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神々を継ぐもの  作者: パウロ・ハタナカ
第一章 異界 後編
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13〈冷気を纏う者の衣〉


 暗闇のなか、アリエルは冷たい扉に手をかけて腰を落とす。凍てついた空気が指先に絡みつくなか、ゆっくり力をかけると、扉は静かに押し開かれていった。


 途方もない年月の間、誰に知られることもなく閉鎖されていたにもかかわらず、重厚な扉は軋みひとつ立てることなく、つい先ほど閉じられたばかりのように滑らかに動いてみせた。その静けさが、かえって不気味だった。


 長い時の重みを感じさせる開口部から、冷たい闇がこちらを覗き込んでいるように思えた。その暗闇のなかに足を踏み入れると、空間全体が奇妙な緊張感に支配されていることに気がつく。


 光源として頭上に浮かべていた〈灯火(ともしび)〉が、ふわりと宙を滑り、室内へと進んでいく。光はすぐに闇に吸い込まれ、奥行きや天井の高さを測ることすら難しかった。淡い光が室内を撫でるように照らし出していくと、無数の棚が並んでいるのが見えた。


 黒みがかった木製の棚の多くには、埃がうっすらと堆積している。武器庫と同じく、そこにあるべきモノのほとんどが持ち去られていた。剣も弓も、影すら残されていない。壁にかけられた金具は空虚な輪郭を描き、かつてそこに並べられていた武具の記憶だけが、棚の隙間に残されるように空間に染みついていた。


 厳重に施錠されていた部屋だったので、何か貴重なものが残されていないかと淡い期待を抱いていたが、やはりこの遺跡には何も残されていないのかもしれない。


 そう思いながら、慎重に室内へと足を踏み入れる。〈灯火〉が奥へと進むにつれ、部屋の隅に無数の木箱が放置されているのが確認できた。埃にまみれ、蓋は半ば開いている。光が差し込む角度によって、蓋の縁に埋め込まれた金属板が鈍く反射するのが見えた。


 誰かが箱を開いて何かを取り出そうとしたのか、それとも何かをしまい込もうとしたのか――そんな痕跡が確認できた。その箱の周囲には、不自然な冷気が立ち込めていて、一部が凍り付いていた。


 アリエルは息を潜めるようにして箱へと近づく。空気が変わり、冷気の中に微かな鉄の臭いが混じる。血とも、錆びた武具ともつかない臭いは、箱の内側から微かに染み出していて、靴底に絡むように細い板状の霜が張っているのが見えた。


 重い蓋を両手で持ち上げ、静かに外していく。蓋は石のように冷たく、手袋を通して指先が凍り付いていくような感覚がした。手のひらを離すたび、手袋に霜のような薄い膜が残される。箱の底から立ちのぼる白い冷気は、ただの空気ではなく、どこか生き物の吐息を思わせた。


 箱の横に蓋を立てかけると、〈灯火〉が近づいてきて、青白い光で箱の中を満たしていく。すると、暗闇のなかに白い布が浮かび上がっていく。絹にも似た厚手の布地。その滑らかな布は光を受けて微かに煌めき、まるで月光を浴びているように輝く。


 警戒を怠らず、指先でそっと布に触れる。冷たさはなく、異常も見られない。慎重に持ち上げると、それは肩から身体を包み込む袖のない外套(マント)だったことが分かった。その大きさにもかかわらず、羽根のように軽く、重さを感じさせない。


 表面には螺旋を描くように伸びる大樹の刺繍が金糸で施されていて、光に反応するように、模様が微かに脈動しているのが見えた。光が揺らぐたび、木々の枝葉が呼吸するかのように形を変える。


 アリエルの呪素(じゅそ)に反応しているのかもしれない。外套は微かに呪力を帯び、冷気を纏い始める。足元の石材に霜が張り始めるのが見えたが、外套を手にしていたアリエル自身は、冷たさをまったく感じなかった。むしろ体温を逃がさないように、外套に包み込まれているような気がした。


 外套から広がる冷気が、うっすらと堆積していた塵を舞い上がらせる。〈灯火〉の光に照らされると、細かい粒子が煌めくように流れていくのが見えた。まるで、見えない水の底に沈んでいるような錯覚を抱かせる。


 これは、ただの外套ではない。何らかの効果が付与された装備の可能性が高い。アリエルは外套をじっと見つめていたが、やがて腰の革袋から護符の束を取り出し、〈鑑定の護符〉がないか探した。ノノが使う呪術のように遺物の本質を見抜く力はないが、その護符を使えば、ある程度の性質を知ることができた。


