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神々を継ぐもの  作者: パウロ・ハタナカ
第一章 異界 後編

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18


 何度経験しても慣れることのない空間転移の直後、アリエルは塔の遺跡に設えられた〈転移門〉の前に立っていた。身体が裏返しにされたような不快感が抜け切らないまま、素早く周囲を見回す。


 空気は骨まで染み込むように冷たく、辺りは沈黙のなかに沈み込んでいた。相変わらず、空間そのものが時間の流れを拒絶し、あらゆる変化を拒んでいるかのように、そこでは何ひとつ変化が見られなかった。


 しんとした静寂のなかで聞こえてくるのは、自身の呼吸音と鼓動だけだった。アリエルは手のひらに呪素(じゅそ)を集め、光源として機能する〈灯火(ともしび)〉を頭上に浮かべる。青白い光球がゆるやかに空中を漂い、闇を払うように空間を照らし出していく。


 遺跡を徘徊する異形の化け物は、視覚ではなく、臭いや音を手掛かりに獲物を捕捉する。だから灯りを使わずに暗闇のなかを移動する必要はなかったが、それでも、一歩ごとに神経を尖らせながら歩くことに変わりなかった。


〈転移門〉が設置された部屋を出てしばらくして、上階に続く階段を見つけ、〈工房〉に続く大扉の前に立つ。まだ異形の姿は確認できていなかった、この場所で待っていれば、いずれ姿をあらわすだろう。


 アリエルは両手を扉にかけ、静かに押し開いていく。重厚な外見をしているにもかかわらず、不気味なほど滑らかに扉は開き、暗闇に満たされた〈工房〉を露わにした。


 そこは光を拒む洞窟のように暗く、唯一の光源は棚や床に放置され、微かに発光していた〈浮晶石(ふしょうせき)〉だった。淡い青色の光は、崩れかけた棚や錆びた工具、砕け散った石片を浮かび上がらせていた。


 その光は、死者の魂のように仄暗く、それでいて目を逸らすことを許さない妖しい輝きを宿していた。


 アリエルは無意識に、腰に差していた〈臣従の剣〉に手を添える。もし〝白き巨人の子ら〟とも呼ばれる隷属種が姿をあらわしたら、剣に付与された能力〈奴隷使役〉を使い沈静化し、その行動を制御するつもりだった。


 しかし今は、剣に付与された能力を試すより先に、この遺跡に足を踏み入れた本来の目的を果たさねばならない。


 都市遺跡に張り巡らされた水路を塞ぐ瓦礫を動かすには、多くの〈浮晶石〉が必要だった。幸い、手のひらに収まるほどの小さな鉱石でも充分な効果を発揮することは分かっていたので、それなりの数の石を確保できさえすれば目的は果たせる。


 長方形の石箱に積まれた未加工の鉱石を横目に、奥の部屋へと足を進める。棚に並ぶ〈浮晶石〉は、加工の途中で呪素を取り込めるか確認されたものだったのか、いずれも淡い微かな光を帯びていた。


 手に取ると、冷たい石が微かな光を宿して脈打つような感触を返してくる。不可解なのは、前回もこの棚から鉱石を回収していたはずなのに、再び〈浮晶石〉が補充されていたことだった。もちろん、自然に発生するものではない。この工房を今も支えているのは、隷属種たち――意志を奪われた異形の存在なのだろう。


 彼らが鉱石を運び込んでいるのだとすれば、この塔の遺跡の周辺には、未だ枯渇していない鉱床――異形によって管理された鉱脈が、荒原のどこかに存在するはずだ。


 そこから絶え間なく鉱石が運び込まれることで、廃墟と化すはずだった〈工房〉は、今も機能を保っているのだろう。


 壁際に設置された棚から必要な鉱石を回収し終えたあと、アリエルは部屋の隅に浮かぶ灯籠に目を向けた。ひと際大きな〈浮晶石〉を核として浮かび上がる石造の灯具は、無人の倉庫を淡く照らし、空間に不安定な影を落としていた。


