10
しばらくすると、地底湖に浮かべていた〈浮晶石〉が、ひとつ、またひとつと深い光を帯びながら水面に浮かび上がるのが見えた。淡い紺碧の輝きは氷河の光を反射し、どこか幻想的な光を放っていた。
アリエルは地底湖に入らないよう注意しながら、慎重に鉱石を回収していく。〈浮晶石〉を手に取ると、その内側で青い炎にも似た光が微かに脈動しているのが見えた。
地底湖を離れる際には、いつもの手順で唯一の出入り口となっていた岩壁の亀裂を封鎖した。ここに迷い込む者がいれば、水底から立ち昇る瘴気に侵されるだけでなく、精神そのものに異常をきたすかもしれない。
都市の外縁部を抜け、ひび割れた通りを歩きながら中心部の広場に向かう。道中、建物の影から黒い影がじっとこちらの様子を窺っているような気配がしたが、無視するようにして、ただ目的地へ向かって歩いた。彼らが身にまとう冷気を肌に感じながらも、自らの仕事に集中することにした。
やがて巨大な〈転移門〉が見えてくる。古代の驚異的な技術の象徴ともいえるその門を横目に、アリエルは隣接する正四角錐の構造物へと近づく。
〈収納空間〉から、呪素で満たされた〈浮晶石〉を取り出していく。興味深いことに、呪素によって浮力を得た〈浮晶石〉だったが、勝手にどこかへ飛んでいくことも、空高く浮き上がることもなかった。
そっとその場で浮遊し続けながら、淡い紺碧の光を放ち続けていた。その光は単なる青ではなく、夜明け前の空のような、どこか深みのある色合いを帯びていた。
〈転移門〉を制御するための正四角錐の施設は、黒曜石に似た漆黒の外壁を持ち、半ば地中に埋もれた半地下構造の建造物だった。ひと目でただの石造ではないことが分かるが、〈浮晶石〉を近づけても、想定していたような反応は見られなかった。
アリエルは感覚を集中させ、目に呪素を集めるようにして観察する。すると、外壁の近くに浮かべた〈浮晶石〉から、薄い靄のようなものが構造物の外壁へと流れ込んでいくのが確認できた。
やはり〈転移門〉を制御する構造物は、周囲の呪素を集めるように機能していた――しかし、その反応はあまりに鈍く、ほとんど機能していないように見える。
アリエルは眉をひそめる。〈浮晶石〉が呪素を取り込む際、浮力を得るために呪力へと変換していることが影響しているのかもしれない。純粋な呪素でなければ、効率的に取り込めないのだろう。
計画は順調に進んでいたが、ここにきて暗礁に乗り上げた。他の手順や、別の媒介が必要なのかもしれない。
アリエルは、淡い輝きを放ちながら浮かぶ〈浮晶石〉を眺めながら、あれこれと考える。漆黒の外壁に映り込む影は、まるで他人の姿のように歪んでいた。
そこに、外套の頭巾を目深にかぶったトゥーラがやってくるのが見えた。彼女は両腕を交差させ、まるで自分自身を抱きしめるように肩を縮めていた。〈転移門〉の周囲には濃い瘴気が漂っていて、血液すら凍らせるような冷気を発生させていた。彼女の唇は青ざめ、吐き出す息は白く、指先は微かに震えていた。
なぜ無理をしてまでこんな場所まで来たのか訊ねると、トゥーラは淡い紺碧の光をまといながら浮かぶ〈浮晶石〉を興味深そうに見つめ、〈浄水施設〉で奇妙な仕掛けを見つけたのだという。そう口にした彼女の声は震えていたが、浮かび上がる鉱石に魅了されていて、寒さすら忘れているようだった。
その〈浮晶石〉の検証結果を訊かれると、アリエルは首を横に振る。トゥーラは小さく肩をすくめ、ほんのわずか口元を緩めて『そういうこともあるさ』と言った。その笑みには慰めの気持ちが含まれていたが、それと同時に、先住民特有の諦念の感情が〈共感〉の呪術を通して伝わってきた。
