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神々を継ぐもの  作者: パウロ・ハタナカ
第二部・第一章 異界 前編
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52〈氷壁〉


 雪渓の岩場に設営された野営地は、もはや安全な拠点とは言い難い状況だった。捕食者による襲撃は幾度も行われていた。


 篝火の灯りが届かない暗がりに気配を感じるたびに、狩人たちは即座に矢を放ち、ときには野営地の周囲に仕掛けた罠で応戦し脅威を追い払っていたが、それでも被害を完全に防ぐことはできなかった。


 それが捕食を目的とした襲撃ではなく、消耗を誘うための威力偵察だったのかは分からない。いずれにしても、その目的は確実に達成されつつあった。狩人たちの戦意を喪失させるには充分だった。


 何日もまともに眠ることができず、緊張状態が続いたことで狩人たちの動きには精彩が失われ、疲労の色がハッキリとあらわれていた。


 探索に出るだけの体力すら残っておらず、さらに数人の仲間と駄獣を失っていたことが、事態をいっそう深刻にしていたのかもしれない。そんな状況下で氷原を探索するという行為は、もはや狂気に近かった。


 それでも、アリエルは撤退という決断を先延ばしにしていた。遺跡がまだ見つかっていないことも一因だったが、ここで探索を断念することは、これまでの旅路そのものを否定するに等しかった。そして、その決断の躊躇(ためら)いを嘲笑うかのように事故が起きた。


 一列になって氷原の裂け目(クレバス)を越えようとしていたとき、先頭を進んでいた狩人のひとりが足を滑らせ、雪に覆われた氷の断層に呑み込まれた。


 彼の身体は、滑落などの事故を未然に防ぐため、仲間たちと互いに結ばれていた縄によって支えられているはずだった。しかし落下の衝撃で縄がどこかで切れたのだろう――彼の体重の感触が途絶えた。


 アリエルはすぐに駆け寄り、深い割れ目を覗き込んだ。しかし狩人の姿は見えなかった。氷壁に射し込む光は乱反射し、深さも広さも見当がつかない。凍りついた壁のあちこちに開いた裂け目からは、滝のように雪解け水が流れ出し、まるで地の底へと呑み込まれていくようだった。


 すぐに助けを呼びに野営地に戻るべきか、それとも危険を冒さず見捨てるべきか――選択を迫られるなか、アリエルは即座に判断を下した。


 仲間たちに地上からの支援を任せ、身体に綱を巻いて、深い割れ目の中へと降りていった。雪解け水が流れ込む氷の裂け目は狭く、身体を捻りながらでなければ降下できない場所もあった。何度も冷たい壁に肩をぶつけ、足場を探しながら慎重に降りるうちに、切断された縄の断端が凍りついた壁に引っかかっているのを確認した。


 その近くで、ようやく落下した狩人の姿を見つけた。落下のさい、何度も氷壁に打ちつけられたのか、血に濡れた身体はぐったりとしていたが、わずかに呼吸がある。救いだったのは、割れ目の底が雪で埋まっていて、落下の衝撃をいくばくか和らげていたことだった。


 裂け目の最奥に近い空間は、凍てつく静寂の中に沈んでいた。上方から吹き込む風は氷壁の間を抜けて渦を巻き、吹きつけるたびに皮膚を裂くような冷気を運んできた。


 地面に横たわる狩人の身体はすでに冷え切っていた。毛皮の内側に入り込んだ冷気が血と汗を凍らせ、保温性は完全に失われていた。彼の命が消えかけていることは、皮膚の色と浅い呼吸からも見て取れた。


 幸いなことに、この場に捕食者の気配は感じられなかった。アリエルは地面に膝をつくと、すぐに負傷者の意識を確かめる。虚ろに揺れる眼差しがわずかに焦点を結び、細い吐息が微かに返された。ツイていたのだろう。手足は使い物にならなくなっていたが、少なくとも呼吸はできていた。


 すぐに〈収納空間〉から水薬を取り出して封を解くと、ごく少量を飲ませる。水薬を半分も使わなかったのは、全快させることで地上の先住民を驚かせたくなかったからだ。


 呼吸が安定したことを確認すると、彼の身体に手早く綱を巻きつけていき、脇下と胸部をしっかりと固定した。そして地上に向けて引き上げの合図を送る。綱がピンと張ると同時に、ゆっくりと負傷者の身体が持ち上がっていく。アリエルは片手でその様子を見守りながら、ゆっくりと後退した。


