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神々を継ぐもの  作者: パウロ・ハタナカ
第一章 異界 後編
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15


 巨人の幻影が投げかけてきた問いに答えようと、アリエルが口を開きかけたその瞬間だった。空間そのものが歪み、深くうねるように変化していくのが見えた。


 壁も床も、巨大な生物が(うごめ)くかのように膨らみ、つぎの瞬間には内側に向かって収縮していく。重々しく響く低い音が波のように押し寄せ、足元がふらついた。揺れは地震に似ていたが、地底から響くというより、世界そのものが軋んでいるかのようだった。


 それはまるで、何らかの力で無理やり変容させられていた世界が、本来の姿を取り戻そうとして抵抗しているかのようでもあった。膝に力が入らず、アリエルはしゃがみ込み、両手を床につけて揺れが収まるのを待った。その間にも、周囲の風景が目に見えて変化していく。


 壁際に並んでいた本棚はそのままなのに、そこに納められていた書物だけが、砂が風にさらわれるように跡形もなく消えていった。足元に散らかっていた古い書物や羊皮紙も同様に、音もなく消え、細かい塵のような粒子に変わりながら空中に溶けていった。


 黒く変色した薬壺、砕けたガラス容器に閉じ込められていた干からびた標本も、ひとつ残らず姿を消した。代わりに、整然とした作業机だけが残された。その光景からは、アリエルが先ほどまで目にしていた混沌とした部屋の痕跡を、誰かが塗りつぶしたかのような不自然さが感じられた。


 地震めいた揺れが収まる頃には、床に刻まれていた円環の痕跡も消え失せていた。淡い光を浮かべて脈動していた円環が消えたことで、部屋全体が、何の変哲もない空き部屋へと変わってしまったのが分かった。


 かつて呪術の研究が行われていた痕跡を残す〝知の墓場〟から一転して、意味を失った空間へと変わる――その変化を目の当たりにし、アリエルは冷たい手で背筋を撫でられるような恐怖に襲われた。


 彼は警戒を解かず、ゆっくりと立ち上がる。呼吸が白く濁り、冷たい空気が喉を切るように流れ込んでくる。目を凝らして室内を調べたが、もはや巨人の幻影はどこにも見当たらなかった。声もなく、存在していたという気配すらも失われていた。


 つい先ほどまで目にしていた世界が幻覚だったかのように、空虚な空間だけが残されていた。あと少しで、何か決定的な情報にたどり着けたかもしれない――その悔しさが胸に残る。


 アリエルは冷静を装いながらも、衝動に突き動かされるようにして、部屋を出て来た道を引き返した。石造りの廊下を進む足音は〈消音〉の効果でほとんど響かず、広い空間に静寂だけが重く圧し掛かる。遠くからは、吹雪が外壁を叩く音が微かに聞こえていた。


 食堂に戻ると、さらに異変を目にすることになった。整然と並べられていたはずの無数の長机は、今や秩序を失い、まるで呪力の爆発か暴風に晒されたかのように散乱していた。


 いくつかの机は一部が砕け、厚い板や破片が床に散らばっている。椅子は転げ、銀食器は床に散乱し、かつての静謐さは暴力的な痕跡に塗り替えられていた。


 アリエルは事態の変化に追いつけず、動揺し混乱しかけたが、その感情を押し殺すようにして心を落ち着かせる。そして意識を集中させ、周囲に漂う呪素(じゅそ)の痕跡を探ることにした。


 巨人の幻影を目にするキッカケとなった石板――〈記憶石〉に似た何かが、この空間のどこかに残されていないかを探す。


 冷たい空気が皮膚を刺し、感覚が研ぎ澄まされていく。やがて、微かな呪素の痕跡を見つけることができた。それは淡い霧のように滲みながら、散乱する机の隙間を這うようにして伸びていた。