 しかし、やはり所持していなかったようだ。諦めようとしたとき、黄色みがかった粗紙が挟まっているのが目に留まった。砦を襲撃した者たちから、知らず知らずのうちに回収していた札だろうか。アリエルは首をかしげながら護符を手に取ると、そっと外套に押し当てて指先から呪素を流し込む。


 すると護符は淡い光を帯びながら静かに燃え尽き、先端からゆっくりと灰になっていくのが見えた。その灰は床に落ちることなく漂い、やがて大気中に溶け込むようにして霧散していく。


 つぎの瞬間、外套に関する情報が煙のように頭の中へと侵入してくる。言葉ではなく、ある種の感覚として情報が脳裏を撫で、記憶の奥に刻まれていく。


 どうやら、着用者の足音と気配を消す効果を持ち、ある程度の速度で接近してくる飛翔体――投石や矢の類から身を守る術が込められているようだ。驚くべき効果だったが、それらの力の源は、外套に封じ込められた特別な――制御できない力に由来するようだ。


 そのため、外套は常に冷気を纏い、周囲の温度を下げ続けてしまう。着用者の体温は保たれるが、霜の痕跡が残るため、隠密行動には不向きだ。


 おそらく、失敗作だったのだろう。足音と気配を消すという希少な効果を持ちながら、冷気によってその利点を打ち消してしまっている。この部屋に放置された理由も、そこにあるのかもしれない。


 かつての所有者が使い道を見出せずに手放したのか。あるいは、付与された力に耐えきれず、この場に残していったのかもしれない。


 外套から滲み出す冷気が、箱の内側に刻まれた古い文字をうっすらと浮かび上がらせる。そこに何が書かれているのかは分からないが、装備の劣化を防止する呪文が使われていたのかもしれない。


「冷気を纏う者の衣……か」

 アリエルは外套を見つめたまま、沈黙の中に立ち尽くす。


 吹雪の音は遠く、遺跡の奥に潜む過去だけが、静かに彼を見つめ返しているようだった。さらに箱の中を確認すると、同じような外套が数枚、丁寧に折りたたまれた状態で保管されているのが見えた。


 布地には傷ひとつなく、保存状態は驚くほど良好だった。まるで、つい昨日まで誰かが手入れしていたかのような整然さがあった。これが貴重な装備品であることは疑いようがない。アリエルは仲間たちと分け合うことを考えたが、残念ながらそれは不可能だった。


 外套は、この遺跡を築いた異種族の体格に合わせて仕立てられていた。人間の骨格とは異なる構造を前提としていて、肩幅も丈も過剰に大きく、人が身に着けるには大きすぎた。


 砦の武具師――石に近きもの〝クルフィン・ペドゥラァシ・ベェリ〟がいれば、〈伸縮自在〉の効果を付与して、着用者に合わせて調整することも可能だっただろうが、彼はいない。それでも、この場で朽ちさせるには惜しい遺物だった。


 アリエルは箱の中に整然と並ぶ外套に目を落とし、異種族への感謝の言葉を口にする。それから外套の入った木箱を、無造作に〈収納空間〉へと放り込む。箱は静かに虚空に吸い込まれ、彼の目の前から消えていった。


 外套が使い物にならないと分かった途端、最後の〈鑑定の護符〉を使ってしまったことを後悔した。蛮族から手に入れていた両刃の剣を鑑定していれば、もっと有用な情報が得られたのかもしれない。


「やれやれ」

 ため息をついたあと、気持ちを切り替えることにした。


 その後も遺物を求めて、そこに残された木箱を片端から開けていったが、結果は芳しくなかった。ほとんどの箱は空で、内部には埃と霜が積もり、かつて何かが収められていた痕跡だけが残されていた。


 物事は思い通りにはいかないようだ。


 諦めて部屋を出ると、空の武器庫を抜けて再び廊下へと足を踏み出す。廊下は深い闇のなかに沈み、どこかで風が侵入してきているのか、遠くで風が唸るような音が響いていた。外は吹雪いているのだろう。


 アリエルは周囲に警戒しながら、廊下の先へと進む。しばらくすると、別の部屋に行き当たる。要塞に常駐していた兵士たちのための食堂だろうか。おそろしく広い空間に、無数の長机が整然と並べられているのが見えた。


 いずれも重厚な木材で作られていて、一部は霜に覆われていたが、劣化は見られなかった。静まり返った食堂を歩いていると、椅子に腰かけている巨大な影が一瞬見え、アリエルは思わず動きを止める。


 すぐに〈灯火〉を使って確認するが、錯覚だったようだ。椅子には誰も座っておらず、ただ背もたれの霜が人影のように見えただけだった。


 そこに近づくと、机に食器が残されているのが見えた。銀食器と思われるが、表面は黒くくすみ、長い時間の経過を物語っていた。その皿の縁に沿って黒ずみが残っていて、何者かがここで最後の食事を取ったことを暗示しているようだった。


