05
その異様なモノが見えたのは、階下から聞こえてきた異様な音に反応して、アリエルが〈工房〉の出入り口に視線を向けたときだった。
それは、扉の隙間からこちらを覗き込んでいた。人間の顔の輪郭は保っていたが、皮膚は不自然に引きつり、目の位置がわずかにずれているように見えた。瞳は濁った黄土色で、まるで腐敗した水底から覗く魚のように、感情のない光を宿していた。
どこからともなく漂ってくる腐臭と、吐き気を催す悍ましい気配に、悪寒が背筋を駆け上がり、首筋に鳥肌が立つのが分かった。
アリエルは息を呑み、思わず後退る。奇妙な顔はすぐに扉の向こうへと引き込まれ、気配も霧のように掻き消えた。けれど、安心することはできなかった。
その異様な顔とは別に、階下から足音が近づいてくるのが聞こえたからだ。つめたい石段を踏みしめる音は、まるで関節がうまく噛み合っていない四肢動物が歩いているかのように不規則だったが、確実にこちらへ向かっていた。
アリエルは短く息を吐き、となりに立っていたトゥーラの腕を引いて工房の奥へと向かった。薄暗い部屋に入ると、ふたりは影の中に身を潜める。
〈灯火〉とのつながりを断つと、頭上に浮かんでいた光球がふっと消え、代わりに灯籠の下部に埋め込まれていた〈浮晶石〉だけが、淡い青の揺らぎを放ちながら薄闇を照らし出した。
その微かな光の中で、トゥーラの強張った横顔が浮かび上がる。彼女の呼吸は浅く、この状況に混乱し、怯えていることが分かった。彼女の呼吸に呼応するように、部屋全体が張り詰めた沈黙に包まれ、異様な足音だけが大きく響いていた。
やがて、工房の扉が音を立てながら乱暴に開かれる。そっと覗き込むと、扉の間から巨体が静かに侵入してくるのが見えた。
黒ずんだボロ布をまとったその姿は、まるで古墳地帯で見かける干からびた屍食鬼を思わせた。布の隙間から覗く肌は灰色がかった白鼠色に染まり、それが動くたびに乾いた皮膚がごつごつした骨に張りつくのが見えた。
見上げるほどの巨体にもかかわらず、その身体は異様なほど痩せ細っていて、どうやって自重を支えているのかも理解できないほどだった。
異形は常軌を逸した体躯をゆっくりと揺らしながら、まるで重力の概念を無視するかのように進んでくる。筋肉の動きは不自然で、関節の可動域も人間とは異なっているように見えた。
あれは、この遺跡を築いた異種族の生き残りなのだろうか。それとも、まったく別の何か――そんな思考が脳裏をよぎった瞬間、異形は眼球のない暗い眼窩をこちらに向けた。虚ろな窪みは、確かにこちらを見ているような気がした。
視線にも似た何かを、まっすぐ突きつけられている錯覚を抱かせ、アリエルの心臓がひときわ強く脈打った。見つかったのかもしれない。
けれど次の瞬間、異形は緩慢な足取りで工房の奥へと進み、作業台に手足をぶつけながら石箱の前で立ち止まった。その動きには目的があるようでいて、どこか夢遊病者のような曖昧さも感じられた。空気はさらに重くなり、ふたりは息を潜めたまま、異形の動向を見守るしかなかった。
その胸に抱えられていたのは、青く曇った鉱石だった。表面はくすんだ光沢を帯び、内部には霧が閉じ込められているかのように揺らぐのが見えた。
異形はそれを無造作に石箱の中へ放り込むと、骨のように細く長い指を箱の縁に這わせた。指先は乾いた音を立てながら、まるで何かを確かめるようにゆっくりと動く。
それだけで満足したのか、異形は身を翻し、手足の関節を鳴らしながら扉の方へ向かって歩き出す。だけど、物事は思い通りにはいかないようだ。出口の手前でその巨体がピタリと動きを止めるのが見えた。
まるで空気が凍りついたように、沈黙が空間を支配していく。やがて異形は、ゆっくりと両手を床につけ、四肢を地につけるように姿勢を低くした。その動きは、獲物を追う獣のそれに酷似していた。
