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山腹を覆う薄い雲の切れ間から差し込む微かな光が、雪の斜面を照らすなか、野営地を離れたアリエルは遺跡へと続く険しい道に足を踏み入れていた。
雪に沈む足音に注意を払い、呼吸音にすら気をつかう。冷気は昨夜よりも厳しく、皮膚の下を温かな血液が流れるのを感じるほどだったが、風の流れと周囲の変化に意識を集中させる。
やがて足を止めると、目に呪素を集めながら〈痕跡感知〉を発動する。そして瞳を深紅に明滅させながら、遠くを見つめる。すると風に混じる微かな呪素の残滓が可視化され、目の前に広がる景色が変化していくのが分かった。
透明な空気の中に、異質な色彩が浮かび上がる。それは視界の中央で揺れる赤紫色の煙のようであり、熱が過ぎ去ったあとの空気の揺らぎのようなものだった。捕食者が残した呪素と生命の痕跡だ。それは地下遺跡へと続く山腹から降りてきて、野営地を取り巻くいくつかの罠と重なっていた。
アリエルは身を低くしながら周囲を観察し、脅威になるような生命の気配が近くにないことが分かると、仕掛けていた罠を確認しに向かう。
最も遠く、岩と堆雪が複雑に入り組んだ場所まで行くと、氷の槍衾を仕込んだ落とし穴が見えてきた。大小さまざまな岩が転がる場所に、小さく穿たれた暗い穴がある。周囲には乱れた足跡が残されていて、何かがその罠にかかった痕跡を示していた。
落とし穴の縁にしゃがみ込み、さっと雪を払う。氷の槍のいくつかは折れていて、穴の底に転がっている。砕けた氷片には、暗く濁った血液が付着していた。黒に近いその色は、明らかに人間のものではない。ほとんど凝固していたが、高い粘度を保ったまま滴り落ちている血も確認できる。
血液の異常だろうか……あるいは、何か別の理由があるのかもしれない。捕食者は、おそらく何の警戒もせずにここを通ったのだろう。罠の存在に気づかなかったのかもしれないし、別の何かに注意を向けていたのかもしれない。
いずれにせよ、捕食者は落とし穴に脚を取られ、杭のように突き出す無数の氷の槍によって負傷した。
明滅する目を細めながら痕跡の流れを追う。捕食者は確かに負傷していたようだ。しばらくの間、足を引きずるようにして歩いていた形跡が見つかる。地表に残る呪素の残滓は足跡とともに不規則に歪み、痛みに苛まれていたことを示していた。
足元の雪をそっと払いのけると、薄く滲んだ血液が雪面に散っているのが見えた。しかし、すぐに足跡は途絶えてしまう。捕食者は傷つきながらも、〈痕跡感知〉でも追えないように呪素の痕跡を消し去っていた。
呪素を遮断するか、霧散させる手段を持っているのかもしれない。アリエルは雪原を見渡す。捕食者の気配はなく、吹き荒ぶ風の音だけが聞こえてくる。
罠は確かに作用した。けれど、それは捕食者の動きを止めるものではなく、驚かせ、傷つけただけに過ぎなかった。捕食者にとって、罠にかかり自らが傷を負うというのは、もしかしたら初めての経験だったのかもしれない。だからこそ、足跡の揺れは混乱を示していた。しかしそれは、今後の襲撃がより慎重かつ執拗になる可能性を意味していた。
アリエルは立ち上がると、背後の斜面に視線を向けた。雲の切れ間からは、いくつもの光芒が射し込み、遠くの氷河が鈍い光を反射していた。世界は美しく、冷たく、静かで、そして容赦がなかった。この地で流された血も、やがて雪に埋もれて消えていくのだろう。
「やれやれ……」
そっとため息をつくと、氷雪に覆われた斜面を注意深く下っていく。