 まるで長い尾を引く生き物が、食堂の外へと這い出していったかのようだった。誰かが、あるいは何かが石板を携え、この場所を離れたのだろう。


 アリエルは呪素の痕跡を追うことにしたが、ほとんど直感的に、通路の先に危険な何かが潜んでいるかもしれないと感じた。


 すぐに〈収納空間〉から適当な弓と矢筒を取り出す。使い込まれた矢筒の革は黒ずみ、金具は冷たく、微かな錆が浮かんでいた。腰の帯革に矢筒を吊り下げ、金具に引っ掛けると、弓を手にしたまま姿勢を低く保った。


 廊下に出ると、頭上に浮かべていた〈灯火〉を暗い通路の先へ滑らせた。光球はぼんやりとした青白い光を放ちながら、冷たい石壁を鈍く照らし出していく。


 その光に浮かび上がるのは塵と濃い影だけで、相変わらず生命の気配は感じられない。長い廊下はひっそりと静まり返り、呼吸音さえも石に吸い込まれていくかのようだった。


 微かな呪素の痕跡をたどりながら、アリエルは暗がりを進んでいく。やがて〈灯火〉が照らした先、闇の中から異形の巨体が輪郭をあらわした。それは動かず、ただそこにあるだけの、死の彫像のような影だった。


 灰色がかった白い皮膚は乾いた粘土のようにひび割れ、骨ばった四肢を獣のように地面につけたまま動かない。その四肢は筋肉の陰影を欠き、どこか無機質な印象を与える。


 暗い眼窩の奥には何もないのだろう。視覚が機能していないことは明白だった。アリエルは立ち止まると、矢を手に取る際の動きを妨げにならないよう、外套を背中に払う。微かな布擦れの感触が冷たい空気に溶けるなか、さらに姿勢を低くする。


 念のため〈消音〉と〈隠密〉を再度発動させ、闇の中に自身を滲ませるようにして廊下を進んだ。


 異形の化け物――かつて奴隷として使役され、道具のように扱われていた哀れな生き物。その(おぞ)ましい生物に近づくごとに、空気が冷たくなり、緊張感が皮膚に食い込むように増していく。


 そのなかで、アリエルは弦に指をかけ、化け物との距離を慎重に測りながら一歩ずつ近づいていく。呼吸音すらも立てないよう、胸の奥で息を細く押し殺す。指先に感じる弦の張りは硬く、冷たい。


 矢を静かに番え、弓を構えたまま弦をゆっくりと引き絞る。腕の筋肉が微かに震えるが、視線は外さない。狙いはすでに異形の頭部に据えられていた。薄暗い光の中で、その頭蓋の輪郭が、死者の仮面のように際立って見えた。


 一歩、また一歩。慎重に、異形のそばを通り過ぎていく。痩せ細った四肢は動く気配を見せず、〈灯火〉の光を受けても陰影がほとんど浮かび上がらなかった。にもかかわらず、目に見えない圧迫感は確かに感じられた。


 ほんの僅かな空気の震えさえ、異形を目覚めさせるのではないかという恐怖が、背筋に鋭い刃のように突き立つ。


 ある程度の距離ができると、アリエルは静かに引き絞っていた弦を解く。その弦を緩めるときも音を立てないように意識し、それから矢筒に矢を戻す。


 異形が動かないことを再度確かめたあと、視線を通路の先へ移した。ここで異形に追跡されるようなことになれば、石板の痕跡を追えなくなる。


 今は戦うべき時ではない。動かないのなら、そのままでいてくれたほうがいい――異形を刺激しないように、つま先の動きにまで注意しながら、薄闇の中を進む。


 やがて、通路の先に閉ざされた巨大な扉が見えてきた。その扉の前にも異形が立っていたが、これまでの個体とは明らかに異質な存在だった。


 土鬼(どき)が身に着ける甲冑にも似た革鎧をまとい、節くれだった腕には鉄棒が握られている。門番、あるいは戦うためだけに飼い慣らされた戦闘奴隷だろうか。〈灯火〉に照らされる姿を見ていると、戦士の彫像を目にしているかのような威圧感を抱いてしまうほどだ。


