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神々を継ぐもの  作者: パウロ・ハタナカ
第二部・第一章 異界 前編

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45〈ダレンゴズの面頬〉


 高地に身体を慣らすため、探索隊は〈シャアラ族〉の定住地に滞在を続けていた。先住民たちよりも心肺機能に優れたアリエルは、とくに異常を示すことなく、狩人たちとともに狩りに出かけていた。荒野に広がる緩やかな丘陵地帯を越え、雪解け水でぬかるむ岩場に足を踏み入れるたび、鋭く澄んだ風が頬を切った。


 荒野では獲物をめぐる争いが絶えず、狩りには常に緊張感が伴った。他の部族と偶然鉢合わせになれば、狩猟権をめぐる争いに発展する危険もある。だからこそ、狩人たちは荒野に残されるわずかな痕跡を探り、人と生物を見分けながら慎重に鹿の群れを追った。


 夜になると天幕に戻り、獣油の灯りの下で呪術の鍛錬に没頭した。アリエルは新たに習得した〈痕跡感知〉の精度を高めるため、風に紛れて消える微かな気配すら捉えようと意識を研ぎ澄ませる。〈共感〉の術も身体に馴染ませるように使い、周囲に漂う感情の揺らぎを正確に捉えられるよう努めた。


 その日々は単なる休息ではなく、異世界を生き抜くための鍛錬そのものだったのかもしれない。


 ドゥルガ教団が推薦していたこともあり、シャアラ族の人々は穏やかで、よそ者にも敵意を示すことはなかった。トゥーラたち他部族に対しても礼儀正しく接し、互いに干渉しすぎない距離感を保ちながら、ときには共に焚き火を囲むこともあった。


 狩りへと出かける際には、幼い子どもたちが小さな手を振って見送ってくれた。耳当て付きの毛皮帽子を目深にかぶった子どもたちは、頬や鼻先を赤く染めながらも屈託なく笑っていて、その姿は寒さに縮こまる大人たちの中で、ひときわ暖かく映った。


 そんな穏やかな日常が続くなか、その夜もアリエルは天幕の中で静かに呪術の鍛錬に取り組んでいた。ふと〈生命探知〉に奇妙な反応が引っかかったのは、ちょうどそのときだった。


 ゆっくりと、しかし確実に、何かが定住地に近づいてきていることを感知した。距離があるせいか、気配は弱いが、動きが直線的すぎて単なる獣には思えなかった。すぐさま天幕を抜け出すと、焚き火のそばで先住民たちと談笑するテリーの姿が目に入った。アリエルが身にまとう気配の微妙な変化に気がついたのか、彼は顔をしかめて見せた。


 アリエルはそのまま白い息を吐く駄獣たちのそばを通って、石垣の影へと身を寄せる。そして眸を妖しく明滅させ、〈気配察知〉と〈生命探知〉を組み合わせながら定住地に接近する気配を探る。


 夜の闇に支配された荒野に冷たい風が吹き荒れるなか、アリエルの視界は黒く染まっていたが、その中に白い輪郭が徐々に浮かび上がっていく。暗闇に灯される蝋燭の弱々しい灯りのように、ひとつ、またひとつと人影が浮かび上がる


 噂に聞く盗賊団だろうか――彼は無言で天幕へ戻り、〈ザザの外套〉を羽織ると、〈収納空間〉から〈ダレンゴズの面頬〉を取り出した。


 漆黒を基調に、血のような濃紅(こいくれない)に染め上げられた面頬を手にした瞬間、氷のような冷気とともに邪悪な気配が滲み出す。魚人の歪んだ口元を模したその意匠は不吉さを宿し、まるで荒野を彷徨う幽鬼そのものだった。


 天幕を出ると、テリーが近くまで来ているのが見えた。彼はちらりと面頬に視線を落とし、すぐに状況を察したのだろう。深く息を吐き、短くうなずく。


『なるほど……そういうことでしたか』その声音からは、襲撃への懸念が感じられた。『この暗闇の中では、我々は貴方の足を引っ張ることになるでしょう。ここで戦闘に備えながら、貴方の帰りを待つことにします』


