25〈梟眼〉
水路の補修作業が進むにつれ、破壊された水路の修復に必要な建材と、瓦礫を浮かせるための追加の〈浮晶石〉が新たに必要となった。都市遺跡の機能の一部だけを回復させる試みだったが、それでも膨大な作業と資材が求められた。
そこでアリエルは、仲間たちに休息を与え、その間に〈塔の遺跡〉へ赴く決断を下した。今回はトゥーラもテリーも同行しない。ひとりでの探索だった。連日、休みなく瓦礫撤去に当たってきた仲間たちの疲労は濃く、これ以上無理を強いるわけにはいかなかった。
塔の内部構造はある程度把握しているとはいえ、あの地下には言い知れない〝何か〟が潜んでいる――その確信にも似た感覚は、いまだ拭い去れない。それでも、必要なものを得るためには行かなければならなかった。
〈転移門〉を抜けると、薄暗く閑散とした空間に出る。最初に目指すのは、地下へと続く昇降機が設置されている〈礼拝堂〉だった。正式な名称は分からない。ただ、そこに満ちる厳粛さと、建築そのものがもたらす荘厳な印象から、自然とそう呼ぶようになっていた。
光源となる〈灯火〉を頭上に浮かび上がらせ、薄暗い石の廊下を進む。道中、〈立体知覚〉を駆使しながら、〈工房〉の職人が潜んでいそうな場所がないか調べながら歩いたが、生命の気配はなく、遺跡は静寂に支配されていた。
やがて、前方に両開きの巨大な扉が見えてくる。見上げるほどの高さを持つその扉は、青銅にも似た未知の金属で造られ、厚みと重みの両方を感じさせた。
長い年月により表面は緑青に覆われていたが、隷属種たちが触れる箇所だけは、磨かれたかのように錆ひとつなく、光沢感のある赤橙色の光を帯びている。
すでに開放されていた扉の隙間を通り抜ける。その先には、回廊というにはあまりにも壮麗な通路が広がっていた。横幅も高さも、人間の建築尺度をはるかに超えていて、天井一面には〈展望室〉でも見られた透過性のある石材が敷き詰められていた。
吹雪のせいで外の景色は霞んでいたが、わずかな光が天井を透けて差し込み、薄闇の中に幻想的な明度をもたらしていた。
アリエルは歩きながら天井を仰ぎ見ては、周囲の様子を確かめていく。すると、吹雪の向こうに堂々と聳える複数の塔が確認できた。周囲の吹雪は、それらの塔を中心に渦を巻くように流れ、その存在そのものが気象を支配しているかのようだった。
風と氷がすべてを飲み込む荒野の中で、塔だけが静謐に立っている。その異様な静けさが、かえって周囲の自然の猛りを際立たせていた。
通路の奥に、再び青銅の大扉があらわれた。〈礼拝堂〉の入り口だ。すでに隷属種が通ったあとなのか、開放されていた重厚な扉の隙間をすり抜けるようにして中に入る。
静謐さに支配された広間の壁や床は、滑らかな白い石材で覆われていて、月光を閉じ込めたかのように煌めいていた。その壁面には、びっしりと古代の彫刻が刻まれていて、神々の物語を紡いでいるようにも見える。
伝承で語られるような神々の戦を思わせる浮き彫りには、巨人以外の異形の存在も確認できた。古代の信仰か、それとも戦争で失われた者たちのための慰霊碑なのか――アリエルには判断できなかった。
その広間の中央には、淡い光を内包した〈浮晶石〉の柱が鎮座している。アリエルは慎重に歩み寄り、手のひらをそっと柱に当てながら呪素を流し込んでいく。すると、柱を中心に半円形の薄膜が静かに展開され、床全体がわずかに震えたかと思うと、足元に広がる円筒形の空間に向かって、音もなく下降し始めた。
隷属種が利用していた昇降機は、〈浮晶石〉を媒介とした呪術的な機構によって稼働していた。呪素を注ぐと、構造全体が呼応するように動作する。そのさい、昇降機の周囲に展開される薄膜は、下降途中で怪我をしないための障壁として機能しているのだろう。
足元に刻まれた模様も、ただの装飾ではなく、呪素の流れを制御する〝回路〟のようなものなのかもしれない。
いずれにせよ、この先は充分に警戒して進んだほうがいい。まだ隷属種とは遭遇していなかったが、油断はできない。アリエルは腰に差していた〈臣従の剣〉に手を添える。いつでも〈奴隷使役〉を発動できるよう、準備だけは整えていた。