背骨が不自然に盛り上がり、肩の関節が軋む音を立てる。鼻孔らしき窪みがわずかに震え、周囲の匂いを嗅ぎ分けるように空気を探る。その姿勢のまま、異形はじりじりとこちらへ近づいてくる。
アリエルは息を殺しながら、周囲に視線を巡らせた。背後の壁には出口らしいものはなく、残されたのは異形と対峙する道だけだった。時間は刻一刻と削られ、青白い光を帯びた〈浮晶石〉の揺らぎが、ふたりの影を壁に浮かび上がらせていた。
アリエルはすぐに決断し、呪素の気配を抑え込むようにして呪力を解き放った。静かに、けれど鋭く練り上げられた呪力が形を成し、〈隠密〉の術が発動する。
すると、ふたりの周囲に濃い影がまとわりつき、薄闇が布のように重なり合って輪郭を曖昧にしていく。呼吸の音すらも霞み、ふたりの存在そのものが闇に溶け落ちるように希薄になった。
〈赤の姉妹〉でもあるシェンメイほど幻惑の術は操れなかったが、これまで幾度も繰り返してきた訓練の成果は確かにあらわれていた。
ふたりは壁際の陰に身を寄せ、まるで影の一部になったかのように、その輪郭を闇のなかに沈めることができた。直後、異形が部屋のなかに侵入してきた。悍ましい巨体からは、大気を侵食するような重苦しい瘴気が放たれていた。
冷たい床を踏みしめるたび、ひたひたと湿気を帯びた足音が室内に響く。
眼球のない空洞は虚ろに揺れ、空虚なはずの窪みが奇妙な威圧感を放つ。鼻孔にも見える小さな穴は震え、呼吸するたびに胸部が膨れる様子が間近に見えた。その動きは、部屋全体の匂いを嗅ぎ分け、隠れた生命を探り当てようとしているかのようだった。
アリエルは肺に残る空気を吐き出すことなく呼吸を止め、呪素の流れが乱れないよう、必死に意識を集中させた。彼が操る〈隠密〉の術は完璧ではない。ただ気配を曖昧にするだけで、存在そのものを消し去ることはできない。
異形が近づくと、トゥーラの肩が小さく震えた。声にならない悲鳴が喉の奥にこもり、彼女は震える手で口元を押さえる。指先は蒼白に染まり、頬に爪を食い込ませるようにして声を押し殺した。
異形はふたりのすぐそばを通り過ぎた。腐敗した肉と湿った土の臭いが、吐き気を誘う濃度で漂ってくる。その臭気が鼻腔を刺すたびに、喉奥に込み上げるものを必死に堪えた。巨体の動きに合わせて空気が震え、そのわずかな音が耳元で響く。
涙で潤むトゥーラの瞳を見て、アリエルは彼女の手をそっと握り返す。その微かな温もりが、張り裂けそうな緊張の中で彼女を支えていた。
異形は部屋の中央で立ち止まると、首を傾けた。ゆっくりと首を左右に振るその動作は、人の模倣のようでいて、何かが欠落したまま再現された歪さを持ち合わせていた。
しばらくの間、空気を舐めるように匂いを嗅ぎ回ったあと、ようやく身を翻す。そして湿った足音と共に扉へと向かい、薄闇に溶け込むように遠ざかっていく。
重厚な扉が閉じられる音が聞こえると、張り詰めていた糸が切れるように、ふたりはようやく息を吐き出すことができた。そのまま〈隠密〉の術を解くと、薄闇が霧散し、ふたりは存在感を取り戻した。
異形の身体から放たれていた瘴気に当てられていたトゥーラは、ゆっくりと呼吸を整え、気持ちを落ち着かせる。その間、アリエルは静かに工房の内部を見回した。
異形の姿はすでになくなっていたが、あの悍ましい存在が残した痕跡はなお濃く漂っていた。床に残る擦れ跡、作業台から落下した鉱石、そして空気に染みついた腐臭。気配は消えているはずなのに、視線の端に黒い影がちらつくような錯覚に囚われる。
アリエルは深呼吸したあと、階段に続く扉に手をかけた。そして音を立てないように、ゆっくりと押し開ける。
階下から冷気が流れ込んできたが、異形の気配は感じられない。ふたりは互いに視線を交わしたあと、足音を消すように工房をあとにした。目指すのは階下にある〈転移門〉だ。なんの対策もなしに、異形が徘徊する遺跡に留まることはできなかった。
