06〈罪人〉
アリエルとトゥーラは、転がるようにして暗闇のなかに放り出された。冷たい床に手をつき、荒い呼吸を繰り返しながら背後を振り返る。〈転移門〉の内側に生じていた〝歪み〟はすでに閉じていて、あの悍ましい異形の影はどこにも見当たらなかった。
〈転移門〉に飛び込んだ直後、空間の歪みは閉じてしまったのだろう。ほんの一瞬の差で、怪物の追跡を断ち切れたようだ。
運が味方してくれたと考えたいところだったが、問題は――どこに転移したのか分からないことだった。咄嗟に操作盤に呪素を流し込んで〈転移門〉を動かしたのは、ほとんど賭けに近い行為で、転移先のことなんて考える余裕はなかった。
暗闇に耳を澄ませば、どこからか吹雪の唸りが聞こえてくる。少なくとも、大本となる巨大な〈転移門〉が設置されている都市遺跡の近くにいることは間違いない。
門を動かすために注ぎ込んだ呪素の量も多くなく、転移できる距離も限られている。塔の近辺に存在する遺跡のひとつ――そう考えるのが妥当だった。けれど、まだ安心することはできない。まずは周囲の安全確認が必要だった。
辺りには、時間そのものが凍りついたかのような沈黙が漂っていた。空気は重く、冷たい。息をするたびに肺の奥まで石の臭いが染み込んでくる。
半球形の天井は高く、半ば闇の中に沈んでいた。すぐ近くには白い石材で造られた柱が等間隔に並んでいて、その表面には螺旋を描く植物の装飾が微かに残されていた。風化によるひび割れも見られ、ところどころに霜が張り付いていた。
どことなく、〈神々の森〉で見た地下聖堂を思わせる場所だったが、信仰の場という雰囲気は感じられなかった。
壁には複数の彫像が立ち並んでいたが、いずれも頭部が削り落とされていて、首の断面は黒ずんだ影のなかに溶け込んでいた。異種族の神官や英雄を象ったものだったのだろうが、今ではその面影すらも失われている。
床には砕けた石片が無造作に散らばり、踏みしめるたびに乾いた音が響いた。それらの石に挟まれるようにして、色褪せた布の切れ端が確認できる。どこからか吹き込む風が、その布をわずかに持ち上げて震わせていた。
乾いた空気に混じる古びた布の臭いを嗅いでいると、物音ひとつしない地下墓地の奥底に迷い込んだような、不快な気分にさせられる。
けれど、その静寂は完全ではなかった。外から吹き込む風が石の裂け目を通り抜けるたび、細く長い音が響く。その音は、時に高く、時に低く、まるで建物全体が息をしているかのように聞こえた。
その奇妙な音に混じるようにして、石を擦るような重く鈍い響きが聞こえてきた。誰かが足を引きずりながら歩いているような音だった。しかし暗闇に目を凝らしても、崩れた柱と大小の瓦礫しか見えない。
アリエルは意識を集中させ、手のひらから小さな光球を浮かべた。〈灯火〉の淡い光が広がり、壁に刻まれた模様を浮かび上がらせる。それは彫像の影を歪め、まるで生きているかのように壁で揺らめき、すぐにまた沈んでいった。
となりに立っていたトゥーラの様子を確かめる。全速力で駆けたせいか、彼女の呼吸は荒いが、気持ちは落ち着いているようだった。あの化け物によって刻まれた恐怖は、まだ頭に残っているように見えたけど、少なくとも怪我はしていないようだ。
とにかく今は〈転移門〉の操作盤を見つけて、都市遺跡の野営地に戻るのが最善だろう。ここで再び異形に遭遇するような事態は、絶対に避けなければならない。
けれど、周囲を見回しても操作盤として機能する柱は見つからなかった。通常なら門のそばに設置されているはずだ。それが見つからないということは、この遺跡の構造そのものが、これまでの場所とは根本的に異なっているのかもしれない。
アリエルは警戒を解かず、〈灯火〉を先行させながら廊下へと踏み出した。闇を押し退ける淡い光は、分厚い石壁を不規則に照らし出していく。その壁に崩壊の兆しは見られず、今も堅牢な造りを保っていることが分かった。
トゥーラがやってくると、彼女を連れて廊下の先に向かう。彼女の足取りには緊張が見られたが、もはや怯えている様子は感じられなかった。ふたりは互いに言葉を交わさないまま、廊下を進んでいく。
やがて、行く手に重厚な扉があらわれる。黒ずんだ木材に金属の補強が施されていたが、錆による侵食は一切なく、それがただの鉄ではないことは一目瞭然だった。途方もない長い年月を耐え抜ける未知の金属が使われているのだろう。
アリエルは懐から白い小刀を取り出す。これまでも遺跡で鍵の役目を果たしてきたものだ。それを慎重に鍵穴にあてがうと、そっと刃先を挿し込む。
扉は音を立てることなく開いていく。どうやらその扉は、建物の外に繋がっているようだった。それも、防壁を思わせる構造の上に設けられた回廊だ。壁に挟まれた回廊に出ると、強風が身体を揺らし、つめたい雪が頬を打つ。白く染まる世界の中で、壁に矢狭間のような細長い穴が並んでいるのが見えた。
攻撃のさいに落ち着いて狙いを定められるように、その長方形の穴の周囲は素通しのガラスのようになっていて、外側の光景が透けて見えていた。おそらく、内側からだけ透けて見えるのだろう。
その不思議な石材を見ただけで、この場所が異種族の遺跡なのだと分かった。けれど、これまでに見てきた遺跡とは造りが異なっていた。
