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神々を継ぐもの  作者: パウロ・ハタナカ
第二部・第一章 異界 前編
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60〈時の眠る園〉


 氷と崩落した岩塊(がんかい)が累々と積み重なる薄暗い通路を、アリエルたちは慎重に進んでいた。霜に縁取られた岩の裂け目からは、冷たい空気が絶えず流れ込み、息を吐くたびに白く曇る。長い沈黙のあと、通路の先に重厚な石材で組まれた階段が姿をあらわした。


 氷河の底へと続く階段は、崩れた氷塊の間から顔を覗かせるようにして、異様な姿を今にとどめている。その両脇には、風化してもなお威厳を保つ石像が整然と並び、訪れる者を睨み下ろしている。


 その眼差しは過去の支配者たちの残像か――あるいは、今もなおこの地を見張る者たち執念を宿しているかのようにも見えた。


 獣の姿を象った像や、人の頭部を持つ異形の生物、長く尾を引く蛇のような化け物も確認できた。それらは、この地を支配していた種族によって神格化された存在なのかもしれない。あるいは、混沌から這い出てきた脅威だったのかもしれない。


 その輪郭は異様なほど精緻で、数世紀もの間、誰にも管理されることなく地底に放置されていたとは思えないほど原形を保っていた。


 足元の階段は、一段一段が広く、高く造られている。人間の歩幅には合わず、上るにも降りるにも不自然な姿勢を強いられた。氷に覆われた段のいくつかは凍りつき、わずかに傾斜した床の上を歩くだけでも、重心を誤れば滑落しかねない。いずれにせよ、異種族の築いた遺跡であることは、もはや疑いようがなかった。


 周囲に捕食者の気配は感じられなかったが、気を緩めるわけにはいかない。ふたりは足を踏み出すたび、周囲の動きや音に意識を集中させ、わずかな物音にも神経を尖らせていた。


 縄張りに侵入したことを、あの獣が察知していないはずがない。この異様な静寂は、嵐の前の静けさなのかもしれない。やがて階段の終わりが見えてくる。


 ふたりの眼前に広がったのは、氷河の底にぽっかりと口を開けた大空洞と荘厳な都市遺跡だった。空洞の天井を支えるのは、数えきれないほどの石柱だ。一本一本が建物ほどの太さを持ち、天井に向かって聳えている。根元には、亀裂の走った氷が張り付き、都市そのものが凍てついた記憶を抱えているかのようだった。


 空気は冷たく、重い。歩くたびに足音が吸い込まれるように消えていく。名もなき偉大な都市は氷に覆われていたが、整然としていて、通りは縦横に交差していた。足元には石畳が敷かれ、隙間に白い石が埋め込まれているのが見えた。それらは微かな光を反射し、視認性を高めているようだった。


 通りの両脇には低い建物が並んでいた。その多くは氷に覆われ、あるものは完全に氷塊に呑み込まれている。それらの建物の壁面には、彫刻や複雑な模様が施されていて、この地にかつて根付いていた文化の深さを物語っているようでもあった。


 いくつかの建物は健在で、いつでも探索できるような状態だった。そこには、手付かずの遺物が眠っているのかもしれない。


 探索の衝動を抑え、ふたりは可能な限り見通しが利き、戦闘に適した場所を探しながら捕食者の棲み処を特定することを優先した。あの異常な再生能力――呪素(じゅそ)を秘めた肉体の秘密は、この地のどこかに埋もれている。不確かな予感がアリエルを導く。


 薄明かりに照らされた大通りに足を踏み入れる。天井は暗闇に沈み込むほど高く、ひび割れた氷河を通して微かな雪と、青白い光芒が射し込んでいた。青々とした氷の層の中で光は乱反射し、揺らめくように広がっていく。その輝きは柔らかくも冷ややかで、都市全体を静謐な光で包み込んでいく。


 石造りの門を抜けた先に、開けた広場があらわれた。中心には氷に呑まれた噴水があり、その周囲には石像が立ち並んでいる。噴水の縁は厚い氷に覆われ、水はとうの昔に凍りついていたが、かつてここが市場の中心だったことを思わせる構造が周囲に残っていた。