 その灯籠を調べようとした時だった。どこからか微かな足音が聞こえてきた。〈工房〉の外、長い階段の闇から、何かが近づいてきている。


 アリエルは〈消音〉を使い足音を消すと、静かに倉庫を離れる。再び〈工房〉に戻ると、〈灯火〉が作り出していた影のなかに身を潜めた。しばらくすると、扉がゆっくりと開かれていく。そこに姿を見せたのは、あの異形の化け物だった。


 骨ばった長い腕を床につけ、灰白色(かいはくしょく)の皮膚は乾ききってひび割れている。眼球のない眼窩が目立つ頭部は、周囲の気配を探るように左右に揺れた。つぎの瞬間、異形は獣のような体勢を解き、人間に似た直立の姿勢を取る。歪で不自然な骨格だが、巨人の面影が感じられる姿でもあった。


 室内の微妙な変化を察知したのかもしれない。アリエルは警戒する異形を見つめながら慎重に、音を立てないように注意しながら腰に差していた〈臣従の剣〉に手を添え、白い鞘から刃を引き抜いていく。


 手のひらから柄へ、そして刀身へと微量の呪素を流し込んでいく。変化はすぐにあらわれた。刀身の刃文が淡く浮かび上がったかと思うと、冷たい空気を震わせるように、刀身そのものが微かに震動するのが分かった。


 それは微かだったが、鈴の()にも似た澄んだ響きで空間を満たしていく。その音に異形は反応し、アリエルに頭部を向ける。そして今にも飛びかかってきそうな殺気を纏いながら、一歩踏み出しかけた時だった。


 アリエルは不快感に顔をしかめる。何かが無理やり頭の中に流れ込んでくるような、思考の隙間に別の意識が割り込み、重く絡みつくような感覚に襲われる。それは支配の鎖が形成され、異形との間に確かな繋がりができる瞬間でもあった。


 不快感が和らぐのと同時に、動きを止めた異形の姿が目に入る。眼窩は暗く、底知れない空虚を湛えているが、その視線は確かにアリエルに注がれていた。しかしそれは獲物としてではなく、命令を待つ忠実な従者を思わせるものだった。


〈奴隷使役〉の効果は確かにあらわれ、異形の存在を隷属させることに成功したのだろう。恐ろしい化け物は微動だにせず、ただその場に立ち尽くしていた。アリエルは〈臣従の剣〉を構えたまま、一歩、また一歩と慎重に距離を詰めていく。左手には冷気を纏わせ、いつでも攻撃に転じられるよう備えていた。


 しかし長く異様な腕が届く範囲に入っても、化け物が襲いかかってくる気配はなかった。異形の巨体は不動のまま、アリエルを見つめるように沈黙していた。


〈臣従の剣〉が放つ不可思議な力が、確かにこの怪物の精神を縛りつけている。そこでどのような力が働いているのかは分からなかったが、かつての偉大な巨人たちが遺した遺物は確かに効果を発揮していた。


 アリエルは、そこで初めて異形をじっくり観察する余裕を持つことができた。硬質な肌に覆われた体表には、至るところに深いひび割れが走っていた。裂け目から覗く肉は死色を帯び、まるで再生を拒むかのように凝固している。さらに、切創や咬傷の痕跡――かつて何かに傷つけられた跡がハッキリと確認できた。


 傷のいくつかは瘡蓋のように硬く、醜い皮膚で覆われていた。粗雑な癒着の跡だ。自然治癒ではなく、強引に縫い合わせられたかのように皮膚が引きつっていた。見上げるほどの巨体を持つ異形と敵対するような生物がいるとは思えなかったが、遺跡にいる間は警戒すべきかもしれない。


