14
恐ろしいほどの静寂のなか、耳の奥に低い震動が走る。まるで耳鳴りのように、空間そのものが微細に軋み、何かを告げているようだった。視界の前方では、黒い煙のような影がじわりと形を濃くし、顔に相当するものをアリエルに近づける。
それは、都市遺跡で見てきた無害な幻影とは明らかに異なる存在だった。そこには確かな意思があり、こちらを測るような視線が感じられた。実体を持たない巨大な影の口元がわずかに動く。空気が一瞬だけ重く、冷たく変化し、耳の奥に鈍い痛みが走る。音は聞こえないが、言葉の痕跡だけが頭蓋に刻まれていくようだった。
――〝神々の愛し子〟だな。
その言葉は、空気を振動させる音として伝わってきてはいなかった。思考の皮膜に直接、冷たい指を滑り込ませたように、否応なく言葉を理解させられている感覚だった。
――小さく、弱々しい。だが、たしかに体内に魔素を宿している。
大きな影が椅子から立ち上がる。暗い天井まで伸びる巨体の輪郭が揺らぎながら立ち上がる様は、濃密な夜霧が形を持つのを目撃するかのようだった。
アリエルは思わず巨体を見上げ、心臓がひとつ打つたびに背筋に冷たいものが流れていくのを感じた。
――そうか……実験は成功したのだな。
巨人の影はそうつぶやくと、音を立てることなく食堂の出口に向かって歩き出す。その動きに呼応するように、周囲に立ち尽くしていた異形の影たちも一斉に首をもたげ、四肢を地面につける獣のような姿勢で移動を始める。
それは風すら立てることなく静かで、実体を持たないことをあらためて認識させられる光景だった。しかし出口に差しかかったところで、巨人の影は立ち止まる。
――さあ、一緒に来るんだ。小さき影よ。のんびりしている時間はない。
その〝声〟は、再び頭蓋の内側を叩いた。アリエルは息を呑み、拳を軽く握り直す。敵意を持たない存在を恐れるほど臆病ではなかったが、不信感はぬぐえなかった。
何かがおかしい。あの巨人の影は、自分のことを〝小さき影〟と呼んでいた。つまり、あちらから見れば自分もまた、輪郭の曖昧な存在に過ぎないのだろうか。
まるで別の次元に――あるいは世界線に存在する者たちが、何かの間違いで偶発的に互いの存在を認識してしまっている――そんな奇妙な違和感があった。
それでも今は、あの巨人の影についていくしかない。この遺跡を案内してくれるというのなら、〈浮晶石〉にたどり着けるかもしれない。アリエルは歩き出したが、その期待の背後には、罠に誘われているかのような暗い予感がまとわりついていた。
外の吹雪は、要塞の厚い石壁を震わせるほどに荒れ狂っていた。どこからか風の唸りが低く聞こえてきて、氷の粒が壁を叩く鈍い音が途切れ途切れに届く。それでも、アリエルが足を踏み入れた通路は、時の流れそのものが凍りついたように、静寂のなかに沈み込んでいた。
寒さは石の髄にまで染みわたり、吐く息は白く、頭巾を目深にかぶっていても、冷気は細い刃のように頬に突き刺さる。天井は高く、通路の幅も広い。小さな身体を持つ人間が、この空間において、いかに異物であるかを痛感させられる。
周囲の壁は青黒い石材に覆われていて、所々が削られ、古い浮き彫りの輪郭だけが残されていた。かつて神々に捧げられた祈りの言葉――あるいは〝神々の言葉〟そのものだったのかもしれない――からは、微かな呪素の痕跡が漂い、古代語の断片が目の奥に焼きつくようにちらついた。
やがて、通路の奥に封印された扉が見えてくる。両開きの巨大な扉には冷たい金属の鎖が幾重にも巻きつけられ、侵入を拒むかのように硬く閉ざされていた。何か重要なものが保管されていた場所なのか、それとも牢獄だったのか――判別はつかない。ただ、扉の向こうに何かが封印され、なお息づいている気配だけは感じられた。
通路の奥を行く影が、ゆらりと揺れる。それは巨人めいた輪郭を持ちながら実体を持たず、黒い霧のように形を変えつつ進む。
しばらくすると、黒い影は大きな扉の前で立ち止まり、律儀に扉を開く動作をしてみせた。しかし、アリエルが認識している世界では扉は閉ざされたままだった。ただ、扉は施錠はされていなかったのか、そのまま押し開くことができた。
暗い部屋に足を踏み入れる。そこは、かつて呪術の研究が行われていた部屋――知識と狂気が交錯する、忘れられた知の墓場のような様相を呈していた。
黒く変色した薬壺が棚や机の上に無秩序に散らばり、そのいくつかは割れて、乾いた黒い残滓を漏らしていた。〈灯火〉で浮かび上がる正体不明の標本は、砕けたガラス容器の中で干からび、かつて生物だったことを示す輪郭だけが、骨のように硬化した皮膜と共に残されていた。
壁際には無数の本棚が並んでいたが、その多くは斜めに傾き、木片や鉄製の金具が床に崩れ落ちていた。木材は長い年月で黒ずみ、細かな亀裂に煤や塵が入り込み、指先で触れれば崩れそうな脆さを帯びていた。
それは、これまで見られなかった光景だった。この部屋だけ、実際の時間が流れているかのように、あらゆるものが劣化していた。
足元には書物や羊皮紙の残骸が折り重なり、空気の流れで囁くように擦れ合っていた。アリエルが書物を拾い上げると、指が触れた部分から崩れていき、脆い塵となって床に散らばっていく。
