいるみたいだな。オオカミの娘と絆を結んだのか?』
ルズィは肩をすくめる。
「厄介な呪いで、エルと彼女の魂は深く結びついてるのさ」
『オオカミの娘に死なれては困るか』
「そういうことだ」
アリエルはふたりの顔を順番に見て、それから困惑した表情で質問した。
「修復と保護の言葉っていうのは?」
「保護の言葉は、呪素で形成された不可視の薄膜で全身を守ってくれる効果がある」と、ルズィが教えてくれる。「下手な甲冑を使うなら、保護の呪術が付与された装身具を使うほうがいい。首長を守る女戦士や首狩りどもが素肌を露出して戦っているのは、保護の言葉が刻まれた装身具を身に付けているからだ」
「たしかに重たくて動きの邪魔になる鉄鎧よりも、神々の言葉が刻まれた装身具のほうが魅力的だな。……そう言えば、聖地で殺した女呪術師が裸同然の格好をしていたな」
「そいつも貴重な呪術器を身に付けていたのかもしれないな」
青年は戦闘に役立つ戦利品を手に入れられる機会をふいにしてしまったことを一瞬だけ後悔したが、すぐに別の質問をした。
「それで、修復っていうのは?」
『その守り刀に刻まれているのと同じ言葉だ』
クルフィンの声に反応してアリエルは腰に差していたナイフを抜いた。それはノノから預かっていた刃物で、黒曜石を鋭く研いだような見た目をしていたが、聖獣の骨を――その正体は分からないが、とにかく動物の骨を加工して作られたモノだった。
『修復の言葉には大気中の呪素を取り込み、それに必要とされる物質に変換することで、呪術器として機能する道具や武器を自動的に修復する効果がある』
たとえば一般的に知られる修復の言葉は、時間をかけて摩耗して刃こぼれしてしまった刃を修復する程度だが、折れて失われてしまった刀身すら修復するモノもあるという。神々の言葉が刻まれた呪術器の素材が上等であればあるほど、修復の効果が期待できる。
「なんとなく分かっていたけど、このナイフは貴重なモノだったんだな……」
アリエルの呟きにクルフィンが答える。
『豹人の守り刀は親から受け継ぐものだ。当然のことながら貴重な素材が使用された遺物でもある。失くさないように心掛けるのだな』
青年がうなずいてナイフを鞘に収めると、クルフィンは長い腕をゆっくり伸ばして、暗闇の向こうを指差した。
ルズィは炉の灯りが届かない暗闇の先に歩いていくと、鎖で施錠された木箱を抱えて戻ってくる。クルフィンは鎖に軽く触れ、その鎖を熔かすようにして木箱をあけると、箱の中から四角い物体を取り出す。石を削って作られた何の変哲もない立方体に見えたが、表面には複雑な幾何学模様が彫られていて、神々の言葉にも似た文字が薄っすらと刻まれているのが確認できた。
『かつての偉大な守人が奈落の底にある無名都市で見つけた遺物のひとつだ』
ルズィは作業台に置かれた四角い物体を手に取る。それは手のひらにのるほどの小さな呪術器だったが、言い知れない気配を纏っているように感じられた。
「どんな効果があるんだ?」
『あちら側と、こちら側の世界を繋ぐ門の向こうに〝クヌム〟と呼ばれる領域が存在する。その遺物があれば混沌の影響を受けずに、クヌムに存在する塔をこちら側の世界と繋げることができる』
「クヌムか……聞いたことのない領域だ。ウルクの遺跡がある領域と関係があるのか」
『関係については分かっていないが、まったく異なる領域だろうな』
「そうか……それで、塔っていうのは?」
『南部遠征では何度も野営することになるだろう。その遺物は〝白冠の塔〟につながる扉として機能する。塔内部には居住空間や倉庫が存在するだけでなく、こちら側の世界からも隔絶されているから、襲撃を気にせず身体を休めることができる』
遠征のことをクルフィンが知っている理由が気になったが、とりあえず話を進めることにした。
「野営地を設営する手間が省けるのか……。こいつはすぐに使えるのか?」
『遺物表面に刻まれた言葉が褪せていて書き直す必要があるが、問題なく使えるだろう』
「これで足りるのか分からないけど、こいつを使ってくれ」
ルズィはそう言うと、収納の腕輪から塊金を取り出した。