01〈異世界〉後編
都市遺跡の深部で〈転移門〉が発見されたことで、ようやく本格的な調査を開始することができたが、門の周囲には濃密な瘴気が漂い、生者を拒む環境になっていた。
空気は鈍く淀み、濃い瘴気が絶え間なく漂っていた。呼吸するだけで胸の奥に針で突かれるような痛みが走り、身体は寒さに震え、血の巡りが重くなるような感覚に襲われた。
トゥーラをはじめとする先住民たちは、長くその場に留まることができなかった。肺が焼けるような苦しさに加え、冷気に晒された肌には鋭い爪で引き裂かれるような痛みが走った。ほんのわずか門に近づいただけで意識が霞み、立っていられず膝をつく者もいた。
途方もない長い年月の間〈転移門〉から滲み出ていた呪素に、地底から立ち昇る悪意に満ちた瘴気が混じり合い、人の身には到底耐えられない環境が形成されていたのだろう。大地そのものが毒を孕み、石畳の割れ目からは青黒い靄が絶え間なく立ち上っていた。
空気に混じる臭いは血と死を思わせ、ただそこに立っているだけで魂が蝕まれるような感覚を抱く。肉体が侵される以前に、精神の奥底に暗い声が植えつけられるようでもあった。そうして狩人たちの多くは無意識のうちに門から距離を取るようになり、二度とその場に近づこうとはしなかった。
結局、〈転移門〉の調査はアリエルひとりで進めることになった。トゥーラは探索部隊の一部を率いて、別の任務に回った。彼女は、テリーが進めていた花の栽培試験を手伝うことになった。
神秘的な青い花〈エーティリス〉は、狩人たちが地上から苦労して持ち帰ってきた土に移植されていた。そこに〈浄化水〉を注ぎ、地底湖周辺以外の場所――あるいは、地下の瘴気に満ちた空気の中で生かすことができるかどうか、実験が行われていた。
まだ花が枯れる兆候は見られなかったが、根が定着し、芽吹きを繰り返すかどうかは、長い時間を必要とした。その実験の成果を待つあいだ、テリーたちは時間を有効に使うため、栽培に適した場所を広げる作業に取りかかった。
幸いにも都市の石畳はあちこちで割れ、地表が剥き出しになっていた。彼らはその隙間を利用しながら、都市の外縁に試験地を徐々に広げていった。
その間、壮年の狩人に率いられた探索隊は、アリエルから託された都市の地図を頼りに調査を進めていた。しかし調査を進めるにつれて、安全に移動できる範囲が思いのほか狭まっていることに気づいた。
都市の至る所に崩壊の跡が残され、天井から落下した巨石や氷塊が多くの道を塞いでいた。地図を広げて進路を選ぶたびに、彼らは進めるはずの道がことごとく途絶えていることを知った。
さらに探索範囲が広がるにつれ、幽霊じみた黒い影の出現も頻繁に確認された。それは幽霊と呼ぶには不安定で、生物と呼ぶには不確かな存在だった。影は何もせず漂うだけで、直接的な被害は今のところ確認されていない。けれど、狩人たちはその気配に長く耐えることができなかった。
黒い影に近づくほどに精神が削られ、血の気が引いていくのを感じた。耳の奥には囁きにも似た奇妙な声が響き、記憶の底に沈めた恐怖が掘り起こされていく。探索者たちは皆、無意識のうちに足を止め、進むべき道を放棄していた。
狩人のひとりは見張りの最中、存在しない影に怯え、影の群れに囲まれる悪夢を何度も繰り返し見ることになった。最終的に、探索可能な場所は都市の半分にも満たない領域だと判明した。
それでも、探索隊によって調査され記録された地図は皆と共有された。それは貴重な成果であり、苦労の末に完成した地図でにあった。危険地帯には明確な印がつけられ、決して足を踏み入れないよう徹底された。
その地図を見るたび、かつて栄華を誇った都市の残骸を目にすることになった。そこには生者の侵入を許さない領域と、冷たい廃墟ばかりが広がっていた。
