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神々を継ぐもの  作者: パウロ・ハタナカ
第一章 異界 後編
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16〈幾千もの嘆きの戦い〉


 空間全体が、幾千もの稲妻が重なり合ったかのような眩い光に呑まれ、アリエルは思わず(まぶた)を閉じた。熱気とも冷気ともつかない異様な圧が肌を刺し、耳の奥では、世界そのものが軋むような音が鳴り響いた。


 恐る恐る目を開けると、陰鬱なこの土地に、これまで見たこともないほど澄み渡った青空が広がっていた。地平線まで続くその青は、まるで世界そのものが別の次元に置き換わったかのように、空気さえも変わってしまったように感じられた。


 壁を透かすように見える青空に圧倒されていると、視界の彼方に無数の黒点が(うごめ)くのが見えた。最初は羽虫の群れかと錯覚するほど小さなものだったが、やがてそれらは一斉に進路を変え、矢のような速度で要塞に向かってくるのが見えた。


 アリエルは呪素で視界を強化し、黒点に焦点を合わせる。拡大された視野の中に、巨大な翼を持つ竜の姿が浮かび上がった。翼のうねりで雲を裂き、陽光を遮るほどの巨体を持つ蜥蜴めいた生物の群れだ。


 その群れは空を覆い尽くし、黒く塗りつぶすほどの規模で迫ってくる。状況を理解しきれずにいると、黒い群れの中央で閃光が炸裂した。


 雷撃とも爆炎とも形容しがたい閃光は、迫りくる群れの中心に突き刺さる。その直後、大気そのものを震わせるほどの衝撃波が広がる。竜の隊列が崩壊し、硬質な鱗と翼が裂け、炎に包まれながら無数の影が墜ちていくのが見えた。


 その断末魔と血の雨の向こうに、アリエルは別の異形を目にした。巨大な船――いや、船という概念すら当てはまらない異質な物体が、要塞へと迫る竜の群れに向かって突き進んでいた。


 先住民の伝承に登場する〝飛空艇〟だろうか、鋼と木材、そして鉱石が一体となったその外殻は、天空に浮かぶ黒い要塞を思わせた。その船にまとわりつくように、無数の光が不規則に明滅していた。


 そこから放たれる閃光が竜の群れを(えぐ)り、爆発が連鎖し、引きちぎられた翼や尾、手足が赤黒い雨となって地に降り注いだ。けれど次の瞬間には、その飛空艇そのものが白い閃光に包まれ、内部から裂けるように爆散していくのが見えた。大気を震わせる衝撃波は要塞にまで届き、壁が微かに震える。


 地上に視線を落とすと、要塞の周囲に――いつの間にか広大な森が広がっているのが見えた。真っ白に染められた雪原にいたはずなのに、気がつくと要塞の周囲の光景だけが変化していた。


 その森の木々は不自然な影を落とし、緑が濃い血のような暗色に沈んでいる。そしてその中央に、鎧のように炎をまとった混沌の魔物〈ベリュウス〉に似た異形が立っているのが見えた。


 身の丈は木々よりも高く、遠くにいるにもかかわらず恐ろしげな姿を視界に収めることができた。森を焼き尽くすほどの熱波は、監視塔の壁を越えて届いてくるようでもあった。


 どうして〈神々の森〉にいるはずの魔物が、異界に存在しているのか――その理由は分からなかった。混乱と恐怖が胸を掻きむしるなか、世界は再び眩い光に包まれる。


 瞼を閉じていてもなお、その光が瞼を透けて染み込んでくるようだった。大地が大きく揺さぶられるかのような衝撃のあと、耳をつんざく破裂音が轟いて要塞の壁が軋み、あちこちに割れ目が生じ、立っていることすら難しくなる。


 爆発の余韻が耳に残るなか、〈ベリュウス〉が立っていた場所に視線を向けると、何もかも跡形もなく吹き飛び、そこにあるのは周囲を黒く焦がした円形の窪みだけだった。


 飛空艇からの攻撃だったのだろう。常識では測れないほどの威力に、アリエルは自分が震えていることに初めて気づいた。冷たい汗が背中を伝い、指先が小刻みに震える。神話の只中に放り込まれたような感覚だけが、これが現実の出来事なのだと訴えているかのようだった。


 上空では、竜の群れと数隻の飛空艇が絡み合うようにして戦闘に突入していた。黒雲を引き裂く翼と、飛空艇から放たれる閃光が空そのものを()き、天と地の境目が判然としなくなる。


