表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
神々を継ぐもの  作者: パウロ・ハタナカ
第二部・第一章 異界 前編

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

468/505

62


 氷河の裂け目から射し込む青い光が、醜悪な怪物の輪郭を浮かび上がらせていた。失われた頭部の代わりに形成され、絶えず脈動する肉塊は、体内から押し出された臓器のように粘り気を帯びた膜に覆われ、(うごめ)くたびに膿を滴らせていた。


 異様な進化を繰り返しながら盛り上がった肩は岩のように厚く、毛皮の下では発達した筋肉が隆起し、皮膚を突き破るように硬質な骨が露出していた。その異様な姿は、かつて野生の獣だったとは到底思えないほど、醜くねじれ、肥大し、歪み切っていた。


 その怪物は荒々しく()えてみせると、前屈みになり、太い脚を地面に沈めるようにして踏み込んだ。つぎの瞬間、怒声とも咆哮ともつかない轟音が洞窟を満たし、吐息に混じる血の霧が青い光を紅く染めた。威嚇のつもりなのだろう。


 肉塊の奥で露わになった牙の間では、ねじれた舌が獲物を求めるようにうねり、ひとつ眼が憎悪と飢えを凝縮したような眼差しでアリエルを射抜く。


 呪力を宿した咆哮と、その眼に宿る殺意だけでも、身体が恐怖で強張りそうになるほどだったが、〈ダレンゴズの面頬〉を装着したアリエルには何の効果もなかった。


 捕食者が地面を蹴ると、砕けた霜が宙に舞うのが見えた。アリエルはほとんど無意識に反応し、間髪を入れず〈氷礫(ひょうれき)〉を形成して撃ち放つ。


 今まで何度も繰り返してきた牽制だったが、今回の氷の礫には鋭い石片が混入されていた。衝撃で氷が砕かれても、その内側に潜む鏃状(やじりじょう)の礫が厚い毛皮を裂き、硬い体表を抉り、血と脂肪を撒き散らすことになる。


 捕食者は見慣れた攻撃に油断していたのかもしれない。氷塊を避けようともせずに突進し、予期していなかった痛みに動物的な苦痛の声を漏らす。


 頭部を形成する気色悪い肉塊が横に開いていき、無数の牙が露出し、その隙間から声が絞り出された。喉の奥から発せられる咆哮は、怪物が受けた苦痛だけでなく、怒りと殺意に満ちていた。


 アリエルは集中力を切らさず、次々と〈氷礫〉を撃ち込みながら体内の呪素(じゅそ)を練り上げていく。その呪素に反応するように、周囲に散らばる大小さまざまな石が浮き上がると、呪素を織り交ぜるようにして鏃状に形成しながら硬化させていく。


 呪術によって加えられた圧力と、急激な状態変化に伴い発生した熱により、石の表面に付着していた水分が蒸発し白い蒸気が立ち昇っていく。それを確認すると、突進してきていた怪物めがけて、一斉に〈石礫〉を撃ち込む。


 鋭い礫は毛皮を裂き、肉を切り裂きながら体内に侵入し、黒々とした体液が青い光の中で血煙となって噴き出す。


 それでも捕食者は止まらず、よろめきながらも両腕を振り上げる。丸太のような腕の影がアリエルを覆った瞬間、すでに形成されていた〈石礫〉を、肉塊と化した捕食者の頭部めがけて撃ち込んだ。礫が直撃するたびに捕食者の咆哮が洞窟を震わせ、凍りついた壁から無数の水滴が降り注いだ。


 捕食者の体勢が崩れていくのを確認すると、アリエルは躊躇(ためら)うことなく地を蹴った。〈石礫〉で牽制しながら一気に間合いを詰めると、捕食者もまた血を滴らせながら、その巨躯を前へと押し出してきた。両者の衝突は避けられない。


 アリエルは虚空に手を突き入れると、そこから金砕棒(かなさいぼう)を引き抜くと、両手で握りしめながら捕食者の脇腹に叩きつけた。どこで手に入れた武器なのかは、もはや思い出せなかったが、それは岩のように硬い皮膚をものともせず、確かな損傷を与えることができた。


 手が痺れるような感覚に耐えながら、切り返しの一撃を太腿に叩き込もうとするも、怪物の前腕に弾かれてしまう。


 そして捕食者は反撃とばかりに腕を振り抜き、アリエルを叩き潰そうとする重い攻撃を浴びせた。彼は身を捻って躱そうとするが、呪素が込められた風圧だけで毛皮が切り裂かれていくのが分かった。


