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神々を継ぐもの  作者: パウロ・ハタナカ
第二部・第一章 異界 前編
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 異形の獣がテリーに向かって駆け出すと、アリエルは立ち上がるのを諦め、その場にしゃがみ込んで地面に両手をついた。全身の痛みで立ち上がる余裕はなく、その場に身を低く沈めたまま地中に意識を向ける。


 手のひらから解き放たれた呪素(じゅそ)は、捕食者に向かって這うように進み、凍りついた地面を軋ませながら異形の足元へと忍び寄っていく。直後、地面が砕け、白く輝く氷の杭が突き出るのが見えた。槍の穂先のように鋭く、人の背丈を優に超える尖った氷の杭が音もなく捕食者を貫かんと伸びていく。


 しかし捕食者は呪素の気配を察知していたかのように、弾かれたような動きで後方に跳び退いた。氷の杭は虚空を切り裂き、砕けた氷片が地面に散る。


 一度見せた術は、もはや通じないかもしれない――そう理解しながらも、アリエルは構わず周囲の氷塊に呪素を絡め、次々と杭を形成していく。二本、三本と立て続けに突き出す氷の杭は、捕食者のあとを寸分違わず追い続けるが、驚異的な反射神経でそのすべてを回避していく。


 しかしその視線は終始、氷が突き出す足元に向けられていた。だからこそ、弦を鳴らすわずかな音とともに飛来した一本の矢の存在に、気づかなかったのかもしれない。微かな風切り音を響かせながら飛んできた矢は、捕食者の右眼を正確に射抜いた。


 偶然だったのか、それとも必然だったのか――頭部を狙った一撃は致命的な損傷を与えることになった。


 つぎの瞬間、空気が震えた。捕食者の咆哮が洞窟内に響き渡り、その声は呪素を含んだ不可視の衝撃波となって全方位へと広がっていく。弓を手にしていたテリーの身体は宙を舞い、岩壁に叩きつけられて暗がりへと転がっていく。


 アリエルは何とか立ち上がると、右手を上げて手のひらに呪素を集中させていく。その呪力に呼応するように、周囲の冷気と氷片が集まり渦を巻くように凝縮されていく。やがてそれは、杭とも槍ともつかない鋭利な氷の塊へと変化した。その表面は微細な霜に覆われ、光を受けて淡く輝く。


 周囲の環境を利用して形成された〈氷槍(ひょうそう)〉は、必要最小限の呪素で構築されたものだった。その密度と威力をさらに高めるため、アリエルは躊躇なく呪素を注ぎ込んでいく。氷は圧縮されながら密度を増し、槍のように鋭く、そして細く変化していく。


 そして、間髪を入れずに〈射出〉の呪術を重ねると、〈氷槍〉は稲妻のごとき速度で前方へと放たれた。捕食者は反射的に身を捻り、攻撃を避けようとする。


 けれどアリエルと〈氷槍〉の間には、目に見えないほど細い呪素の紐で繋がっていた。その紐を通じて呪素を流し込むことで、氷の槍の進路をわずかに修正する。そのほんの僅かな軌道の変化は、捕食者にとって避けきれない一撃となる。


 氷槍は不自然なほど鋭角に軌道を変え、捕食者の脇腹を抉った。内臓が破壊され、腹部には大きな穴が開き、黒々とした鮮血が噴き出して地面を濡らす。それでも捕食者の巨体は崩れない。呻き声すらあげず、憎しみに満ちた眼でアリエルを睨みつけたあと――背後の地底湖へ向かって駆け出した。


 淡い燐光に照らされる地底湖の縁まであと数歩というところまで来ると、捕食者は血の糸を引きながら飛び込むようにして、水面に身を投げ出そうとした。


 しかし、その動きに先んじて放たれたアリエルの〈氷槍〉が、地面すれすれの軌跡を描きながら飛び、捕食者の右脚を根元から吹き飛ばす。断面から噴き出した血は蒸気を帯び、周囲に咲き誇っていた青い花々の上に散っていく。


 醜い獣は苦悶の唸りを上げ、残った腕で岩肌を掻きむしりながら、凍りついた地面に爪をめり込ませて前進する。やがて顎を大きく開き、淡く青白い燐光を放つ地底湖に頭を突き入れる。


