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アリエルは立ち止まると、背後の小屋へと続く足跡を見つめながら、この場で何が起きたのか推測していく。
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瞼を閉じると、夜の闇のなかで世界の輪郭が溶けていくのが分かった。風は容赦なく吹きつけ、雪原の表面を削り取るように足元を這いまわる。
けれど、彼にとってこの暗闇はむしろ安らぎをもたらすものだった。光のない世界のほうが、余計なものが削ぎ落とされ、本質だけが浮かび上がってくることを知っていたからだ。
身体を包み込むように吹き荒れる風を感じながら足を止め、深く息を吸い込んだ。肺を満たしていく風は冷たかったが、その中には多くの情報が含まれていた。
苔の上にしゃがみ込み、風に含まれる微細な情報が頭の中に広がっていくのを感じ取っていく。雪に埋もれかけた野草、雪の下に眠る土の香り、そして――痛みを和らげる植物の根。
数歩先の岩陰には、水分を含んだ食用植物がある。それぞれがそこに存在する理由を持ち、確かな意味をもって息づいている。それが手に取るように分かった。
その理由は分からなかった。ただ確かに、この世界が語りかけてくる。匂いが、形が、空気の重みが、すべてを教えてくれる。
風の匂いが変化したのは、ちょうどそのときだった。微かな体温、濡れた毛皮の臭い、そして犬の荒い息遣い――荒原を徘徊する先住民たちが連れている猟犬だろう。
こちらの存在を気取られる前に動かなければならない。警戒心が脳を刺激し、獣めいた直感が一気に全身を貫いた。思考よりも先に身体が動く。それは、人間の知能よりも明瞭で、もっと根源的な――狩猟本能に基づく反応だった。
突然の進化によって高い知能を獲得していたが、それ以上に向上していた身体能力が狩りの本能を補ってくれた。彼は姿勢を低く保ち、雪面に腹這うようにして動き出す。
音もなく、気配すら殺し、影のように――いや、それ以上に存在感を消して移動する。地を這う感覚だ。骨格が変化したことで手に入れた感覚でもある。冷気の中でも身体は熱を発し、鼓動のたびに血液が爆ぜるように流れ、筋肉は獲物を斬り裂くためのしなやかさと剛性を備えていた。
やがて、石積みの小屋が視界に入る。猟犬はすでにこちらのニオイを捉えかけていた――だが、すべてが遅すぎた。気配を読みきるよりも早く、彼は小屋に到達していた。最後の数歩、先住民のひとりが異変を感じて振り返る。しかし、それもただの反射にすぎない。
跳躍し、質量と速度を一瞬で爆発させる体当たりを叩き込む。骨のきしむ感触、鈍い打撃音、そして石壁の崩落。手応えのない柔らかな抵抗が、潰れるように音を立てて雪と瓦礫の中で爆ぜる。
小屋の中に視線を向ける。すでに阿鼻叫喚が広がっていた。悲鳴の向こうには、人々の恐怖――信じがたい〝何か〟を目にした驚愕の色が浮かんでいる。
その混乱のなか、武器を手に取り、こちらに向かってくる狩人がいた。しかし、あまりにも遅い。鋭い鉤爪のついた右腕が宙を切る。そのまま狩人の首を刎ねると、頭部は回転しながら宙を舞い、飛び散った鮮血が天井を赤く染めた。
続く動作は、まるで踊りのように無駄がなかった。ふたり目の狩人は距離を詰めようとしていたが、その前に鋭い鉤爪が横から胴体を裂く。臓物が飛び出し、血が床に滴る。空気が鉄錆の臭いで満たされた。
そのとき、猟犬が吠えながら駆けてくるのが分かった。敏感な嗅覚と真直ぐな忠誠心を持つ獣は、迷うことなく飛びかかってくる。素早い動きだったが――今は何もかも見えていた。
振り向きざまに異形の手が突き出される。鉤爪が犬の胴に食い込み、骨が砕け内臓が裂けた。動きを止めたその身体から、内臓をえぐり取るように躊躇なく地面へと投げ捨てる。
冷酷な眼で先住民たちを見つめる。だが、その内心は揺れていた。己の力――その破壊力に、一瞬、困惑がよぎる。あまりにも容易く、あまりにも一方的だった。気がつけば、小屋の中は奇妙な静寂に支配されていた。残された狩人たちも恐怖に呑まれ、その場から動くことができない。
彼は迷いなく跳躍する。殺すためだけではない。狩りを楽しむためだ。生き残った者が逃げるなら、それを放っておくことはできない。すべての痕跡が、獲物の動きが、意識の中に流れ込んでくる。血の臭い、音の反響、足裏に伝わる地のうねり――それらすべてを感じながら、彼は動き続ける。
その場を制圧するのに、何の努力も要しなかった。何度も攻撃を繰り返しながら、殺し、また殺した。
◆
アリエルは立ち止まると、それまでの思考を断ち切るように沈黙のまま足元へ視線を落とした。雪原には、捕食者の残した巨大な足跡が深く刻まれていた。周囲の暗闇に耳を澄ませても、風の音しか聞こえてこない。
小屋の周囲に残されていた足跡を調べていたテリーが、ふと疑問を口にした。
『荒原に棲む大狼の仕業……という可能性はないのでしょうか?』
その問いかけに対し、壮年の狩人は無言で首を横に振った。