 その異形の頭部は禿げあがり、眼球を刳り貫かれたような暗い眼窩が確認できた。けれどその暗い穴は、ただの欠損には見えなかった。失われた感覚器官の代わりに、呪素を媒介する器官が仕込まれているのではないか――そんな可能性さえ思い浮かぶ。


 唇の裂け目には、針で縫い合わされたような穴の痕跡が並んでいた。無理やり閉じられた口。そこにどのような意図があったのかは分からないが、食事を必要としないのかもしれない。とはいえ、栄養素を必要としない生物が存在するとは考えにくい。


 あるいは、〈赤頭巾〉が使役する土人形(ゴーレム)と同じく、呪素を燃料とする機構が備わっているのかもしれない。けれど、この世界で呪素を補給できる環境は限られている。閉ざされた塔の中で、彼らはどのようにして生きながらえる力を得ているのだろうか。


 それとも、この塔の遺跡の地下にも、呪素を含んだ地下水が流れているのだろうか。遺跡の地下に眠るその水脈が、永続的な動力源となっている可能性もある。


 あれこれと推測を巡らせながら〝巨人の子ら〟の観察を続けていると、ふと特徴的な耳に視線が留まった。細長く尖った耳が、わずかに動くのが見えたのだ。それはアリエルの立ち位置に合わせるように、まるで〈飢えた仔猫(カチャ)〉が微かな物音を頼りに獲物を探す時のように、鋭敏に反応しているのが確認できた。


 そこでアリエルは、ふと刀身から絶えず聞こえていた微かな音に意識を向けた。空気を震わせ、聴覚の限界を超える周波数で響き続ける振動。人間にはほとんど感知できないその音が、異形の感覚を支配し、隷属の鎖として機能しているのではないか。高周波の共振音が意識の深部を絡めとり、行動を拘束しているのかもしれない。


 アリエルは考えに耽るように黙り込んでいたが、やがて動き出した。とにかく一度拠点に戻り、トゥーラたちに報告したほうがいいのかもしれない。彼は〈臣従の剣〉を握ったまま、〝巨人の子ら〟と呼ばれた異形に向かって短い命令を与える。


 言葉そのものは形式にすぎない。実際には〈共感〉の呪術を介して、自らの意図や感情を相手に伝えるときのように、言葉を使わず指示を明確に伝える必要があった。


 しかし異形は反応を見せず、ただ空虚な眼窩でアリエルを見つめていた。外見からは変化を読み取ることはできなかったが、頭の奥に響く微かな感覚――意識が絡み合う不快な接触が、確かに命令を受け入れたことを告げていた。


 試しに階下の〈転移門〉まで同行させてみることにした。異形は驚くほど素直に、関節を軋ませるように歩き出す。恐ろしい化け物が背後に立っているという奇妙な緊張感はあったものの、異形は従順で、何の意思も抱かずに後をついてくる。


 その様子から判断するに、〈奴隷使役〉の効力には揺らぎがないように思えた。けれどこのまま拠点に連れ帰れば、仲間たちに不要な混乱をもたらすのは避けられない。恐ろしげな気配を纏った生物が人の領域に侵入してくる光景は、事情を知っていても受け入れるのは難しい。


〈転移門〉のある部屋までやってくると、再び剣を手にしながら〝普段の作業に戻れ〟と命じた。感情のない顔がわずかに動くと、異形は再び遺跡の暗闇へと戻っていく。


 その背を見送りながら、アリエルの頭には別の疑問がよぎる。もし剣を鞘に収めた場合、この命令はどうなるのだろうか。このまま命令は維持されるのか、それとも共鳴が途絶えることで繋がりが解けてしまうのだろうか……今ここで試すこともできたが、制御を失った場合のことを考え、踏みとどまった。


 つぎに来るとき、また実験する機会を設けよう。アリエルは考えをまとめると、すでに空間の歪みを発生させていた背後の〈転移門〉に向かって歩を進めた。

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