65〈奴隷〉
翌朝、氷原に吹きつける風は冷たさを増していて、吐息は白く長く漂っていた。調査隊は荷を整えると、地下遺跡に向けて移動を開始したが、そこでいくつかの問題に突き当たることになった。
階段に続く通路は半ば崩壊していて、瓦礫に埋もれていたため、まずは駄獣が通れるだけの空間を確保する必要があった。
そこはかつて広々とした回廊だったが、今では氷塊と瓦礫に押し潰され、わずかな隙間を縫うようにして辛うじて人が通れる状態だった。人間なら身を縮めて進むことはできるが、物資を括りつけられた駄獣にとってはあまりに狭く、進路の確保は不可欠だった。
狩人たちは厚手の手袋に包んだ手をかじかませながら、石を掘り出し、氷を削り、移動できるだけの道幅を少しずつ広げていった。
トゥーラの指示は的確で、作業は段階的に進められた。彼女は長い棒を用意させ、それを瓦礫の隙間にねじ込ませ、転がっている岩を支点にして力を伝えるようにした。棒の端に体重をかけると、氷で固着していた瓦礫がわずかに浮き上がる。狩人たちも棒を使い、石を取り除きながら、やがて大きな瓦礫を動かしていった。
長い棒を手にして作業する者たちの額では汗が凍り付き、荒れた唇からは白い息が吐き出されていく。人の力だけでは動かせない瓦礫があらわれると、アリエルの呪術の助けを借りて、ゆっくりと動かしていく。巨大な瓦礫は目に見えない力に押され、氷の床を擦りながら暗がりに消えていった。
こうして通路が開けるごとに、駄獣は一歩ずつ前へと進んでいった。その脚取りは重く、鼻先からは白い蒸気が絶え間なく漏れていた。足元に散らばる鋭い氷片で蹄を傷つける恐れがあり、手の空いていた女性たちは毛皮や毛布を敷き詰めて、慎重に歩を進めさせた。狩人たちの肩には疲労が蓄積し、呼吸は次第に荒くなっていく。
やがて、地下に沈む都市遺跡へと続く階段の入り口にたどり着いた。しかし、そこでも新たな問題が待ち構えていた。異種族の体格を基準に築かれた階段は、不自然な歩幅と高低差を持ち、駄獣の脚では移動が困難だった。無理に進ませれば転倒の危険があるうえ、階段の表面は氷に覆われていて、蹄で踏み込むたびに滑りそうになる。
もちろん、この場に駄獣たちを置いていくこともできなかった。階段がある暗い通路には絶えず冷たい風が吹き込んでいて、生物が生きていけるような環境ではなかった。
そこで狩人たちはトゥーラの指示で周囲に散乱する石柱の残骸を集め、瓦礫を組み合わせるようにして傾斜をつくり出した。長い棒を利用して重い瓦礫を寄せるたび、石材が氷に擦れる音が深い回廊に反響した。
階段の両脇には石像が聳えるように立ち並び、威圧的な表情で闖入者たちを睨みつけるかのようだった。
瓦礫のない場所ではアリエルが呪術を使い、大小さまざまな石を組み合わせることで新たな足場を築いた。氷で形作られた足場も用意しようとしたが、呪素のつながりが絶たれると途端に融け出し、脆くなって崩れてしまう。そのため、可能な限り石を利用して堅牢な足場の構築に専念した。
それに、石材で用意した足場は崩れることなく維持されるので、呪素の消費も抑えられる。幸いにも、地底湖の周辺では――微かだったが、大気中に呪素が含まれていたので、時間を掛ければ呪力を補充することができた。
いずれにせよ、調査隊は時間をかけながら慎重に、しかし確実に階段を下りていった。駄獣の息遣いと、石を動かす鈍い擦過音が絶え間なく響き、下へ進むほどに冷気を帯びていく。それは氷の冷たさとは異なる、どこか重苦しく、圧迫感のある気配を伴っていた。
やがて暗闇の底に、氷に埋もれた都市遺跡が姿をあらわした。広大で壮麗な景色に圧倒される仲間たちを余所に、トゥーラは拠点の構築を最優先に考え、野営地の設営に適した場所の探索を指示した。やがて都市の入り口近く、階段から最も近い位置に立つ巨大な石柱の根元が選ばれた。
