66〈伝承・エーテル〉
都市遺跡の探索は、日に日に過酷さを増していた。冷気に晒された石の街は沈黙を保ちながらも、絶えず誰かに監視されているような感覚を与えていた。
その重苦しい静寂のなか、アリエルはトゥーラを連れて地底湖に向かうことを決めた。危険だと口で説明するよりも、実際にその場に立たせ、あの場所に漂う邪悪な気配を肌で感じさせる方が確実だと考えたのだ。その調査にはテリーも加わった。彼は好奇心を隠そうとせず、むしろ進んで同行を申し出た。
信頼の置ける壮年の狩人に野営地の管理を任せると、三人は都市の外縁部へと歩を進めた。そこはかつて、恐るべき捕食者が棲み処としていた場所であり、瓦礫が散乱する広場には黒ずんだ骨や肉片が積み重なっていた。
捕食者の獲物となった生物たちの死骸が、辛うじて形を留めている。腐敗すら許されない極寒のなか、死骸は凍りつき、凍土に貼りついたまま無言の層を成していた。
三人は死骸を横目に見ながら、岩壁に走る亀裂へと近づく。裂け目の奥からは、冷気を帯びた風が絶え間なく吹きつけていた。それは一般的な空気の流れではなく、呪素を含んだ重苦しい風であり、テリーとトゥーラは言い知れない不快感に顔をしかめた。
そうして三人は言葉を交わすことなく、岩壁の隙間を縫うように暗闇の奥へと進んでいく。やがて道は開け、視界は一気に広がった。目の前には巨大な空洞があらわれ、その天井は果てしなく高く、全面が亀裂の走る氷河に覆われていた。
氷の層が地上の光を反射し、天井一面が淡い紺碧に輝いている。そこから滴り落ちる雫が岩肌を伝い、音もなく凍りついていく。
その中心に地底湖が横たわっていた。水面は静まり返り、波ひとつ立たない。あまりに静謐で、時間すらこの場所では止まってしまったかのように思える。〝時の眠る園〟という名にふさわしい場所だったのかもしれないが、周辺一帯に漂う背筋の凍るような気配は、陰鬱で恐ろしい印象を与えていた。
地底湖の周囲には、見慣れない花々が咲き乱れている。薄い花弁を幾重にも重ねたような、淡い青色を帯びた花々だ。それは、この極寒の地において明らかに異質な存在だった。
水底からも、淡い燐光が明滅するように浮かび上がり、水全体が呼吸するかのように揺らめいているのが見える。その光が岩壁に反射し、空洞全体を淡い輝きで満たしていく。
『……まさか、〈エーテルの泉〉は実在していたのか』
トゥーラはそうつぶやくと、驚愕の表情を浮かべる。
しかし足を進めるにつれて、その幻想は容赦なく打ち砕かれていった。地底湖の手前には、瘴気を帯びた捕食者の骨が転がっていた。太く歪な骨からは冷気とは異なる、ネットリとした嫌な気配が立ち昇り、皮膚の内側にまで染み込むような嫌悪感をもたらす。
地底湖のそばに立ったトゥーラの呼吸は乱れ、額には薄く汗が滲んでいた。理屈ではなく、彼女の本能が拒絶していた。地底湖の底に何か得体の知れないモノが潜んでいる――その認識だけで、身体の奥底から恐怖がせり上がり、足を進めることを拒ませる。
彼女は震える息を吐き出すように溜息をつくと、耐え切れずに地底湖のそばから離れた。その足取りは弱々しく、視線は水面から必死に逸らされている。やがて彼女は、周囲に咲く花々を調べていたテリーのもとに向かった。
テリーは花の茎にそっと触れたあと、花弁を指先で静かに広げる。その眼差しは純粋な興味に満ちていて、寒冷地帯で咲くはずのない花々の存在に釘付けになっていた。
薄い青色を帯びた花は、すべて同じ種類に見えた。その数えきれないほどの花々が、まるで地底湖の水に命を与えられているかのように、淡い燐光に反応するように揺れている。
アリエルも黙ったまま、ふたりの姿を静かに眺めていた。彼自身もまた、地底湖の底に潜む存在の気配を感じ取っていた。燐光の揺らぎはあまりに規則的で、水底で〝それ〟が呼吸しているように思えるほどだった。
それが目覚めているのか、あるいは眠り続けているのかは分からない。それでも確かなことがあるとすれば、それはこの地底湖が――決して人間が足を踏み入れるべき場所ではないということだった。
そこでふと思い出したように、アリエルは〈エーテルの泉〉についての問いを口にした。
これまで断片的に聞かされてきた部族の伝承は、頭の片隅に残ってはいたが、その実態を掴むにはあまりに曖昧だった。
彼が知りたかったのは、泉の名に宿る抽象的な物語ではなく、〝エーテル〟そのものがどのような存在なのか、といった具体的な話だった。
その問いに答えたのは、トゥーラだった。青い花を見つめる彼女の横顔は、地底湖の燐光を受けて淡い青に染められていた。彼女は静かに息を整えたあと、幼いころに聞かされた物語を思い出すように、ゆっくりと語り始めた。
かつて、エーテルは世界の隅々に満ちていたという。風の流れに混じり、草木の成長を促し、雨雲を生み、大地を肥沃にし、獣や人に力を与えた。目に見えない水脈のように、すべての営みを裏側から支えていた。それは、生命と環境の均衡をもたらす、自然の力そのものだった。
彼女は、遠い祖先から伝え聞いた物語を紡いでいく。
