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あの日、捕食者による襲撃はついに起こらなかった。夜の静寂のなか、篝火の揺らぎを見つめながら警戒を続けていた狩人たちは、いつ訪れるとも知れない脅威に備えて神経をすり減らしていた。けれど、暗闇はただ沈黙を保ち、雪が静かに降り積もるばかりだった。
あるいは狩人たちの備えが功を奏したのか。それとも捕食者自身が、まだその時ではないと考えたのか……いずれにせよ、探索隊は脅威にさらされることなく、雪渓に設営した拠点を起点として、遺跡――〝時の眠る園〟の探索を開始することができた。
雪に閉ざされた深い谷間を越えると、そこには白一面の氷原が広がっていた。そこは地平線まで霞むほどの広大な世界で、視界はすべて雪と氷に塗り潰されていく。太陽は雲の奥からくすんだ光を放ち、時間の感覚すらも失わせた。
その氷原は、昼夜の寒暖差と風の影響によって常に姿を変えていて、安定していた地形が翌日には歪み、底の見えない亀裂が口を開ける。そんな危険な場所で遺跡を探すということが、いかに無謀で果てしない作業なのか、初日を越えた時点で誰もが理解していた。
アリエルは選抜された数名の狩人を引き連れ、氷原の探索を進めていた。氷の下に埋もれた地形を見抜くため〈痕跡感知〉を駆使し、雪の下に隠れた不自然な構造や呪素の残滓を探ったが、遺跡らしき反応は一度も得られなかった。
白い荒野には無数の割れ目があり、変化し続ける景色は時に裂け目を覆い隠す薄氷となって、音もなく足元を喰らおうとしてくる。長い棒を使い雪の下を確かめながら進んでも、進路は何度も塞がれ、彼らは幾度も拠点に引き返さざるを得なかった。
日々の探索は苛酷を極めた。吹き荒ぶ風、体温を奪う冷気、そして何より結果が得られない焦燥感が心を蝕んだ。それでも、アリエルは諦めることができなかった。
彼が手にする地図には、すでに何十本もの探索経路が書き加えられていた。繊細な筆致で描かれた線は氷原の脈のように密集していて、もはや空白の部分はほとんど残されていなかった。それでも、遺跡は見つからなかった。氷の下に沈んだのか、それとも最初から存在しない幻だったのか。
先住民たちも懸命に協力してくれていたが、彼らの知識は氷原の手前までだった。その奥に広がる世界は、トゥーラたちですら知らない未踏の領域。誰も足を踏み入れたことのない、本当の意味で辺境と呼べる土地だったのかもしれない。
幸運なことに、その間、捕食者の影は一切見られなかった。足跡も、呪素も、気配すらも消え去っていた。まるで、初めから存在しなかったかのように。
けれど、それこそが最も危うい兆候だったのかもしれない。狩人たちの顔には安堵が見られるようになり、徐々に警戒心が薄れていくのが分かった。そして――誰もが予期していた事件は、探索の疲労と油断に沈んでいた夜に忍び寄ってきた。
◆
雪渓を見下ろす尾根の、最も高い位置にそれは立っていた。夜の闇が周囲の景色を覆い隠すなか、闇の衣を纏った異様な存在だけが熱を発し、空気を振るわせていた。風が岩肌を舐めるように吹き抜けるたび、身体に張りついた飛膜が乾いた音を立てて揺れ、その異形の全容が、輪郭を歪めながら浮かび上がる。
捕食者は牙を剥き出しにしながら、血走った眼で遠くに見える野営地の光を見下ろしていた。篝火の灯りは岩場の陰でぼんやりと周囲を照らし、捕食者の瞳にもハッキリと映り込んでいたが、その視線には明確な執着と殺意が宿っていた。
多勢に無勢でも、捕食者には殺戮を楽しむ余裕があった。これまでのように、愉快に狩ることができるだろう――そう考えていた。
喉の奥から不気味な唸り声が漏れる。唇の端から滴る唾液は、冷気の中で熱を発しながら滴り落ちる。口角は引きつり、裂けたような笑みを形作っている。人間にも似た冷酷な表情が、厚い皮膚の下から歪な骨格を浮かび上がらせる。その間にも、眼だけは異常なほど充血し、闇の中でギラついていた。
月光が厚い雲を割り、尾根を照らした瞬間、その姿が一瞬だけ露になった。全身は灰黒色の体毛に覆われ、異様なほど隆起した筋肉が確認できる。膝まで届くほど長い腕の先には、人の手にも似た構造の六本の指があり、その先端には黒々とした鈍い艶を帯びた鉤爪が生えていた。
獣のように見えたかと思えば、直立した姿勢からは、知性すら持ち合わせた何か別の生物の気配が漂っていた。前屈みに低く構えてはいたが、それでも身の丈は人間の倍はある。
飛翔のために使われていたであろう飛膜は、この数日間で異常なほど発達した筋肉の影響により、ほとんど役に立たなくなっていたが、跳躍の際には滑空時の制動として活用できた。
捕食者は人間の血を断ち、高原の獣だけを相手に感覚を研ぎ澄ませていた。狼や熊を何頭も狩り、その肉を裂き、血を吸い、爪と牙の精度を確かめていた。
