02
〈転移門〉を操作する台座に〈石の円環〉を嵌め込むと、途方もない年月の中で廃墟同然となっていた施設が、徐々に息を吹き返していくのが分かった。
石造りの無機質な空間に沈殿していた空気が震え、灰の底で燻っていた火が蘇るように、施設はゆっくりと覚醒していく。アリエルが目の前の台座に視線を落とすと、そこに刻まれていた多種多様の模様が微かな呪素を帯びながら、淡い燐光を放つのが見えた。
視線を横に移すと、異種族の手形を模して刻まれた窪みが明滅しているのが目に入った。五指ではなく六本の指、手のひらの大きさも人間より大きい――この地を築いた種族の痕跡が、よりハッキリとした形で浮かび上がる。
逡巡することなくその窪みに手を重ね、手のひらに呪素を集中させていく。血液とともに体内を循環する呪素が指先に集まると、冷たくなっていた指が温かくなる感覚が伝わってきた。そして、これまで沈黙していた台座が呪素に応じるように青い光を放ち始めた。
間を置かず、目の前の空間に立体的な地図が浮かび上がる。青白い光の線が織りなすのは、〈資料庫〉で目にしていた都市遺跡の投影図に似ていた。しかし今回は、より広大な領域が表示されていた。
氷河の底で眠る都市を中心に、果てしない雪原、そしてその周囲に連なる山脈や河川が立体的に映し出され、まるで鳥の視線で荒原を俯瞰しているかのようだった。
その地図の上では、いくつかの光点が断続的に明滅しているのが確認できた。アリエルは荷物の中から地図を取り出す。それは、以前トゥーラの弟を助けた際に譲り受けた荒野の地図でもあった。
旅の途上で書き込んでいた記録と照合していく。光点の位置は、確かにこれまで通り過ぎた遺跡のいくつかと重なっていた。孤立した白い塔、半ば崩れた神殿の遺構など、旅を通じて実際に目にしてきた石造りの廃墟があった場所だと分かった。
アリエルは唇を引き結ぶ。彼の予想が正しければ、この光点こそ、転移可能な座標を示していた。つまり、この都市から荒原に点在する遺跡群に直接移動できるということだ。それが真実なら、過酷な旅や移動に必要な時間、物資の消耗も大幅に削減できる。旅の形そのものを変える力が、この装置には眠っていた。
光の地図から視線を外し、周囲を確認する。半地下構造の建物に設けられた箭眼のような細長い小窓から、広場の中央にある巨大な〈転移門〉を確認する。けれど、石造りの重厚な門は沈黙したままだった。周囲に漂う濃密な呪素も、悪意に満ちた瘴気にも変化は見られなかった。
思わず息を潜めてしまうような静寂の中で、アリエルは思考する。〈石の円環〉を嵌めたことで施設を目覚めさせ、地図を投影することはできた。けれど、肝心の〈転移門〉を動かすためには、まだ欠けている要素があるのだろう。
もう一度、台座に視線を戻す。操作盤としての役割を持つ石造りの滑らかな台座には、これまで見られなかった変化が確認できた。その些細な変化が、突破口になるかもしれない。
目を凝らすように注意深く観察していると、投影されていた地図の一角が、時折欠けるようにして断続的に明滅を繰り返しているのが見えた。それは、光源として使われる角灯を使用しているさいに見られた現象に酷似していた。
呪素の供給が枯渇すれば、〈呪術器〉は本来の機能を果たせず、例外なく不具合を起こす。もしかしたら、施設の機能を維持するだけの呪素が足りていないのかもしれない――そう直感すると、アリエルは気持ちを静め、呪素の流れを追跡するために集中する。
やがて白黒に染まった視界の中で、壁の内側に組まれた呪素の回路が網目のように広がっているのが見えた。その複雑な流れは、台座に嵌め込まれた〈石の円環〉へと収束し、そこから放射状に建物全体に広がっていた。
