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氷の裂け目から流れ落ちる水音が氷壁に反響するなか、アリエルたちは地面に穿たれた無数の亀裂に注意を払いながら、慎重に氷の間を進んでいく。
これまでさまざまな場所を見てきたが、まるで地底を探索しているかのような、命の危険を感じる場所だった。空間全体に漂う緊張感が肌にまとわりつき、危険な場所なのだと嫌というほど思い知らされる。
足の踏み場を一歩でも誤れば、深い氷河の底に呑まれ、命を落とすかもしれない。それに加えて、いつ捕食者に襲われてもおかしくないという状況が、精神をじわじわと消耗させていく。脅威となる生物が近くにいないと分かっていても、本能が警鐘を鳴らしてくる――そんな種類の恐怖に襲われていた。
一行の動きを遮るように岩壁があらわれたのは、氷の回廊を抜けた直後だった。どうやらアリエルたちは、大地と氷河の境界に立っているようだ。土混じりの氷壁を見ても、それは明らかだった。
その岩壁に沿って慎重に進むと、雪解け水が流れ出す大きな亀裂が見えてきて、そこに通路のような空間があるのが確認できた。
天然の洞窟のようにも見えたが、岩肌に手を触れて進むうちに、それが単なる自然物ではないことに気づく。壁や床には水の流れを導く細い溝が刻まれ、足元の岩盤も滑らかに削られていた。
氷河によって形成された地形に、明らかに人の手が加えられていた。これは自然にできた道ではなく、最初から通路として設計された空間なのだ。時折、壁面に刻まれた不可思議な模様や、岩の割れ目に打ち込まれた楔の痕跡すら見えた。
通路を進んでいくと、突然、空間が大きく開けた。氷に反射した光が遠く上方から射し込み、わずかに視界を照らす。そこは、地底に存在する空洞とは思えないほどの広さを持つ空間だった。天井は暗闇に沈み込むほど高く、視界の届く限り、氷と石に覆われた都市遺構が沈黙のなかに横たわっていた。
氷によって建物の輪郭は崩れていたが、落盤を防ぐためだろうか、そこに立ち並ぶ支柱の群れはあまりにも異様に見えた。
百を超える石柱が整然と並び、その一本一本が、まるで天を支える神の腕のように大空洞を突き上げていた。天井はあまりにも高く、支柱の先端は暗闇のなかに溶け込んでいた。どこまでが人工物で、どこからが自然なのか――その境界はすでに失われていた。いずれにせよ、氷に覆われた百を超える石柱が立ち並ぶ光景は幻想的ですらあった。
テリーとトゥーラも、その異様な光景に圧倒されながらも支柱のひとつに近づいた。幅広の柱は、大人の歩幅でも一周するのに四十歩ほど必要な規模だった。その表面には、氷に覆われながらも、象形文字に似た浮き彫りが確認できる。
単なる装飾ではない。何かしらの意味を持って刻まれたものであり、記録のようにも見えた。石柱全体にびっしりと刻まれたその文字は、あるいはこの都市の本質を記しているのかもしれない。しかし、その場にいる誰ひとりとして読み解ける者はいなかった。
どのような文明が遺したのかは分からないが、それは驚異的としか言いようがなかった。目の前に広がるこの都市遺構が地底に造られ、なぜ封印されたのか――想像することすらできない。ただひとつ確かなのは、この場所が、人の理解を超えた何者かによって築かれたということだった。
アリエルたちは、氷に閉ざされた都市遺跡の内部へと慎重に足を踏み入れていく。凍てついた大空洞に響く足音が奇妙なほど反響し、まるで何者かに見張られているかのような圧迫感を伴う。
氷に閉ざされた無人の都市――それは、ただ朽ち果てた廃墟ではなく、未だ時間が眠り続けているかのような静けさと、異様な緊張感に包まれていた。
脅威が潜んでいる可能性を考慮し、アリエルは〈気配察知〉を使い、周囲に潜んでいるかもしれない気配を探り続ける。捕食者の襲撃を想定し、三人は距離を詰めすぎず、視界を確保できる隊列で進んだ。
遺跡を眺めながら歩いていると、周囲の建造物が計画的に築かれていたことが、より明確になってくる。大空洞を支えていた石柱群は、都市の中心に向かって一定間隔で並べられていた。雪と氷に埋もれた無数の白い建造物は、塔や神殿、回廊といった都市構造の一部であることが、徐々に判明していく。
この場所が〝時の眠る園〟なのかどうかは依然として不明だったが、部族の伝承と一致する風景も確認できた。たとえば地上の氷原は、まさに〈白い荒原〉と呼ぶにふさわしい場所だった。
トゥーラが語った伝承によれば、〈白い荒原〉の先に巨大な都市が築かれ、そこには無数の白い建造物と塔が聳えていたという。それは、大空洞を支える石柱を思わせ、白い建造物の数々は、古の文明が築いた都市の遺構とも一致する。まさに今、彼らが踏み込んでいるこの地こそが、それに他ならない。
けれど、確証はない。この都市が〝時の眠る園〟なのかどうか、決定的な証拠を欠いていた。そもそも、〈白い荒原〉と呼ばれる辺境に人の影が差すことすら、数世紀ぶりのことだったのかもしれない。部族の伝承にある遺跡など、とうに忘れ去られ、誰もその存在を口にしなくなっていたのだ。
しかし、アリエルにとって重要なのはただひとつ――都市に眠る〈転移門〉の存在だった。それさえ見つかれば、遺跡の名が何であろうと構わない。都市の中心に門があるという仮定のもと、彼は氷に閉ざされた大通りを抜け、崩れた階段や氷に埋もれた街路を進んでいく。