エーテルを自在に操った文明が、確かに存在していたのだと。火を灯さずとも室内に光を生み、巨大な舟を空に浮かべて天空を渡り、石造りの都市は夜の帳に沈むことなく、昼のごとく煌々と輝いていたという。大地に縛られない生活があり、闇は恐怖ではなく、安らぎを与えるものだった。
アリエルはその情景を頭の中に思い描こうとしたが、目の前の凍てついた廃墟と彼女の語る繁栄は、あまりにもかけ離れていた。
トゥーラは続ける。人にもまた、エーテルは作用していたのだと。奇跡や魔術と呼ばれるモノも、その流れの中にあった。古代の人々は、エーテルを宿す鉱石を見出し、それを器として超常の力を引き出すことができた。
しかし一部の人々は鉱石を必要とせず、大気に漂うエーテルを自在に操ることができたという。そうした偉大な種族の多くは畏れられると同時に、文明の礎を担った。
だが、その文明も忽然と姿を消すことになった。残された伝承の多くは口伝に過ぎず、荒原に遺された墓所のような廃墟は何も語らず、理由は今も闇に覆われている。
それでも、多くの部族は今でも信じている。世界からエーテルが失われたことこそが、滅びを招いたのだと。特別な泉から湧き出す水が〝エーテルの泉〟と呼ばれるのは、そこに原始の力が宿っているとされているからだった。
『その水を口にすれば、どんな傷や病も癒え、老いは遠のく……』
彼女はそう言って、わずかに目を伏せた。
かつての人々が百年、二百年と生き永らえたのも、エーテルの恵みを受けていたからだと信じられていた。しかし、伝承は今や、確かな現実感を伴って目の前に姿をあらわしていた。
残念なことがあるとすれば、それは地底湖から漂ってくるのが邪悪な気配を宿した瘴気であり、祝福というよりも呪詛に近かったということだ。
アリエルはため息をつくように無言で地底湖を見つめた。青白い燐光は脈動するように揺らぎ、呪素が放つ微かな振動と重なって感じられた。彼が日々使い慣れていた呪術に必要な要素――その根源と、トゥーラの語るエーテルとは、呼び名こそ違うが本質的には同じモノなのかもしれない。
思い返せば、アリエルが呪術を使ってもトゥーラたちは過剰な反応を示さなかった。恐怖や畏敬の念こそ抱いていたが、未知を目の当たりにしたときの異常な狼狽はなかった。それはきっと、彼女たちが古の文明に関する知識や伝承を受け継ぎ、かつて存在した力を信じていたからなのかもしれない。
いずれにせよ、この場に長居することはできなかった。冷たい空気に満ちた地底湖は、絶えず背筋の凍るような気配を放ち、ただそこにいるだけで神経を削られていくようだった。水底に潜む〝何か〟に対する不安のせいなのかもしれない。
地底湖そのものを調べる機会は、いずれ訪れるだろう。けれど、今はまだ深入りするべきではなかった。
アリエルは、咲き誇る花々の周囲を歩きながら、散乱していた捕食者の骨を拾い集めていく。すでに乾ききった骨の多くには、わずかな肉片が付着していて、そこから微かな瘴気が立ち昇っているのが感じられた。それらの骨を麻袋に詰めたあと、〈収納空間〉へと放り込む。
一方、トゥーラは地底湖の周囲に咲く青い花をいくつか摘んでいた。地中から引き抜かれてもなお、花弁は燐光を放ちながら仄かな光を帯びていた。それは明らかに不自然だったが、彼女はその花を丁寧に布で包んでいく。部族の薬師に調べさせるつもりなのだろう。
最後に、テリーだけが地底湖のそばにひとり残っていた。彼は長い沈黙のあと、かつて〈治療〉の効果を持つ薬液で満たされていた瓶を手に取る。そして空になった瓶をしばらく見つめたあと、アリエルとトゥーラの許可を得て、手を濡らさないよう慎重に瓶の口を湖面に浸し、透明な液体でゆっくりと満たしていった。
水は青白い光を反射しながら、瓶の中で不気味に淡く輝いた。もちろん、それは摂取するためのものではない。水の危険性を確かめるための試料として、野営地に持ち帰るつもりだった。荒原で捕らえていた野兎や鼠を用いて、生体実験を行うのだろう。
彼が感情に突き動かされることのない理性的な軍人であることに、トゥーラは安堵していた。少なくとも、欲望や恐怖に駆られて愚かな行動を取ることはないだろう――と。
やがて三人は地底湖をあとにした。都市遺跡へとつながる亀裂を通過するさい、アリエルは立ち止まり、手のひらを岩壁に押し当てるようにして呪素を流し込んでいく。呪力の作用によって岩が押し動かされ、鈍い音とわずかな揺れのあと、巨石が横にずれるようにして亀裂を塞いでいく。
この狭い通路では、どう頑張っても人の力で岩を動かすことはできないだろう。これで地底湖に繋がる道は――少なくとも、アリエルがいなければ完全に絶たれたことになる。
地底湖周辺の安全が確保されると、彼らは野営地に戻った。しかし、そこでも解決すべき問題が山積していた。正体不明の黒い影や、日々の奴隷たちの不安、そして〈転移門〉の行方。ひとつとして軽んじることはできない問題だった。
それでも、急ぐことなく、ひとつずつ解決していくつもりだった。地上では冬の到来を告げる嵐が吹き荒れ、厚い雪雲が空を覆っていた。地上での移動も探索も困難となり、行動は必然的に制限される。
しかし、裏を返せば――彼らには膨大な時間があった。嵐に閉ざされた都市で、答えを探るだけの途方もない時間が。