巨大な石柱は、それだけで先住民の小屋ほどの幅を持ち、暗闇に沈む天井まで一直線に伸びていた。その存在は、ただの構造物というよりも、大地と天蓋を繋ぎ止める杭のように見えた。氷河や天井の崩落といった危険が常に不安として残ることを考えれば、柱の根元に野営を構えるのは、理にかなった判断だったのかもしれない。
野営地の設営が始まると、まず物資を収めていた木箱が解体され、板材や釘が手際よく取り外された。狩人たちは作業に手慣れていて、その動きに迷いはなく、駄獣のための囲いを次々と用意していく。それは粗末なモノだったが、外敵の侵入や都市内部に迷い込むことを防ぐ最低限の壁になってくれた。
水については心配していなかった。氷河から染み出す水を汲み取り、焚き火で煮沸消毒してから飲むようにしていたからだ。
燃料になる駄獣の糞や木材は限られていたが、解体した木箱の板材や、旅の道中にアリエルが回収していた乾燥した枝が大量にあり、それらを使うことで場をしのいでいた。とはいえ、いずれ燃料となるものを都市の中で見つけ出さなければならないだろう。
それから、周囲の安全確認が慎重に行われた。都市遺跡は広大で、一度に全域を確かめることは到底できなかった。狩人たちは野営地を中心に円を描くように進み、廃墟の影や瓦礫の隙間を丹念に調べていく。近くの通りには住宅が密集していて、倒壊した柱や壁の残骸が複雑に散乱していた。視界は狭く、死角が多かった。
狩人たちは捕食者の襲撃による教訓を忘れず、野営地の周囲に革紐を張り巡らせていった。紐には小石や金具が結びつけられ、鳴子として機能するよう細工を施していく。これがあれば、暗闇を徘徊する何者かが近づいても、すぐに察知できるだろう。
ある程度の安全確認が済むと、遺跡探索のための小部隊が編成された。四人を一組とし、互いの死角を補えるように人員が考慮されている。各部隊の指揮官には、トゥーラが信頼する狩人たちが選ばれた。彼らの役割は脅威への備えだけではない。仲間が遺物を勝手に持ち出さないよう、目を光らせることも含まれていた。
都市遺跡の遺物は価値が高く、それをめぐる不和や、際限のない欲望は外敵よりも危険になりうる。
その間、野営地には最低限の人員だけが残された。駄獣の世話をする者、食事を用意する者、警戒に立つ者。武器を手にしない者の多くは、奴隷商人から解放された元奴隷だった。彼らが探索隊に加えられなかったのは、単に戦力にならないからではない。
裏切りについては心配していなかったが、欲に抗えず遺物を隠し持つ可能性があった。この場所の機密性を考えれば、それは決して許されることではなかった。
アリエルは、テリーが地底湖に向かうことを警戒していたのか、しばらくの間、彼と行動を共にするよう心がけていた。いずれ地底湖を調べることになるが、今は野営地の安全を優先すべきだった。
テリーは感情を巧みに隠すため、内心を見抜くのは難しい。だからこそ、アリエルは彼の近くで〈共感〉の呪術を用いて、注意深く見守っていたのだろう。
探索が勧められるなか、野営地の周囲には奇妙な静寂が広がっていた。崩壊した石橋、氷に閉ざされた塔、剥き出しの岩壁の裂け目からは水滴の音が微かに響いていた。
それらは、調査隊の不安をかき立てるには充分すぎる存在だった。誰もが、暗闇に潜む〝何か〟を恐れていた。都市は今も沈黙していたが、その沈黙こそが、恐れと不穏さを孕んでいた。
本格的に調査が始まると、狩人たちの間に不穏な噂が広がりはじめた。廃墟の奥で〝幽霊〟を見たという報告が相次いだのだ。
閑散とした広場や崩落した廃墟の影に、微かに人の姿を象った影が立っていたという。足を止めて振り返ると、そこには何も残されていない。ただの錯覚と片づけることもできたが、目撃した者は生気を奪われたかのように青ざめ、怯えの色を隠せなかった。