 なんとか攻撃を躱しながら身体を回転させ、遠心力を最大限に活かし、勢いに任せた一撃を叩き込もうとする。しかし、捕食者の容赦ない膝蹴りが脇腹に突き刺さり、息が詰まる。そして互いに距離を取る間もなく、激しい攻防が続けられる。


 捕食者は、失っていた腕の切断面から突き出た鋭利な骨を無造作に振り下ろす。それは肉片と脂がこびりつき、鋸歯状(きょしじょう)の突起に覆われていた。アリエルは咄嗟に金砕棒で攻撃を受け止めるが、一撃ごとに腕が痺れるほどの衝撃を受ける。それでも何とか打撃を受け流し、逸らしながら反撃の隙を探っていく。


 しかし痺れを切らしたのか、捕食者の異様に長い指が、アリエルの喉元を狙って伸びてくる。鋭い爪が面頬の縁を滑り、頸動脈を切り裂こうとした瞬間――アリエルは肘に狙いを定め、突き上げるようにして掌底を叩き込む。そして捕食者の腕が跳ね上がった隙を逃さず、無防備になった脇腹へ金砕棒を叩きつける。


 思わぬ反撃に捕食者は狂ったように吼えた。戦いが思い通りに進まないことに苛立っているのだろう。血に濡れた毛皮の下で、筋肉が異常な膨張と収縮を繰り返す。そして次の瞬間、切断された腕が突き出され、白く尖った異形の骨が眼前に迫る。


 アリエルは咄嗟に上半身を反らし、間一髪のところで攻撃を躱す。無数の血管と肉が剥き出しになった骨が面頬を掠め、空気が破裂するような感触が頬を刺した。反撃に移ろうと体勢を立て直した瞬間、丸太のような腕が再び振り下ろされる。


 回避は間に合わなかった。岩を叩きつけられるような衝撃に襲われ、途轍もない質量に押し潰されるように地面へと叩きつけられる。


 衝撃は全身に響き渡り、骨が軋むような音が耳元で聞こえた気がした。捕食者にとっては、何でもない一撃だったのかもしれないが、それは人間の骨を粉砕するに足る威力が込められていた。アリエルは、なす術なく地面に打ち倒され、背中に硬い岩と氷の冷たさが広がっていくのを感じた。


〈ダレンゴズの面頬〉を装着していたこともあり、身体を保護する不可視の障壁が展開され、衝撃の一部を吸収してくれていた。それがなければ、折れた肋骨が肺に突き刺さって致命傷になっていたかもしれない。


 それでも息が詰まり、酸欠と痛みによって意識が霞み視界が狭まる。その視界の端で、岩のような影が跳躍するのが見えた。そして捕食者の巨体が憎悪と重力を乗せて圧し掛かってくる。


 身を捻って抜け出そうとした瞬間――氷河を透かして射し込む光の中に、異様な光景が飛び込んできた。捕食者の頭部、蠢く肉塊の中央に、斧の刃が半ばまで突き立てられる。手斧を握っていたのは、テリーだった。


 それは、前回の戦いで捕食者の首に叩きつけていた手斧だった。首筋に食い込んだまま放置していたが、〈氷槍(ひょうそう)〉で頭部を消し飛ばしたさいに、地面に転がっていたのだろう。テリーは捕食者がアリエルに殺意を集中させていた隙を狙い、背後から忍び寄って渾身の力で斧を叩き込んだのだ。


 斧頭(ふとう)は肉塊の深部にまで喰い込み、不揃いな牙の列を押し分けるようにして突き刺さっていた。捕食者は苦痛に膝を折り、よろめいた。その隙を逃さず、アリエルは腰に差していた〈蛇刀〉を抜き放つ。波打つような独特な刀身が、氷河の青い光を受けて妖しく輝いた。


 すかさず捕食者の懐に飛び込むと、蠢く肉塊と硬質な皮膚の隙間に小刀の刃を突き立てた。左右にうねる刃は、まるで吸い込まれるようにして甲冑のような皮膚を滑らかに貫いていく。


