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神々を継ぐもの  作者: パウロ・ハタナカ
第二部・第一章 異界 前編
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 アリエルは柱の前に立ち尽くしたまま、広大な空間に立ち込める暗がりを見つめていた。そこでは、微かな光源に照らされた石棚の影が歪んで見えるだけで、やはり生命の気配は感じられなかった。


 それでも、沈黙に包まれた空間そのものに監視されているかのような、奇妙な感覚に襲われていた。


 彼は手前の棚へと近づく。そこに並ぶガラス箱の中には、光を溜め込んだような蒼い鉱石が収められていた。半透明の箱はただの保護容器のようにも見えたが、継ぎ目はなく、指先で探っても開口部らしきものは見つからない。


 表面を叩いても硬質な抵抗が返ってくるだけで、何の反応も得られなかった。棚に収められた数えきれないほどの鉱石を見つめながら、アリエルは思案する。淡い光を帯びた鉱石が整然と並ぶ光景は、まるで書庫に収められた貴重な書物を見ているようでもあった。


 アリエルは目を細め、瞳を意識して呪素(じゅそ)を集める。視線の先で空間が揺らいだかと思うと、徐々に色を失い、白黒に染まっていく。〈痕跡感知〉を発動しながら、注意深く周囲を見回す。すると棚の一角――他と見分けがつかないガラス箱のひとつから、赤紫の(もや)が微かに漏れていることに気づいた。


 ゆっくりと近づき、手を伸ばす。理由は分からなかったが、そのガラス箱は開いていた。隙間から覗く無色透明の鉱石は、光を持たない代わりに、内側から微かな呪素を滲ませていた。アリエルは息を潜め、念のため周囲に罠や仕掛けがないか探ったが、それらしきものは見当たらない。


 慎重に鉱石を取り上げ、指先にその冷たい質感を感じ取る。幸いなことに、心配していたようなことは起きなかった。


 すぐに石柱の前へ戻り、腰ほどの高さの台座を見下ろしながら、窪みに鉱石を嵌め込む。石が触れ合う乾いた感触が伝わるが、何も起きなかった。何かが間違っているのかもしれない。アリエルは眉をひそめ、宝石を思わせる鉱石を何度か所定の位置に設置し直したが、結果は同じだった。


〈神々の森〉で見た〈転移門〉の多くには、転移先を示す地図を投影するための柱が設置されていたので、この柱も同じように機能するものだと考えていた。しかし、目の前の柱は死んだように沈黙していた。


 すでに機能が失われてしまったのか、それとも思い違いだったのかもしれない。そう思いながら廃墟を離れようとしたとき、台座の側面に奇妙な縦穴があったことを思い出す。すぐに踵を返し、台座の近くでしゃがみ込んで縦穴を確認する。縦に伸びる細い溝は、ただの装飾ではなく、明らかに何かを挿し込むための形状をしていた。


 アリエルは立ち上がり、静まり返った空間を改めて見回す。そこで、ふと思い出したように〈収納空間〉から白い小刀を取り出した。


 ひとつの骨から削り出されたような滑らかな小刀は、仄暗い光を受けて冷たくも神秘的な輝きを放っていた。それは、荒原に散らばる遺跡の門を解く鍵としても機能していたので、もしかしたらこの場所でも役に立つかもしれない。


 アリエルはそっと息を吐き、心を静める。刃先を溝にあてがい、慎重に挿し込む。刃は抵抗なく滑り込み、ぴたりと吸い込まれるように収まった。


 直後、空気が震えた。身体の内側に伝わるような振動が足元から這い上がり、石壁全体が鈍く共鳴する。そうして壁の中を這うようにして、何かの仕掛けが動き出す気配が感じられた。振動はやがて規則的なものへと変わっていく。


 すると台座の表面に淡い光が浮かび上がり、壁や床の溝に向かって光が格子状に広がっていくのが見えた。


 遺跡が目を覚ました――そう感じたのは、刃が溝に収まった直後だった。台座に嵌め込まれた無色の鉱石が、ほのかに光を帯び始める。その鉱石から放たれた光は、空気の層を撫でるように揺らめきながら、やがて空間の隙間を縫うように光の層を編み込んでいく。


 やがて、目の前の空間に立体的な像が浮かび上がった。霧のように不明瞭だった輪郭は、徐々に明瞭になり、曖昧だった像が次第に意味のある形を持ち始めた。


 浮かび上がった立体的な像を前に、アリエルは息を呑んだ。そこに映し出されているものが何を示しているのか、すぐには理解できなかった。けれど、整然と並ぶ建物や規則正しく交差する通り、いくつもの広場や中庭を確認した瞬間、それが都市遺跡の地図だと気がついた。


 半球状の天井が特徴的な建物や中庭を囲む列柱は、彼が外で目にしていた光景であり、光の像の中にそのまま再現されていた。


 現在地を示す場所には、青色の点が静かに明滅していた。灯火のようなその輝きは、この広大な都市遺跡の中で、自分がいかに小さな存在なのかを突きつけてくるようだった。


 アリエルは手を伸ばし、光に触れるようにして腕を動かす。すると、指先の動きに応じて光の像は緩やかに回転し、視界の中に正四角錐の建造物が映し出された。その場所は、トゥーラたちが探索を行っている場所だった。やはり間違いない――これは都市全体を示す地図だ。


 ふと視線を巡らせると、整然と並ぶ石の棚が目に入った。無数の鉱石が収められた無機質な光景は、今では明確な意味を持っていた。そのひとつひとつが、貴重な記録の断片であることを告げている。


 そこに蓄えられた知識の総量を想像したとき、アリエルはこの都市に書物がほとんど残されていなかった理由を理解した。彼らは紙に記すのではなく、鉱石そのものを記録媒体としていたのだ。歴史、技術、儀式、あるいは彼ら自身の思想までもが――この小さな鉱石に刻み込まれているのだろう。


