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捕食者の絶命を確認し、地底湖周辺の安全確認が終わると、アリエルとテリーは微かな瘴気が立ち昇る死骸を背後に残し、その場をあとにした。
〈転移門〉の所在を探るには、この都市遺跡をさらに調査する必要がある。しかし野営地に残る仲間たちは、今も緊張の中で襲撃を警戒していた。捕食者の脅威が去ったことを、彼らに一刻も早く伝えるべきだと判断し、ふたりは野営地に向かうことにした。
地底湖の存在を覆い隠すように広がる岩肌の亀裂を抜け、ふたりは都市遺跡へと戻る。氷の中に沈み込む遺跡は、今も変わらず冷たい沈黙のなかに横たわっていた。その冷たい空気のなかには、無機質な構造物の臭いと、どこからともなく漂ってくる冷気が静かに混じり合っていた。
大通りの両脇に並ぶ崩れかけた建造物を眺めながら歩く。壁面には、未知の文字や記号が途切れ途切れに残されていた。それらは長い時を経て氷に削られ、摩耗していて意味を読み取ることは困難だったが、なおも不気味な存在感を放っていた。
高い天井を仰ぐと、暗闇のなかに氷河の割れ目が点在しているのが見えた。その厚い氷を透かすようにして、地上の光が微かに射し込んでいた。
光芒のように無数の光の筋が降り注ぎ、粉雪のような微細な雪の結晶を煌めかせる。それは荒廃した石の街を、淡く、静かに照らしていた。その光景は、静謐な空間が持つ幻想的な一面を垣間見せながらも――崩壊の只中に置かれた〝死の街〟という印象を強くするばかりだった。
水薬のおかげで奇跡的な回復を見せていたテリーは、まだ不安定な足取りながらも、身体の状態を確かめるように歩を進めていた。
地底湖のそばで体力の回復を待っていた時――彼の視線は、何度も地底湖と手元の空瓶に向けられていた。その水薬に宿る奇跡のような効果が、頭から離れなかったのだろう。半透明の瓶を通して見えていた燐光の残像は、彼の中で脅威と欲望の境界を曖昧にしているようだった。
地底湖の危険性を知りながらも、その魅力に抗えないようにも見えた。まるで身体の回復と引き換えに、心の奥に何かが芽吹いてしまったかのように。
廃虚が連なる通りを抜けると、ふたりは広場と思われる空間に出た。そこには、異様な姿をした彫像が何十体も立ち並んでいた。その表情は一様に険しく、予期せぬ訪問者を睨みつけるかのようだった。
地上へと続く石階段にも同様の石像が並び、その足元には瓦礫や倒壊した柱が散乱していた。ふたりは、その間を縫うようにして慎重に地上へと向かう。
冷たい風が吹き荒び、地底からの呼び声のように暗い通路のなかで反響していた。やがて地上へ出たとき、空はすでに茜色に染まり、雲に霞む太陽は、遠くの山の稜線にかかっていた。
そこからさらに、険しい山道が続いていた。斜面には凍結した岩と、雪に埋もれた大小の石が点在し、足場は不安定で滑りやすくなっていた。
ふたりは息を整えるため、何度か短い休憩を挟みながらも、互いの足音と呼吸の音だけを頼りに黙々と山道を進んだ。やがて、最後の陽光が山々の向こうに沈むころ、遠くに野営地の灯りが見えてきた。
冷え切った身体を包み込むその温もりは、一日の緊張を解きほぐすかのように、静かに揺れていた。火を絶やすことなく周囲の警戒を続けていた仲間たちは、寒さと緊張で強張った表情を浮かべていた。しかしふたりの姿を認めるや否や、押し殺していた不安を吐き出すようにして迎え入れてくれた。
