50
岩の庇に守られた谷間の窪地で野営地の設営が完了したのは、日が傾き始めてからまもなくのことだった。落石や雪崩の心配が少なく、周囲からの見通しが効くこの岩場は、野営地として理想的な場所に思えた。
なにより、雪渓で手に入る雪を溶かすことで、つねに清潔な飲料水が確保できることが決め手となった。氷原へ進むための拠点として、この場所が選ばれたのは当然の成り行きだったのかもしれない。
風の向きを確認しながら天幕が張られ、篝火の位置を決めていく。大量の積み荷を使い駄獣のための簡単な囲いが整えられる頃には、空はすっかり暗くなっていた。遠くの峰々を覆う雲は黒く沈み、風の合間に吹き上げる粉雪が火の粉のように舞うのが見えた。
狩人たちは火を絶やさないよう注意しながら、周囲に警戒を続ける。その炎が夜の闇を淡く照らし小さな輪を描いていく。しかしどれだけ炎を灯そうとも、闇の奥に潜む捕食者を追い払うことができるとは思えなかった。
アリエルは夜の闇に沈み込む雪渓を見つめていた。昼間、尾根の上で目にしたあの異形の残像が、まるで幻視のように脳裏にこびりついていた。
あれはこの世界に存在してはいけない生物に思えてならなかった。彼が見たモノがなんであろうと、それは直立し、知性と意志を持ってこちらを見つめ返していた。
あの眼は、飢えと憎悪、そして冷酷な狩猟本能に満ちていた。それがただの獣ではないことは明らかだった。実際、石積みの小屋を容易に破壊し、武装した狩人をいとも簡単に殺してみせた。腕の一振りで首を刎ね飛ばすほどの力を持つ存在は、もはや人の理解の範疇を超えていた。
捕食者のことをトゥーラに報告する間、狼狽や恐怖心を顔に出さないよう、細心の注意を払って言葉を選んだ。過剰な憶測や不安を煽るような表現は避け、ただ事実を積み重ねるように伝えた。恐怖は伝播し、やがて探索隊を危険に陥れると理解していたからだ。
それでも、心の奥底に植え付けられた恐怖心は簡単に拭い去ることはできなかった。
駄獣の世話をする歩荷たちは、凍える風のなかで黙々と作業をこなし、狩人たちは交代で篝火の傍に立って見張りを続けていた。疲労の色は濃く、誰の目にも明らかだった。
アリエルは彼らの様子を静かに見守っていた。自分は眠らずに何日も歩き続けられる体力があることを理解していたし、疲労など感じていなかった。しかし、それが守人として過酷な訓練を経て身につけた性質であることも分かっていた。
だからこそ、彼らにも同じことを期待してはいなかったし、できることならもっと休んでほしいとさえ思っていた。必要であれば自分の休憩時間を削ってでも、見張りの交代を申し出るつもりだった。とはいえ、ひとりで周囲の監視をできるわけではない。
あの捕食者が再び姿を見せるとすれば、それは夜のもっとも深い時間になるだろう。風の音が雪の斜面を撫で、篝火の灯りが揺らぐたびに、アリエルの視線は闇に沈む雪渓の彼方へと向けられる。
足元の雪の感触を確かめながら、野営地の周囲をゆっくりと移動していく。その間も〈気配察知〉を使い、闇に潜む異変を探る。集中すると周囲の音がハッキリと聞こえ、風のうねりや小さな雪の崩れ、駄獣の呼吸音すら耳元に届いてくる。風の流れに混じる微かな揺らぎ――その中に、彼は異変の兆候を見つけ出そうとしていた。
背後から足音ひとつ立てずに接近する気配があった。特殊な訓練を受けた兵士の動きだった。振り向かずともそれがテリー・オールズだと理解できた。彼はアリエルの横に立つと、小声で囁いた。その声はやっと聞こえるほどの音声だった。谷間に吹き込む風を利用して、言葉が遠くに運ばれないように注意していたのだろう。
『狩人たちの疲労が限界に達しています……』
テリーは篝火の灯りに照らされる先住民に視線を向けながら言った。
『捕食者の存在が、彼らを必要以上に消耗させたのでしょう。そして疲労は、集中力を奪い去ります。雪渓には、無数の割れ目が隠れています。危険地帯を移動するさい、九回は注意深く進めても、十回目には油断し、足元を見なくなります。脅威に慣れてしまうのです。残念ながら、それが人間というものです。けれど、雪の下にある割れ目が消えてなくなるわけではありません』
アリエルは話の意図を汲み取ると、見張りに立つ狩人たちの姿を改めて確認した。目元に刻まれた皺、強張った肩、篝火に背を向けて立つ者の膝は、疲労のあまり微かに震えていた。誰もが限界に近づいていた。
彼らは、自分のように極限の環境で戦うことを訓練された守人ではない。だからこそ、ここでの無理が命取りになる。アリエルはそのまま周囲を見回し、野営地にいるトゥーラの姿を探した。
彼女は壮年の狩人と野営地の見張りについて話し合っていたが、アリエルと視線が合うと異変に気づいたのだろう、すぐにこちらへ歩み寄ってきた。雪を踏む音を限界まで抑えながら、鋭い眼差しで彼を見つめる。