 アリエルは無言でうなずくと、面頬を手に、夜の荒野にひとり足を踏み入れた。吐く息は冷えきった空気の中で白く溶け、周囲の影はより深く染まっていく。夜が更けるにつれ、荒野には容赦のない冷気が満ちていた。風は一層激しさを増し、まるで獣の咆哮のように岩場を這い回る。


 岩陰に身を伏せると、静かに〈生命探知〉を発動した。先ほどよりも近づいていたからなのか、すぐに複数の気配を捉えることができた。五~六人で編成された襲撃部隊が、慎重に、しかし確実に定住地へと迫っていた。


 闇に紛れて接近するその動きは、狩人というよりも戦に慣れた襲撃者のそれだった。複数の襲撃部隊に分かれ、定住地を包囲するように進んでいるのが見て取れた。


 最も接近している集団から仕留めるべきだろう。すでにテリーが定住地の戦士たちに警告しているはずだが、脅威は早めに排除するに越したことはない。無用な混乱を招かないためにも、静かに、確実に排除する――そう判断したアリエルは、すべての襲撃者の位置を頭に叩き込むと、深く息を吸い込み、心を鎮めていった。


 久しく感じていなかった昂りが、胸の奥底に微かに燻っている。誰にも気兼ねなく戦える。その事実が、腹の底からじわじわと熱を湧き立たせているようだった。


 手にしていた面頬へと視線を落とす。漆黒に深紅を滴らせた仮面は、夜闇に沈む中でも仄かに輝きを放っていた。指先で縁をなぞるたびに、微かな鼓動が伝わってくるように感じられる。それはまるで、仮面が彼の意志に呼応しているかのようだった。


 正体不明の囁き声が聞こえてくる。それは水底から響いてくるような低い声だったが、どこまでも甘美な囁きに聞こえた。心の隙間へと滑り込むその声は、確実にアリエルの心を浸食していく。


 迷いなく面頬を顔にかける。瞬間、周囲の風がぴたりと止んだような気がした。耳に届くのは、水底から響くような太鼓の低い音だった。重く鈍い鼓動が全身を包み込む。それに重なるようにして、寄せては返す波の音が耳を打つ。


 波は激しく、この世界で目にした海を彷彿とさせるほどに荒々しく、容赦なく彼を呑み込んでいく。太鼓の振動は腹の底に響き渡り、波のうねりは意識の奥底にまで染みわたる。その音を聞いているだけで、身体の内側から力が溢れ出していくのが分かる。


 熱がこみ上げ、血液は()けるような熱を帯び、心臓の鼓動は早鐘のように打ち鳴らされた。全身の感覚は極限まで研ぎ澄まされ、まるで夜の闇に溶ける獣のような鋭敏さに変わっていく。やがて、ただひとつの感覚に支配されていく――戦いへの飢えだ。


 その渇望は強烈で抗い難く、思考のすべてを満たしていく。そのなかで、低い囁き声がハッキリとした意味を持って耳に届くようになる。あるいは、〈共感〉の呪術のおかげだったのかもしれないし、仮面を装着した者に対する戒めの言葉でもあったのかもしれない。


『我々は死を欺き、名誉のためなら喜んで死地に飛び込む。我々は勝利だけを望み、決して諦めることがない。忘れるな、誰も我々を殺すことはできない』


 ただ、目の前の敵を(ほふ)るために、アリエルは歩を進めた。夜の闇は深く、風が唸り、大地が軋む。しかし、その中に彼の足音が混ざることはなかった。気配は完全に絶たれ、死の影だけが滑るように荒野を進んでいく。


 息を潜め、闇に溶け込むようにして進む先には、ほとんど裸同然の蛮族たちの姿が見えた。毛皮の腰巻をまとい、身を寄せ合いながら進む彼らは、吐き出す白い息すら警戒して抑え込もうとしていた。だが、その警戒心も無駄に終わる。


 乾ききった荒野の地面が砕ける。硬い岩盤が放射状に裂け、淡い月光に照らされた割れ目が鈍く光った。つぎの瞬間、地面を蹴った黒い影が、凄まじい速度で蛮族の中に飛び込んでくる。