 喉を鳴らし、貪るように水を飲む音が聞こえてくる。そのたびに水面が不気味に揺れ、地底湖の底から青色の泡が立ち上る。そして――異変はすぐにあらわれた。


 捕食者の全身が痙攣し、毛皮の下で筋肉が波打つように隆起する。裂けた皮膚の隙間からは、水底に沈殿する呪毒を混ぜたかのような暗紫色の血が流れ出し、その体液を押しのけるように新たな肉が盛り上がっていく。


 けれど、それは傷を癒す純粋な〈治癒〉の効果による再生というより、肉体を組み替え、別の生き物へと変質させているようでもあった。


 骨の軋む音が洞窟内に響き渡る。四肢はさらに長く伸び、鉤爪は鋭く、刃物のような光沢を帯びる。頭骨は歪み、狼を思わせる口吻はさらに突き出し、牙は倍近くまで伸びた。失われたはずの右眼の位置には、新たに形成された眼が輝き、瞳孔は完全に光を拒む深黒に染まっていく。


 捕食者の変貌を目にして、アリエルは背筋に悪寒が走るのを感じた。あれは、もはや先ほどまでの獣ではない。


 呪素と混沌の力が融合し、異質で禍々しい生物が誕生したのだ――おそらく、あの不自然なまでの生命力と異形の姿を持つ捕食者が生まれたのも、この地底湖の水を口にしたからなのだろう。呪素に満ちたこの水こそが、あの異形を生み出す源なのだ。


 変貌を終えた捕食者は水飛沫を撒き散らしながら、一度の跳躍でふたりの間に立つ。その速度は、〈氷槍〉を避けた時の感覚と比べても、格段に向上しているのが分かる。動きは霞のように掴みどころがなく、反応速度はすでに人の認識を越えていた。


 アリエルは両手を地に押しつけ、迫りくる捕食者の眼前に氷の障壁を形成する。だが次の瞬間、その障壁は岩壁を粉砕するような衝撃音とともに砕け散った。無数の破片が空中を舞い、拳大の氷塊が猛然と迫る。


 咄嗟に腕を交差させて頭部を守ったが、小さく鋭い欠片が額や頬を切り裂き、温かな血が滴り落ちる。その間にも、視界の端では捕食者の黒い瞳孔が妖しく煌めき、すでに目の前まで迫っていた。


 テリーは体勢を立て直すと、血の滲む指で弦を引き絞る。狙いは正確――軍人としての経験が導く射線だ。けれど、変質した捕食者はその殺気を視界の端で察知し、首をわずかに傾けるだけで矢を避けてみせた。


 そして次の瞬間、前肢が横薙ぎに振り抜かれる。空気を断ち割る音とともに、目に見えない衝撃波が走り、テリーの胸を打ち抜いた。彼の身体は容易く持ち上げられ、後方に吹き飛ばされ岩壁に叩きつけられる。


 アリエルはその光景を視界の端で捉えながら、地面に手のひらを押し当てる。呪素が流れ込み、地鳴りのような音が響き渡る。しかし捕食者は、術が完結する前に踏み込みを変え、軽やかに後方に跳び退いた。直後、氷の杭は虚しく地表を突き破って出現する――やはり、もうこの術は通じないのだろう。


 けれど捕食者の着地と同時に、その足首から凍りつく音が聞こえてきた。避けられることを前提に、着地地点にあらかじめ氷の罠を張っていたのだ。白い蔦のような氷が、捕食者の筋肉質な脚を絡め取っていく。


 わずか数秒の拘束だったが、それで充分だった。アリエルは立ち上がるよりも早く右手を前に突き出し、極限まで密度を高めた〈氷槍〉を形成し、間髪を入れずに撃ち放つ。


 それは空気が悲鳴を上げる速度で一直線に飛び、捕食者の頭部を貫いた。乾いた破裂音のあと、漆黒の血が弧を描いて飛び散る否や、煙のように蒸発していく。


 捕食者の巨体は姿勢を崩しながら揺れたが、それでも倒れなかった。失われた頭部の断面では奇妙な肉塊が蠢き、泡立つように盛り上がる。やがてそれは歪な形を――頭部らしき輪郭を形作りながらも、依然として顔の構造には至らないまま、深黒のひとつ眼が開かれる。そして捕食者は足元の氷を砕き、低い姿勢で再び突進してくる。


