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都市遺跡の廃墟を利用した仮設の実験場は、沈黙と緊張に包まれていた。地底湖の水を用いた試験は数日以上にわたって続けられていたが、その過程で、とくに異常な挙動を示していた一匹の鼠に新たな変化があらわれ始めていた。
その個体は、これまでも生命の在り方を無視するかのように異常な細胞分裂を繰り返し、筋繊維が断裂するほどに身体が肥大していた。皮膚の下では血管が脈打ち、湾曲しながら変形していく骨格は、もはや身体を支えきれないほどに歪んでいた。
瞳孔は異様に拡大し、動きには断続的な痙攣が伴い、その攻撃性はほとんど制御不能に近かった。檻の鉄格子に何度も身体を叩きつけるその異常な力は、観察する者たちに恐怖を植え付けるほどだった。
しかし、ある時点を境に、その変異は急激な老化へと転じた。肥大化していた筋肉は萎縮し、乾燥した皮膚はひび割れていき、ほとんどの体毛が抜け落ちた。眼球は白濁して視力を失い、わずかな刺激にも反応を示さなくなった。
呼吸も浅く不規則になり、心肺機能は低下し、酸素を取り込む力そのものが失われているのが見て取れるほどだった。歪な骨は細く脆くなり、肥大化していた身体の負荷に耐えきれなくなっていた。
関節の可動域も狭まり、ついには立ち上がることも、前肢を伸ばすことすらかなわず、檻の中で転がるばかりの存在へと変わった。やがて、自力での移動すらできなくなった。
異常な進化を繰り返した結果、まるで数十倍の速さで過ぎ去っていく時間を押し付けられたかのように、生命維持の限界を迎えようとしていた。
部族の伝承や記録を調べれば、過去にも地底湖の水を介して怪物へと変異したと思われる生物の存在を示す情報が見つかるかもしれない。しかし、その目撃例は極めて少なく、証言も断片的なものばかりだった。
その理由の一端が、この鼠の変化によって浮かび上がる。地底湖の水に含まれる微量の毒素は、特定の条件下で細胞を異常なまでに活性化させ、一時的に〝進化〟と呼べる現象を引き起こす。しかしその裏では、同じ力によって肉体の急速な崩壊が促されていた。
変異体の多くは長く生き延びることができなかった可能性があり、それが目撃例の少なさにつながっているのかもしれない。
あるいは、都市遺跡に満ちる〝呪素〟そのものが、変異体にとって不可欠な環境因子になっていたと考えられる。呪素は細胞修復や代謝の維持に不可欠な存在であり、遺跡を離れた時点でその供給が途絶え、自己治癒に必要な能力が失われたと推測される。
いずれにせよ、定期的に地底湖の水を摂取しなければ死に至ることが、経過観察によって明らかになった。それは、この荒廃した大地に暮らす生物たちにとって、逆説的な救いになっていた。怪物は長く生きられず、やがて衰弱して自然界から消え去るからだ。
しかし、それと同時に別の危険性も明らかになった。水に含まれる未知の物質――あるいは〝呪素〟と呼ばれる力が、生物の代謝や細胞修復に深く関与し、生命維持因子として働いていた。それによって生物は極限の環境に適応できたが、それは安定した進化ではなく、制御不能な変質にすぎなかった。
代謝と細胞修復に介入することで誕生するのは、制御不能で短命な怪物だった。テリーは実験を続けていたが、変異の仕組みも、地底湖の水に含まれる呪素の本質も、結局のところ未解明のままだった。
その作用を制御する術も見つからず、ただ水を摂取した生物がどのような結末を迎えるかを観察する日々が繰り返された。
結果として、地底湖の水は平和的な利用――病や傷の治療に使うことが困難だと判明し、むしろ制御不能な生物兵器を生み出すという危険な側面が浮き彫りとなった。
テリーは希望を失いかけていたが、その中で、一筋の光のような可能性が示された。地底湖の周囲にのみ群生する花々――夜闇の中で燐光を帯び、青い花弁を発光させる未知の植物の存在だ。