〈石の円環〉は呪素を循環させる核であり、まさに心臓そのものだった。血管に満ちる血液が身体を生かす力になるように、この環から発せられる呪素の脈動が、施設を動かしていた。まさに人体を模した完璧な構造だ。
その流れをさらに追いながら建物の外に出ると、外壁に利用されていた黒曜石めいた石材が目に入った。無機質なそれは、大気を吸い込むように淡い光の明滅を繰り返し、周囲の呪素を取り込むための装置として機能していることが分かった。
けれど〈転移門〉の周囲とは異なり、この場所では大気中に漂う呪素が薄かった。かつてこの都市を築いた種族が健在だったころは、大気は濃密な呪素で満たされていたのだろう。しかし現在では――原因は分からないが、その源が消え失せてしまっていた。施設の仕組みが完璧でも、基盤となる呪素が存在しなければ、機能するはずもない。
アリエルは再び室内に戻り、光を失いかけた〈石の円環〉に手を当てる。そして手のひらに意識を向けて、体内の呪素をゆっくりと流し込んでいく。
最初は慎重に、詰まった血管を解きほぐすように、わずかな量を送り込む。けれど反応は鈍く、ほとんど変化は感じられない。呪素の注ぎ込む量を増やすと、〈石の円環〉の表面が微かに脈打つように光を帯びていくのが見えた。確かに反応はある。
けれどそれは、まるで底の抜けた水瓶に水を注ぐかのような作業だった。流し込んだ端から痕跡もなく吸い込まれ、終わりが見えてこない。そして体内の呪素が根こそぎ奪われるような感覚に支配されていく。
身体中の筋肉が痺れるように重くなり、冷気が骨に沁み込んでいく。身体の芯を蝕むような悪寒に、膝がわずかに揺れた。ここで止めなければ、命すら危ういのかもしれない。変化が起きたのは、〈石の円環〉から手を離そうとしたときだった。
突如、〈石の円環〉が眩い光を発し、本来の〝光輪〟としての姿を取り戻すのが見えた。そして光輪を起点として施設全体に波のような光が走り、長らく沈黙していた構造物が一斉に反応を示すのが分かった。
奇妙な旋律が聞こえてきたのは、ちょうどそのときだった。それは耳を澄まさずとも聞こえてくるほどの音量でありながら、どこから響いてくるのか分からない音だった。
澄んだ管楽器のような高音が周囲に響きわたり、同時に地の底から這い上がってくるような低音が振動になって床を伝い、身体の内側を揺らした。それは音楽というより、何か呪文に近い響きを持っていた。
その旋律は途切れることなく続き、空間そのものを震わせるかのように支配していく。その音が途切れ、視線を小窓に向けると、外の景色に変化があらわれるのが見えた。石造りの広場の一角、氷に覆われていた石畳にひび割れが生じ、やがて地中から押し出されるようにして石造りの門が姿をあらわす。
それは古代の〈転移門〉の一端だった。広場の中央に聳える巨大な門に比べれば遥かに小ぶりだが、石材の組み方や建築様式は似ていて、門自体も人の背丈を超え、巨人と思われる異種族が利用できるだけの規模を備えていた。そしてそこから発せられる威圧感は、ただの石組みの構造物以上のものを感じさせた。
同時に、台座に投影されていた地図にも変化があらわれる。荒原に散らばる光点のひとつが赤色に転じ、規則的に明滅を繰り返すようになる。それは、先ほど姿をあらわした門の転移先を示しているのかもしれない。位置情報と呪術的な符号の照応――間違いない。あの門は〈転移門〉として機能しているのだ。
異種族の手形に自身の手のひらを重ねると、即座に応答があった。呪素に反応した〈石の円環〉が淡い光を放ち、次元が裂けるような甲高い音が響いた直後、門の内側に黒い裂け目が生じる。