都市の調査が完了しようとしていたころ、門の調査を進めていたアリエルは、ひとり〈転移門〉の前に立ち、巨大な門に刻まれた浮き彫りや彫像の姿を手帳に写し取っていた。
人の手で刻まれたとは思えないほど精緻な浮き彫りは、螺旋を描く蔦のように絡み合い、ところどころに異種族の文字が確認できた。それは読解不能な符号の連なりでありながら、目にする者の思考に直接干渉し、理解できないまま恐怖や畏怖を植え付けてくるような――そんな奇妙な錯覚を抱かせた。
門の両脇に立つ複数の巨人の彫像は、石でありながら肉体の重みを感じさせるほどの存在感を放ち、ひとたび見上げるだけで胸の奥に圧迫感をもたらした。アリエルは何度も彫像を描き直し、浮き彫りの配置を確かめながら、〈転移門〉を動かすための手掛かりを探した。
異界につながる〝空間の歪み〟を発生させない限り、アリエルは〈神々の森〉に帰ることができない。周囲に漂う呪素は濃く、〈転移門〉を動かすのに充分な呪力があるように思えた。しかし、それでも門は沈黙したままだった。
空間の歪みを発生させる条件は揃っているはずなのに、門の内側からは呪力が感じられず、異界へとつながる歪みの兆しすら見られなかった。
〈神々の森〉へ帰還するには、〈転移門〉を通るほかに道はない。しかし、門は閉ざされたままだった。そこで、他の〈転移門〉に共通する仕組みがないか探すことにした。本来なら、門の近くに腰ほどの高さの石柱があり、その台座に鍵となる腕輪をかざすことで空間の歪みが生じるはずだった。
けれど門の周囲をぐるりと歩き回っても、それらしい柱は見当たらなかった。荒れ果てた地面には瓦礫が散乱し、崩落した建物の影が長く伸びているだけだった。
代わりに、半ば地中に埋もれるようにして存在する半地下構造の小さな建造物が目に入った。その建造物の周囲には細い溝が無数に刻まれていて、地面を伝って〈転移門〉の基部に向かって伸びていた。何か意味のある建造物なのは間違いないだろう。
地表からわずかに顔を覗かせる建造物は、忘れ去られた時代の残響のように静まり返りながらも、異様な威圧感を放っていた。
形状は〈浄水施設〉を思わせる正四角錐の建造物だった。頂点の高さは腰ほどしかないが、その存在感は周囲の廃墟とは明らかに異なる。黒曜石を思わせる漆黒の石材が外壁を覆い、氷河から降り注ぐ薄明かりを鈍く反射していた。
風化の痕跡はほとんど見られず、まるで時間そのものを拒んできたかのように、滑らかで冷たい質感を保っている。その壁面には、外を覗くための横に細長い隙間が設けられていた。そこからは、ちょうど真正面にある〈転移門〉の姿が見えるようになっていた。
その隙間の縁に刻まれた用途不明の文字は、まるで覗く者の精神を試すかのように見えた。読むことも触れることもできないその文字は、不安と好奇心を綯い交ぜにし、秘密を暴こうとする者の思考を掻き乱していく。
建造物の反対側に回り込むと、内部へと続く短い階段が確認できた。暗闇に足を踏み入れると、外観の不気味さとは対照的に、静謐で整然とした空間が広がっていた。
やはり異種族の建造物なのだろう、天井は異様に高く、黒曜石の床と壁は磨き上げられたように滑らかで、ひやりとする冷気が肌を撫でる。奇妙なことに音は吸い込まれ、ただ靴底が石に触れる感触だけが確かに残った。
四方の壁際には、操作盤を思わせる台座が据えられていた。その表面には何かを嵌め込むための窪みが設けられていて、正しいモノ――それが何かは見当もつかなかったが、所定の位置に嵌め込むことで応答する仕組みなのだと理解できた。
アリエルはじっと台座を見つめる。そして、ここが〈転移門〉を起動させるために設けられた施設なのだと確信した。