薄く積もった雪の下には、自ら仕掛けた罠がいくつも眠っている。視認しにくい位置に設置していたので、どれも慎重に避けなければならなかった。足を取られれば、ただでは済まないだろう。
野営地に戻る途中、ふと立ち止まる。罠を仕掛け直そうかと考えたが、同じ罠は二度と通用しないだろう。それに――と思い出す。あの異形の存在は、強靭な脚力を持ち、腕の間にある飛膜を使い、地上からの攻撃を回避しながら野営地に接近することができた。
いくつかの罠に脚を取られたとはいえ、それは偶然の結果でしかなかった。もし次にあらわれるとしたら、足元に注意しながら接近してくる。
地面に罠を仕掛けることは、もはや意味をなさないのかもしれない。しかし捕食者を傷つけるためではなく、接近を知らせる手段としてなら話は別だ。
アリエルは野営地に戻るとすぐに狩人たちを呼び集め、簡潔に意図を伝えた。彼らは言葉少なにうなずき、手早く装備を整えていく。その際、蝋引きされた革紐を荷物から取り出した。
これは狩人たちが日常的に携行しているもので、水や冷気に強く、耐久性にも優れていた。アリエルはその革紐を使い、新たな鳴子を張りめぐらせることにした。ただし、これまでのように足元の低い位置ではなく、より高い場所に設ける必要があった。
野営地の周囲には、風化によって崩れた巨石がいくつも転がっていた。アリエルはその岩を利用し、まるで蜘蛛の巣のように革紐を高所へ張り巡らせていく。風を遮る岩陰や、跳躍して接近する可能性のある経路に絞り、音が響きやすいよう構造にも工夫していく。
金属片や削った骨を蝋引き紐に通し、動きがあればそれらが石に当たって澄んだ高音を発する仕組みだ。雪と氷の静けさに包まれたこの環境では、わずかな音も逃さない。
作業は数時間に及んだが、アリエルと狩人たちは集中を切らすことなく、手際よく野営地を囲うように罠を配置していった。これで、どの方向から侵入があっても、接近の兆候を察知して即座に弓で応戦することができる。
これまで大量に消費されていた矢は、アリエルの〈収納空間〉に保管されていたものによって補充されていた。質は悪いが、今は数が必要だった。
新たに用意した罠は殺傷を目的としたものではないが、音で反撃の時間を稼ぐための仕掛けだった。相手がどんな手段で接近しようとも、必ず音が生じる。これは相手の優位性を奪い取るための策だった。
野営地へ戻る途中、彼らは地面に仕掛けられた罠を避けながら慎重に歩いた。その間にも陽の光は弱まり、空から青みが失われていく。
野営地に到着すると、篝火の煙が静かに立ち昇っているのが見えた。そのそばでは、奴隷商人に連れられてきた若い女性たちが駄獣の世話をしていた。かつて彼女たちは粗末な鎖につながれ、物のように扱われていた。今はその姿はなく、穏やかとは言えないまでも、一定の秩序が保たれているようだった。
奴隷商人によるものなのか、それとも護衛たちに殴られたのかは分からないが、袖から覗く彼女たちの腕には内出血の痕が見て取れた。衣服の下には、さらにひどい傷が隠されているのかもしれない。
それでも、少なくとも今は彼女たちを傷つける者はいなかった。奴隷商人から解放された他の者たちもまた、無言で作業を続けていた。しかし空腹を満たす食事と、寒さをしのげる場所が与えられたことで、彼らの気持ちには変化が見られた。過酷な環境のなかでも不満を口にすることなく、自分たちの役割を果たそうとしていた。
アリエルはその光景を横目で見ながら、仮設の見張り台の下で襲撃について相談していたトゥーラとテリーのもとへ向かった。罠の設置が完了したこと、敵が高所から接近する可能性があることを簡潔に報告する。ふたりはすぐに見張りの位置を調整するための話し合いを始めた。