 都市を築いた種族が、なぜ滅びたのか。その理由が想像もできないほどに、彼らは偉大な種族だった。呪素(エーテル)に対する深い理解。壮麗な柱や建造物を築き上げた技術。そして、そこに遺された高度な装置の数々は、現代の水準をはるかに凌駕していた。


 もし、繁栄と叡智の果てに訪れたものが滅亡であるならば――その理由を知ることは、いずれ避けられない破滅に対処する手掛かりになるかもしれない。


 アリエルは再び光の地図に視線を戻し、慎重に光の像を操作する。街の中心部、特徴的な構造を持つ地点に、〈転移門〉らしき建造物が映し出された。彼は手帳を取り出すと、簡素ながら正確さを心がけて地図を写し取っていく。この場所に戻って来れば、いつでも地図を見返すことはできる。


 しかし、広大な都市を移動する手間を考えれば、地図を見るためだけに戻ってくるわけにはいかない。


 写生を終えると、台座に挿し込まれていた小刀を静かに抜き取った。途端に光の像は揺らめき、ひとつの夢がほどけるように消え去る。


 ふたたび光を失った空間は、淡い光源と沈黙のなかに沈み込んだ。遺跡を出るとき、彼は最後にもう一度、柱を振り返る。その古びた輪郭は、ただの廃墟の一部に戻っていた。凍えるような冷気のなか、彼は遺跡を後にする。


 しばらくして、崩れかけた街並みの向こうに正四角錐の建造物が見えてきた。氷河の裂け目から射し込む淡い光を受けて、黒曜石を思わせる壁面は鈍い紺碧の輝きを周囲に放っていた。途方もない年月が過ぎてもなお、その威容は失われていなかった。


 建物に近づいていくと、入り口から人影があらわれる。ちょうど探索を終えたトゥーラたちだった。どうやら無事に任務を終えたようだ。彼女の腕には水瓶が抱えられていて、その縁からは冷たい地下水の雫がわずかに零れていた。地下の貯水池から汲み上げたものなのだろう。


 その水には、微かな呪素が含まれていた。しかしそれは濁った瘴気ではなく、精錬されたかのように清らかで、肉体を蝕む毒性はほとんど失われていた。やはり地下にある古代の施設は、浄化装置として機能していたのだろう。


 彼女から重い水瓶を受け取って〈収納空間〉に放り込む。これであとは、残り少なくなった花の代わりを確保できれば、テリーの実験が進められるはずだ。


 そこで探索を手伝ってくれた狩人たちと別れ、アリエルはトゥーラを連れて、先ほどの遺跡にふたりだけで向かう。


 石の棚が整然と並ぶ空間に足を踏み入れ、再び小刀を台座に挿し込むと、鉱石が淡い光を放ちながら立体的な地図を宙へ映し出した。光で織りなす都市の全景に、トゥーラは息を詰め、視線を奪われる。それが何を意味しているのか、理解するまで時間を必要とした。


 時を超えてなお失われていない記録は、かつて栄えた種族の叡智を物語っているようだった。そこは、まさに〈資料庫〉と呼ぶにふさわしい場所だった。


 その輝きを眺めながら、トゥーラはひとつの決断を下す。この場所は、あまりにも貴重だ。欲望に支配された者の目に晒されれば、やがて蹂躙され、すべてが奪い去られるだろう。この場所もまた、誰の手にも届かぬようにしなければならない。


 遺跡を出ると、列柱に囲まれた中庭に侵入者を遠ざけるための目印を立てることにした。都市の片隅に、時折あらわれる黒い影――名も知れず、形も定かでない、幽霊のような存在。それが近くに出現すると分かれば、誰であれ恐怖に囚われ、足を遠ざけることになる。


 実際に黒い影が出現するわけではないが、この目印は、その存在を知らせるためのものだった。〝立ち入り禁止〟と注意したところで、逆に興味を持ってしまう者もいる。だからこそ、あえて簡素な目印に留める。作業を終えたあと、ふたりは野営地へと戻った。


 翌日、アリエルはひとりで地底湖へ向かった。湖畔に群生する花々を回収するためだ。岩壁の亀裂に身を滑り込ませ、封鎖のために積み上げていた岩をどけていく。しばらくすると、冷気に満ちた空間の奥で、地底湖の水面が淡い光を反射しているのが見えてきた。


 花を摘み取っている最中、足元に異物が転がっているのに気づく。刀身の半ばで折れた剣――捕食者と戦った際に折れていたテリーの剣だった。あの日の戦いを思い出しながら、アリエルは剣を拾い上げると、花が枯れていた場所に突き立てた。


 それは捕食者の墓標の代わりだった。ここに眠るのは、恐るべき獣であり、本能に従って生きた哀れな生物でもあった。


〈収納空間〉に意識を向けると、虚無からひと振りの剣があらわれた。装飾が施された豪奢な鞘に収められた両刃の剣だ。その鞘には、交差する十字の紋章が刻まれている。かつて南部遠征の果てにたどり着いた異世界で手に入れたものだった。


 この両刃の剣なら、テリーも扱えるだろう。腰に剣を差すと、冷たい金属の重みとともに、あの日の記憶が蘇る。


 アリエルは当時の行動を思い返し、略奪の際に見つけた酒樽が〈収納空間〉に残っていることを思い出した。いくつかは〈境界の砦〉に置いてきたが、まだ数樽は手元にあるようだ。都市の探索で疲れ切った仲間たちに酒を振る舞うのも、悪くないだろう。


 今の彼らには、わずかな慰めが必要なのかもしれない。採取した花の束を抱え、周囲に警戒しながら野営地へと戻ることにした。

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