慎重に摘み取られた花弁と茎、そして根は、それぞれ別々に細かく粉砕され、抽出液として精製され試験が実施された。
この抽出液は変異した鼠に対して投与され、経過観察が行われることになった。その結果、これまで急速に衰弱していた個体に、わずかながら回復の兆しが見られた。細胞分裂の異常な加速は抑制され、代謝は再生の方向へと緩やかに傾き始めた。
それは、アリエルが所持する水薬や護符ほどの即効性や劇的な効果は確認されなかったが、細胞の再生速度がわずかに向上した。花の抽出液には、確かに治癒作用が認められたのだ。
しかし、その希望は同時に、新たな問題を突きつけることにもなった。未知の花は地底湖の周囲でしか確認されておらず、植木鉢や他の土壌に移植しても根付かず、やがて枯死してしまった。
その生存条件を支える要因が何であるかは、依然として不明だった。地底湖の水に含まれる成分なのか、大気に漂う呪素なのか、あるいは両者の相互作用なのか……いずれにせよ、医療資源として安定的に利用するには、その環境要因を正確に突き止め、再現する必要がある。しかし、現状ではそれは極めて困難な課題だった。
その問題を解決する糸口として浮上したのは、アリエルとトゥーラが都市を探索していた際に、偶然に発見していた正四角錐の建築物だった。その地下に隠された空間には、浄水施設を思わせる奇妙な貯水池が存在していた。
貯水池に満たされていた水は、地下から汲み上げられたと思われるもので、不純物は含まれていなかった。
アリエルは詳細について語ろうとはしなかったが、水槽の壁面に組み込まれた板状の石材は、単なる装飾ではなく、水を浄化する役割を果たしていると説明してくれた。もしそれが浄水施設としての機能を持つのであれば、地下水に含まれる毒素を適度に濾過し、未知の植物の栽培に適した代替水となる可能性がある。
この仮説は試料試験の新たな軸となり、浄水施設の水を用いた栽培実験の案が浮上した。ただし、現時点では施設の構造も、その機能も不明瞭であり、単なる廃墟に過ぎない可能性も残されているため綿密な調査が不可欠だった。
再び遺跡を訪れることになったアリエルだったが、前回以上に強い警戒心を抱いていた。正四角錐の建造物は、無数の遺跡が点在する都市の中でもひときわ異様な存在感を放ち、周囲の静寂を押し潰すように聳えていた。
彼は決して、その遺跡に近づこうとはしなかった。〈禁呪鉱〉の影響によって体内の呪素が損なわれていく感覚を、身をもって経験していたからだった。今回の調査はトゥーラたちに任せ、自身は別の探索に専念することにした。
アリエルは、〈禁呪鉱〉の効果を無力化できるような遺物が、近くの廃墟で見つかることを期待していた。この壮麗な都市を築いた異種族であれば、何らかの解決策を見出していた可能性があると考えたのだ。
〈禁呪鉱〉を用いながらも都市での生活を維持できたのだとすれば、彼らは必ず、その影響を制御するための道具や方法を有していたはずだ。実際に、彼らが奴隷を使って地下施設を建設していなかったのだとすれば、何らかの道具を用いて〈禁呪鉱〉の効果を無力化していた可能性がある。
〈神々の森〉では〈禁呪鉱〉に対して、ある程度の耐性を持つ種族も存在していたが、この世界では、呪素を操れない人間に建設を任せる方が理にかなっているように思えた。
しかしそれと同時に、都市を築いた異種族が人間と共存していた可能性も低いと考えられた。都市は異種族の体格に合わせて造られていて、扉や階段のひとつとして、小さなものは存在しなかった。
とにかく、トゥーラたちが正四角錐の建築物へと入っていくのを見届けたあと、アリエルはひとり廃墟の通りを歩いた。
石畳は霜に覆われ、微かな明かりを反射して冷たく輝いていた。両側の建物は半ば崩れ落ちていたが、壁面に刻まれた浮き彫りは微かに残り、かつての壮麗さを静かに物語っていた。
やがて視界の先にあらわれたのは、列柱に囲まれた閑散とした中庭だった。霜をかぶった円柱は等間隔に並び、頂部には長衣をまとった人型の石像が据えられていた。
