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神々を継ぐもの  作者: パウロ・ハタナカ
第二部・第一章 異界 前編
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59


 息をつめ、倒壊した石柱の陰に隠れていた捕食者の出方を(うかが)う。緊張のせいか、その時間は異様なほど長く感じられた。


 それまで吹き付けていた強風が止み、空気が重たく沈黙する。その緊張を破ったのは、突如として視界を横切った氷塊だった。拳ほどの大きさの氷の塊が、空気を裂くように鋭く飛来する。それは呪術によって形成されたものではなく、純粋な腕の力による投擲だったが、捕食者の強靭な筋肉から生み出される威力は計り知れない。


 その質量と速度は充分な殺傷力を備えていた。アリエルはほとんど反射的に身体をひねって飛来する氷塊を避けると、そのまま横に飛び退く。


 氷塊は背後の瓦礫に直撃して砕け散った。周囲に鋭い破片が飛び散り、空気を切り裂く音が耳元に響く。着地も待たず、再び氷の塊が放たれる。直撃すれば致命傷になる――アリエルは転がるように横へ飛び退き、辛うじて避けていく。


 そこに間髪を入れずに、追い打ちのように氷塊が飛来する。その攻撃を躱している最中だった。視線の先、倒壊した石柱の陰から、巨大な影が地を蹴って跳び出してくるのが見えた。


 捕食者は、かつて見たときよりもさらに醜く、異様な姿へと変貌していた。灰黒色(かいこくしょく)の体毛は、黒々とした血液に濡れ、粘り気を帯びて鈍く光っている。全身には複数の矢が突き刺さり、傷口からは蒸気のような熱が立ち昇っていた。


 最も目を引いたのは――切断されていたはずの右腕だった。そこには、氷で形成された異物が、まるで腕の延長のように縫い付けられていた。それは単なる氷柱ではなく、槍のように鋭く尖り、表面には細かな亀裂が走っている。


 その亀裂の隙間からは、微かな呪素が滲み出ていた。氷の内部では血液のような暗い影がゆらめいて蠢いている。捕食者は自らの呪力を使って、この氷塊を腕に縫い付けているのかもしれない。それは氷の塊であると同時に、呪素によって形成された凶器だった。


 いずれにせよ、あの氷で攻撃されたら、ひとたまりもないないだろう。反射的に身を翻し、横へと飛び退く。そこに(つち)のように振り下ろされた氷の腕が、凄まじい音と共に地面を叩きつけた。


 凍結した地表は、中心から放射状にひび割れていき、霜が跳ねて氷が砕ける。衝撃の余波が足元に伝わり、地面が震える。


 アリエルはすかさず、肩から斜め掛けにした帯革から棒手裏剣を引き抜き、捕食者の眼窩を正確に狙い手裏剣を打つ。しかし捕食者は直撃の寸前で首を捻り、恐るべき反射神経で手裏剣を回避した。


 そのまま捕食者は大地を蹴ると、凄まじい勢いで突進してくる。足元で砕けた霜が飛び散り、雪煙が視界を遮っていく。


 アリエルが体内の呪素を練り上げていくと、周囲の冷気が呪素に反応し、凍り付きながら鋭利な氷の礫へと変容していく。そして後方に飛び退きながら、無数の〈氷礫(ひょうれき)〉を撃ち込む。


 鋭い礫が血に飢えた怪物の胴体を貫き、血飛沫が雪上に散る。しかし、それでも捕食者の突進を止めることはできない。氷の礫で傷つきながらも、その脚力は衰えず、肉を裂かれても行動を封じるには至らなかった。


 怪物の眼には、明確な殺意が宿っていた。呪力をものともせず迫るその姿に、アリエルは執念じみた意志さえ感じ取った。


 捕食者との距離は、もはや数歩とない。氷に覆われた腕が眼前に振り下ろされる。アリエルは打撃を覚悟し、防御の構えを取りながら全身に呪素を張りめぐらせる。


 しかし、その瞬間――鋭い風切り音を立てながら、一本の矢が捕食者の太腿に深く突き刺さった。続けざまに、二本、三本と矢が連なり、筋肉を正確に貫いていく。それがテリーの放った矢であることは、すぐに分かった。


 捕食者は咆哮にも似た苦痛の声を上げるが、その動きは明らかに鈍る。いかに強靭な肉体であっても、痛みと筋繊維の断裂は無視できなかった。


 その一瞬の隙を逃さず、アリエルはすぐさま後退し、両手を地面に押し当てた。地を這うように呪素が流れ込み、冷気を帯びた呪力が地中を駆けていく。直後、捕食者の足元から無数の氷の杭が突き出すように伸び、その歪な脚部を貫いた。


 杭の先端が肉を裂き、血液が滲む間もなく凍結し、捕食者の動きを確実に封じていく。そこに容赦なく矢が放たれ、次々と怪物の身体に突き立てられていく。しかし毛皮と皮膚の層はあまりにも厚く、矢は表層で止まるか、筋肉を裂くだけで内臓には届かない。致命傷には至らず、捕食者はなおも動きを止めなかった。


 それでも攻撃の手を緩めるわけにはいかない。アリエルは駆けながら虚空に手を伸ばすと、〈収納空間〉から両刃の斧を引き抜いた。


 重量のある斧を手にしても、呪力で強化された肉体の勢いは止まらない。そのまま跳躍し、空中で斧を高く振りかぶる。そして軌道を定め、全身の力を込めて振り下ろした。


 捕食者は刃を避けようとして身をよじるが、氷の杭に両脚を縫いつけられていて、黒々とした血液は凍りつき、脚を引き抜くことすら容易ではなくなっていた。怒りに満ちた咆哮と共に無理やり身体を捻るが、もはや両腕で頭部を守る以外にできることはなかった。