 刃が肉の奥に沈み込むと同時に、温かい血が噴き出して視界が黒く染まった。鼻腔を満たすのは、鉄錆と獣脂が混ざり合った重く濃密な臭気。


 確かな手応えがあった。肉の間に刃を押し込んだ瞬間、傷口から滲み出す微かな呪素が柄を通じて手のひらに絡みつき、体内に流れ込んでくるのが分かった。それは、捕食者の生命力の一部を(すす)るような感覚だった。ある種の戦慄と共に、身体に力が湧き上がるような気がした。


 しかし、それでもなお異形の捕食者は立っていた。斧が頭部を割り、首筋から血を噴き出しながらも、異常な生命力で肉体の再生を繰り返し、穢れに満ちた体液を垂れ流していた。呼吸は荒く、眼窩に埋め込まれた単眼は血走りながらも、鋭さを失っていない。


 アリエルは手にした金砕棒で突進を受け流しつつ、右手の〈蛇刀〉で腹部を斬りつける。刃は肋骨の下をえぐり、脂肪と筋肉を裂いてみせた。けれど、衝撃に耐えきれず吹き飛ばされる。何度も地面に身体を打ち付けられ、肺が圧迫され、呼吸すらできないほどの痛みが走った。空気を求めて喘ぎながら立ち上がろうとするが、視界は白く霞んでいく。


 そして今度は、その凄惨な光景に圧倒されていたテリーが狙われた。捕食者は振り返りざま、腕の先についた骨を横薙ぎに振り抜き、テリーの脇腹を切り裂く。厚い外套ごと革鎧が裂け、凍てついた地面に血が飛び散り、鮮やかな赤が広がっていく。


 だが、捕食者は追撃に移らなかった。気色悪い口腔から漏れる息は荒く、動きは鈍く、筋肉は痙攣し身体の制御を失いつつあるかのように震えていた。皮膚にできた無数の裂け目からは黒ずんだ血が絶え間なく流れ、地面を濡らし、小さな血溜まりをつくっていた。


 さすがに傷つきすぎたのだろう。異常な進化を遂げた捕食者といえども、生物であることに変わりはない。


 首の腱は半ば断たれ、内臓は裂傷と打撃によって破壊されていた。致命傷になるような損傷を幾度も負い、大量の血液が失われていた。もはや、生物として活動するには困難な状態だった。


 むしろ、未だに立っていられること自体が信じられなかった。それは理性を超えた執念か、あるいは、呪素による異常な影響なのか。生きていることそのものが不気味で、理解を拒む光景だった。


 そして捕食者は背中を見せることなく、ひどく鈍い動作で後退を始めた。足を引きずるようにして、爪先が地面を(こす)るたびに、血の混じった肉片が落ちていく。その背後には、青い燐光を帯びた地底湖が広がっていた。


 天井から垂れ落ちる水滴が、湖面に微かな波紋を浮かび上がらせる。その光景は静謐でありながら、どこか底知れない悪意を孕んでいた。


 実際に、この水は膨大な呪素を含んでいて、異形の怪物を生み出した元凶でもあった。もし捕食者が再びその水で喉を潤し、身体を修復するようなことがあれば――もはや、この世界の(ことわり)では測れない災厄に変貌するかもしれない。


 アリエルが行動を察したことに気づいたのだろう。つぎの瞬間、捕食者は形振り構わず地底湖へ向かって駆け出した。地面を蹴るたびに筋肉が断裂し、大量の血液が飛び散る。それでも、怪物の動きは止まらない。


 アリエルは反射的に金砕棒を握ったまま半歩踏み込み、体内の呪素を練り上げながら、力を込めて投げ放った。重量のある武器は空を切り、捕食者の背に重く叩きつけられる。だが、それすらも異形の進行を完全には止められなかった。


 そして――ほぼ同時に、アリエルは体内で練り上げていた呪力を解き放つ。空間が凍り付くようにして、無数の〈氷槍〉が瞬時に形成される。鋭い殺意を宿した氷の槍は、白銀の閃光となって捕食者に向かって放たれた。


〈氷槍〉は捕食者の背を貫き、肩口から腕を吹き飛ばした。続く一撃が太腿の肉を抉り、歪な骨を露わにし、さらに別の槍が片足そのものを断ち切る。それでも、捕食者は前に進む。這いずるように地面を掻きながら、地底湖の周囲に咲き誇る青い花々を、その身体から滴る黒い体液で無惨に汚していく。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