 そのときだった。薄暗い氷壁の裂け目の奥から、呪素(じゅそ)の微かな気配が漂ってきた。風に紛れてしまうほどの微弱な流れだったが、アリエルは敏感に反応した。即座に眼に呪素を集め、視覚を強化する。網膜の奥がわずかに熱を帯び、眸は紅く明滅しながら闇に埋もれていた像を結んでいく。


 雪と氷が複雑に絡み合う壁の向こうに、自然のものとは異なる構造が横たわっていた。氷に覆われながらも、そこには明らかに意図的に彫られた線と、崩れかけた柱の輪郭が見えた。人工物だった。おそらく、それは〝時の眠る園〟へと続く遺構の一部に違いない。


 しかし、すぐに探索するわけにはいかなかった。今は、負傷した仲間を安全に地上へ戻すことが先だった。アリエルは後ろを振り返り、綱を身体に巻きながら慎重に氷壁を登り始める。落下すれば命はない。この深さと冷気の中での再滑落は、彼にとっても即死に等しいかもしれない。


 引き上げられていく狩人の身体を支えながら、ようやく割れ目の縁まで戻ることができた。仲間たちの手で負傷者が雪の上に寝かされると、アリエルは休むことなく、再び装備を整えていく。


 遺跡らしきものが見つかった以上、今すぐにでも確認しなければならなかった。雪と風、そして水の流れが激しいこの氷原では、一晩のうちに地形が変わり、遺跡への道も失われかねない。


 彼ひとりで探索に行くと告げたとき、仲間たちは不安そうに顔を見合わせた。トゥーラは頭を横に振り、壮年の狩人に野営地の指揮を託すと、自らも同行する意志を示した。彼女の目には不安が見て取れたが、それでも部族を率いてきた責任が、彼女の背を押していた。テリーもまた、何も言わずに準備を整えていく。


 しっかりした太さのある綱で互いの身体を結びつけると、再び裂け目に近づいた。氷に打ち込まれた鉄の支柱が彼らの命綱となる。その支柱が抜けないよう、アリエルは地面に手のひらをつけ、ゆっくりと呪素を流し込んでいく。雪に覆われた氷面が地響きを立てるように硬化していくと、支柱は鋼鉄に溶接されたかのように固定された。


 これで滑落の危険性を減らすことができるだろう。その光景を、先住民たちは黙って見守っていた。アリエルが何をしているのか彼らは理解してはいなかったが、異人が奇妙な行動を見せるのは初めてではなかったので、もはや誰も気にしなかった。


 ただ、その静けさのなかに不気味な気配が忍び寄ってくるのを感じていた。彼の傍らには深い裂け目があり、三人を飲み込むかのように大きく口を開けていた。


 負傷者を連れて野営地に戻る部隊と別れると、アリエルたちは張り出した氷の棚を慎重に乗り越え、わずかな足場を利用しながら、氷壁を頼りに懸垂下降を行った。


 綱は命綱であると同時に、唯一の帰路でもあった。張力がかかるたびに、わずかに軋む音が氷の裂け目に響き、さらに緊張を煽る。その氷の壁面は、ところどころ不規則に砕け、尖った断面が露出していて、一歩の油断が命取りになりかねない。


 わずかな摩擦や衝撃で綱が切断される可能性は常にあったので、足を置く位置、手をかける角度、綱の動きに至るまで、すべてに神経を注がねばならなかった。


 アリエルは〈立体知覚〉によって、周囲の構造と足場の配置を正確に把握していた。氷の陰に隠れた安全な支点や、氷の層の厚みとその脆弱さまで、視界に浮かぶ線の密度で判断できた。けれど彼にとって問題のない下降でも、テリーとトゥーラの呼吸が徐々に荒くなっていくのが分かった。


 ふたりに無理をさせないよう、できるかぎり傾斜が緩く、支点の多い経路を選んで先導する。凍結した綱を握るふたりの手はすでに感覚を失い始めていたが、それでも声ひとつ洩らさずについてきていた。探索隊のなかでも、ふたりは体力があるほうだったが、さすがに慣れない懸垂下降に苦労しているのだろう。


 ようやく、滑落した狩人が倒れていた地点まで戻ってくると、そこからは垂直ではなく、氷壁の裂け目に沿って奥へと続く細い隙間を進むことになった。


 アリエルは持参していた長い棒を前方に突き出し、足場を慎重に確認しながら歩いた。厚く堆積した雪の下には、鋭く尖った氷の刃が潜んでいる可能性もある。油断すれば、深い割れ目に足を取られかねない。