 空気は焼けた鉄の臭いを帯び、アリエルは息を吸うたびに胸の奥が痛むのを感じた。その混沌のさなか、信じがたい光景が眼前に広がる。


 要塞の遥か彼方、大地を穿つ円形の窪みの底から、地割れにも似た深い音が響き、遠くアリエルが立っている要塞の足元まで伝わってくる。


 地面の亀裂は徐々に広がり、その裂け目から炎に包まれた魔物〈ベリュウス〉が姿をあらわした。しかも、それは一体だけではなかった。亀裂は増え続け、あらゆる場所から無数の〈ベリュウス〉が立ち上がり、地平線を炎と黒煙で塗りつぶしていく。


 たった一体で守人の要塞を破壊してみせた混沌の魔物が、この世界には数えきれぬほど存在していた。その事実の重みが、胸の奥に冷たい石を落とし込んだかのように、ずしりと響く。驚愕に打ちのめされている間にも、〈ベリュウス〉の群れは上空に向かって灼熱の閃光を放ち始めた。


 青い熱線は竜の群れを貫き、飛空艇を次々と爆散させていく。竜たちの翼は空で裂け、甲高い鳴き声も熱風に呑まれてかき消されていく。


 その最中、別の方角から数隻の飛空艇が接近してくるのが見えた。そして、恐るべき攻撃が地上にいる〈ベリュウス〉の軍団を薙ぎ払い、轟音の中で数十もの炎の巨体が同時に消滅していく。


 そのたびに大地は裂け、遠く離れた要塞の壁は軋みを上げた。戦闘の余波は、世界そのものが震えているかのように足元を揺らし続けていた。


 鬱蒼とした緑の森は瞬く間に焼かれ、そこにあったはずの川や道、都市の存在すら、誰も思い出せないほど徹底的に焼き尽くされていく。大地には黒い穴が穿たれ、炎の柱が天に向かって立ち昇っていく。


 その非現実的な光景の中で、アリエルは思考する。もしかしたら、石板を介して過去に起きた出来事を追体験しているのかもしれない。しかし、誰の意思によってその光景を見せられているのかは分からない。あるいは、これが本当に過去の出来事なのかも確信できない。


 ただ、目の前で繰り広げられている光景は、神話の一節として語られる〝幾千もの嘆きの戦い〟の一場面にしか思えなかった。


 大地は引き裂かれ、森は消滅し、かつて存在していた白い都市がひとつ、またひとつと失われていく。空気は灰と瘴気で満ち、肌を刺す熱と冷たい恐怖が同時にアリエルを覆い尽くした。


 恐怖によって感情に呑まれていたからなのか、それとも〈神々の森〉で生を受けた戦士の血が騒いだからなのか――自分が微かに笑みを浮かべていることに、彼は気づいた。


 その笑みは嘲笑でも陶酔でもなく、あまりに現実離れした戦いのなかに身を委ねたいという願望の表れのようでもあった。


 混沌を(ほふ)るためにのみ存在する獣の腕からは、抑えきれないほどの膨大な呪素(じゅそ)があふれ出し、空間を満たす黒い霧のように渦巻いていく。その呪素は目に見える形でアリエルの周囲を漂い、足元から彼の姿を塗り替えようとしているかのようだった。


 気がつくと、頭上に黒い影が差していた。胸の奥にひやりと寒気が走り、アリエルは反射的に顔を上げた。


 監視塔の壁を透かすようにして、無数の蜘蛛が――恐るべき巨体を持つ大蜘蛛の群れが要塞から這い出し、燃え上がる森へ向かって静かに移動していくのが見えた。


 空を覆う黒煙のなか、その動きはまるで地表に降り立った暗黒そのもののようだった。一体一体が、その身に膨大な呪素を宿していて、ただ見ているだけで背筋が凍るような、言葉では言い表せない恐怖に襲われる。


 移動する黒い群れを目で追い続けるだけで、精神が軋み、意識が崩れ落ちそうになる。発狂という言葉が現実味を帯びて迫り、視線を逸らさなければ魂ごと呑み込まれてしまいそうだった。


 大蜘蛛たちの脚は細長く、岩を削り出したようなゴツゴツとした骨の形状をしていた。漆黒の体毛に覆われた巨体は、ラガルゲよりも一回り大きい。脚に密生する硬い体毛の隙間からは、外骨格のような黒光りする体表が覗き、まるで甲冑のように節ごとに脚を守っているのが見えた。