 アリエルは〈痕跡感知〉の術を行使しながら捕食者の痕跡を探る。するとすぐに、視界の端に奇妙な呪素の揺らぎを捉えた。テリーが弓を手に周囲を警戒するなか、アリエルはしゃがみ込み、薄く堆積した雪に染み込んだ血液を指先でなぞる。


 重い何かを引き()ったような痕が残されていた。捕食者が獲物を棲み処に持ち帰った痕跡だろうか。痕跡は広場を抜け、狭い路地へと続いていた。その先には、氷の重みと落石によって半ば崩れた建物が見えていた。氷の壁に囲まれた迷路のような通路の奥に、捕食者の棲み処があるのかもしれない。


 ふたりは一度も言葉を交わすことなく、ただ視線を合わせたあと、氷に覆われた都市の奥へと踏み込んでいった。


 都市の外縁、岩壁が複雑に崩落した一角で、ようやくそれを見つけた。捕食者の棲み処だ。そこは岩と氷に囲まれた空間で、都市の存在に怯え、その威容から身を隠すように築かれた陰鬱な場所に見えた。


 その周囲には、大小さまざまな骨と毛皮が散乱している。多くは熊や狼といった野生の獣のものだったが、まだ新しい死骸には見覚えがあった。野営地が襲撃された際に姿を消した駄獣の一頭──その無惨な亡骸が、半ば雪に埋もれた状態で横たわっていた。


 皮膚は裂け、内臓は荒々しく食い散らかされていたが、原形はまだ残されていた。駄獣が絶命した直後に運ばれ、冷気のなかで急速に凍結したのだと分かった。腐臭はほとんど感じられなかったが、その静けさが(かえ)って異様な雰囲気を醸し出していた。


 氷に覆われた天井の隙間から、白く濁った光が差し込んでいた。ここでは風の音すらほとんど聞こえない。ただ、どこからか氷河が砕ける地鳴りのような音が断続的に響いてくるだけだった。


 アリエルは慎重に歩を進め、捕食者の呪素が微かに残された棲み処の周囲を観察する。いくら異常な生命力を備えていようとも――想像を絶する身体能力を持ち合わせていても、無尽蔵に動き回れるわけではない。


 あの怪物は片腕を失い、無数の矢を受け、多量の血を流していた。いかに呪素を宿した肉体であっても、限界はあるはずだ。そうでなければ、この世界におけるあらゆる(ことわり)が否定されることになる。


 テリーが背後で弦に手を添えて警戒を強めるなか、アリエルもまた、捕食者が近くに潜んでいる気配を感じ取っていた。すぐに襲われる心配はないだろうが、警戒するに越したことはない。


 アリエルはしゃがみ込むと、地面に注意深く目を凝らす。積雪の下に、わずかに圧されたような窪みが岩壁の縁に沿って続いていた。目に呪素を集め、集中しながら〈痕跡感知〉を発動すると、視界の中で赤紫色の(もや)が揺らめく。その靄は風に舞うようにして、岩の隙間へと吸い込まれていった。


 立ち上がると、地面に残された無数の死骸から離れて岩壁のそばまで歩み寄る。すると、暗闇へと伸びる裂け目が確認できた。その奥からは、微かな冷気と呪素を含んだ風が吹き込んできていた。音はなく、漆黒に染まり、覗き込んでも奥行きは掴めない。けれど、その先に空間が広がっているのは確かだった。


「こっちだ」

 テリーに声をかけたあと、慎重に岩壁の裂け目へと足を踏み入れる。


 通路は狭く、岩壁の間を縫うように進んでいく。道幅に余裕はないが、捕食者の巨体でも身をよじれば通れるほどの隙間があった。


 滑りそうな足元を確かめながら、ふたりは慎重に進んでいく。その暗がりを進むにつれて、呪素の濃度が徐々に高まっていくのが感じられた。冷たい空気が頬をかすめるたび、鋭い針に触れるような感覚が走る。空間そのものが呪素に満たされている──そんな錯覚に囚われるほどだった。


 やがて岩壁の裂け目は開け、視界が一気に広がる。そこには、まるで神話の一節から抜き取ったかのような景観が広がっていた。


 天井は高く、その全面が氷河に覆われていた。氷の表面には不規則な亀裂が走り、そこから青白い光が射し込んでいた。厚い氷河を透過して届く光は、空間全体を幽玄な青に染め上げていた。


