表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
神々を継ぐもの  作者: パウロ・ハタナカ
第二部・第一章 異界 前編
461/501

55


 あの惨劇のあとでは、もはや雪渓の野営地に留まる理由も、留まれる根拠もなかった。捕食者に蹂躙されたこの場所は、すでに死者の地と化し、篝火の残り火ですら冷たく感じられた。誰もが眠れぬ夜を過ごし、疲労と恐怖に憔悴していたが、それでも動かねばならなかった。


 死体を処理する者、血に染まった荷物を整理する者、この場を離れるため駄獣の準備を進める者と、それぞれが無言で作業を始める。慌てることもなく、声もほとんど発せられなかった。血と臓物、そして糞尿の臭いが沈黙の中にじわじわと染み込んでいく。


 探索隊を率いるトゥーラは、生き残った奴隷商人の護衛や奴隷たちを集め、簡潔な会合を開いた。このまま雪渓を去るか、それとも探索隊と共に行動するか――選択を迫る場だった。重苦しい沈黙のなか、数人の護衛が繰り返し訴える。


「ここに留まる理由がどこにある」

「全滅するだけだ」と。


 声を荒げる者もいたが、トゥーラはすべてを無視し、ただ黙って言葉を受け流した。視線すら合わせようとはしなかった。


 欲に目が眩み雪渓にやってきた彼らとは異なり、彼女には揺るぎない信念があった。危険を承知でこの地に踏み入ったのも、すべては部族のためだった。


 ルゥスガンドと正式な契約のもとに合意された任務を完遂しなければ、部族に未来がないことを彼女は理解していた。ここで退けば報酬は失われ、遠くない未来に部族は滅びる。それを知りながら、荒れ果てた何もない地で細々と生きることになる。


 おめおめと逃げ帰って生き残れたとしても、それは意味のないことだったのだ。そして、あの捕食者が追ってこないという保証もどこにも存在しない。ならば、この地に踏みとどまるしかない。彼女の覚悟は、最初から揺るぎないものだった。


 とはいえ、護衛たちの不満が限界に達しつつあることは、トゥーラ自身も理解していた。探索隊の支援なしには、雪原を越えて帰還することなど不可能だと分かっていたからこそ、苛立ちと不安をぶつけてきたのだ。


 しかし彼らは足手まといであり、何より信用ならなかった。実際、昨夜の襲撃時には雇い主を見捨てて逃げ出していた。仲間のために血を流す覚悟もなく、最も必要なときに背を向けるような者たちと、共に生き延びることなどできはしない。


 彼女の苛立ちが限界に達しようとしていた、ちょうどそのときだった。ふらりとテリーが前に出るのが見えた。彼は黙って腰に下げた剣の柄に手をかけると、躊躇(ためら)うことなく一気に抜き払った。


 つぎの瞬間、最も口うるさく叫んでいた護衛の首が切断され、薄暗い空へ弧を描いて飛んでいくのが見えた。血飛沫が舞い、血に濡れた首が凍てついた地面に落ちるまで、誰ひとり声を上げなかった。


 続けざまに、驚いて動けずにいたもうひとりの護衛の胸元に剣の切っ先が突き立てられる。骨を砕き、肺を貫いた感触が伝わったが、テリーの動きには一切の迷いがなかった。


 最後に残った護衛が悲鳴を上げて逃げ出そうとしたのを、テリーは見逃さなかった。地面に転がっていた手斧を拾い上げると、狙いも定めず無造作に投げ放った。斧は一直線に飛び、逃げる護衛の背中に突き刺さる。数歩よろめいた男性の身体は倒れ、そのまま動かなくなった。すべてが、ほんの数十秒のうちに終わった。


 静寂のなか、テリーは倒れた護衛の胸から剣を引き抜く。刃についた血を払うその仕草には、感情のひとかけらもなかった。撤収作業の一部として、まるで仕事の延長であるかのように振る舞う。


 それは冷酷な判断にも思えた。しかし、この過酷な土地において不和を招き、部隊を内側から崩壊させる者を放置することは自殺行為に等しかった。誰もがそれを理解していたのだろう、彼の行動を咎める者はいなかった。