肩に白い雪をまとった狩人たちの身体は冷え切っていたが、それでも確かな温もりをその身に宿していた。疲労の色を隠しきれないふたりを囲むようにして、焚き火のそばへと導く。そうしてしばらくの間、ふたりは仲間たちの歓待を受けることにした。
やがて、調査隊を率いていたトゥーラのもとに向かう。彼女は野営地から少し離れた高台の切り立った岩に立ち、鋭い視線で遠くの山々を見つめていた。
ふたりの足音に気づくと、彼女は安堵したように息をついて、ふたりの無事を神に感謝した。アリエルは、言葉を選びながら何が起きたのか報告する。都市遺跡へ向かう道中、何度も捕食者に襲撃されたこと、その捕食者が遺跡の深部を棲み処としていたこと。そして遺跡に誘い込むことで、なんとか討ち果たせた経緯を伝えた。
報告を聞き終えたトゥーラの表情には、驚きと困惑が浮かんでいた。それは無理もないことだった。あまりにも異質で、奇怪な出来事だった。
けれど、アリエルが〈収納空間〉から切断された腕を取り出すと、その生々しい証拠が捕食者の死を裏付けることになった。腐敗こそ始まっていなかったが、獣の濃い臭いが冷気の中に漂い、場の空気を一瞬で変えた。
すでに〈収納空間〉の存在を知っていたからなのか、トゥーラはどこからともなく出現した腕に眉を寄せただけで、詮索はせずに報告の続きを静かに待った。
秘密は、それを知る者が多くなればなるほど、外部へ漏れやすくなる。しかし仲間たちの命を背負う彼女には、地底湖の存在を伏せるわけにはいかなかった。アリエルは、テリーにも聞かせるように、ゆっくりと話し始めた。
あの地底湖の水が捕食者を異形へと変質させたこと、そしてその水底には、未だ目に見えない脅威が潜んでいる可能性があることを、遠回しにではなく、しかし必要以上に恐怖を煽らない調子で伝えた。
そして最も重要な点として、あの地底湖は決して先住民たちの伝承にある〝エーテルの泉〟ではないことを強調し、何度も説明を繰り返した。
あの水は、アリエルが持つ水薬とは根本的に性質が異なり、過剰なほど濃密で、異質な物質が溶け込んでいる。その性質は、生物の身体にとって毒となり得るものであり、それを体内に取り込んだ捕食者がどうなったのかを思い出させるように語った。
トゥーラはしばらく沈黙したあと、地底湖のことを秘密にすると約束してくれた。アリエルは彼女が口外しないと信じていたが、それでも、いずれ彼女をあの場所へ連れて行き、地底湖から漂う邪悪な気配を直接感じさせる必要があると考えていた。人は、自ら体験し、目にしたことでなければ信じようとはしないものだ。
報告を終えると、捕食者が討たれたという事実はすぐさま野営地全体に伝えられ、張り詰めていた厳格な警戒態勢は緩められた。最低限の見張りだけを残し、狩人たちは焚き火の周囲でようやく武具を下ろし、安堵の息をつくことができた。その夜、彼らは久しぶりにわずかな休息が許された。
翌朝、氷原の地平は鉛色の雲に覆われ、遠くの景色は厚い霧に覆われていた。それは吹雪の前触れであり、トゥーラの胸に重い影を落としていた。
彼女は冷え切った空気を深く吸い込み、吐き出した息が凍りつく様子を眺めながら、今後の判断を迫られていた。本格的な冬の到来が迫っていた。嵐が氷原を覆い尽くせば、季節は瞬く間に変わり、この地からの脱出する道は雪と氷に埋め尽くされる。そうなれば、調査隊はこの過酷な大地で冬を越すほかなくなる。
しかし、何ひとつ成果を得られないまま撤退することはできなかった。都市遺跡の調査は今回の遠征の核心であり、それを放棄することは、これまでの犠牲や遠征全体の意味を失わせる行為に等しかった。彼女は幾度も思案を巡らせ、そして、いくつかの理由から留まる決断を下すことになる。