 ふたりの正面には、広大な地底湖が横たわっていた。その周囲には見慣れない花が咲き、水面は完全な静寂を保ち、波ひとつ立っていない。奇妙なことに、その水は微かに発光していた。淡い青の燐光が水底から湧き上がるように揺らめき、まるで水そのものが生きているかのように見えた。


〝時の眠る園〟と呼ばれる場所が実在するのなら、まさにこの場所のことなのだろう。アリエルのとなりに立っていたテリーが小声でつぶやく。


『……まさか、あれは〝エーテルの泉〟なのですか……?』


 それが何であれ、地下水と共に大量の呪素が溢れ出しているのは間違いなかった。そう思った瞬間だった。ふたりの背後――岩壁の裂け目の奥から捕食者の咆哮が轟いた。怒りと敵意に満ちた咆哮。縄張りを荒らされた捕食者が、その矜持を傷つけられ、激昂した声でもあった。


 空気が震え、周囲の氷が軋む。ふたりは同時に振り向き、武器を構える。捕食者が、来る。その咆哮が告げていたのは、怒りでも警告でもない――明確な、そして絶対的な殺意だった。


 岩壁の裂け目が激しく揺れ、氷と岩の破片が弾け飛ぶ。そして暗闇の奥から、異形の影が這い出してきた。無数の傷口からは黒ずんだ血が滴り、毛皮に張り付いた氷は血でまだらに染まっている。それでもなお、その身体は異様なほど膨れ上がり息づいていた。片腕を失っているというのに、筋肉は異常な膨張を見せ、四肢の動きに迷いはない。


 狼とも熊ともつかない獣の頭部は、知性が宿っていることを(ほの)めかすかのように歪んでいた。皮膚は裂け、瞳孔は異様に拡張し、怒りと憎悪が混じり合った醜悪な表情を浮かべている。我々が地底湖へと侵入したこと――この地下に眠る秘密に近づいたことが、気に入らなかったのだろう。


 岩を崩し、氷を砕きながら異形が突き進んでくる。アリエルはすかさず体内の呪素を解き放ち、周囲の冷気を集めて大気中の水分を一気に氷結させる。無数の氷塊が形成され、鋭利な〈氷礫(ひょうれき)〉に変わり宙に浮かぶと、間を置かずに連続して射出されていく。


 鋭い風切り音が地底の空洞に響き渡る。〈氷礫〉は正確に異形の頭部を狙って突き進む。しかし捕食者はその巨体に見合わない俊敏さを発揮した。それはアリエルの予測を上回る動きだった。


 異形は、さらに太く強靭になった脚で地面を蹴り、左右に跳躍しながら氷の礫を避けていく。〈氷礫〉はその身体の端を掠め、皮膚を裂いたが、致命傷には至らない。捕食者は一気に距離を詰めると、怒りに満ちた唸り声とともに、頭を突き出して突進してきた。


 そこに、テリーが放った矢が飛んでくる。一本、二本、三本。すべて急所を正確に狙った矢だったが、異形は意に介することなく突進してきた。一本は見事に避けられ、もう一本は首筋に突き刺さり、最後の一本は太腿の筋を裂いた。しかし、まるで痛みを感じていないかのように捕食者からの反応はない。


 そして次の瞬間、咆哮とともに巨体が跳躍し、アリエルに襲いかかる。回避は間に合わなかった。恐るべき打撃力を伴った体当たりを、なす術なく受けることになった。


 岩塊に叩きつけられたような痛みが走り、アリエルの身体は紙のように吹き飛ばされる。何度も地面に叩きつけられ、氷の表面を滑り、岩壁に後頭部と背中を打ちつけるようにしてようやく動きが止まる。


 身体の節々が痛みに悲鳴をあげ、頭が焼けつくように痛んだ。神経を抉られるような冷たい痛みに、肋骨にヒビが入ったことを自覚する。肺に空気を入れようとして喘ぐように呼吸し、なんとか立ち上がろうとする。


 すると、視界の端にテリーを睨みつける捕食者の姿が映った。その醜い顔は怒りに歪み、涎を垂らし、牙と牙の間からは腐臭を帯びた呼気が漏れていた。

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