それは、継続的な喪失によって希望を失い、諦めにも似た感情を抱くことに慣れてしまった人々が持つ、ある種の失望にも似た気持ちだったのかもしれない。
いずれにせよ、この場に留まり続けるのは、彼女にとって良くないだろう。ふたりは巨大な〈転移門〉が鎮座する広場を離れ、石畳の道を抜けて〈浄水施設〉へ向かった。
都市の探索中に偶然見つけたその施設は、〈転移門〉の制御施設と同じような正四角錐の構造物で、地下に隠された空間に貯水池とも呼べるような広大な貯水槽が存在していた。その水槽に満たされた水は地下から汲み上げられたものだったが、毒素や瘴気はすでに浄化されていた。
水槽の壁面に使われている板状の石材が、瘴気を浄化する役割を担っていた。しかし同時に、それは周囲から呪素を取り込み、無力化する性質も帯びていて、アリエルにとっては危険な場所でもあった。
だからこそ、これまで〈泉花〉の栽培試験用に〈浄化水〉を手に入れるときだけに利用し、施設の詳細な調査は避けてきた。
トゥーラが発見した奇妙な仕掛けというのは、滑車と鎖を用いた簡素な装置で、それを操作することで施設内に張り巡らされた管や溝へ水を流し込むことができるようだった。
〈浄水施設〉に近づくと、足元の石畳に刻まれた細い溝へ向かって、淡く輝く〈浄化水〉が静かに流れ込んでいるのが見えた。
水は施設の壁面に設けられた無数の溝から湧き出し、まるで生き物のように脈動しながら、複雑に絡み合った水路網を通って石畳や壁面の溝へと流れ込んでいた。その仕組みは、首長が治めていた城郭都市〈影の淵〉で目にした上下水道の構造に似ていた。けれど、それを遥かに凌ぐ精緻さと、説明のつかない技術が用いられているようだった。
〈浄化水〉に含まれる呪素に反応しているのか、これまで地中に埋もれていた水路の輪郭が、淡い光を帯びて浮かび上がっていた。それらの溝の多くには、塔の遺跡でも目にした透過性のある石材が使われていた。光を通すその半透明の石材は、水路を覆うようにして外部の要因から保護していた。
石畳の隙間に埋め込まれていた小さな白い石も〈浄化水〉に反応しているのか、微かな光を放ちながら通りの視認性を高めていた。
トゥーラに名を呼ばれると、アリエルは施設のそばに立つ石柱まで歩いていった。そこで、奇妙な光景を目にすることになる。氷に包まれた石柱の上部に埋め込まれていた球状の石が、青白い光を放っていたのだ。
氷の奥で灯る燐光は、周囲の影を長く引き伸ばし、空気そのものを冷たい輝きで満たしていた。柱の下を通る水路が関係しているのは明らかだった。〈浄化水〉に含まれる微量の呪素に反応し、そこから呪力を得ることで石球が発光しているのだろう。
大通りに並ぶ他の石柱も、同じ構造を持っているのかもしれない。これまで廃墟の残骸としか思われていなかった石柱の多くが、実は都市を照らすための装置――古代の街灯だったのだと、今さらながら理解する。かつてこの都市が正常に機能していた頃、人々は静謐な青白い輝きの中を行き交っていたのだろう。
トゥーラの説明によれば、この石柱に組み込まれた光球のように、水路を流れる〈浄化水〉に反応する設備が、都市のあちこちに点在しているらしい。〈浄化水〉に含まれる呪素が影響していることは、もはや疑いようのない事実だった。
あの〈浄水施設〉は、ただ水を浄めるためだけの設備ではなく、都市全体に呪素を供給するための動脈でもあったのだ。
