63〈決着〉
悍ましい肉体を修復しようとする捕食者は、血に濡れた身体を引きずりながら、凍てついた地面に爪を立てるようにして呪素に満ちた地底湖へと這っていく。
その背は不規則に震え、裂けた皮膚の奥で筋肉が痙攣し、粘度の高い体液が黒く濁った線となって花々を穢していく。致命傷になるような傷を受け、骨や内臓の一部が露出しながらも、異形の執念は水面へと伸び続けていた。
アリエルはその様子を無言で観察しながら、静かに歩を進める。そして呼吸を整え、体内の呪素を練り上げていく。その瞳に宿るのは、哀れみでも怒りでもない。ただ、長引いた戦いを終わらせようとする意志だけだった。
体内を循環する血液が熱を帯び、骨の髄にまで呪素が染み渡っていく感覚が広がる。手のひらを向けると、そこから溢れ出た呪力が周囲の空気を急速に凍らせ、微細な結晶となって舞い始めた。
捕食者の頭上で収束していく冷気は、ゆっくりと氷結しながら氷の板を形成していく。それは〈障壁〉としても利用した氷の壁を横に展開したもので、捕食者に覆い被さるほどの規模へと成長していく。
さらに呪素を込めていくと、冷気は急速に収束し凝縮されていく。やがて、女性の腰ほどの厚みを持つ限りなく透明に近い氷塊が完成した。その表面には、周囲の光を歪めるような、冷たく重い気配が宿っていた。
その氷塊を飛ばすでもなく、ただ捕食者めがけて落下させた。鈍い衝撃音と共に地面が微かに震え、上方の氷河から地鳴りにも似た音が響く。質量のある氷塊が捕食者を押し潰そうとするなか、異形は地面を掻きむしるようにして、氷の下から這い出そうとしていた。
その動きに反応し、アリエルは再び呪素を解き放つ。ふたつ目の氷塊が捕食者の上に形成され、容赦なく落下する。衝撃に捕食者の背骨が歪み、血液が吐き出され、地面を黒々と染めていく。それでも、氷塊は微かに揺れていた。
三つ目の氷塊を形成し、その上に重ねるように落とした。三重の氷塊が異形を完全に押し潰し、地面に沈み込むほどの重量で肉体を破壊していく。皮膚と筋肉は裂け、潰れた内臓と体液が口腔や傷口から押し出され、氷の下で赤黒く広がっていった。そして――捕食者の動きは止まった。
アリエルは立ち止まると、氷塊との呪素のつながりを絶つことなく、静かに呪力を流し込み続けた。押し潰された捕食者の絶命が確認できるまでは、氷塊を維持しなければならない。
それから目に呪素を集め、〈生命探知〉を発動する。瞳が深紅に明滅するなか、捕食者の身体を覆っていた赤紫色の靄が、ゆっくりと霧散していくのが見えた。生命の痕跡が完全に途絶えたことを確認すると、ようやく氷塊との繋がりを断った。
直後、支えを失った氷塊は自らの重みに耐えられず、自壊を始めた。アリエルは無数の破片となって崩れ落ちていく氷の残骸を利用し、時間をかけながら圧縮し薄い氷の板を成形する。
その外見からは想像もできないほどの質量を持つ氷の板を、ただ重力に委ね、捕食者の死骸へと落下させた。ソレは残された手足と首を容赦なく切断し、噴き出す血液すら瞬時に凍りつかせた。
念には念を入れた処理が終わると、アリエルは足元に散らばる氷の破片を避けながら、死骸のそばにしゃがみ込む。そして押し潰された肉体の奥へと手を差し入れ、心臓の位置を探った。やがて、指先に冷たく硬質な感触が伝わる。
絶えず膨大な呪素を体内に循環させていた心臓は、捕食者の絶命と同時に呪素を内包したまま結晶化していた。ゆっくりと心臓を引き抜くと、黒い血液に濡れながらも、宝石のような赤色の輝きを放っていた。
呪素の核として機能していた心臓が失われたことで、捕食者の肉体は急速に腐敗を始めた。そして粘度の高い血液と、太く異様な骨だけを残し、異形の存在は静かに崩れていく。