戦闘に備えて設計された砦、あるいは支城だ。中核となる本城――この場合は都市遺跡――が包囲攻撃されるのを防ぐため、都市の周囲に築かれた軍事拠点と考えるべきなのかもしれない。
敵対者は、まず支城を落とさなければ都市遺跡にたどり着くことはできない。無視して進軍すれば、背後から叩かれることになるからだ。
それはつまり、驚異的な技術を誇り、巨大な文化圏を築いた異種族にも、警戒すべき敵が存在していたということだ。
壁の隙間から身を乗り出すようにして周囲の様子を確認する。雪ばかりが目につくが、防壁の近くに深い窪みがいくつも形成されているのが見えた。それが戦いの痕跡だとすれば、地形を変えるほどの激しい攻防があったということになる。
薄暗い廊下に戻ると、両開きの扉を閉じて施錠する。そのさい、石造りの壁に反響する微かな音が、異様に重く響いた。
〈転移門〉を操作するための柱を探すことが目的だ。回廊の先にも扉は見えたが、門からは離れすぎている。操作盤があるなら、門の近くに設置されているはずだ。ふたりは通路の奥に見える部屋に足を進めることにした。
その途中、アリエルはとなりを歩いていたトゥーラに問いかける。あの異形の追跡者について、何か知っていることはないかと。彼女は先住民の血を引く部族の人間だ。遺跡に棲みつく怪異について、伝え聞いた話があるかもしれない。
しばしの沈黙のあと、トゥーラは口を開いた。彼女の声は寒さに震えていたが、そこには確信めいた感情も含まれていた。
『……荒野を彷徨う人間に似た猿の話を聞いたことがある。子どもの頃、祖母から聞かされた話だ。その奇妙な生き物は、ずっと昔に――曽祖父の時代になってからは、もう誰も目にしてなくて、絶滅したと思われていたんだ……』
彼女の語る伝承は、先住民たちの間で語り継がれてきた童話のようなものなのだという。直立歩行し、遠目には人間と見紛う生物が荒野を徘徊している。それが夜な夜な子どもたちを襲う――といった、どこにでもありそうな話だった。
けれど、それは確かに存在していたのだという。無知な旅人が人間だと誤解して近づき、襲われたこともあるらしい。それほど人間に似た姿をしていたが、人ではなかった。
部族の伝承によれば、それらはかつて偉大な都市を築いた者たちの〝奴隷〟として使役されていた生き物だったという。彼らと敵対した者たちの成れの果てのような存在であり、謀反人、あるいは罪人として、果てしなく続く労役を強いられた者たちだ。
トゥーラは、あの異形が石を抱えていた姿を見て、幼い頃に聞いた話が現実と重なったのだと言う。
『……私たちが見たのは、あの伝承に登場する奴隷だったのかもしれない。哀れな生き物は生きる術を知らず、主が滅びた後もなお、ただ命じられた仕事を続けている……そう考えれば、あの異形の姿にも説明がつく……』
アリエルは黙って彼女の話に耳を傾けていた。荒唐無稽な話のようでいて、確かに辻褄が合うようにも感じられた。
けれど、それは数百年――下手をすれば数千年も前に滅んだ文明の話だ。その途方もない時間を、生身の生物が生き延びられるとは思えなかった。自然の摂理からすれば、ありえないことだった。それでも、何らかの方法で生きながらえてきたとしか思えない存在が、遺跡を徘徊しているのも事実だ。
その思考は理に背いているようで、しかし同時に妙な説得力を持っていた。遺跡を築いた種族が消えた後も、命令だけが残され、果てのない労役を繰り返す存在――それは、死よりも重い呪いのように思えた。
冷たい風が廊下を這い、足元の闇を揺らす。アリエルは小さく息を吐き、視線を前方の闇に向けた。先住民の伝承が現実になっているのだとすれば、これからも想像を超えるような厄介な存在に遭遇することになる。
いずれにせよ、都市遺跡の拠点に戻る方法を見つけ出さなければならなかった。厄介な追跡者がいつあらわれるか分からない以上、この場所に留まるのは危険すぎる。
扉のない暗い部屋に足を踏み入れると、奥に〈転移門〉らしき構造が確認できた。けれど、それはふたつ目の門というわけではなかった。
分厚い壁に仕切られていたが、その一部が透過するように加工されていて、隣室に存在する門が見えているだけだった。この部屋は、〈転移門〉を遠隔操作するための制御室だったのかもしれない。
室内には腰の高さほどの柱が立っていて、頂部に台座が据えられているのが確認できた。アリエルは柱に近づくと、その台座に手をかざす。体内の呪素をゆっくりと注ぎ込むと、虚空に向かって光が放たれて、やがて立体的な像が投影される。
淡く輝く光の線は、都市遺跡を中心に広がる地図を描き出していた。予想は正しかった。やはりここは、塔の遺跡の近くにある拠点のひとつで、都市との転移路が結ばれていることが確認できた。
それは、都市遺跡に設置された〈転移門〉と繋がる呪素の回廊のようなもので、都市に向かって真っ直ぐ伸びる線が道のように明滅していた。
アリエルは安堵して思わず息をつく。しかし同時に、胸の奥では別の懸念を抱いていた。操作は単純に見えても、転移先を誤れば深淵に放り出される危険がある。しかも、この装置自体が数千年も前に造られたものだ。完全に機能する保証はない。
それでも、他に選択肢はなかった。彼は慎重に手を動かし、光の地図の中から都市遺跡を示す点を選び取る。光が淡く脈動し、空気が震える。直後、部屋全体に冷たい気配が満ち、隣室にある〈転移門〉の枠が、微かに揺らぎを帯びていくのが見えた。