28〈戦狼〉
深い闇のなかに沈み込む森のなかで、白銀の体毛を持つオオカミが光を浴びているかのごとくに鮮やかに輝いて見えた。その淡い燐光を帯びた白銀と、暗闇に沈んだ森の深さが印象的な対比をつくりだしている。
どこか幻想的で畏怖を抱く光景だが、アリエルは恐れることなく獣を見つめる。野牛ほどの肩高を持ち、人を背に乗せられるほどの巨体を持つオオカミは、古の盟約により守人と共に混沌の脅威から人々を守護する種族だった。
戦大神の眷属を祖に持つ種族としても知られ、今では廃れた風習になってしまったが、過去には守人と魂の契りを交わし、死の瞬間まで共に生きて戦う存在でもあった。
その美しい白銀の体毛を持つオオカミは、紅い眸で青年を見つめる。
枯れ枝が折れる音が聞こえると、アリエルはオオカミから視線を逸らし暗い森を睨んだ。しかしそこには特徴のない鬱蒼とした樹木が延々と連なっているだけで、接近してくる生物の姿は確認できない。不意に空を見上げると、雲の合間から月が姿を覗かせる。その青白い月は、樹木の枝や葉に覆い隠されていたが、それでもハッキリと存在を認識することができた。
暗黒の森に月光が射し込む。けれどそれは一瞬のことだ。月は叢雲に隠され、ふたたび深い闇が戻ってくる。林立する大樹の輪郭だけが、森を支配する闇の暗さと判別できる程度になっていた。
白銀を帯びたオオカミが青年を誘うように暗い森の奥に向かって駆け出したのは、彼が森の静寂に気を取られているときだった。
アリエルは雑草を踏みしだき、暗闇に浮かび上がる樹木の根に躓かないように注意しながらオオカミのあとを追った。暗い森を彷徨する旅人を導くとされる月光花に触れると、それは紺藍色の炎に包まれているような輝きを発する。月の光を失い、星の光も届かない暗黒地帯で、その月光花の光だけが青年の心に寄り添っているように感じられた。
しばらく歩くと、樹林の間に立つ女性の後ろ姿が見えた。淡い燐光を発する肌に衣類は身につけておらず、すらりとした美しい肢体は青白い残像を闇のなかに浮かび上がらせていた。白銀に輝く長髪は揺れる乳房の前で踊り、彼女の身体を覆い隠すが、うっすらと生えている陰毛や臀部が隠れることはなかった。
彼女は異性を魅了して虜にする紅い眸でアリエルのことをじっと見つめると、やわらかな乳房を押し付けるようにして身体を合わせ、硬くなった乳首で青年の胸を撫でる。
「どうしてもっと早く会いに来てくれなかったの?」と、彼女は青年の頬に触れる。
アリエルは肩をすくめると、毛皮のマントを外して彼女の肩にかける。
「守人の任務で〈奈落の底〉に行っていたんだ」
「嘘つき」と、彼女はアリエルを睨む。
「砦に戻ってきていたことは知ってたんだよ。あれからどれくらいの時が経ったのかも、ハッキリと分かってる。でもその間、あなたは一度も会いに来てくれなかった。ベレグの影が報せてくれなければ、今日だって会えたか分からない」
彼女の言葉にアリエルはうなずいて、それから思わず視線を逸らす。照月來凪との出会いから、妙に女性の身体を意識するようになってしまっていた青年は、目のやり場に困りながら返事をした。
「すまない、兄弟と喧嘩して地下牢に放り込まれていたんだ。だからすぐに会いにいけなかった」
「喧嘩って……もうバカな真似はしないって約束したでしょ」
「仲間のことを悪く言われたんだ。彼女たちの名誉のためにも、黙っているわけにはいかなかった」
「彼女たち?」女性は眉を寄せると、アリエルの首筋に鼻を近づける。「君から女のにおいがする」
彼女の感情に呼応するように、その身に纏っていた気配が大きくなったように感じられた。と、次の瞬間、彼女は青年の股の間に足を入れると、そのままさっと足を払い、彼を押し倒して腰に跨る。
