22
滝の轟音に紛れて、耳を刺すような甲高い金属音が微かに響いてきた。鉄で石を削るような鋭さを帯びているが、音はあまりにも断続的で発生源は掴めない。反響する音が広大な地下空間で幾重にも反射し、四方から聞こえてくるようでもあった。
テリーは思わず足を止め、息を潜めながら暗闇に耳を澄ました。闇に包まれた世界の向こうで、何かが動いているような気配がする──しかし、その正体を掴むことはできない。ただ、その気配だけが言い知れない不安を掻き立てていた。
隷属種のあとを追い、深い暗闇のなかを進むうちに時間の感覚はすっかり曖昧になっていた。そもそも、この地底の暗がりでは時間は意味をなさないのかもしれない。ただ冷たく湿った空気と重苦しい沈黙が、歩みを阻むようにまとわりついてくる。この空間に長く留まれば、理性そのものが失われていくような底知れない緊張感があった。
しばらくすると〈灯火〉の青白い光は、坑道の先にぽっかりと口を開けた広大な空間を照らし出した。最初は壁の輪郭すら掴めず、光が霧散するように暗闇の奥に吸い込まれていくばかりだった。
地底深くにいるとは思えないほど天井は高く、広大な空間特有の響きを含んでいた。これまで以上に冷気は湿り気を帯び、床に反響する足音も、硬質な石の響きから鈍く沈み込むような音へと変わっていた。
アリエルは〈灯火〉を操作し、淡い光をさらに強めた。足元の床は滑らかに均され、凹凸ひとつ見られない。職人の手で丁寧に仕上げられた床のようでもあり、自然の洞窟とは明らかに異なる。しかし注意深く目を凝らすと、床面には深い縦穴が穿たれているのが確認できた。
それぞれの縦穴は六角形の断面を持ち、等間隔に並んでいる。どれほど深い縦穴なのかは想像することもできなかったが、まるで地の底へと続いているかのようだった。
いくつかの縦穴の内部では、湿り気を帯びたものがヌラリと動くのが確認できた。それは、〈灯火〉の光に触れた瞬間、まるで身を隠すようにして蠢く。その影は、生き物の体表のようでもあり、粘液質の黒い物体が地中で呼吸しているかのようでもある。
正体は分からない。ただ、この空間そのものが生きているような錯覚が背筋を冷たく撫でていく。
先行する隷属種は、その縦穴を器用に避けながら歩いていく。眼球に相当する器官を持たないはずなのに、空間のすべてを把握しているかのような正確さで足を進める。一歩でも踏み外せば、そのまま底知れぬ闇に呑まれるだろう。
やがて、ゆるやかな下り坂に変わっていった。湿った空気がさらに重くなり、滝の轟音は背後に遠ざかっていく。
その道に沿ってしばらく進んだそのとき、闇の奥に異形の影が浮かび上がった。甲冑にも似た革鎧を身にまとい、節くれだった腕に太い鉄棒を握っている。その姿は、要塞の遺跡で見た戦闘奴隷を思わせる門番と酷似していた。
生きているのか、それとも死んでいるのかも判別できない重い沈黙をまといながら、二体の巨影が道を挟むように立ちはだかっている。頭部を覆う兜を身につけていたが、それでも冷たい視線で見つめられているかのようだった。
この奥にある〝何か〟を守っているのだろうか。それとも、暗闇の底から邪悪な何かが這い出てくることがないよう、この場で見張っているのだろうか。
アリエルとテリーは隷属種のあとを追うように、二体の巨人の間を通る。その瞬間、空気がわずかに張り詰め、恐るべき異形がこちらを認識していることが肌で感じられた。けれど攻撃されることはなかった。通行を禁止されているモノは、他にいるのかもしれない。
下り坂をさらに進むと、鼻を突くような腐臭が漂い始めた。冷気に混じったその臭いは、時間が経ってもなお空気を汚染するほどの濃密さを保っていた。
〈灯火〉が照らし出した仄暗い闇の中で、無数の死骸が折り重なるように放置されているのが見えた。肉が崩れ、骨が露出したものもあれば、すでに腐敗液を垂れ流している死骸もある。人間のものではない異形の骨格だった。そのどれもが、原形をとどめないほど無残な姿で散乱していた。
戦闘奴隷の門番たちが、この異形の群れと相対したのだろうか。積み重なった死骸と、空気そのものを蝕むような腐臭に顔をしかめながら、アリエルたちは足を止めた。
腐敗した無数の骸は、未だ異様な湿り気を帯びている。誰も近づかない深い暗黒の世界で、闇そのものが墓守をしているようだった。
暗闇の向こうから奇妙な音が聞こえてきたのは、ちょうどそのときだった。反響する滝の音に紛れて耳の奥に届くそれは、深い森の中で偶然遭遇した獣の群れが威嚇するときの、低い唸り声のようにも聞こえた。
つぎの瞬間、それは背筋に悪寒が走るような、断末魔の叫びにも似た恐ろしい騒めきへと変わった。複数の声が絡み合い、増幅され、地底の暗黒の奥底から押し寄せてくる。声そのものが生き物のように、ふたりの足元を這い、背筋を撫でていくようだった。
あるいは──闇に潜む者たちが、獲物の接近に歓喜している声なのかもしれない。長い飢えの果てに、ようやく肉を裂き、血を味わえるときが訪れた。その悦びが、恐ろしげな恐怖を伴って伝わってくる。それは理屈ではなく、精神の奥深くにまで染み込むような、原始的な恐怖だった。
アリエルは無意識のうちに歩みを止めていた。このまま暗闇の奥へと進むべきか、それとも引き返すべきか──決断を迫られるなか、地底から轟くような音が空間全体を揺るがした。
