12
翌日も、アリエルは通りを徘徊する黒い影に注意を払いながら、水路を塞いでいた巨岩の撤去を進めていた。岩の表面は思いのほか脆かったが、内部は鋼鉄のように硬く、その不安定な状況のなかで〈浮晶石〉を支えにしながらの移動は骨の折れる作業だった。
陽が傾くころには、なんとか障害となっていた岩を取り除くことができたが、通りの先にも巨大な瓦礫や氷塊が横たわっていて、手元にあるわずかな〈浮晶石〉だけでは、到底すべてを片づけることはできなかった。
追加の鉱石を求めて塔の遺跡に赴く案が頭を過る。〈工房〉には大量の〈浮晶石〉が保管されていて、使われることもなく暗闇の中で放置されていた。けれど、前回の探索の際に遭遇した異形の姿は、今も鮮明に記憶にこびりついていた。
どこからともなく這い寄る形容しがたい異形。異常なほど痩せ細った身体に、暗い眼窩が覗く悍ましい顔──あの化け物が徘徊している限り、鉱石の回収は容易ではない。軽率に足を踏み入れれば、それ相応の代償を払うことになるだろう。
そこで、荒原に点在する数えきれないほどの遺跡の中から、鉱石を探すことにした。脅威が潜んでいるかもしれない遺跡に足を踏み入れ、その存在すら定かでないモノを闇雲に探すことに対して、以前は否定的だった。けれど、他に選択肢がないというのが、今の状況だった。
支城と思われる古い要塞跡──防衛のために築かれた施設なら、あの異形を制御、あるいは排除するための武器や遺物のひとつくらいは眠っているのではないか……そんな淡い期待にすがりついていたのも、まぎれもない事実だった。
翌朝、アリエルはさっそく都市遺跡の中心部へ向かい、〈転移門〉を制御するための施設に入っていった。そこに設置されていた〈石の円環〉に手を置き、ゆっくりと呪素を流し込んでいく。
テリーをはじめ、仲間たちは同行を申し出ていたが、最終的に今回もひとりで行くことに決めた。危険を伴う調査に仲間を巻き込みたくはなかったし、単独行動なら気配を殺し、足音を抑えながら探索することができる。万が一発見されたとしても、ひとりならどうとでも対処できる――それが主な理由だった。
トゥーラたちには引き続き、公衆浴場の整備と瓦礫の撤去を任せた。〈泉花〉の栽培試験は順調に進んでいて、他に急ぎの仕事がないという事情もあったが、心のどこかで仲間たちに安らぎの機会を与えたいという気持ちもあった。
氷と瓦礫に埋もれた陰鬱な都市で、たとえほんの一瞬だけだったとしても、普段の緊張感を解き、安らぎを得る時間のなかで過ごしてもらいたい。そう考えていたのかもしれない。
しかし、浴場の廃墟がある通りでは――理由は分からなかったが、黒い影が徘徊している姿が頻繁に見られた。霧のように不定形で、幽霊めいた存在。まだ直接的な害はないが、視線を外した隙に近づいてくる異様な存在は、不安を募らせるには充分だった。
そのため、作業を行う狩人たちには、つねに複数で行動するよう心掛けてもらっていた。さらに、浴槽の深みにも近づかないよう警告していた。浴槽の多くは、この遺跡を築いた異種族の体格に合わせた造りになっていて、いくつかの浴槽は驚くほど深くなっていた。そこで足を取られてしまえば、誰にも気づかれずに沈んでいくこともあり得る。
心配はつきないが、問題が起きればトゥーラが対処してくれるだろう。アリエルは白い息を吐き出すと、都市中心部に聳える〈転移門〉に視線を向けた。その周囲では、濃い瘴気が漂い、息を吸い込むと冷たく乾いた空気が肺を刺した。
空間の歪みを発生させていた〈転移門〉に一歩近づくたび、この都市から遠ざかり、古の世界の影に飲み込まれていくような奇妙な感覚に襲われた。それが錯覚にすぎないということは頭では理解していたが、何が起きても不思議ではないこの都市では、警戒を怠る気にはなれなかった。
とにかく、アリエルは背を伸ばし、ひとり暗がりの中へと歩み出した。そこに待つものが何であれ、この崩れかけた世界の底に手を伸ばし、必要なものを見つけるほかなかった。
気がつくと、〈転移門〉が設置された暗い石室に立っていた。天井は高く、暗闇のなかで苔のような黒緑の斑点が蠢いているように見える。空気は冷たく濁っていて、冷気が足元を這っていた。長い間、人の出入りがなかったことが分かる。
アリエルはその場から動かず、微かな気配を探るように暗闇に耳を澄ませていた。光源となる〈灯火〉は、まだ浮かべていない。暗視に優れた眼を使い、闇の輪郭に潜むものを探る。
淀んだ空気のなか、微かに鉄と血のような臭いが混じり合い、彼の深紅の眸だけが妖しげな微光を帯びて瞬いていた。
しばらくして異常がないと分かると、手のひらに小さな光球を浮かべ、淡い光で周囲を照らし出していく。
壁面には古い碑文や浮き彫りが残されていたが、やはり意図的に削られたのか、意味は判然としなかった。その閑散とした部屋を見渡しながら、かつてこの場所が果たしていた役割に思いを巡らせる。
荒原に点在する各遺跡へ、人と物資を送り出すためだけに造られた無機質な空間。人の気配を失った今、その機能だけが記憶の残滓のように残されていた。
〈神々の森〉で首長が治めていた広大な城郭都市にも、幌で覆われた荷車に人々を乗せて運ぶオオトカゲが行き交う〈鱗車駅〉という場所があった。