 その食器に雑じるように、奇妙な石板が置かれているのが確認できた。手のひらほどの大きさで、表面は滑らかに磨かれている。けれど、ただの石ではない。指先を近づけると、空気がわずかに震え、石の表面で呪素が波打つように感じられた。


 それは目に見えない膜のように石板の周囲を覆っていて、触れる者を拒むような――あるいは選別するような意思を感じさせた。


 どことなく、都市遺跡の〈資料庫〉で見た鉱石に似た雰囲気がある。便宜上〈記憶石〉と呼称していたその鉱石は、滅びた文明が過去の膨大な情報を記録するための媒体として利用していたものだ。


 アリエルは息を詰めたまま、石板へと手を伸ばす。指先が触れる寸前、身体の周囲にまとわりつく奇妙な感覚があった。先ほどの外套の冷気とも異なる、古代の石板が発する無言の拒絶。それは、言語でも感情でもない。ただ、存在そのものが発する力のように感じられた。


 空間が歪み、時間が揺らぐ。長く閉ざされていた食堂に、かつてのざわめきが戻ってくるような錯覚すら感じられた。石板が触媒となり、過去の光景が現在に滲み出しているのかもしれない。


 石板に触れた瞬間、すぐそばの椅子に黒い影が腰かけているのが見えた。それは食事をしているのか、銀食器の上で手を動かしていた。動作は緩慢で、儀式のように同じ動作が繰り返されている。影の輪郭は曖昧で、霧のように揺れていたが、確かにそこに存在していた。


 食事を続ける黒い影の周囲に、複数の影が立っていることに気がつく。いずれも大きな体躯を持ちながら、痩せ細った輪郭をしていた。


 異様に長い腕を地面につけ、動物のような姿勢で佇んでいる。その姿は、かつて異種族が奴隷として使役していた(おぞ)ましい生物の姿に似ているように感じられた。それは、ただ命令を待つ器のように、沈黙の中に存在していた。


 アリエルがその異様な存在に疑問を浮かべていると、ふいに食事を続けていた影が動きを止める。そして、ゆっくりと顔をこちらに向けた。顔の輪郭は闇に沈み込み、目の位置すら定かではない。


 けれど、確かに〝見られている〟と感じた。その視線は、過去から現在へと突き刺さるような重さを持っていた。



〈ヴェル・カイ=ダイン・へレグの外套〉

 冷気を纏う者の衣


 白い外套は絹にも似た滑らかな質感を持ち、羽根のように軽く、手に取っても重さを感じさせない。表面には、金糸で螺旋を描く大樹の刺繍が施され、光に反応するように微かに煌めく。風に吹かれる枝葉のように模様は形を変え、光に照らされるたびに、まるで外套そのものが呼吸しているかのように見えたという。


 外套の周囲には常に冷気が漂い、霜がうっすらと浮かんでいた。けれど、着用者の体温は不思議と保たれ、寒さを感じることはなかった。


 その衣には、かつて氷の女神を崇めていた種族――〈ヴェル・カイ〉と呼ばれた部族の祈りと怨念、そして血液が染みつき、恐るべき冷気を纏っていると伝えられていた。


 外套には三つの効果が宿っている。ひとつは、着用者の足音と気配を消す力。ふたつ目は、吹雪の中でも体温を維持する力。極寒の地に生きる彼らにとって、それは命を守るための術だった。そして三つ目は、接近してくる飛翔体から身を守る効果だった。


 これらの力は、失われた種族が信仰していた女神の祝福だと信じられていた。だが、この外套には副次的な効果もある。


 それらの力の源は、外套に使用された布――悍ましい生け贄の儀式で種族の血が染み込んだ糸にある。怨念を宿した外套は、常に冷気を発し、周囲の温度を下げ続けていた。


 霜の痕跡が残るため、隠密行動には不向きだった。足音と気配を消すという希少な効果を持ちながら、冷気によってその利点を打ち消してしまっている。その矛盾こそが、この外套が失敗作と呼ばれる所以なのかもしれない。


 かつて、美しき民〈ヴェル・カイ〉の外套をまとった戦士が、吹雪の中で敵の目を欺き、放たれた矢をかわしながら砦へと潜入したという逸話がある。


 しかし戦士の痕跡は霜として残り、冷気が壁に染みつき、やがて敵に発見されてしまう。それでも〈ヴェル・カイ〉に魅了された戦士は、決して外套を手放そうとしなかったという。いくつかの外套は、今もなお遺跡の奥深く、誰にも知られずに眠っていると伝えられている。

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