やがて昇降機は、奇妙な浮遊感を伴いながら減速し、採石場めいた地下空間に到着する。眼前に広がるのは、あの不気味な闇と――目に見えない何かが潜んでいると思わせる異様な沈黙だった。
静寂に包まれた採石場のような空間を進む。音という音が吸い込まれていくような沈黙が立ち込めている。
壁面は均一に削り取られていて、凹凸ひとつ確認できない。鋭利な刃物で一気に切り取られたかのような滑らかな仕上がりで、巨人たちの技術の高さがハッキリと読み取れる。しかし無機質で均質な光景が続くせいで、方向感覚は容易に失われる。
アリエルは以前に通った経路を手帳に書き込んでいたので、迷うことなく鉱石の〈集積場〉へと向かうことができた。道中、通路の脇に完璧な長方形に切り出された石塊が整然と積み上げられているのが見えると、それも回収していく。水路の修復に使えるだろう――そう考えてのことだった。
やがて、鉱石が山のように積み上げられた空間に出る。選別も加工もなされていない、形の不揃いな鉱石が整然とした地下空間に異様なほど乱雑に放置されていた。
それらの鉱石はアリエルの呪素に反応しているのか、淡い光を宿し、まるで無数の眼が闇の中からこちらを覗き返しているように見えた。
アリエルはその山のひとつに近づき、手際よく適当な大きさの鉱石を選びながら〈収納空間〉へと放り込んでいく。わざわざ未加工の鉱石を選んだのは、適切な加工方法を学ぶためでもあった。どの鉱石がもっとも効率よく呪素を取り込めるのか。加工によって性質がどのように変わるのか――それを見極めるための試行錯誤が必要だった。
ひと通りの回収を終えると、この広大な空間がどこまで続いているのかが気になった。壁沿いには、通路を塞ぐように鉱石が崩れ落ちた山が形成されている。その向こうに何があるのか、想像すらできなかった。
アリエルは慎重に足場を選びながら鉱石の山を登り、反対側の通路へと身を滑らせる。足元の鉱石がわずかに崩れていくたびに、崩落の連鎖が起きないかと緊張する。
反対側の通路に出ると、空気の質がわずかに変化しているのを感じた。採石場特有の粉塵混じりの乾いた空気ではなく、もっと深い場所から吹き上がってくる冷たい気流だった。湿り気はなく、どこか広い空洞へと繋がっていることを示していた。
アリエルは〈灯火〉を高く掲げ、暗闇に包まれた通路を進み続ける。やがて通路の壁が途切れ、奇妙な場所に――視界を遮るものがない広い空間に出る。
そこは、もはや〝地下空間〟という言葉では足りないほどの広がりを持っていた。壁も天井も遥か遠くに退き、〈灯火〉の光を調整しても、周囲は一面の漆黒に沈んだままだった。種族特有の暗視に優れた彼の瞳をもってしても、視線の先は暗黒に覆われていて情報を得られない。
光が届かないのではなく、空間そのものが光を拒絶しているかのようでもあった。何かの幻惑呪術だろうか。
〈立体知覚〉の範囲を広げて探索してみると、一本の橋のような構造物の上に立っていることが確認できた。それは幅のある通路状の足場で、空洞の中心に向かって延々と伸びているように見える。
周囲には支柱らしきものも壁もなく、まるで宙に浮かぶ一本の線を渡っているような感覚だった。
足元に注意しながら慎重に覗き込むと、底なしの暗闇が広がっていた。どれだけ見つめても、深さの感覚は掴めない。ただ、そこに落ちれば二度と戻れない――その確信だけがあった。
アリエルは〈灯火〉をひとつ生成し、足元の暗闇に向かって落とす。光球はゆっくりと落下し、やがて加速していく。周囲を眩く照らしながら落ちていくが、壁も床も何も映し出されないまま、ひたすらに深淵へと吸い込まれていく。やがて光は点のように小さくなり、肉眼では捉えられないほどの距離に達した。
アリエルは瞳に呪素を集中させ、視界を拡大して追い続けたが、それでも何ひとつ見えてこなかった。ただ、暗黒があるだけだった。
この空洞が自然に形成されたことは明らかだった。しかし、これまで見てきた通路や施設の構造を見ていると、何か意図的に形成された縦穴のようにも思えてくる。ただし、採掘の結果ではなく、何か偶発的に形成された構造だと考えられた。