あの騒めきと臭気、トカゲたちの金具が擦り合う音が、遠い幻のように思い出される。この場所もまた、駅と呼ばれるような施設だったのかもしれない。ただし、人を運ぶのはオオトカゲではなく、黙して動かない〈転移門〉がその役を担っていた。
どこからともなく吹雪の唸りが聞こえてくると、アリエルは暗闇に耳を澄まし、慎重に移動を開始する。
光源となる〈灯火〉は最小限に抑えながらも、周囲の様子を調べていく。そもそもの目的が〈浮晶石〉の捜索だったので、〈灯火〉を利用して注意深く遺跡を探っていたが、敵の気配を感じればすぐに〈隠密〉を発動できるよう、体内を循環する呪素は常に準備していた。
やがて、行く手に重厚な扉があらわれる。黒ずんだ木材に、鈍く光る金属の補強が施されたその扉には、錆の侵食が一切なく、ただの鉄ではないことが一目で分かる。この場所も時間に置き去りにされたかのように、前回利用した時から変化した様子は見られなかった。やはりこの遺跡には、あの恐るべき化け物はいないのかもしれない。
アリエルは懐から白い小刀を取り出す。これまでも遺跡で鍵の役割を果たしてきたものだ。骨のように滑らかな柄を持ち、刀身には淡い刃紋が刻まれている。それを慎重に鍵穴にあてがい、静かに刃先を挿し込んだ。
扉は音を立てることなく開いた。わずかな隙間から吹き込む風が頬を撫で、冷気のなかに雪原の匂いを運んでくる。アリエルは腰を落としながら扉を開き、防壁を思わせる強固な構造の上に設けられた回廊へと出た。念のため、背後の扉は施錠しておく。
壁に挟まれた回廊では強風が身体を揺らし、針のように冷たい風が頬を打つ。白く染まる世界の中、壁面に並ぶ矢狭間のような細長い穴が、暗闇に浮かぶ無数の瞳のようにこちらを見つめていた。
アリエルは頭巾を目深にかぶると、意を決して歩き出す。足元は濡れていて、踏み出すたびに滑りそうになる。奇妙なことに、回廊には雪が堆積していなかった。雪が積もらない仕掛けがあるのかもしれないが、それが何かは見当もつかなかった。
矢狭間を横目に回廊の先へ進み、別の大扉の前に立つ。扉は施錠されていて、開く様子はなかった。防衛施設だと考えると、厳重に管理されていた理由にも納得がいく。その冷たい扉に手をかけると、どこからともなく人の声にも似た囁き声が聞こえてきた。けれど、周囲に人の気配はなかった。
気を取り直して扉を押し開くと、暗闇に包まれた通路が口を開けているのが見えた。光は届かず、ただ黒い空間が広がっている。
石造りの回廊は冷たく、足元では冷気そのものが薄い霧のように漂っていた。壁面に風化は見られず、浮き彫りが刻まれているのが確認できた。
豪奢な鎧で着飾った戦士たち、異形の獣に跨る有翼種、崇拝とも支配ともつかない儀式の場面──どの壁画も意図的に削られ、ひび割れていたが、なお威厳だけが生々しく残っていた。アリエルは、戦士たちの目が自分を追っているような錯覚を抱きながらも、心を落ち着かせることに集中した。
仰ぎ見る天井は異様なほど高く、吹き抜けのように闇のなかへ沈み込んでいて、正確な高さは分からない。足音は反響し、遥か先の廊下まで冷たく甲高い音を響き渡らせる。その冷たい廊下の先に進むと、扉が開いたままの部屋が見えてくる。
要塞の居住空間と思わしき部屋、警備の詰め所らしき空間──どこも無人で、舞い上がる埃だけが人の不在を告げていた。
開け放たれた扉から、別の部屋に足を踏み入れる。石造りの寝台が整然と並び、大きな水瓶が転がっている。寝台の長さは人間の倍近くあり、天井も不自然なほど高い。巨人を思わせる異種族の体格に合わせて造られていて、この要塞がいかに巨大で、異質な技術力によって築かれたかを、改めて感じさせられる。
さらに奥へ進むと、重厚な扉が半ば開け放たれた広い空間が見えてくる。武器庫だったのだろう。壁には武器を掛けていたと思われる木製の棚や金具が残されていた。それらの武器の多くはすでに持ち去られ、壁際に残るのは、どっしりとした木製の棚ばかり。
作業台や棚の上には大きな鏃や、柄の折れた槍らしき残骸が無造作に散らばり、朽ちた布で包まれた小箱もいくつか転がっている。この場所で何が起きたのかは分からないが、すべてが静寂のなかに沈んでいた。
扉の隙間に身体を押し込むようにして侵入する。内部は暗く、空気は重く冷たい。鉄と油が混じり合ったような刺激臭が鼻を刺し、長年閉ざされていたことを思わせた。
その最奥、闇の中にひときわ重厚な扉がひっそりと佇んでいた。鉄製の扉は黒光りし、錠前には見慣れない文字が刻まれている。言葉というより、何かの模様にも見える線刻を指先でなぞると、アリエルの呪素に反応したのか、微かに発光するのが見えた。
扉の周囲にも微かな呪力の残滓のようなものが漂い、冷気のように身体にまとわりつく。ただの倉庫ではないことは明らかだった。貴重な装備か、あるいは何かもっと忌まわしいものを保管する場所だったのかもしれない。
アリエルは懐から白い小刀を取り出す。息を整え、冷たい刃を錠前にあてがい、静かに挿し入れた。金属の境目に響く微かな手応えが、暗い空間の緊張をさらに深めていく。