かつて〈神々の森〉のように、この世界の大気も呪素で満たされていた。しかし、いつ、どこで何が起きたのかは分からないが、現在の人々には想像すらできない天変地異が起こり、呪素は消滅してしまった。
それでも人々は力を求め、まるで最後の抵抗のように、地下へと手を伸ばしたのだろう。大気の代わりに地下水に含まれる穢れた呪素を集め、それを浄化し、都市全域に循環させる仕組みを築いた。
〈浄水施設〉は、滅びを目前にした種族が築いた巨大な〝生命維持装置〟のようにも思えた。その技術の緻密さと、驚異的な建築物の数々は、同時に畏怖を呼び覚ますものだった。そうして、あらためて自分たちは死者の街に迷い込んだ異人なのだと気づかされる。
トゥーラに案内されるようにして、アリエルは細い通りへと入っていった。途中、水路のいくつかが崩れ、岩や氷壁に塞がれているのが確認できた。古代の水路は寸断され、そこに流れ込むはずだった力の残滓だけが、冷たい霧となって立ち昇っていた。
やがて通りの先から、滝のように流れ落ちる水の轟音が聞こえてくる。そこには巨大な廃墟が横たわっていた。広大な敷地を占めるその構造物は、今や天井を失い、空に向かって伸びる支柱だけが、怪獣の肋骨のように並び立っていた。
崩れかけた壁面には、かつて滑らかな石材がはめ込まれていた痕跡が残されていたが、今では粗い石の骨組みがむき出しになり、氷の膜に覆われていた。その氷は鈍い光を反射し、壁全体に冷ややかな輝きを宿していた。
その廃墟の奥へ進むにつれて、空気は次第に湿り気を帯びていく。やがてふたりは、半ば崩落した柱廊を抜け、広大な空間に出ることになった。
どうやら、この場所は古代の公衆浴場だったようだ。アリエルは、これまで見たこともないほど広大な浴場を目にすることになった。
〈浄水施設〉の仕掛けが目覚めさせたのか、地下から温水が湧き出し、広々とした浴槽を満たしながら白い蒸気を立ち昇らせていた。湿った空気には、古い石と砂の匂いに混じって、どこか卵の腐ったような刺激臭が立ち込めていた。
浴場を囲む壁には、かつての装飾の名残が散在していた。ところどころ剥がれ落ちた壁には、色とりどりの磁器の欠片が散りばめられ、水棲生物の姿が描かれていた。長い尾を持つ見知らぬ魚、翼にも似た器官を持つ魚、そのそばに浮かぶ人影――どれも現実には存在しないような生き物たちが、今なお鮮やかに刻まれていた。
壁のくぼみには、かつて彫像が置かれていた台座がいくつも並んでいたが、今では空白だけが残されていた。崩れた丸天井の隙間からは柔らかな光が差し込み、光と影が蒸気に重なり廃墟の内部を神秘的に照らし出していた。
温水の表面は淡い光を受けて揺らめき、蒸気の中に立つふたりの輪郭をぼかしていく。アリエルは足を止め、浴槽に流れ込む水を眺めていた。すると、となりにトゥーラがやってくる。彼女の口元には、わずかな笑みが浮かんでいた。
その瞳は浴場の白い蒸気に濡れ、どこか柔らかな光を宿していた。
『寒いなか、いつも半裸で身体を拭いていただろ? アリエルなら、きっとこの場所が気に入ると思ったんだ』
声は冗談めかしていたが、〈共感〉の呪術を通して、彼女の気遣いが静かに伝わってきた。アリエルは小さく息を吸い、水面へと視線を落とす。
湧き立つ白い蒸気のなかで、彼の表情がわずかに解きほぐされていく。気がつくと、口元に微笑が浮かんでいた。それは、どこか遠い世界に忘れてきた柔らかな感情が、再び戻ってくるような笑みだった。
その表情を見て、今度はトゥーラが驚いてしまう。彼女は驚きと戸惑いが入り混じった視線でアリエルを見つめ、それから思い出したように笑ってみせた。