何かを封じるために用意された縦穴なのだろうか。そうであるなら、穴の底には何があるのだろうか。静寂の中、アリエルは背筋に冷たい感覚が走るのを感じていた。音も光も反響しない空間は、まるでこの世から切り離された異界のようでもあった。
そのときだった。暗闇の底へと落下していた光球が、視界の端でふっと揺らいだかと思うと、つぎの瞬間――まるで何かが横切って光を遮ったかのように、光が描き消えた。ほんの一瞬の出来事だったが、異様な違和感がアリエルの背筋を冷たく撫でた。
ただの光の減衰ではない。空洞の闇は確かに深いが、〈灯火〉に込めた呪素は一定で、途中で途絶えることはあり得なかった。
そこでアリエルは意識を集中させながら、体内に循環させていた呪素の流れを制御し、ゆっくりと呪力の眼を形成していく。
〈梟眼〉とも呼ばれるこの呪術は、夜間に荒野で狩りをするフクロウを観察したのをキッカケに、独学で習得した術だった。主に〈呪眼術〉に分類される高度な術で、暗闇でも昼間のように周囲を見渡すことができた。
色彩や輪郭も識別可能になるだけでなく、通常では見えないほど遠くの対象物まで、細部を含めてハッキリと視認できるようになる術だった。これまでの視界強化と異なるのは、物理的な視界に加えて、対象が発する呪素の揺らぎ――気配や力の波動を、赤紫の靄や残像として捉えることができる点にあった。
隠蔽術や幻影、罠、呪術障壁といった通常の視覚では把握しにくいものまで、ある程度は見抜ける力を持っている。月が出ている夜や星が輝く夜空では、視界がさらに拡張され、より広範囲の情報を取得できた。
この〈梟眼〉は、自らの視界とは別に、呪素で眼球を思わせる〝呪眼〟を形成し、遠方を直接視認できる能力でもある。フクロウのように夜の闇を視認できる視覚を得るが、この術にはひとつの欠点があった。
能力を発動すると、空中に浮かべた半透明の呪眼の瞳孔が、脈打つように淡い紅光を放つ。これは呪力の活性化による視覚強化の兆候であり、外見的にも明確な変化としてあらわれる。しかしその光は、暗闇の中ではよく目立ち、能力の発動を感知されやすくしていた。隠密行動には向かず、未だ改良の余地を残している術でもあった。
実際のところ、空中に浮かべた〈梟眼〉は握り拳ほどの大きさがあり、どうしても目立ってしまう。術を洗練させていけば、大きさだけでなく複数の眼球を形成できるようになるかもしれないし、発光そのものを抑えられるようになる可能性もあった。
とにかく、その〈梟眼〉を使って、遥か遠くにある〈灯火〉を確認する。視界が急速に拡張され、漆黒の空洞が徐々に輪郭を帯びていく――はずだった。アリエルは瞼を閉じたまま術を安定させ、意識を遥か彼方、落下していく〈灯火〉の方向へと飛ばす。
しかし、不慣れな術の発動に手間取ってしまったせいか、光球はすでに視界から完全に消え去っていた。〈灯火〉と術者との繋がりが途絶えても、発光を維持できるだけの呪素は注ぎ込んでいた。だから自然に消えることは考えにくい。
消失したということは――何らかの妨害を受けたか、あるいは、あの底知れない闇の中に潜む〝何か〟に飲み込まれた可能性がある。
アリエルは視界をさらに研ぎ澄まし、空洞の隅々まで探る。しかし、見えるのは無限に続く漆黒と、途切れることのない沈黙だけだった。
空気の流れは変わらず、岩盤の軋みもない。けれど、その〝何もない〟ということこそが、逆に不気味さを際立たせていた。
アリエルは、自分の心拍がわずかに速まっているのを自覚する。冷たい汗が背を伝い、呼吸が浅くなる。何かがこちらを見ている――そんな錯覚にも似た感覚が、暗闇の底から這い上がってくるようだった。
これ以上、無闇にこの場所を探索するのは危険だと直感が告げていた。正体の分からない〝何か〟が潜んでいる可能性を考慮し、アリエルは慎重に踵を返す。
〈梟眼〉を解除すると、紅い眼球が霧散するように静かに消え、暗闇は再び深淵の静けさを取り戻した。誰もいないはずの空洞で、背を向けた瞬間――微かな視線のようなものが、皮膚の表面を撫でた。アリエルはそれを表情に出さず、淡々と採石場へ足を向けた。