「どういうことなのか説明してくれる?」
荒い息を吐く女性に困惑しながらも、アリエルは豹人の姉妹のこと、照月來凪との出会いや、龍の保護者であるクラウディアたちのことを話した。事情を説明するのに時間がかかったが、概要を省くことはできなかった。
彼女との間には〝森の神々によって祝福された魂のつながり〟があり、彼女がアリエルのことを裏切れないように、青年も彼女に切実でなければいけなかった。が、青年は目の前で揺れる大きな乳房や、彼女の身体のやわらかさに反応してしまい、抑えの利かない肉欲に駆られていることに気がついた。それは今まで経験したことのない感覚で、彼は股間が硬くなるのを感じていた。
それが彼女の陰部の割れ目に触れるか触れないかの距離にあり、奇妙な感覚を――頭がクラクラするような性感を与えていた。アリエルがその感覚から逃げるようにモゾモゾ腰を動かすと、異変に気づいた女性は彼の側から離れた。
青年はホッとしたように上半身を起こすと、毛皮のマントで身体を隠していた女性に視線を向ける。理由は分からなかったが、ずっと身近に感じていた彼女の表情や顔立ちが、いつもより綺麗になっているように感じられた。それが暗くて表情がよく見えない所為なのか、それとも欲望による錯覚なのかは分からなかったが、彼が必要以上に彼女を異性として意識していたのは明白だった。
「それで……」と、彼女は困ったように言う。「森の外に行く準備はできたのか?」
アリエルはうなずくと、聖地〈霞山〉で見つけた龍の幼生のことや、森を出るために計画している南部遠征のことも打ち明けた。もちろん、浮遊大陸で天龍と邂逅したことも話した。彼女に隠し事はできない。ふたりの魂は神々の儀式によって結びつけられていて、死すらも結びを解くことはできない。
「龍の子を森の外に連れてきてほしいのかな……」彼女はそう呟いたあと、アリエルを見つめる。「今度は私も一緒に行く、絶対に君の側から離れないから」
「ああ、分かってる」
アリエルが返事をしたときだった。どこか遠く、森の深いところからオオカミの遠吠えが聞こえた。
彼女は即座に反応して、人間離れした身のこなしで苔生した巨石に飛び乗る。
「家族が化け物と遭遇した」
アリエルは立ち上がると、彼女が地面に落としたマントを拾い上げる。
「混沌の領域からやってきた化け物か?」
彼女は唇に人差し指をあて、彼を黙らせると、遠くから聞こえる遠吠えに耳を澄ませた。
「妹が――ヴィルマが化け物の相手をしている」そこで彼女は口を閉じて、遠くから聞こえる声に集中する。「今までの奴らよりもずっと厄介な化け物みたい。守人の支援が必要」
「俺たちの準備はできてる」
毛皮のマントを羽織ったアリエルがそう言うと、彼女は巨石から飛び降りる。
「後ろを向いて」
アリエルに裸を見られても気にしないが、オオカミに姿を変えるときには、その様子を決して見せようとしなかった。
「わかったよ」
アリエルが彼女に背を見せるように立って、暗い森に視線を向けた瞬間、彼女の気配が大きく膨らんだように感じられた。そして呪素を帯びた彼女の遠吠えが森に木霊する。
『家族が化け物を追い立てる』と、彼女の声が頭のなかで響く。『すぐに守人と合流したい』
アリエルが振り返ると白銀のオオカミは鼻を近づけ、喉の奥で唸るような声を漏らす。
『乗って』
アリエルは彼女の首筋を撫でて、それから背中に飛び乗るようにして跨る。
「行こう」
『ん。しっかり掴まってて』
オオカミが暗い森を駆ける。それは危険な速度だったが、アリエルは少しも心配していなかった。夜の森はオオカミの領域だ。彼女を阻むことは誰にもできない。