今は一体だけかもしれないが、他にも潜んでいる可能性はある。何か対抗策が見つかるまでは、この塔から離れるのが賢明だろう。
石造りの階段に足を踏み入れた瞬間、血が凍るような冷気が肌を刺した。再び頭上に浮かべた光球は、ふたりの影を足元で引き伸ばし、足音は底の見えない井戸に吸い込まれるように小さく響いた。
階段の半ばほどまで下りたときだった。不意に、背後から耳障りな音が聞こえた。硬い石を金属で引っ掻くような、乾いた鈍い音だった。ふたりは反射的に振り向く。
すると、異様なほど高い天井に異形が張り付いているのが見えた。四肢を不自然に広げ、壁と天井に吸いつくその姿は、まるで巨大な蜘蛛のようだった。
眼球のない眼窩が闇の奥で揺れ、静かにふたりを捉えている。つぎの瞬間、耳を裂くような悲鳴が階段を満たした。言い知れない恐怖を伴う、甲高く耐え難い音だ。それは鼓膜を震わせ、骨の髄にまで響き渡る。
そして異形が天井から落下するのが見えた。地面に突き立てた四肢が石段を砕き、骨が軋む鈍い音が空間を揺らす。痩せ細った背を獣のように丸め、口からは粘ついた涎が垂れていた。腐敗と血の混じったような臭気が、通路を満たしていく。
「走れ!」
アリエルが声を上げるより早く、ふたりは反射的に駆けだしていた。
異形は四肢を地面に突き立て、蜘蛛のように這い寄ってくる。その動きは、人間の骨格ではありえないものだった。手足を伸ばすたびに関節が逆に折れ曲がり、骨と肉が悲鳴をあげる軌跡を描きながら、異様な速度で追いすがってくる。
前方を走るトゥーラが一瞬よろめいた。恐怖で足がもつれたのだろう。アリエルは迷わずその身体を支え、転倒を防いだ。彼女の心臓は破裂しそうなほど脈打ち、肺は炎に焼かれるように苦しかった。けれど、立ち止まるという選択肢はなかった。
背後では異形の咆哮が石壁に共鳴し、空間そのものを震わせていた。音が近づくごとに、恐怖が背筋を這いあがってくる。
階段の終わりまで、あとわずかだった。けれど、すぐ背後から感じる気配は、首筋に爪を立てられるほどの距離しかなかった。
アリエルは振り向きざまに腕を振り抜いた。呪力の放出に伴う微かな振動が空気を裂き、不可視の衝撃波が一直線に異形へと叩きつけられる。〈風刃〉は異形の肉体を切り裂くことはできなかったが、力の塊として頭部を打ち据えた。
巨体は一瞬よろめき、制御を失った四肢が空を掻く。つぎの瞬間、異形は顔面から石段に倒れ込んだ。骨を打ちつける鈍い衝突音が響き、石の表面に血とも腐汁ともつかない体液が広がる。
その隙を逃さず、ふたりは通路へと駆け込んだ。アリエルは走りながら壁に手をつける。すると、彼の手のひらから放たれた呪素が冷気を収束させ、壁を軋ませるようにして氷の塊を形成していく。
瞬く間に形成された氷の〈障壁〉は、厚く、硬く、冷たい壁となって通路を塞いだ。通路の終わりが見えてくると、ふたりは息つく間もなく、階下へと続く階段を下りていく。けれど、階段の半ばまで下りたとき、背後から鈍い破砕音が響いた。氷の壁が砕かれ、その破片が床に飛び散る音だ。
アリエルは一瞬だけ振り返る。階段の入り口で暗い影が揺れていた。そして異形が壁を這うようにして、こちらに向かってくるのが見えた。けれど、もはや立ち止まる時間はなかった。
階段を下りきると、暗闇の中に石組みの門が佇んでいるのが見えた。異種族の技術によって築かれたその門は、半円形の石枠に囲まれ、操作盤として機能する柱が傍らに立っている。
アリエルは迷いなく柱に手をかざす。彼の呪素に反応し、台座の表面に刻まれた模様が淡く光を帯びていく。直後、門の内側に空間の歪みが生じ、揺らめく薄膜が出現した。
転移が可能な状態となったことを確認すると、アリエルはトゥーラの手を取ると、躊躇うことなくその歪みのなかに身を投じた。