 正しさとは、時に血に濡れた剣によって示されるものである。軍人として生きてきたテリーもまた、トゥーラと同じように自らの信念を貫いた。ただ、それだけのことだったのかもしれない。


 それから野営地の撤収は、ほとんど会話もなく静かに進められた。疲労と沈黙、そして死の臭いだけが、そこに残されていた。捕食者に蹂躙された記憶を引きずりながらも、人々は荷をまとめ、死体を雪に埋め、冷えきった装備を背負って出発の時を待つ。


 奴隷商人の護衛たちはいなくなったが、代わりに数人の奴隷が探索隊の一員として加わることになった。主人を失った彼らは、形式上〝自由の身〟となったのかもしれないが、それは仕事と生きる糧を失ったことにも等しかった。


 この過酷な地において、行き場のない自由は、空腹と死の恐怖を意味するにすぎなかった。彼らに残された選択肢はひとつ――探索隊に従い、生きるために一生懸命に働くことだけだった。


 捕食者の襲撃を警戒し、見張りに出ていたアリエルが野営地に戻ってきたときには、すでに撤収の準備は大方進んでいた。しかしそこには重たい空気が漂い、処理を待つ死体の数が増えていた。


 けれど、アリエルは気にもしなかった。死体が増えた理由を訊ねることすらしなかった。彼にとって最優先すべきことは、あの異形の捕食者から探索隊を守ることだった。それ以外の問題や(いさか)いは、部隊の指揮官であるトゥーラに任せていた。


 冷淡にも非情にも思える態度だったが、情に流されて判断を誤ることは、死を招く行為でもあった。なにより、彼らは仲間づきあいを楽しむために、この過酷な地へ来たのではなかった。


 誰もが己の役割を果たすことに専念していて、そこに必要とされるものは、信頼と成果だけだった。


 出発の準備が整うと、探索隊は駄獣を伴いながら慎重に雪渓を進んだ。しかしそれは、予想を遥かに超える過酷な行程だった。雪原の表面は一見、安定して見えても、その下には深く口を開いた割れ目が潜んでいることを知っていた。


 探索隊は幾度も進路を変えながら、凍てついた氷原では足場を見極めて歩かなければならず、重い荷を背負った駄獣はしばしば立ち往生した。


 ひとり先行していたアリエルは、誰にも見られないよう細心の注意を払いながら、体内の呪素(じゅそ)を操り、氷の層を形成して裂け目をつなげようとした。けれど呪術の制御が難しく、氷の橋は脆く、不安定な仕上がりとなった。


 さすがに建設隊のようにはいかなかった。彼らがいてくれたら、もっと頑丈で実用的なものが造れただろうし、どれほど移動が楽だっただろうか……しかし、ないものねだりをしても仕方のないことだった。


 日が傾きはじめるころ、一行はようやく地下遺跡の入り口がある山の麓へとたどり着いた。彼らは襲撃に備えて岩壁を背にした小さな凹地を見つけ、そこを新たな野営地とすることに決めた。


 駄獣たちは岩壁沿いに集められ、周囲にある石を黙々と運んで簡素な囲いが築かれた。かつて奴隷だった者たちは手際が良く、野営地の設営は予想よりも早く終わった。人手が増えたことで、作業の効率が良くなったのだろう。


 とはいえ、安心はできない。夜になれば再び捕食者があらわれるかもしれない。誰もが喉元に死を突きつけられているような状況だった。


 狩人たちはすぐに周囲の地形を確認し、地表にわずかに見える岩陰や草を利用して罠を張り巡らせていった。簡単な落とし穴も掘られたが、それが捕食者に通用する保証はない。実際、前夜の襲撃では多くの罠が空振りに終わっていた。それでも、獣の足を挟んで捕獲する鉄製の罠が広範囲に埋められ、鈴を鳴らす鳴子も張り巡らされた。