奇妙なことに、すべての像は首から上が切断されていて、胴体だけが氷河に閉ざされた空を仰いで立ち尽くしていた。その無言の列は、訪れる者に不気味な圧迫感を与えていた。
近づいて観察すると、石像の断面は粗雑ではなく、意図的に削ぎ落とされたような痕跡を見せていた。まるで何者かが、この都市の支配者たちの存在を意図的に消し去ろうとしていたかのような印象を与える。
あるいは、何か宗教的儀式の一環だったのかもしれない。しかし確かな答えはなく、ただ冷たい微風が柱の間を抜けるたびに、低い笛のような音が響いた。
建造物の外壁は白く滑らかな石材で覆われていて、氷河の裂け目から射し込む光を浴びて、淡く青白く輝いていた。よく見れば、その光沢は天然石のものではなく、研磨と加工を幾度も重ねて得られた人工的な輝きだったことが分かる。
外壁に刻まれた浮き彫りも、意図的に削り取られていて、もともと何が描かれていたのかは判然としない。微かに残る線からは、人間にも巨人にも似つかない者たちが、天を仰ぐように並ぶ姿が読み取れる程度だった。
中庭の中央には、崩れかけた祭壇のような構造物があり、その基部には複雑な溝が広がっていた。かつて水が流れていた痕跡だろうか──石の表面には、水に磨かれた滑らかな痕が残されていた。
その祭壇の残骸に近づいたとき、アリエルは冷気とは異なる奇妙な感覚を抱いた。湿り気を帯びた空気が足元から微かに吹き上がっていて、それは氷のように冷たく、どこか瘴気に似たざらつきを含んでいた。
アリエルは目を細めるようにして、慎重に溝へと視線を落とした。そこには黒ずんだ堆積物が沈殿し、ところどころに青白い鉱物の結晶が煌めいていた。
それは〈禁呪鉱〉の欠片にも似ていたが、より脆く、崩れやすそうな質感をしていた。早々に触れるのは諦め、周囲に視線を移す。すると、開放されたままの木製の大扉が目に入った。
時間の重みをそのまま受け止めていたかのように、扉の表面には深く刻まれた風化の痕が走り、かつての装飾はほとんど判別できないほどに擦り減っていた。その扉の向こうには、沈黙に包まれた空間が広がっていた。
幽霊にも似た黒い影に警戒しながら内部へと足を踏み入れると、空気は異質なものに変わった。乾いた石と、微かに漂う鉄錆のような臭気が鼻腔を刺激する。
半球形の天井は高く、穹窿に向かって影が長く伸びていた。光源は不明だったが、空間全体が青白い淡い光に満たされていて、影は薄く、輪郭は曖昧だった。
その中央には、腰ほどの高さの柱が立っていた。装飾はなく、滑らかな石材で構成されていた。周囲の空間とは明らかに異なる存在感を放っていて、その柱を囲むように、無数の石棚が規則的に並んでいるのが見えた。
棚は壁面に向かって並列に配置され、まるで見えない秩序に従っているかのように、寸分の狂いもなく並んでいた。その配置には、どこか古代の文書庫や砦の書架を思わせる静謐さを湛えていた。
それぞれの棚には、驚くほど透明度の高いガラスの箱が収められていて、箱の内部には宝石を思わせる鉱石がひとつずつ収まっていた。
その鉱石の多くは同様の形に加工されていたが、緋色、青藍、琥珀、無色透明など、見る角度によって微妙に色調が変化するものもあった。光を受けると、内部に封じられた何かが微かに脈動しているようにも見えた。
それが何を意味するのかは分からなかった。ただ、無造作に置かれているわけではないことだけは確かだった。
柱に近づくと、その上部の台座に浅い窪みがあることに気づいた。それは鉱石の形状に似た凹みであり、そこに収めることを前提として設計されたかのようだった。台座の側面には、微かに擦れた跡が残っていて、何かを挿し込むための縦穴があることが分かった。
周囲は静まり返っていた。外界の音は一切届かず、ただ自らの呼吸と心拍だけが、その沈黙にわずかな揺らぎを与えているようだった。この場所が何のために存在するのかは想像もつかなかったが、それを確かめる必要があるように思えた。