それらの書物には判読不能な文字が記されていて、その合間に描かれた複雑な図形が、呪術の痕跡を無言のまま訴えていた。そこに記された知識がどれほど危ういものだったのか、もはや理解できる者はいないのかもしれない。
作業机には奇妙な器具が散乱していた。銀の輪はわずかに酸化し、鈍い光を放っている。割れた水晶球は内部に薄い霧のようなものを封じ込めたまま、凍りついたように沈黙していた。黒い染みが残る石盤には、中心から放射状にひびが入り、何らかの儀式に使われたことを物語っていた。
部屋全体に漂う微かに焦げたような臭気が、この場所で行われた実験の痕跡を、時間を越えて伝えてくるようだった。
部屋の中央、床には燐光を放つ円環が刻まれていた。青白い光は静謐でありながら不気味な脈動を見せ、まるで呼吸する生物が潜んでいるかのように絶えず揺らめいていた。
その円環を縁取るように、古代語と思わしき文字がびっしりと刻まれ、流麗な曲線が網膜を滑るたびに頭の奥で鈍い痛みが波のように広がった。それは〈石に近きもの〉たちが呪術具に刻み込む〈神々の言葉〉とも異なる、より深い層から滲み出た異質な呪文のようにも思えた。
発光する円環の向こう側に、椅子に座る巨人の影が見えた。黒い煙のように揺らめきながら、燐光に照らされた瞬間だけ、人間とも異形ともつかない輪郭を浮かび上がらせる。その影の影響を受けているのか、周囲の沈黙さえも影の呼吸に同調しているように感じられた。
アリエルは、抗いがたい誘惑に導かれるように、淡い光を放ちながら明滅する円環に近づく。青白い光が足首に絡みつくように揺れ、冷たい空気が胸の奥へ深く染み込んでいく。警戒して足を止めた瞬間、巨人の影がわずかに揺らいだ。すると水面に投じられた小石のように、微細な波紋が広がっていくのが見えた。
――大丈夫、危険なモノではない。
重々しい言葉は慎重に紡がれた。
巨人は、その言葉を証明するかのように、円環に向かって腕を伸ばす。黒い影が床に刻まれた光の輪の内側へと侵入した瞬間、その空間だけが不自然に揺らぎ、黒い煙が霧散するようにして白い肌が露わになった。
影の奥から垣間見えるその手は、陶器のような冷たい異質さを纏っていた。骨ばった指先がわずかに震え、何かに触れることを躊躇うかのように宙で止まり、そして再び円環の外側へと戻っていく。
それでもアリエルは慎重に、警戒しながら円環を縁取る呪文を踏まないようにして、光のなかに足を踏み入れる。
必要以上に緊張していたせいか、とくに異常が見られなかったことに首を傾げてしまうほどだった。しかし変化は、巨人が認識している世界線で、より鮮明に進行しているようだった。
――やはり〝神々の愛し子〟だな。さぁ、顔をよく見せなさい。
頭の奥に直接流れ込んでくる声とも、感覚ともつかない言葉に導かれるように、アリエルは目深にかぶっていた頭巾をゆっくりと上げた。月白に染まる長髪が肩にこぼれ、深紅の瞳が燐光を受けて妖しげに明滅する。
その瞬間、巨人の影が大きく揺らいだ。淡い光が輪郭を歪ませ、影をこれまで以上に不安定なものへと変えていく。黒い煙は内側から乱れ、押し殺した息が漏れるような震えが部屋全体に伝わった。
――まさか、どうして塵の子が……
声にならない思考の波が、大気の中で長く尾を引いた。
そして巨人が椅子から立ち上がるのが見えた。その動作には、先ほどまでの威容さは感じられなかった。背を伸ばすと同時に、煙の層が崩れるように散り、巨体を形づくる影が一瞬だけ薄く透ける。両膝は床に触れ、アリエルと目線の高さを合わせる。
煙のような輪郭に過ぎないはずの眼差しが、今だけは確かな焦点を宿し、動揺と戸惑いを隠しきれないままにアリエルを射抜いていた。
――いや、これは何かの間違いだ。かの種族は、もう……
巨人から伝わる奇妙な感覚のなかに、恐れと希望が同時に垣間見えた。光を失った湖面に一筋の月光が差し込むような、あり得ない光景との出会いに対する期待と、それが偽りかもしれないという葛藤が交錯していた。
やがて、巨人はふらりと立ち上がる。その足取りは鈍く、目的を見失った亡霊のように不確かだった。
部屋の隅にある散らかった机へ向かい、煙のような腕を伸ばす。まるで自分の記憶を探り当てるように、巨人は何かを探す動作を見せた。存在の不確かな手が器具に触れた瞬間、指先が一瞬だけ透きとおって影全体が波打つ。
――そうか……
弱々しい言葉は、先ほどの威厳を失い、ほとんど人の吐息に近かった。
――空間の歪みは、次元だけでなく……時間すらも超越する。
巨人は机の上にある何かを手に取ると、そのままアリエルのそばまで戻ってくる。
――まさか、このようにお姿を拝する日が来ようとは……僭越ながら、お伺い申し上げます――あなた様は、いずこより時を越え、この世界へお越しになられたのでしょうか。
低く発せられた問いには、ある種の切実さが滲んでいた。長く押し殺してきた問いに、ようやく答えが得られるかもしれないという期待が、そこには込められていたのだろう。
アリエルはただ黙って巨人の視線を受け止めていた。彼自身も、自分が何者なのか、どこから来たのか、言葉にできるほど把握してはいなかった。