 頭上を覆う氷の層は厚く、太陽の光が届くのはわずかだった。それでも、氷の隙間から差し込む淡い光が、氷に閉ざされた空間に幻想的な色彩を投げかけていた。


 つねに冷たい風が吹きつける地上とは異なり、そこでは風を気にする必要はなかったが、睫毛が凍りつくような冷気が体温を奪っていく。周囲からは滝のように流れる水の音が絶えず聞こえ、微かな陽光が射し込む暗闇は(かえ)って恐怖を誘った。


 音もなく降り積もった雪と氷の下をくぐるようにして進み続けた先で、ようやくソレを目にすることができた。氷に埋もれた巨大な建造物――古代の神殿構造をもつ遺構が、まるで眠りについたまま、静かに氷のなかに横たわっていた。


 石造りの階段は半ばまで雪に埋まり、その先に続く回廊の入り口には、氷の層が幾重にも張りついていた。あたり一帯には、崩れかけた塔の残骸や氷塊の合間に埋もれた壁面の彫刻が見られる。その幾何学的な模様は、かつてこの地に高度な文明が存在していたことを物語っていた。


 アリエルは足元に視線を移す。氷に覆われた石畳は、明らかに人工的な配置を成していた。今でこそ氷に埋もれているが、かつては地上に存在していた都市の一角だったのだろう。神殿の奥へと続く氷壁の先には、さらに巨大な構造物の輪郭が見えた。


 もしかすると――都市全体が、この氷原の下に埋もれているのかもしれない。心の奥底に、抑えきれない期待が湧き上がる。〈転移門〉も、この深部に存在しているのではないか。目的に近づいたという実感が、アリエルの心拍をわずかに早めた。


 そのときだった。少し離れた場所を探索していたテリーの声が、氷壁に反響しながら届いた。いつになく緊張を含んだ声だった。アリエルはトゥーラの手を取ると、慎重に足場を選びながら、声のする方へと歩を進めていく。


 氷壁に反響する足音を聞きながら進むと、テリーが立ち止まっていた場所のすぐ先に、奇妙なモノが見えた。


 薄明かりに照らされた空間の奥、石畳の隙間に溜まった雪の上に、赤黒く変色した異物が奇妙な存在感を放ちながら横たわっていた。最初は岩か、崩れた構造物の一部に見えたが、近づくにつれて、その異様さが明確になっていく。


 それは生物の――巨大な熊の死骸だった。しかし、滑落による自然な死とは思えなかった。腹部は大きく裂かれ、内臓はまるごと引きずり出されていた。冷気のためか腐臭は感じられなかったが、凍りついた地表に広がる血液は黒い染みとなって残り、砕けた肋骨の一部が雪の中から突き出しているのが見えた。


 その熊は、まるで最後の瞬間に抱いた感情を凍結されたかのような顔をしていた。牙を剥き鼻腔を大きく開き、眼は見開かれたまま、恐怖と困惑が混じった表情で固定されていた。明らかに、それは予期しない瞬間的な死だった。反撃の機会すら与えられなかったのだ。


 アリエルは素早く周囲を見渡す。氷壁に反響する水の音に紛れて、何者かの気配が忍び寄っていないかを探った。〈生命探知〉を発動し、空気に混じる呪素の微かな流れに意識を集中する。


 死骸の周囲には、捕食者特有の痕跡が残されていた。雪や氷に付着した呪素の残滓は、明らかに捕食者が身にまとっていたものだった。そして、死骸そのものにも呪素の痕が刻まれていた。鋭利な鉤爪によって引き裂かれた傷口からも、それは明らかだった。


 この熊を仕留めたのは、確実にあの捕食者だ。けれど、なぜここに放置されているのだろうか。拠点に対して執拗に襲撃を繰り返してきた捕食者が、獲物の肉を手つかずのまま残していく理由があるのだろうか。不穏な疑念が胸中に重く沈んでいく。あるいは、まだ近くに潜んでいるのかもしれない。


 テリーとトゥーラは、アリエルの視線に気づき、すぐに周囲に警戒を向けた。これは単なる狩りではない。捕食者は、何かを示すためにこの死骸を残していった。


 あるいは、縄張りに侵入したことへの警告なのかもしれない。アリエルは再び足元の死骸を見下ろし、その凍った瞳に視線を向けた。そこには、ただの獣ではない――人知を超えた存在に触れた異質な死の記憶が刻まれているようだった。

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