死骸を詳しく調べられなかったのは惜しいが、すでに切断された腕を保管していたので、焦る必要はなかった。それに、まだ触れる気にはなれないが、骨も何かに使えるかもしれない。
捕食者の処理を終え、周囲から呪素の流れが完全に途絶えたのを確認すると、アリエルは呼吸を整えながら静かに視線を巡らせる。
その張り詰めた空気のなか、わずかな動きも見逃さないよう感覚を研ぎ澄ます。岩壁の陰や人の背丈ほどもある氷塊の近くに気配はなく、地底湖から漂う燐光の揺らぎだけが薄暗い空間を照らしていた。
その静寂のなか、微かな血の臭いが漂ってきていた。アリエルは振り返ると、地面に倒れていたテリーのもとに向かう。彼の周囲には、雪解け水に混ざるようにして、小さな血溜まりが広がっていた。捕食者の鋭い鉤爪で裂かれた脇腹から、温かい血液がじわりと流れ出している。
テリーの顔は死人のように青白く、唇の色も失われていた。凍りつくような空気のなか、額には不自然な汗が浮かんでいる。それでも意識はハッキリしているのか、焦点の合った瞳で近づいてくるアリエルを静かに見つめていた。致命傷を負ってから、それほど時間が経っていないことが救いだったのかもしれない。
アリエルはテリーのそばにしゃがみ込むと、腰の帯革に差していた水薬へ手を伸ばすが、指先に触れたのは粉々になった硝子片だった。先ほどの戦闘で攻撃を受けたときに、衝撃で砕け散ったのだろう。早々に諦めると、〈収納空間〉に意識を向け、同じ効果を持つ瓶を取り出す。
帯革に瓶を差す利点は、素早く使用できることにあったが、激しい戦闘下では破損の危険が常につきまとう。安全性を考えるなら、結局は〈収納空間〉に頼らざるを得ないのかもしれない。
手にした小瓶には、薬液の鮮度と呪素を保持するための封印の札が貼られていた。アリエルは指先から極わずかな呪素を流し込むことで、札を灰に変えて封を解く。まず半分を自ら口に含み、捕食者との戦闘で生じた傷を癒していく。
〈ダレンゴズの面頬〉のおかげで痛みは感じていなかったが、身体のあちこちに怪我をしていた。残りの薬液はテリーに飲ませることにした。意識があるので、瓶を唇に当てるだけで飲んでくれた。もし気絶していたなら、傷口に直接注ぐほかなかっただろう。
しかし体内に取り込むほうが、目に見えない脳震盪や内臓の損傷にも作用するので、口にしてくれるほうが望ましかった。
しばらくの沈黙のあと、彼の顔色が少しずつ血の色を取り戻し、脇腹の裂け目から覗いていた肉が滑らかに癒着していく様子が見えた。体内では損傷した内臓の修復も進んでいるのだろう。けれど流れ出た血の量を考えれば、このまま安静にしていたほうがいいだろう。
テリーを岩陰まで移動させると、アリエルは地底湖へと視線を向けた。淡い青の燐光が水面で揺れ、その光が周囲の岩肌や崩れた地形を冷たく照らしている。その地底湖に向かって歩きながら、外套と面頬の状態を確かめる。
捕食者の返り血を大量に浴びていたはずだったが、表面に汚れは見当たらなかった。まるで外套が血液を吸い取り、その痕跡ごと取り込んでしまったかのようだった。血液に含まれていた呪素に反応して、〈自動修復〉が発動したのだろう。戦闘で裂けていた箇所は、わずかな時間で継ぎ目もなく繋がっていた。
その精緻な修復を目にしながら、今は亡き戦友〝ザザ〟に感謝し、そして地底湖のそばで足を止めた。
〈ダレンゴズの面頰〉を外した瞬間、それまで蓄積していた疲労が一気に重みとなって圧し掛かってきた。身体の節々が鈍い痛みを訴え、息を吸い込むたびに肺の奥に刺すような痛みが広がる。アリエルは顔をしかめながらも、水面から立ち上る靄を見つめる。