そのとき、ふと〈資料庫〉で目にしていた台座の光景が脳裏に甦る。そこでは、宝石のような球状の鉱石を嵌め込むことで、立体的な光の地図を投影することができた。あの時と同じように、この場所でも同様のことができるかもしれない。
けれど周囲を見回しても、操作盤を動かすための鉱石や装置は見当たらなかった。眉を寄せて台座を眺めていると、遺跡の鍵として機能する〝小刀〟の挿し込み口と思われる箇所を見つけた。アリエルは〈収納空間〉から白い小刀を取り出すと、迷いなく刃を挿し込んだ。
しかし、待ち望んだ反応は得られなかった。空間は静まり返ったままで、決定的な何かが欠けていることを告げているかのようだった。
アリエルは唇を固く結び、台座全体に意識を向けた。表面に刻まれた窪みをひとつひとつ観察していく。円環状の溝や、巨人の手のひらを思わせる深い凹み――おそらく、この都市遺跡を築いた異種族は、そこに自らの手を置き、呪力を注ぎ込むことで操作していたのだろう。
台座の表面は磨き上げられたように滑らかで、そこには人ならざる存在の痕跡が、今も静かに残っているように感じられた。
ひと通りの観察を終えると、アリエルは手帳を取り出し、簡素な写生を行う。精緻な線を引く手に乱れは感じられなかったが、意識の奥ではわずかな焦燥が彼を駆り立てていた。
描き写した図を見返しているうちに、彼の視線は自然と円環状の窪みに吸い寄せられる。何とはなしに手帳の頁をめくると、そこにはかつてラライアと共に旅した世界の記録が残されていた。
豪奢な鉄鎧を纏った青年の姿、禍々しい威容を放つ〈黒の門〉、そして瘴気の中で襲い掛かってきた異形の化け物――そのすべてが、あの旅の危うさを物語っていた。
視線を動かすと、頁の隅に円環状の物体が、何度も書き直されたように描かれているのが目にとまった。強い筆圧で描かれたその輪は、他の絵とは異なる緊張感を孕んでいた。
実際、アリエルがその絵を目にした瞬間、稲妻のように記憶が鮮明になる。〈黒の門〉を守るように立ち塞がっていた〈混沌の化け物〉――そして、その死闘のあとに残された光輪のことをハッキリと思い出す。
それは化け物の消失とともに、何の変哲もない石のような物体へと変わっていたが、得体の知れない力が感じられたので、アリエルは回収していた。
あの時は、何か価値がありそうな不気味な残留物にしか見えなかったが、今では目の前の窪みと重なって見える。実際、あの光輪は石へと変質した後も、ただの石とは思えない禍々しい力と気配を放っていた。
アリエルは深く息を吐き、意識を〈収納空間〉へと向ける。すると、虚空を裂くようにして見慣れない物体があらわれ、手のひらに収まった。記憶の中の〈石の円環〉がそこにあった。硬質な質感とともに、どこか冷たい脈動のような力が伝わってくる。
その瞬間、室内の空気がわずかに変容したのが分かった。目に見えない風が流れ込むように、操作盤の表面が燐光を帯びていく。黒曜石を思わせる石材が淡い光を放ち、暗い空間のなかで、瞬きのように明滅していた。
円環の出現に呼応するかのように、施設そのものが目を覚まそうとしているようだった。やはり、この〈石の円環〉こそが〈転移門〉を動かす鍵なのだ――そんな確信に近い直感が、胸の奥を満たしていた。
アリエルはじっと〈石の円環〉を見下ろし、静かに唾を飲み込む。嫌な予感も、邪悪な気配も感じられない。それでも、手のひらに収まる円環を見つめていると、胸の奥がざわついた。
嫌な緊張感のあと、アリエルは深く息を吸い込む。そして、吐き出す息の震えを押し殺しながら、円環を台座の窪みにそっと嵌め込んだ。石と石が触れ合う、乾いた音が空間に広がり――そして、沈黙が揺らぎ始めた。