「少し眠る」
アリエルはそう告げると、ふたりに背を向ける。休んでいる状況ではないことは分かっていたが、次の襲撃がいつ始まるか分からない以上、短い仮眠すら貴重な備えになる。
毛皮が敷き詰められた炉の近くに向かうと、腰から帯革を外し、手斧を傍らに置いたまま膝を立てた姿勢で瞼を閉じた。
どれくらい経っただろうか、岩のように重い眠りのなか、冷気が肌を刺すほど鋭くなっていることに気がつく。時折訪れる高地特有の無風状態は、まるで世界そのものが息を潜めているかのような不穏な静けさをまとっていた。
その静けさなか、アリエルは眠気を振り払うようにして瞼を開く。理由は分からない。ただ、胸の奥に奇妙な違和感があった。それが彼の神経を研ぎ澄まし、鼓動を早めていた。
すぐに立ち上がると、周囲の様子を確認しながら手探りで帯革を装着し、手斧を手に取った。半ば本能的に、戦闘に向けて身体を動かしていた。そのさい、〈収納空間〉から〈蛇刀〉を取り出して腰に差した。
足音を殺しながら見張りが立つ篝火に近づき、夜の闇が広がる野営地の外へと視線を向ける。そこにテリーと壮年の狩人が姿を見せた。周囲からは何も聞こえてこない。それでも彼らは、不吉な何かが野営地に迫ってきていることを感じ取っていた。
アリエルが黙って右手を上げると、テリーは軽くうなずき、手にしていた弓に矢をつがえた。他の狩人たちも同様に矢をつがえ、目を細めて闇の向こうを凝視する。
そのときだった──乾いた金属音が、山裾に張り巡らされた鳴子のひとつから響いてきた。続けざまに、小石が金属片を弾く甲高い音が重なる。間違いない。岩を踏み越えようとした捕食者が罠に触れた音だ。
つぎの瞬間、狩人たちは一斉に動いた。音が聞こえた方角に構えながら弓弦を引き絞り、暗闇に向かって次々と矢を放つ。風切り音が夜空を裂き、間もなくして、くぐもった呻き声が響いた。
獣でも人でもない、低く湿った異様な声。その場にいた誰もが、確かな手応えを感じていた。呻き声が聞こえるたびに、射撃は一段と激しさを増していく。しかしその数秒後、壮年の狩人が鋭い声で射撃を止めるように命じた。
矢の音が止み、野営地に沈黙が戻った。誰もが矢筒に手をかけたまま、全神経を夜の闇に向けていた。篝火に照らされて吐く息が白く浮かび、離れた位置にいる駄獣の鼻息が耳元で聞こえるほどの静けさだった。
誰ひとりとして、言葉を発しなかった。そして、また鳴子の音が響く。今度は東の斜面側、やや高所からだった。あらかじめ準備されていた可燃物――主に乾燥させた駄獣の糞に向かって火矢が放たれる。
矢は暗い空を横切り、夜の闇に朱の軌跡を描きながら所定の位置に落下した。つぎの瞬間、燃え上がる炎に照らされて、異様な生物が闇の中から姿をあらわす。
その怪物は、異常なまでに発達した脚部を持っていた。太いというより、筋肉の層が何重にも巻きついたような、歪な構造だった。数日前までは、踵を浮かせた爪先立ちの指行性だったが、いつの間にか踵をつけるように変質していた。
それを見た瞬間、アリエルは息を呑んだ。
「もしかして……進化したのか?」
氷の罠――脚部を貫いた氷の槍が、捕食者の身体を変質させる契機となったのかもしれない。それは傷口の修復ではなく、状況に〝適応〟するための変化としてあらわれた。そして骨がむき出しになった顎から覗く牙は、以前と変わらず、獲物を裂くための純粋な殺意を宿していた。
アリエルは手斧の柄を握りしめ、深く息を吐きながら体内の呪素を練り上げていく。この異様な怪物を相手に能力を隠しながら戦うことはできないだろう。彼の周囲に冷気が集まり、凍てついた世界が呪術を受け入れていくのが分かった。