 黒々とした体毛はあらゆる光を吸い込み、戦場から届く衝撃波に吹かれて揺れるたび、墨色の波紋が群れ全体に走るように見えた。


 腹部が左右に揺れると、特徴的な赤い斑模様が淡い光を帯びてぼんやりと明滅し、目に焼きつく幻像のように浮かび上がる。その光景は、見る者の意識に不吉な(ささや)きを残すような、嫌な気配をまとっていた。


 最も恐ろしいのは、その凶暴さを極めた頭部だった。鋭く攻撃的な曲線を描く大顎は、人の胴体すら容易く断ち切れそうな力を秘めていた。


 上顎から垂れる毒液は、光を浴びるたびに不気味に輝き、地面に落ちた瞬間、大地を焼くように蒸気を上げる。体毛に覆われたその頭部の奥では、数えきれないほどの眼が光り、見る角度によっては、何層もの暗い井戸を覗き込んでいるかのような深さを感じさせた。


 上顎に隠された口元は闇に沈んでいて、ハッキリとは見えない。けれど、その奥に無数の鋭い歯が密集して並んでいるのが分かった。獲物の肉を()み千切り、骨ごと粉砕し、血と呪素を啜るために設計された器官だ。その牙の存在は、生きとし生けるものすべてへ死の宣告であり、悪夢そのものだった。


 その恐るべき蜘蛛の群れが、〈ベリュウス〉を思わせる炎の魔物の軍団と、まさに衝突しようとしていた。


 遠目にも分かるほど呪素が黒々と渦を巻き、地表はひび割れ、空気そのものが重く沈む。ふたつの災厄が接触する瞬間を前に、世界全体が息を呑んでいるかのようだった。


 ちょうどそのときだった。鈴を鳴らすような、細く鋭い音が木霊した。反射的に振り返ると、無数の影が連なっているのが見えた。巨人の幻影とも、古代に封じられた人々の亡霊ともつかない黒々とした影だ。


 それぞれが巨人の輪郭を持ちながらも、霧のように揺らぎ、鈴の音色を連鎖させながらこちらに近づいてくる。


 彼らはアリエルが見えていないのか、気にする素振りを見せることなく通り過ぎていく。そして壁際に整列し、巨大な祭壇にひざまずく信徒のように、ただ黙して遠くの戦場を見つめた。


 その眼窩は空洞にしか見えないのに、視線だけが強烈に焦点を結び、燃える森や引き裂かれた大地の光景を焼き付けようとしているかのようだった。


 低く、地の底から滲み出るような声が彼らの喉元で響き始めた。それは祈りとも呪詛とも判別できない言葉で、確かな意味は掴めない。ただ、喉の奥を震わせるようなその低音は、骨の髄まで響き渡るように共鳴していた。


 落雷を思わせる轟音のあと、要塞に向かって落下してくる影に空が黒く染まった。それは、黒曜石のごとき鱗をまとった巨大な竜だった。


 鱗は刃のように鋭く硬質で、その翼はひとたび広げれば空を黒く染め、光すら押し戻すかのようだった。その竜は監視塔など容易く押し潰せるほどの巨体で、体内から滲み出る熱が要塞の石壁を軋ませていた。


 直後、大地を穿つ重低音と衝撃が走り、要塞全体がきしみ、大地の亀裂から土煙が吹き上がった。竜は胴体を大きく痙攣させながら血の霧を散らし、なおも生き延びようと爪を振るう。だが、その巨体に群がったのは無数の大蜘蛛だった。


 漆黒の体毛が鱗の光を奪い、腹部の赤い斑模様だけが燐光のように淡く明滅する。細長い骨ばった脚が竜の翼膜(よくまく)を引き裂き、無数の牙が毒液を滴らせながら鱗の隙間へと食い込んでいく。竜の断末魔は大気を震わせるが、蜘蛛の群れは容赦なくその生命を貪っていく。


 そのときだった。視界の端で、黒い巨人の影がひとつ、こちらに歩み寄るのが見えた。巨体でありながら足音はなく、ただ近づくにつれて空気の密度が変わるのが分かった。


 周囲の光が薄れ、色が削ぎ落とされ、世界全体が墨を流し込まれたように暗く沈んでいく。次の瞬間、黒い腕がアリエルに向かって伸びる。


 その指先は冷たくも熱くもなく、しかし感覚を奪うような無色の力をまとっていた。触れられた途端、戦場の轟きも炎の明滅も遠のき、目に映るすべてが塗り潰されていく。暗黒の世界で、鈴の音だけが微かに鳴り続けていた。

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