 斧の刃が迫る。まず、氷で形成された異様な腕が直撃を受けて粉砕され、無数の破片が空中に舞った。そのまま、もう片方の腕に刃が食い込み、筋肉を裂き、骨に当たって鈍い手応えが返ってくる。


 けれど、やはり一撃では仕留めきれなかった。アリエルは斧を引き抜こうと力を込めるが、捕食者の筋肉が収縮し、刃を咥え込むように固定していた。ここで時間をかければ反撃を受ける――そう判断すると躊躇(ためら)うことなく斧を手放し、捕食者の胴体を蹴るようにして後方に飛ぶ。


 つぎの瞬間、捕食者は怒りに我を失ったように咆哮し、拘束された足を強引に引き千切るようにして氷を砕き、身を振り乱しながら突進してくる。地面に亀裂が走り、雪煙と砕けた氷が乱れ飛び視界が白く染まる。アリエルは身を低くしながら横に跳び、転がるようにしてその猛攻を回避した。


 追撃を警戒して身構えるが、捕食者は振り返ることなく、そのまま崖の縁まで一気に駆け抜ける。捕食者が跳躍した瞬間、咄嗟に〈氷礫〉を撃ち込もうとするが、その巨体はすでに崖の下に消えていた。


 アリエルは呼吸を整えながら、しばらくその場に立ち尽くしていた。捕食者は形勢が不利になったことを察して、再び逃走を選んだのだろう。けれど、それは一時的な後退にすぎない。深い殺意を宿した眼は、まだ戦意を失っていなかった。


 崖の縁までやってきたテリーは、身を乗り出すようにして陽光を反射する山肌をじっと見つめていた。足元の崖は深く切れ落ち、岩肌は黒々としていて、雪すら積もっていない。そして捕食者の姿も、もはやどこにもなかった。


『厄介なことになりましたね……野営地のことが心配です』

 テリーは振り返り、心配そうな目でアリエルの表情を確認した。


 あの怪物が再び姿をあらわすとすれば、最も無防備な標的――すなわち野営地が襲撃される可能性が高い。それは当然の予想だった。


 アリエルはテリーの言葉にうなずきながらも、内心では野営地が攻撃される心配はないと考えていた。


「心配ない。あいつは、すぐに戻ってくる」


『どうしてですか?』

 テリーの目に、わずかな戸惑いが浮かんでいた。それは、確信を帯びたアリエルの言葉に対して、説明を求めるような視線でもあった。


 アリエルは周囲の音に耳を澄ませていたが、崖下からは何の気配も感じられなかった。吹き上げる寒風だけが、肌を刺すように通り過ぎていく。


「あの捕食者は人間のように知恵が回る。それは認める。けど、所詮は獣だ。野営地を襲うつもりなら、すでにそうしているはずだ。けれど、あいつはそうしなかった」


 テリーが怪訝そうに眉をひそめる。

『それは、どういう――?』


「あいつは、この荒原の支配者だ。食物連鎖の頂点に立つ存在でもある。俺たちは、その捕食者の縄張りに足を踏み入れてしまった。あいつは、それを快く思っていない。それどころか、自分こそがこの地の支配者だと誇示しようとしている」


 アリエルは言葉を切ると、周囲に目を走らせた。そして地下遺跡へと続く巨大な横穴に視線を止める。テリーは目を細め、思案するようにその横顔を見つる。


『それなら……むしろ野営地が狙われてもおかしくないはずです』


「それは違う」

 アリエルの声は落ち着いていて、それでいて揺るぎない確信に満ちていた。


「あの怪物が求めているのは、もはや〝狩りの快楽〟じゃない。今あいつが欲しているのは、〝支配者の証明〟だ」


 アリエルは地底に続く横穴を見つめながら続けた。


「俺たちが怪物の棲み処に侵入すれば、あいつは黙っていられない。自分の縄張りを侵されたことを、決して許さない。だから、嫌でも後を追ってくるはずだ。この地の支配者としての矜持――あるいは、傲慢さがそれを許さないんだ」


 山腹にぽっかりと口を開けた巨大な横穴は、崩壊し、無数の遺構のなかに埋もれていた。荘厳な石柱は時の中で風化し、氷に呑まれた石像が沈黙のまま佇み、崩れかけた門柱は過去の栄華を物語るように傾いていた。


「あの怪物が、もはやこの地の支配者ではないことを見せつけるんだ。これは、ある種の挑戦でもある。そして俺たちに痛めつけられた怪物は、この誘いに抗うことはできない」


 テリーは数秒の沈黙のあと、ふっと息を吐いた。


『所詮は、獣ということですか……つまり、今回は我々が自ら囮になって捕食者を遺跡に誘い出すのですね』


「そうだ」

 ふたりは互いに視線を交わしたあと、すぐさま移動の準備に取り掛かった。


 アリエルは戦闘で使用した斧を探したが、捕食者の腕に刺さったままだったのか、周囲を見回しても見つからなかった。テリーは矢筒の中身を確認し、弓を背に掛ける。冷たい風が吹き込むなか、ふたりは言葉を交わすことなく遺跡の入り口に近づく。


 周囲は不気味なほど静まり返っていた。暗闇だけが口を開け、ふたりを待ち構えているかのようだった。横穴に足を踏み入れる瞬間、背後で風が一層強くなり、ふたりの身体を揺らした。まるで、外の世界が引き止めようとしているかのようだった。それでも、ふたりは臆することなく捕食者の領域に向かって足を踏み出した。

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