恐怖による幻覚だと片づけるには、あまりにも報告が多すぎた。トゥーラは事態を軽視せず、アリエルに調査を依頼する。彼は数人の狩人を率いて、目撃の多い区画へと向かうことになった。
そこは、倒壊した石像が散乱する広場だった。かつては宴や祭りの場として使われていたのかもしれない。壁には氷に覆われた色彩豊かな浮彫が残され、床には割れた杯や陶器の破片が散らばっていた。天井の裂け目から落下してきた氷塊が床に突き刺さり、そこから霜が花弁のように広がっていた。
その冷気の中に――確かに、〝人の形〟をした何かが浮かんでいた。それは影のように黒く、絶えず揺らめいて輪郭が定まらない。けれど、確かに人の姿を象っていて、何か目的をもって歩き回っているように見えた。
声を発することもなければ、襲い掛かってくることもない。一定の時間が経過すると、その姿は細かい粒子に変わり、ほどけるように崩れて空気の中に霧散していく。
そしてしばらくすると――その影は再び闇の中に像を結び、また同じ動作を繰り返していく。あまりに規則的で、生き物の動きというよりも、その場所に刻まれた記憶が再生されているかのようだった。
人々の生活が失われた今もなお、この都市に刻まれた記憶だけが、延々と日常を繰り返しているのかもしれない。その影は、アリエルたちの存在に気づくこともなく、ただ同じ動作を繰り返すばかりだった。人に害がないことが確認されると、どうすることもできなかったこともあり、放置されることになった。
しかし正体が分からない以上、無用に近づくことは禁じられ、影が出現する複数の区画には目印が立てられ、足を踏み入れないよう方針が定められた。
ある夜、アリエルが天幕で呪術の制御を訓練していると、幕が静かにめくれるのが見えた。入ってきたのは、かつて奴隷だった女性のひとりだった。彼女はためらいがちに歩み寄り、アリエルのそばに膝をついた。そして、おずおずと『奉仕のために参りました』と短く告げると、外套を脱いだ。
その仕草からは、羞恥や謀略は感じられず、ただ習慣として身についた彼女の従順さがあらわれていた。
アリエルは彼女の意図を理解できずにいたが、その肩が微かに震えていることに気づいた。それが恐怖によるものか、寒さによるものかは分からない。あるいは、古びた外套の代わりが欲しいだけなのかもしれない。
彼は〈収納空間〉から適当な毛布を取り出し、彼女に差し出した。それ以上の言葉は掛けず、天幕を出てトゥーラのもとに送り届けた。
それは種族の特徴――長命種として、精神の発達段階における性への興味が人よりも遅い所為でもあったのかもしれない。もしかしたら、女性という存在が常に身近にあったからなのかもしれない。彼女たちは、あくまでも戦友であり、命を預け合う仲間であり、欲情の対象ではなかったのだ。
なにより、今の彼の心を占めていたのは〈転移門〉の探索という目的であり、人の感情に心を割ける余裕はなかった。
ちなみに、件の女性はトゥーラに厳しく叱責されることになった。そして部族と行動を共にする間は、二度と奴隷のような振る舞いはしないと約束させられた。もちろん、彼女に罪がないことは誰もが分かっていた。奴隷としての生き方しか知らない彼女にとって、それは〝保身〟のための無意識の行為に過ぎなかったからだ。
目的を持つ狩人たちとは異なり、野営地に残される者たちは、いつ追放されるかもしれないという不安を抱えながら陰鬱な都市で日々を過ごしていた。その不安が、ついに限界を迎えたのだろう。
しかし、奴隷として生きてきた者たちの心にまで配慮する余裕は、さすがのトゥーラにもなかった。だからこそ、この問題は避けられない形で表面化したのかもしれない。
調査隊の責任者として彼女は新たな課題を抱えることになったが、集団の秩序を保つためにも、それは決して疎かにできない問題だった。そのなかで、遺跡の調査は着実に進められていった。