地底湖を前にした瞬間、先ほどの捕食者とは比較にならないほどの邪悪な存在が、この地底湖の底に潜んでいるのを感じた。根拠は曖昧で、ほとんど直感に近い感覚だった。けれど長く生死の境を渡り歩いてきた経験が、その感覚を軽々しく否定することを許さなかった。
水面は淡い燐光を帯び、ゆらりと揺れる光が岩壁に反射して洞窟全体を包み込む。その美しい光景からは、どこか神聖さすら感じられたが、同時に、不穏な気配も――地底湖の底を覗き込む者の意識を引きずり込むような危うさがあった。
水底では、地下水と共に膨大な呪素が沈殿していた。それはまるで〈混沌の領域〉から溢れ出した濃密な瘴気が、穢れとなって水そのものに溶け込んだかのようだった。水面は透き通っているのに、その下に沈む闇は、色も形も掴ませない底知れない深みを湛えていた。
視線を上方に移すと、天井近くの氷河に無数の裂け目が走り、その隙間から透過する蒼い光が湖面に射し込んでいるのが見えた。幻想的な光景だが、その美しさの裏には破滅的な未来が潜んでいる気がしてならない。
確信は持てなかったが、あの異形の捕食者は、氷河の裂け目から落下してきた生物の成れの果てなのかもしれない。元はただの動物だったが、墜落で致命傷を負い、この水に漂う穢れた呪素を体内に取り込むことで、異質で邪悪な姿へと変異した可能性がある。
アリエルはその場に膝をつき、手のひらで水をすくい上げた。透明な液体は淡い燐光を放ち、冷気と共に指先にまとわりつく。ひと目で呪素を含んでいることが分かる水は、〈治療〉の水薬や〈霊薬〉と呼ばれる薬液とは異なる性質を持っていた。治癒の効果はなく、むしろ純粋な呪素そのものに近い性質を持っていた。
体内に取り込めば癒しではなく、混沌の侵蝕をもたらす危険性がある。それに、この世界に存在する呪素の形態も異様だった。
〈神々の森〉では大気に溶け込む形で漂っていた呪素が、この世界では地下水に流れ込んでいる。発生源は、この地底湖のさらに深い地層にあるのだろう。
その由来が〈混沌の領域〉と繋がる〝空間の歪み〟なのか、それとも古代の〈転移門〉による影響なのかは不明だが、そこにたどり着く術がない以上、原因の究明もできない。
さらに不可解だったのは、この膨大な呪素が周囲の環境に壊滅的な影響を与えていないことだった。都市遺跡を築いた種族が施した結界の可能性も否定できないが、地底湖周辺の剥き出しの岩肌には人工的な構造物もなく、都市を築いた種族が地底湖の存在を把握していたのかも疑わしかった。
あれほど荘厳な都市を築いた種族がどこへ消えてしまったのかは分からないが、彼らがいなくなったあとに地底湖が形成された可能性もある。
いずれにせよ、地底湖の水が生物に与える影響を調べるまでは、接触は避けるべきだろう。人間はもちろん、この荒原で生きる動物にさえ影響が出る恐れがある。地底湖の周囲に咲き誇る異様な花も、調査の対象にしなければいけないだろう。
幸い、この地底湖の存在を知る者は、今のところテリーだけだった。そして彼は、この場所がもたらす危険性を、その身をもって理解していた。
しかし――異形の生物に対する恐怖が、人の欲望を抑え込める保証はない。利益や力を渇望する者があらわれれば、禁忌でさえ踏み越えるだろう。だからこそ、テリーの言動とその周囲に生まれる変化を見逃さないよう、注意深く見守る必要がある。
水面を照らす蒼い光が静かに揺れるなか、水底で眠る邪悪は、今も目覚めの時を待っているのかもしれない。アリエルは首筋に鳥肌が立つのを感じながら、地底湖のそばを離れた。