 狩人たちは言葉を交わすことなく、黙々と作業を続け、その場を終えると次の地点へと移動していった。


 夜が訪れ、闇に潜む何かが、再びその姿をあらわすかもしれない。言い知れない緊張が、野営地全体を包み込んでいた。篝火の灯りは最小限に抑えられ、駄獣の息遣いだけが冷たい岩壁に静かに反響していた。


 氷河を見下ろす山腹にも、夜の冷気が降りていた。雲間から覗く銀色の月が雪面を照らし、氷の断崖は鈍い光を宿していた。


 見張りに出ていたアリエルは、岩棚の縁に身を伏せ、眼下に広がる野営地とその先の雪原を見下ろしていた。山肌に吹く風は刺すように冷たく、外套の下から体温を奪っていく。その冷気のなかで目を凝らし、空気の流れと雪面の微かな乱れを読み取る。捕食者の痕跡があるかどうかを調べていたのだ。


 足跡は見つからなかったが、それが安全を意味するわけではない。捕食者は、人の感覚では測れない(ことわり)で動いている。だからこそ、アリエルも呪術に頼るしかなかった。彼は腰に吊るしていた水薬の瓶を確かめると、足元の雪を払った。いくつかの場所に罠を仕掛ける。目立たず、それでいて確実に殺すための罠だ。


 両手を地面につけると、アリエルは体内の呪素に意識を集中した。体内で練られた呪素はやがて手元の雪を()ね除け、硬い氷をえぐるように地表を削っていく。呪術によって形成された穴は腰ほどの深さしかなかったが、捕食者の脚を挟み込むには適していた。


 さらに呪素を注ぎ込んで冷気をかき集めると、穴の底に鋭利な氷の槍を複数、上方に向かって突き出すように形成する。一本一本の角度、長さ、太さを微調整しながら慎重に呪素を込めていく。罠は完璧に思えたが、いくつか懸念が残る。


 氷の槍衾(やりぶすま)は呪素によって形成されていたが、その呪素は不安定で、氷の状態を維持するには常に呪素を注ぎ込み続ける必要があった。放置すれば、やがて呪素は霧散し氷も溶け始めてしまう。


 それなら、と氷の密度を高め、呪素の逃げ場をなくす工夫も試みた。槍の中心部に空洞を設けて呪素を封じ込めて、幾層もの薄氷で覆って圧力を加える。


 それでも、完全に氷の状態を持続させるには至らなかった。そもそも呪素は空気と異なるモノだったので、当然と言えば当然なのかもしれない。だから大量の呪素を注ぎ込んで、強引に状態を維持するようにした。


 これまで、本格的に呪術を教えてくれる者はひとりもいなかった。厳しい訓練と戦いの中で、彼が編み出した呪術の多くは独学によるものだった。だからこそ、試行錯誤を重ねるしかなかった。


 本来の理に沿っていないのかもしれないし、もっと適切な方法があるのかもしれない。けれど今の彼には何も思いつかなかった。だからできることをする。死者の数を少しでも減らすために、彼は罠を張る作業を黙々と続けていた。


 八つ目の罠を張り終える頃には、指先から熱が消えていた。手袋の中で指が動かなくなる感覚を微かに覚えながら、アリエルは水薬の瓶を取り出し、静かに栓を抜く。呪素を回復させる霊薬も、いずれ尽きる。そのとき、どうするのか……その問いは、今は考えるべきではないのかもしれない。


 岩陰に身を沈め、薄明かりの中で罠の配置を確かめながら地図に書き込んでいく。地形に沿って張り巡らされた落とし穴と槍衾の数は、十五に届こうとしていた。完璧ではない。けれど、それでいい。ここは、誰にとっても完璧からは程遠い世界なのだから。


 すべての作業を終える頃、空が微かに色づき始めていた。氷河の先端が薄桃色に染まり、風の流れに微細な変化が生じている。その静寂の中、遠くで駄獣の声がぼんやりと響いた。


 どうやら、夜の間に捕食者の襲撃はなかったようだ。あれほどの殺戮と、無数の傷を負わせたからなのかもしれない。あるいは、他の獲物を見つけただけなのかもしれない。本当のところなど、誰にも分かるはずがなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