 闇夜に紛れた黒衣の影は、人ではなく、むしろ獣のようだった。それを間近に見た襲撃者には、さらに異様な存在に映ったことだろう。深紅に染まる仮面の輪郭が月光を反射し、闇の中に浮かび上がった瞬間――彼らは悟った。これこそ、荒原を彷徨う幽鬼なのだと。


 その瞬間にはもう、逃げることも、叫ぶことも叶わなかった。アリエルの手に握られた斧が振り下ろされる。


 鈍い打撃音が重く響き、襲撃者の頭部は割れるのではなく、凄まじい衝撃で破裂した。脳漿と骨片が周囲に飛び散り、首から上を失った蛮族が倒れていく。しかし、その身体が膝をつく頃には、別の男の胴体がすでに両断されていた。それは上半身から内臓を撒き散らしながら、無残に跳ね飛び、暗闇の中に赤黒い軌跡を描いていく。


 恐怖に喉を詰まらせた蛮族たちは、声を上げることすらできなかった。逃げる間も与えられず、次々と無惨な肉塊へと変わっていく。戦士としての誇りも、意地も――この場では無意味だった。


 彼らが最後に目にしたのは、黒い毛皮に包まれた異形の影。赤黒く輝く仮面の奥で瞳が紅く明滅している。ひたすらに死を求める冷たい視線は、もはや人のものではなかった。


 襲撃者たちの恐怖に満ちた表情を無造作に振り払いながら、アリエルは血に濡れた斧を携え、次の集団を屠るべく駆け出した。夜の荒野に響くのは、もはや風の唸りだけだった。呻き声も悲鳴も、すべて闇に呑まれて消えていく。死の足音だけが密やかに、しかし確実に近づいてきていた。


 岩陰に身を潜めていた襲撃者のひとりは、仲間たちが次々に殺されていく光景を凝視していた。血飛沫が舞い、肉が裂け、骨が砕ける音が風のなかに消えていく。


 死の気配に満ちたその場で、彼は震える手を押さえつけるようにして弓を手にする。矢をつがえ、息を殺して狙いを定める。その瞬間、彼の目に信じがたい光景が映った。


 死を撒き散らす幽鬼の周囲に、白く冷たい霧が漂いはじめたかと思えば、そこから青白い光を放つ氷の(つぶて)が浮かび上がった。夜の冷気を凝縮したような鋭い氷の刃は、音もなく空間に揺らぎ、標的を定めるように襲撃者の額を正確に捉えていた。彼がそれに気づいた時には、すでに遅かった。


 氷の礫は矢を放つよりも速く、彼の頭蓋を貫いていた。鋭い刺突(しとつ)の衝撃に頭を揺らしたかと思うと、次の瞬間には地面に崩れ落ちていた。氷の刃は彼の血で赤く染まり、風のなかで霧散していく。


 周囲に潜んでいた他の蛮族たちも、その異様な光景を目の当たりにしていたはずだった。しかし彼らはすでに正気ではなかった。幻覚作用のある草を噛み砕いていたのか、血を凍らせるほどの冷気にすら反応せず、獣のように唸り声を上げ、狂乱のままに襲いかかってくる。その目は濁り、理性の欠片も残っていなかった。


 しかし――その狂気もアリエルの前では無力だった。彼らの視界には冷気をまとった幽鬼が立っていて、どこからともなく冷たい氷の礫が無数に放たれ、目、喉、心臓を次々と射抜かれていく。


 崩れ落ちた肉体を踏み越えて、アリエルは淡々と斧を振り下ろしていく。骨を砕き、血肉を裂き、脳漿を撒き散らしながら次の標的へと向かう。


 目の前の命を絶ち斬ることに躊躇(ためら)いも憐憫(れんびん)もない。ただ効率だけを求め、淡々と殺していく。狂乱に駆られた蛮族たちは、己がどう死ぬのかも理解できないまま倒れていくことになった。


 月光に照らされた薄明かりのなか、氷の煌めきと血飛沫が交差する光景だけが、凍てついた荒野にさらされ続けていた。そうして冷たく澄んだ空気の中で――死だけが静かに積み重ねられていった。

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