 その動きに呼応するように、アリエルは収納空間から〈ダレンゴズの面頬〉を取り出し、口元に装着する。黒を基調に、濃紅(こいくれない)が血のように滲む面頬は、生き物めいた動きで形を変えて頭部を包み込んでいく。


 頬から顎へと鋭い牙が突き出し、側頭部からは魚人の背鰭(せびれ)を思わせる鋭い(ひれ)が形成され、首元には赤みを帯びた(えら)が浮かび上がった。その瞬間、周囲の音が遠ざかっていくのを感じる。耳に届くのは、水底から響くような低い太鼓の音だけ。それは腹の奥で鈍く反響し、鼓膜を内側から震わせる。


 その響きに重なるように、寄せては返す波の音が耳を打つ。波は荒れ狂い、容赦なく意識を呑み込んでいく。太鼓の振動は骨にまで染み渡り、波のうねりは心の深層を侵食する。心臓は早鐘を打ち、血液は()けるような熱を帯びていく。


 そのなかで全身の感覚が極限まで研ぎ澄まされ、視界は異様なほど鮮明になる。身体能力も向上し、獣めいた残忍な本能が脳髄を支配する。やがて、すべての感覚がひとつに収束していく――戦いへの渇望だ。


 アリエルが駆け出したのを見ると、テリーは腰に手を回す――けれど矢筒はすでに空だった。逡巡することなく弓を手放すと、剣帯から鞘ごと剣を抜き取り、アリエルに向けて投げ放つ。


 アリエルは眼前に迫る捕食者から視線を逸らさず、飛来する剣の影を視界の端で捉える。片手を伸ばして正確に柄を掴み取ると、そのまま滑らかに鞘を払う。鋼の刃が、地底湖の燐光を一瞬だけ反射して青白く煌めく。


 つぎの瞬間、捕食者の前肢が薙ぎ払われる。空気が押し潰されていくような圧が迫るなか、アリエルは身を沈め紙一重のところで攻撃を躱し、捕食者の懐に踏み込む。足元で地面がひび割れ、無数の破片が脛を打つ。その勢いのまま、剣を横一文字に振り抜いた。


 刃は確かに捕食者の腹部を裂いた――はずだった。しかし再生した脇腹の皮膚は岩を思わせるほど硬質で、耳障りな破断音とともに刃は半ばから砕け、無数の破片が飛び散る。


 アリエルは手にしていた柄を即座に放り捨て、空いた右手に膨大な呪素を集中させると、掌底を叩き込むように捕食者の腹部を打ち抜いた。衝撃は骨に届き、呪力は肉と臓腑を内側から破壊していく。生物であれば即死に至るはずの一撃だったが、捕食者のひとつ眼は殺意に満ちたままだった。


 低い唸り声が聞こえたかと思うと、丸太のような太い腕が振り下ろされた。視界いっぱいを覆う黒い影――それが直撃した瞬間、鈍い衝撃が全身を突き抜け、アリエルの身体は空中へ弾き飛ばされる。


 しかし落下の最中に腰を捻り両手を地面に突きつけると、後転飛びの要領で受け身を取り、雪煙の中を滑るようにして着地した。


〈ダレンゴズの面頬〉の加護が身体を包んでいたので、痛みは骨に響く鈍い感覚としてわずかに残る程度だったが、アリエルは〈治療の護符〉を取り出して躊躇うことなく胸に押し当てる。護符が発光しながら灰に変わると、傷口が熱を帯び、ゆっくりと治癒されていった。


 その間にも、捕食者は血と泡の混じった涎を垂らしながら低く唸っていた。深黒の瞳孔は獲物を射抜くように、アリエルを捉えたまま微動だにしない。その喉から響く濁った呼吸は、その場に漂う空気をさらに重く、捕食者の殺意に染めていくかのようだった。

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鰓は鰓呼吸機能とかあるんだろうか?他者が面をつけると石仮面みたいに顔に張り付いてきて無理に剥がすと顔面が毟りとられそう 泉の水は軍事目的での生物兵器の研究作成それに政治目的なら政敵に対する未知なる変異…
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