得体の知れない力によって空間がねじれていき、周囲の光景が押し潰されるように歪んでいく。やがて門の内側に、不安定な闇が渦を巻き始める。確かに〝空間の歪み〟が発生し、〈転移門〉として動いていることが分かった。
けれど、まだそれだけでは不十分だった。実際に通行可能かどうかを確かめなければならない。
アリエルは安全のため〈転移門〉を閉じ、一旦、野営地へ戻ることにした。万一に備えて、門から離れている間は呪素の供給を止め、暴走や干渉を防いだ。
野営地に到着すると、テリーから実験用の野鼠を一匹だけ譲り受ける。しばらくして、再び門のある広場へ戻ると、鼠の小さな身体に蝋引きされた強靭な紐を結びつけ、その端をしっかりと握り締めた。問題が起きた時には、いつでも引き戻せるようにしておく。
手形に呪素を流し込んで〈転移門〉を再び開くと、鏡面のように歪んだ景色の向こうに鼠を放ち、紐を握る手に力を込める。小さな鼠は恐れることなく歪みに足を踏み入れ、そのまま姿を消した。
しばしの沈黙。紐を握る手にも変化はない。〈転移門〉の向こうで鼠が生きているのか、それとも存在を失ったのか、確証は持てなかった。
一分ほど経ったあと、慎重に紐を引き戻す。すると、雪にまみれた小さな鼠が足元に転がってくるのが見えた。すぐに拾い上げて状態を確かめると、体毛は雪に濡れていたものの、呼吸は規則的で体調に変調は見られない。実証実験は成功だ。〈転移門〉は完全に機能していた。
あとは実際に、自ら〈転移門〉を通過し、目的の場所に移動できるか確かめるだけだった。鼠を用いた実験によって、最低限の安全性は証明されている。これ以上、過剰な恐怖に囚われる必要はないはずだった。
けれど空間の歪みに足を踏み出す前に、門を通して自分が〝どこ〟に転移されるのか――操作盤を使って転移先を自在に選択できるか確かめなければいけない。門は開くだけでは不十分だ。目的の場所に正確に転移する――それこそが、この装置の本質だった。
アリエルは操作盤の前に立ち、鼠の餌として持参していた穀粒を与えながら、自身の手のひらを手形に重ねる。すると、地図に刻まれた光点が揺らめき、幾つもの転移先が浮かび上がる。意識を集中させ、心の中でひとつの地点を思い浮かべると、地図上の光点が消失し、目的の遺跡で明滅するようになった。
何度か転移先を変更していく過程で、ひとつの法則が見えてくる。都市遺跡からの距離が遠くなるほど、空間の歪みを発生させるのに必要な呪素の量が増大するのだ。
近隣の雪原や廃墟が点在する荒原なら、アリエルの体内に蓄えられた呪素だけでも問題なく〈転移門〉を動かせる。しかし、より遠方へ向かうにつれ、〈石の円環〉は震え、呪素の流れが途切れて不具合を起こすのが分かった。
たとえば――ルゥスガンドが治める港町近郊の廃墟までは、問題なく門を開くことができた。呪素の消耗は激しいものの、転移に必要な時間は充分に稼げる。
けれど、海を越えて別の大陸にある〈転移門〉を選択すると、〈石の円環〉は不自然な軋みを発し、やがて空間の歪みそのものが消失してしまう。どうやら呪素の循環に問題が生じているようだった。
そしてそれは、ひとつの決定的な意味を持っていた。このままでは〈神々の森〉への転移は、永遠に不可能だということだ。
呪素の流れを強引に引き出そうとすれば、門そのものが崩壊する危険すらある。どうにかして、外部から供給される呪素の量を増やさなければならないことは明白だった。安易に異界への転移を試みれば、転移者は空間の歪みに囚われ、存在そのものを失う可能性すらある。
アリエルはしばし〈転移門〉を眺める。門の内側では、未だ不安定な歪みが揺らめいていた。その黒い渦を見つめるほどに、〈神々の森〉への帰還が遠のいていくようでもあった。