『違うな。たしかに、馬ほどの体長がある大狼なら、これほどの破壊と殺戮が可能なのかもしれない……だが、足跡が一直線ではない。狼は、歩くときも走るときも、後脚が前脚の足跡と重なるように動く。肩幅が狭く、前脚はほとんど胸の真下にある。そのおかげで肩の可動域が広く、歩幅も大きく速く走ることができる。だが、地面に触れる足は中央に寄る。だから、足跡は一直線になる。けれど、これは違う。左右にぶれているし、重心の移動にも微妙な不自然さがある……だから、これは狼ではない』
テリーが重ねて問いかける。
『それなら、氷原からやってきた白熊でしょうか?』
しかし、今度も同じように否定が返ってくる。
『いや、白熊であれば歩幅や足跡の大きさはこの程度だろう。だが、爪の位置も足の形状もまるで違う。この爪跡――長く、深い。獲物の肉を裂くためだけに進化したかのようだ。それに……こいつは怒りにまかせて動いている。獲物を狩るためだけではない。感情をぶつけるような、敵意そのものの発露だ。憎しみに近い衝動がある。いずれにせよ――これをやったのは、二足歩行する動物だ』
『二足歩行……ですか?』
テリーは続きを待ったが、狩人は地面の痕跡を追うことに集中しているのか、そのまま黙り込んでしまった。その沈黙の深さが、逆に事態の異様さを強調しているようでもあった。
アリエルは〈痕跡感知〉を使いながら、足跡の追跡を続けていた。その足跡は雪原を抜け、岩場の斜面へと続いていたが――やがて、唐突に目の前から消える。
そこには、痕跡になりそうな雑草すら生えていなかったが、意図的に方向を偽るように、いくつかの足跡が別の方角に続いているのが確認できた。まるで、追跡者を混乱させるために、意図して残したかのようだった。
そして、その試みは確かに成功していた。アリエルは周囲を見渡し、風に揺れる雪煙の向こうに視線を走らせる。けれど気配は感じられない。〈生命探知〉にも反応はなかった。人のように狩りを楽しみ、家畜を喰い荒らしていたソレは、まるで初めからここに存在しなかったかのように消えていた。
足跡が消えた方角を見ても、野営地に危険が及ぶことはなさそうだったが、それでも安心はできなかった。何かが引っかかっている。明確な恐怖ではない。ただ、違和感が残る。異物が世界のどこかに紛れ込んでしまったような、不快な余韻だった。
アリエルは雪の上に視線を這わせながら、背後に立つテリーたちと目を合わせる。声をかける必要はなかった。三人は静かにうなずき合うと、つめたい風の中で踵を返し、野営地へと引き返していった。
警戒していた狩人たちによって篝火が焚かれていた野営地に戻る頃には、空は白みはじめ、氷の大地を覆う雪面がわずかに光を反射していた。
三人の帰りを待っていたのだろう。焚き火のそばに立つトゥーラの姿が見えた。毛布に身を包んだ彼女は、まだ眠気の残る曖昧模糊とした表情で壮年の狩人を見つめていたが、報告を聞くにつれ、徐々に事態の深刻さを理解していく。
彼女の眠気は言葉と共に吹き飛び、曇っていた目に焦点が戻る。寝癖を気にする様子も見せず、狩人たちに声をかけると、手短に、そして的確に指示を出していった。
すでに周囲の安全確認が済んでいることを伝えると、彼女はひとつ息を整え、歩荷たちを起こすよう命じた。そして荷物の再点検と出発の準備に取りかかるよう指示を出した。
彼女の眉間には深いしわが刻まれていた。報告された二足歩行の足跡が、あまりにも人間のそれに似ていたことが彼女の主な懸念の理由だった。
荒野に棲むとされる未確認生物、人間に似た類人猿――それは伝承の中だけに語られる存在であり、少なくとも彼女の曽祖父の代から目撃情報が途絶えていて、すでに絶滅したと考えられていた。だが、それが事実であるなら、彼女たちは長い眠りから目覚めた災厄と対峙することになる。
もちろん、白熊の可能性も否定できなかった。だからこそ彼女は未知の脅威を心に留めながらも、あらゆる可能性を排除せず、準備に移るべきだと判断した。
ほどなくして野営地は騒然とした動きに包まれる。狩人たちは装備を点検し、歩荷たちは駄獣に荷を積み込んでいく。寒風の音のなか、金属の擦れる音や獣皮を巻く音が不規則に重なって響いた。
アリエルも自らの天幕に戻ると、手早く毛布と毛皮を〈収納空間〉に放り込んでいく。内部にはまだ暖かな空気が残っていたが、旅支度に迷いはない。腰に吊っていた手斧に一瞬、視線を落とす。
これまでは人間が相手だったので、それで充分に思えたが、今回の相手は理性を備えた怪異だ。鉤爪で岩を裂き、体当たりで小屋の壁を崩すような存在。怒りと衝動をそのまま形にしていたような相手に、手斧だけでは心許ない。
そこで、彼は〈収納空間〉から一本の小刀を取り出す。黒くうねった刀身を持つ〈蛇刀〉だ。刃は波打つように左右に揺れ、金属というよりも生き物のような質感がある。刀身には淡い呪素の揺らぎがあり、振るう者の意志に応じてわずかに形を変える性質を持つ。
その小刀の重さを確かめるように握り込んだあと、帯革に挿した。相手が呪力を身にまとう存在なら、この〈蛇刀〉で力を削ぎ落とせるはずだ。装備の確認を終えると、アリエルは天幕の外に出る。
外套の首元をきつく締め、頭巾を深くかぶり直した。雪渓はすぐそこだ。その向こうには、氷原と〝時の眠る園〟が待っている。ただでさえ過酷な旅になるうえに、残酷な脅威にも備えなければならない。
アリエルは一度だけ深く息を吸い込んだあと、出発の準備を進めている仲間たちの手伝いに向かった。