足元が崩れるかのような強烈な縦揺れが襲いかかり、アリエルもテリーも咄嗟に姿勢を低くして地面に膝をつく。全身に伝わる震えが、それが現実の出来事だと教えてくれていた。疑いようもなく、それは地震の揺れだった。
けれど、その揺れには意志のようなものが感じられた。まるで巨大な何かが、地中を這いながら近づいてきている──そんな寒気が骨の芯にまで染み渡り、首筋に鳥肌が立つのが分かった。
恐るべき何かが、ふたりの接近に気づき、悪意を秘めた歓喜に震えているのだ。獲物を見つけた捕食者が、地中から這い出そうとしている。それは地震よりもずっと悍ましく、より本質的で、もっと恐ろしい何かが暗黒の中で目を覚まそうとしているようでもあった。
アリエルは、ソレが何かを想像しようとしたが、思考は霧のように散っていく。この状況は、すでに彼の理解や経験の枠を超えていた。これから何が起きるのかを予測できる者など、この地底にはいない。
気色悪い死骸の山に囲まれ、背後から迫る見えない脅威に晒された状況で、選択肢はほとんど残されていなかった。
『……すぐに引き返しましょう』
テリーの震える声に反応するように、アリエルはうなずいた。
そして、理性が真の恐怖を告げる前に本能が逃走を選んでいた。ふたりは形振り構わず駆け出した。
その背後からは、恐るべき地響きが追いすがる。空間全体が生物のように蠢き、低い震えが足元を突き上げる。六角形の縦穴が次々と行く手を阻むなか、足を踏み外してしまえば一巻の終わりだ。ふたりは足元に注意を払いながら、地面に穿たれた深い溝を跳び越えていく。
冷たい空気が肺に刺さる。その間にも、背後の闇からは恐るべき何かが近づいてきている気配が確かに感じられた。
ずいぶん長い間、走っていた気がしたが、正確な時間は分からなかった。闇は背中にまとわりつき、足音は暗闇に吸い込まれていく。恐怖と、それがもたらす混乱が、時間の感覚を麻痺させていた。
〈灯火〉が放つ青白い光だけが唯一の指標となり、闇に呑まれてしまわないよう、光を追うようにしてただ走り続けた。
背後で蠢く何かから逃れるために、足を止めることはできなかった。テリーが足を取られて前のめりに躓きそうになると、アリエルは即座に腕を伸ばし、その身体を支えた。そして背中を押し、諦めるなと無言で励ます。この暗闇に置き去りにすることはできなかった。
息を切らせながら走り続けるうちに、空気の質がわずかに変化し始めた。湿った冷気に混じって、岩肌の反響音が少しずつ明瞭になっていく。
視界の先に、採石場めいた空間がぼんやりと浮かび上がった。精緻に切り出された岩肌が〈灯火〉の光に照らされ、無機質な鈍い光沢を放っている。広大な空間を抜け、坑道に差し掛かるころには、あれほど激しかった揺れも次第に収まり、やがて完全に止まっていた。
ふたりは荒い息を吐きながら立ち止まり、振り返って暗黒に支配された空間を見つめた。そこには、どこまでも沈み込むような静寂が立ち込めていた。
目に見えない邪悪が、闇の向こうで身を潜め、息を殺しているような気配だけが残っている。けれど、いくら目を凝らしても、その何かが姿をあらわすことはなかった。
冷気のなかを走り続けたせいか、粘膜が傷つき、呼吸するたびに血の臭いがした。しばらくして、膝に手をついて息を整えていたテリーの呼吸が、ようやく落ち着いてきた。
もう大丈夫だろう──そう思って昇降機のある場所まで引き返そうと、歩き出そうとしたときだった。前方の暗闇の奥から、ゆっくりと隷属種が姿をあらわした。
坑道はそれほど複雑ではなかったが、いくつかの横道があった。どうやら、そのひとつからあらわれたようだ。粗削りの鉱石をいくつも抱え込みながら、無言でアリエルたちの前を通り過ぎ、昇降機の方へと向かっていく。その動きには、生気も緊張も感じられない。
その瞬間、アリエルは奇妙な違和感を覚えた。〈奴隷使役〉を発動していないにもかかわらず、隷属種はふたりの存在に何の反応も示さなかった。
敵対もせず、侵入者として排除もせず、ただ定められた作業をなぞるように目の前を通り過ぎた。隷属種全体に命令が伝播するような、何らかの器官が存在しているのだろうか。
それとも、先ほどまで暗闇の中で見ていた個体は幻で、目の前にいる隷属種こそが本物なのだろうか──脳裏に不穏な可能性が次々と浮かび、胸の奥が重く沈んでいく。
訝しみながら、ふたりは隷属種が出てきた通路に入っていく。警戒を緩めず奥へ進むと、広い空間に出た。そこには、無数の鉱石が坑道を塞ぐように積み上げられていた。未加工の鉱石が幾層にも重なり、山のようになっている。この場所から鉱石を補充していたのかもしれない。
アリエルはその光景を眺めながら、ただ立ち尽くし、足元からじわりと冷たいものが這い上がってくるのを感じていた。
目に見えない恐怖が、岩盤の下から、壁の向こうから、天井の隙間から染み出してくるような気配だった。もしもあのまま、存在も不確かな隷属種に誘われるようにして地底のさらに奥へと進んでいたら──あの暗闇の底で、何を目にしていたのだろう。そのとき、自分たちは地上に戻ってこられたのだろうか。
想像するだけでも血の気が引いた。額を伝う冷たい汗が、ゆっくりと頬を濡らしていく。岩壁に囲まれた閉鎖空間で光は心許なく揺れ、闇は静かに形を変えながら、ふたりを包囲していった。