今夜、野営地の人間を皆殺しにするつもりはなかった。時間をかけて、ゆっくりと彼らを喰い殺していくつもりだった。追い詰められているフリをして、逆に追い詰めてやるつもりだった。彼らがそれに気がつき、恐怖に顔をゆがめる瞬間を見たかった。だから今夜は、純粋な狩りを楽しむつもりだった。
捕食者は、愉悦のなかで計画を練る。正面から仕掛けてもいいのかもしれない。徐々に人数を削り、恐怖を植えつけながら救援がやってくるのを待ち、新たな獲物が縄張りに侵入してくるのを待つのも一興だった。
獲物が増えるということは、すなわち快楽が増えるということだった。しかし、動き出そうとしたその瞬間、周囲の空気が変わるのが分かった。野営地から微かに立ち上る〝気配〟が、捕食者の本能に警鐘を鳴らす。
そこに見覚えのある影が立っていた。黒い毛皮をまとい、静かに風の流れを読むように立つひとりの男。数日前、足跡を追って尾根の近くまで迫った異様な存在。捕食者は、本能で理解していた。あの男だけは危険だ。牙を剥き出しにしながら、そう考えた。
あれは、この荒原で唯一、彼を傷つけることのできる〝厭らしい幽鬼たち〟の仲間だ。荒野の獲物とは異なる存在。捕食者はゆっくりと体勢を変え、肩を震わせるほどの低い唸り声を喉の奥で転がした。あれを最初に殺すべきだろう。
あれが生きている限り、安心して狩りを楽しめないだろう。他の獲物はただの肉にすぎない。だが、あれだけは――あの男だけは、扱いを誤れば己の肉が裂かれることになる。知性を得てはじめて、捕食者の脳裏に慎重さという言葉が浮かんだ。それは、初めて男の影に怯えた瞬間でもあったのかもしれない。
◆
野営地では篝火の炎がゆらぎ、その灯りが暗闇の縁を微かに揺らすのが見えた。風ではない。炎の揺らぎでもない。夜の沈黙が異様に重く感じられた。槍を手にした狩人は、ひとり篝火の前に立ち尽くしていた。探索隊のなかでも屈強な大男は、獣のような直感でそこに潜む異様な気配を、確かに感じ取っていた。
彼は槍を構えてみせると、ゆっくりと白い息を吐き出した。柄の長い槍は重く、扱いが難しい。だが、その重さは苦にならなかった。槍を手にする彼の腕は、ほとんど柄の延長と化していた。それほどに馴染んでいたのだ。
それでも、その夜の静けさは彼の背筋に冷たい汗を這わせる。気のせいかもしれない。暗闇の中で恐怖が作り出す幻影なのかもしれない――そう自分に言い聞かせながら、彼は篝火に背を向けたまま、闇を見つめ続けた。
ちらりと周囲に視線を向けるが、そこにアリエルの姿はなかった。異人の不在は、決定的な不安を呼び起こす。彼がいれば、この得体の知れない気配の正体を見極めることができたかもしれない。
しかし今、彼は尾根の偵察に向かっていた。遠くで聞こえた遠吠えを確認するためだ。誰もがそれを灰色狼の遠吠えだと口にした。だが、アリエルだけは異常を感じ取っていた。彼には、何か別のモノが見えていたのだろう。しかし、それが裏目に出た。
足元に細かな雪が舞い落ちるなか、狩人は気配を感じながら、静かに息を整えていた。そのときだった。テリーがゆっくりと背後から近づいてくるのが足音で分かった。しかし狩人は振り返らなかった。彼の本能が、振り返るという行為そのものを否定していた。注意を逸らせば、その隙間に死が滑り込む。そんな確信が、彼の頭にあった。
突然、野営地の外れから駄獣の悲鳴が響いた。篝火の届かない闇の中で、何かに引きずられるように動く大きな影が見えた。その一瞬の揺らぎに反応した狩人は、迷いなく槍を手に駆け出した。テリーが制止しようとしたが、その声は届かない。
彼は篝火が作り出す光と闇の境界まで駆けていくと、槍を構えたまま、そこでピタリと動きを止めた。
テリーが息を詰めて目を凝らすと、薄暗がりの中から異様な影が伸びているのが見えた。それは体毛に覆われた太い腕で、狩人の腹を一突きに貫いていた。
鈍く濡れた音が響き、黒曜石のような鉤爪が狩人の背中を突き破っていた。彼の表情は驚愕と苦痛に歪み、呻き声すら発することなく、そのまま闇の中へと引きずり込まれていく。
その瞬間、野営地の空気が変化したのが分かった。恐怖は爆発的な怒りへと変わり、狩人たちは仲間を助けようと駆け出そうとする。そこにトゥーラの鋭い声が響いた――動くな、そのたった一言で、彼らは即座に動きを止めた。
冷たい汗が額を伝い、息すら押し殺す。つぎの瞬間、暗闇の向こうに〝双眸〟があらわれる。篝火の灯りを反射する二つの眼が、じっと彼らを見つめていた。まるで舌打ちするかのような音が聞こえたのは、ちょうどそのときだった。ソレは狩人たちのことを嗤っていた。
そして駄獣と大男の屍を抱えるようにして、闇の中へと消えていった。ゆっくりと、音を立てることなく。彼らには、追撃の隙すら与えられなかった。
誰もが理解していた――今、ここであれを追っていたら、皆殺しにされていたと。重く深い静けさが野営地を包み込み、篝火の炎だけが不規則に揺れ続けていた。