その一方で、テリーとトゥーラは地上に通じる経路の探索に注力していた。雪と氷に支配されたこの土地では、何が起きても不思議ではない。
彼らが利用した氷の裂け目は不安定で、いつ閉ざされてもおかしくなかった。地上に戻るための道が断たれれば、この地に永遠に閉じ込められることになる。吹雪ひとつ、落盤ひとつが命を奪う土地で、慎重さを欠くことは許されなかった。
アリエルもまた、その危険性を理解していた。彼は逸る気持ちを抑え、まず出入り口の捜索を優先することにした。都市が地下に築かれたものである以上、必ず外部と繋がる通路が存在するはずだった。
時間をかけて都市の外縁にあたる岸壁の探索を続けるなか、ついに白い建材で補強された巨大な横穴を発見する。氷に呑まれかけた荘厳な門構えがあり、その奥に続く空洞では霜が煌めきながら舞い、風の通り道になっていることが分かる。人工的に築かれた通路は、単なる避難路ではなく、都市と地上とを繋ぐ本来の出入り口なのかもしれない。
未知の建材で補強された巨大な横穴の前に立ったとき、アリエルは直感的に、それがただの通路ではないと理解した。
通路の両脇には、見上げるほどの高さを持つ石像が幾体も佇んでいた。氷に包まれ、表面はところどころ削り取られていたが、獣の身体に人の顔を持つ異形の姿だと分かる。どれもが無言のまま前方を見据え、通路の暗闇を睨んでいるようだった。
この地に存在した種族を象ったものなのか、それとも神格化された存在を模した像なのかは判断できなかったが、かつて〈神々の森〉で目にした石像を思い出させた。
しかし森で見た石像の多くは、遺跡を築く際に生け贄として捧げられた人々の慰霊のために設置されていた。だが、この石像は根本的に性質が異なる。祀られているというよりも、この場所を侵す者に対して威圧感を与えるような、どこか守護者のような雰囲気をまとっていた。
その石像のひとつひとつを仰ぎ見ながら、ゆっくりと暗い通路を進む。天井は異様に高く、滑らかな石の曲面には肋骨のような凹凸や溝が彫られていて、それが暗闇の先まで続いていた。誰かが意図して作った構造にしては、あまりに禍々しく、それでいて自然の浸食では到底説明できない造形だった。
やがて通路の先に、氷に覆われた石段があらわれる。ひとつひとつの段は幅広く、高さがある。歩幅と高低差からして、明らかに先住民とは異なる骨格を持つ存在のために築かれた階段だと理解できた。
以前、荒原に点在する遺跡のひとつで、人間の背丈の倍以上ある種族の幻影を目にしたことがあるが、おそらくこの都市は彼らの手によって築かれたのだろう。
足元の氷で滑らないように注意しながら一段ずつ上がっていくと、やがて前方から青白い光が差し込んでくるのが見えた。地上だ――アリエルたちはそう確信し、より警戒を強めながら、光の先へと歩を進めた。
地底への入り口は、すでに崩落していたのだろう。巨大な岩石と氷の間を通って暗い洞窟を抜け、断崖の縁に出ると冷たい風が頬を叩いた。そこは、氷原を見下ろす山の中腹に開いた岩の裂け目だった。
振り返ると、通ってきた通路が深い闇に沈み込んでいるのが見えた。眼前に広がる景色は、さらに重苦しい印象を与える。山肌の一部には、かつて都市が築かれていたことを示す構造物がいくつも確認できた。それらは崩落と氷河によって削られ、ほとんどが氷と土砂に埋もれていた。
塔や建物の上部だけが辛うじて露出していたが、街路や広場の大半は完全に氷河の下に埋もれていた。この場所で何が起きたのかは分からない。ただ、都市そのものを崩壊させるような大災害があり、すべてが失われ、完全に凍結されていた。
予期せぬ自然災害によるものなのだろうか。それとも、何者かの意志が働いた末に崩壊した――そんな印象さえ受けたが、凍りついた都市の残骸は何も語ってはくれなかった。
アリエルは突風を避けるように岩壁の影に身を寄せると、周囲の景観を冷静に観察していく。吐く息が白く霞むほどの冷気が肌を刺すなか、眼前に広がる遺構に集中する。
氷に沈んだ都市は、地上からでは詳細を把握できなかったが、山腹の崖から俯瞰することで、いくつかの主だった建造物や通路の痕跡を視認できた。彼は〈収納空間〉から羊皮紙の地図を取り出すと、細かな線で地形を写し取りながら、新たに発見した通路の入り口や氷に覆われた石段が始まる裂け目と、その周囲に立つ石像の並びを記録していく。
上空ではすでに陽が傾き、氷原に山々の長い影を落としていた。遠くの空は茜色から鉄のような灰色へと変わりつつある。まもなく陽が落ちる。遺跡の探索は一時中断し、野営地に向かう経路の確保が急務となった。
アリエルは最後にもう一度、都市の中心へと続く氷の谷間を確認してからテリーとトゥーラと合流し、野営地へ戻るための下山準備を手早く進めていく。装備の確認を怠ることはなかった。綱の状態、靴底の金具、砕氷斧の状態などを確かめていく。幸い、必要な道具は揃っていて、体力の消耗もまだ致命的ではなかった。
断崖の側面には、人の手で削ったような歪な道があり、それが山腹の低地へと伸びているように見えた。天然の地形を利用した退路であり、かつて都市の建設に使われたのかもしれない。その経路を使えば、陽が完全に落ちる前に氷原まで戻れるだろう。
そう判断すると、三人は足元の状態を確認しながら慎重に岩場を下り始めた。日没までの猶予は、ほんのわずかだった。