第一の理由は、物資に余裕があることだった。十数頭の駄獣で運び込んだ食料は、まだ半分ほど残されていた。さらにアリエルに確認したところ、彼の〈収納空間〉には冬を越すのに足りる量の食糧が蓄えられていることが分かった。彼の能力を知る彼女にとって、それが虚言でないことは確認するまでもなかった。
第二の理由は、避難先の確保にある。山腹で発見された長い階段を下れば、氷河の下に広がる都市遺跡に侵入することができた。そこでは吹雪を避け、凍てつく寒さから身を守ることが可能だった。しかもその場所は、彼女に与えられた任務――遺跡まで案内するという仕事を果たす場でもあった。
決意が固まると、彼女は調査隊の面々に意向を伝え、彼らの了承を得たうえで出発の準備を整えることになった。駄獣たちの背には食糧や装備が括りつけられ、氷河の裂け目に備えて互いの身体を縄で結び合わせることも忘れなかった。
道中は容赦のない移動となった。雪原は硬く凍りつき、足元は氷の膜で覆われ、わずかな傾斜も滑落の危険を孕んでいた。駄獣の脚では越えられない深い氷河の裂け目がいくつも行く手を阻んだが、そのたびにアリエルが呪術で氷と岩の足場を築き、一行は慎重にその上を渡っていく。
日が傾くころ、ようやく山腹に穿たれた都市遺跡の出入り口にたどり着いた。そこは長い年月の末に崩れた瓦礫で半ば埋もれ、凍りついた石段が闇の中へと続いていた。
山々は暗闇に包まれ、風は皮膚を刺すような冷たさを帯びていた。これ以上の移動は危険と判断し、一行は瓦礫の前に簡易な防壁を築き、焚き火を囲んで夜を過ごすことにした。遠く氷原の向こうからは地鳴りのような音が響き、迫り来る吹雪の気配を告げていた。
篝火の灯りが凍りついた石壁で揺らめき、無数の影を躍らせる。焚き火の熱は近くに座る者だけをかろうじて温め、離れた場所では闇と冷気が容赦なく押し寄せてくる。
トゥーラは毛皮の外套を整え、静かに腰を上げた。すると仲間たちの視線が、自然と彼女に集まる。
彼女は落ち着いていたが、その声には風の音を押しのけるほどの張りがあった。遺跡は部族にとって神聖な場所であり、そこから何ひとつとして持ち出してはならない――彼女はそう語った。その言葉は命令ではなく、ある種の戒めとして伝えられた。
彼女が遺物の持ち出しを禁じた理由は明確だった。もし町へ戻り、商人に遺物を売るようなことがあれば、必ずその出所を問われる。遺跡の存在が漏れれば、部族だけでなく、外の者たちにもこの場所が知られてしまう。
やがて強欲な者たちが押し寄せ、遺跡は食い荒らされるだろう。人間は欲望と誘惑から逃れられない――それを彼女はよく知っていたのだ。だからこそ、厳しい身体検査の必要性も口にした。荷を解かせ、衣服の下まで改めるほどの徹底さがなければ、何かを持ち出す愚行を防ぐことはできないと。
篝火の灯りが揺れるなか、部族の者たちが無言でうなずくのが見えた。彼らは信心深く、墓所でもある遺跡から物を持ち出すことは決してしないだろう。しかし調査隊に加わる全員が同じ心を持つわけではない。かつて奴隷だった者たちの胸の内までは、彼女にも測りきれなかった。
それからトゥーラは、遺跡が捕食者の棲み処だったことを告げた。その言葉に反応したのか、炎に照らされるようにして硬く結ばれた唇と強張った頬が次々と浮かび上がる。冷たい風が焚き火の煙を巻き上げるなか、誰もが彼女の話に耳を傾けていた。
もしも第二の捕食者が潜んでいたら、戦いは避けられず、被害は必至となる。そのため、遺跡内でも警戒は続けられることになる。話が終わると、彼らはそれぞれの毛皮に身を包み、静かに夜を越す準備を始めた。