『どうしたんだ?』
眉を寄せて問いかけるその声にも、疲労と緊張が滲んでいた。
アリエルは北西の方角を示しながら、斜面の下に雪解け水が流れる小川があることを伝え、ひとりでそこへ偵察に向かうと告げた。トゥーラは一瞬眉をひそめ、問い返そうとしたが、彼はその言葉を遮る。
「捕食者の多くは、夜明け前に水を飲む。日中は、狩りと餌に専念するからだ」
彼女は、疲れた頭で異人の言葉の真意を読み取ろうとする。
『……つまり、例の捕食者は水辺にいる可能性があるのか?』
「そうだ」短く返したアリエルは、すぐに続けた。「今、近くに奴の気配はない。だから、見張りは最小限で構わない。狩人たちを休ませてやってくれ」
言い終わると同時に踵を返し、暗闇に向かって歩き出す。その背を、トゥーラは困惑と苛立ち、そして不安が入り混じったような眼差しで見送る。
暗闇のなか、アリエルは体内の呪素を目に集めて〈痕跡感知〉を発動する。瞳の奥で光が瞬くと、赤紫色に淡く浮かび上がった呪素の残滓が、岩肌に染みついたまま消えずに揺れているのが見えた。どうやら、捕食者はこの場所を通過していたようだ。
すぐに崖の上に視線を移した。尾根へと続く道は見当たらなかったが、捕食者がこの斜面を登った可能性は高い。そう判断すると、〈収納空間〉から皮手袋を取り出して装着し、すぐに動き出した。
厚い雲のせいで星明かりもない夜だったが、崖を登る経路を見つけるのは難しくなかった。〈痕跡感知〉に加え、狩人たちから追跡の方法を学んでから積極的に訓練してきた〈立体知覚〉の呪術によって、岩場の輪郭が黄色の線で縁取られ、手掛かりになる岩の出っ張りを見つけやすくなっていたからだ。
登攀できそうな経路を確認したあと、滑落を避けるため、岩の出っ張りに手をかけるたびに軽く体重をかけて安定性を確かめていく。崩れないことを確認してから、本格的に身体を引き上げる。そのさい、指先に全体重をかけるようにして、一気に身体を引き上げていく。
崖の頂上に出ると、硬い地面を選び、足音を立てないように移動する。親指の付け根から接地し、体重を足の裏全体から踵へと移動させる。その一連の動作を徹底しながら、常に足を平行に下ろすことも忘れずに進んだ。
ふと、地底で監視任務をしていたときのことを思い出す。地底に潜む〈混沌の先兵〉は音に敏感だ。彼らを刺激しないよう、常に音を意識しながら移動することを心掛けていた。
やがて雪の表面が粗く掻き乱された一帯に差しかかると、彼は足を止め、地面に片膝をついて調べ始めた。積雪は不自然な曲線を描くように乱され、圧力が加えられた跡がいくつも残っていた。その中心――岩場の一角には、鉤爪の痕が確認できた。爪の痕跡は岩に食い込むように並び、岩の表面は抉られるように削れていた。
息をひそめ、指先で刻まれた傷をなぞる。微かだったが、確かに呪素の残滓が感じられる。岩場に残る爪痕は、まるで怒りの衝動そのものが痕跡を残しているかのようだった。捕食者は明確な意図を持ち、思考し、行動する――まるで、冷酷な狩人のように。
アリエルは周囲の気配を改めて探りながら、その場で〈立体知覚〉を発動した。脳裏に広がる三次元の空間構造が、黄色の輪郭となって浮かび上がる。彼の意識のなかで地形の凹凸がひとつずつ再構成され、その中に微かな異変が、十歩ほど先の雪面にあらわれた。明らかに他の足跡とは異なる痕跡がそこに存在していた。
捕食者は跳躍したのだ。雪面が沈み込んだ方向と、浮遊する呪素の残滓がそれを物語っていた。驚くべき跳躍力だ。もはや獣のそれではない。肉体と呪素の双方が高度に融合していなければ、こんな動きは不可能だ。
アリエルは周囲の動きに警戒し、斜面に耳を澄ませながら足跡に近づく。捕食者が残した呪素の痕跡は、周囲と比べてほんのわずかに濃い。ごく最近、この場所を通ったということだ。つまり……この場に戻ってきた可能性がある。おそらく、探索隊の様子を確認するために。
すぐにでも攻撃を仕掛けてくるかもしれない。アリエルは身体を起こし、崖の下に視線を向けた。遥か遠く、岩場の陰で篝火の微かな灯りが点となって揺れているのが見えた。あそこに仲間がいる。
もし自分が捕食者なら、正面から襲うことはしない。死角を突き、分断し、混乱を誘う。まずは見張りを始末し、つぎに駄獣を暴走させ、退路を断つ。そして孤立した者から順に、確実に仕留めていく――それが、この捕食者の狩りだった。
足元に薄く積もった雪を指先でそっと払った。手袋越しに皮膚に染み込むような冷気を感じながら、慎重に露出した岩肌を確認する。
そこに刻まれていたのは、鋭利な鉤爪によって引き裂かれた爪痕だった。どの線も深く、岩の表層を容赦なく削り取っている。彼らだけでは、この捕食者の相手はできないだろう。アリエルは深呼吸して白い息を吐き出したあと、野営地に急いで戻ることにした。