 幸いなことに、石板の痕跡と思われる呪素の残滓は扉の前を通り過ぎ、通路の先へと続いていた。しかし、果たして異形の近くを通り過ぎても大丈夫なのだろうか。緊張感を含む嫌な不安が、皮膚の内側をゆっくりと這い上がってくるのを感じる。


 アリエルは、これまで以上に慎重に歩いた。二本足で立つ異形は、見上げるほどの巨体を持ち、完全に制止していた。頭部を覆う兜からは、一切の表情を窺うことができず、そこに生命としての意志が宿っているのかさえ分からない。


 ただ、兜の隙間から突き出た先の尖った長い耳だけが、生物の証のように露出しているのが見えた。生気を失ったその耳が、わずかな空気の動きにさえ反応するのではないか――そんな疑念が脳裏に張り付く。


 やはり、音に反応して侵入者に襲い掛かる生き物なのかもしれない。アリエルは呼吸すら止め、身体の輪郭を闇に溶かすようにしてすれ違う。鼓動のひとつひとつが、自分の存在を告げる太鼓の音に思えた。


 異形のそばを離れるころには、ひどく疲労してしまっていた。喉は乾き、指先にはまだ弓弦の冷たい感触が残っている。背筋を伝う汗は、張り詰めた神経の代償だったのかもしれない。必要以上に警戒している――そう思いながらも、この場所では、その慎重さこそが生存に求められる条件だと認識していた。


 気を取り直して、通路の先へ足を進める。しばらくすると、通路のわきに螺旋階段があらわれた。塔の上方へと延びるその石段からは、冷気を(はら)んだ空気がわずかに吹き下ろしてきていて、呪素の残滓が微かに尾を引きながら上方へと伸びているのが見えた。


 監視塔だろうか――アリエルは石段を一歩ずつ上がっていく。歩幅の広い石段は、足首に白い冷気を漂わせ、古い石の臭いで満たされていた。


 上方からは微かな光が射し込み、薄暗い塔内に冷たい縞模様を浮かべていた。吹雪の音は聞こえてこないが、その光は外界の白さを思わせ、外に繋がっているのではないかという淡い期待を抱かせた。


 やがて最上階にたどり着いたが、そこは外界ではなく、壁に囲まれた閉ざされた空間だった。四方の壁には、塔の遺跡でも目にしていた半透明の石材がはめ込まれていて、その向こう側には、吹雪で真白に(かす)む雪原の光景が透けて見えていた。


 光は壁を透かし、青白い輝きとなって床に落ちている。敵に身体を晒すことなく外を監視するための仕掛けだったのだろう。


 その白い空間の中央には、机と椅子がひとつずつ、ぽつりと置かれているだけだった。呪素の痕跡は、その机に向かって点々と続いていて、まるで見えない何かがそこに腰かけているかのようだった。


 慎重に近づくと、机の上に一枚の石板が置かれているのが見えた。手のひらを広げたほどの大きさで、表面は黒曜石のように磨き上げられ、周囲の光景が鏡のように映り込んでいる。食堂で見かけた石板に似ていたが、本当に同じモノなのかは判別できなかった。


 石板に映り込む自分の姿が、どこか歪んで見えて、胸の奥に嫌なざわめきを生む。躊躇(ためら)いながらも、アリエルは石板に手を伸ばした。


 指先が石板に触れる寸前、わずかな抵抗が感じられた。指先で火花のような光が散り、針で刺されたような微かな痛みが走る。


 つぎの瞬間、空間が音を立てて歪んでいった。壁越しに見えていた雪原の像が微かに震え、監視塔に射し込む光が色合いを変えていく。まるで、現実そのものが作り替えられていくかのような光景だった。再び、世界が姿を変えようとしているのかもしれない。

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